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藤崎京之介怪異譚

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last case.「永遠の想い」
  ~epilogue~



 あれから二年の月日が流れた。
 俺は今、日本にいる。
「先生。クレドなんですが、その後を一緒に録音されるのでしたら、各パートを分けておいた方が無難だと思うのですが。」
「いや、一気に録音するのもあれだ。時間もあるし、響きを考慮して各曲毎に移動で良いんじゃないかな。」
 ここは大学の一角。俺は宮下教授と多くの生徒達の嘆願書のお陰で、再び大学教授として帰ってこれた。普通だったらお払い箱なのだが、ここでも天宮氏の力が働いた様で、以前よりも待遇が良くなっていた。
 俺は現在、バッハの四大宗教作品を立て続けに録音していた。以前からスポンサーの天宮氏から言われていたこともあり、未だ完結していないカンタータとオルガンの全集の穴埋めとして、俺自身は人生の区切りとして録音を決意した。
 ここで録音しているのは、ミサ曲ロ短調 BWV.232だ。
「この曲な…君の兄さんと最初に演奏したバッハの大作なんだ。そんな大それた演奏会じゃなかったんだがな。」
 俺と話しているのは、田邊…陸の二つ下の弟だ。
 二年前のあの惨劇で兄を亡くし、俺がどう関わっていたかを彼は知っている。当然、俺を恨んでいていい筈だ。だが、彼はこの大学に入り、俺に師事した。彼は俺の前へ来るなり、師事した理由をこう言ったのだ。
「兄が信じた才能を持つ方は貴方だけでした。だから、僕は貴方を信じ、学んでみたいと思いました。」
 彼の事にも驚いたが、田邊の両親も息子の死に対しては俺に何も言わなかった。いや、それどころか…謝罪さえされたのだ。
 陸は、どうやら正気を取り戻した際、実家へと手紙を書いて送っていたらしい。そこにはそれまでの経緯が細やかに書かれ、そしてどうなるかまでもが書かれていたようだ。所謂、遺言のようなものだったらしい。
 だが、俺がそれを目にすることは出来なかった。陸がそうしないようにと書いていたからだ。陸らしい…。
「先生…あの事を考えてらっしゃるのですか?」
「いや、何でもない。そう言えば、君も私のことを“先生"と呼ぶね。」
「兄がそうでしたので。兄は家に帰ってきては貴方のことを話してました。先生が今日は…って。」
「そうだったのか。ま、私も教授と呼ばれるよりは先生が良いんだけどね。」
 俺がそう言うと、田邊君は少し笑って言った。
「そう言えば、父が今手掛けているコンサート・ホールなんですが、近々完成するんです。その完成を披露する演奏会で、是非先生に演奏してほしいと両親に言付かっているんです。」
「へぇ、いつ完成なんだい?」
「今月末です。先生、お願いしても宜しいでしょうか?」
「構わないよ。で、曲目のリクエストはあるのかい?」
「はい。少し変わってる気もするんですが、バッハの三重協奏曲と、今レコーディングしているミサ曲ロ短調は必ずやってほしいと言われています。」
 その曲目を聞き、俺はハッとした。
 三重協奏曲…フルート、ヴァイオリンとチェンバロのための協奏曲は、大学時代に亡くした友人が好んでいた作品。彼が亡くなる際、俺と陸はその場に居たのだ。そして…このミサ曲ロ短調…。二つ共、俺から切り離すことの出来ない作品だ。
「分かった。二日に分けないと無理だから、一日目に協奏曲集を、二日目にミサをやるので良いかな?」
「良いと思いますが…時間は平気ですか?最近のスケジュールは、かなりハードだと聞いてますが…。」
「心配ないよ。恩人の御両親の頼みなんだから、これくらいはね。」
 俺がそう言って苦笑すると、田邊君は複雑な表情を見せながら返した。
「そんな風に思わないで下さい。僕は、先生が世に必要だから生きているのだと考えます。だからこそ、兄も先生を命懸けで助けようとしたんです。」
 田邊君はそう言うと微笑みを浮かべて続けた。
「僕は兄の様な音楽の才能はありませんが、幸いにも、家業の建築関係の才能には恵まれました。大学を出たら家業を継ぎますが、こうして先生のレコーディングに参加出来たことは、僕にとっては誇りです。これさえ兄のお陰なんです。」
 そう言い終えると、田邊は小さな溜め息を洩らし、開け放たれた窓から青空を見上げた。
「先生。実は…今回完成するホールなんですが、兄が設計したものなんです。」
「彼は…そう言ったものも遺していたのか…。」
「はい。様々な設計図がありましたが、演奏会用のホールが十棟分含まれてたんです。その中の一つを、父が思い出にと。」
 俺は何も言えず、彼と同じように青い空を見上げた。
 白い雲が疎らに漂い、時折そこへ小鳥が飛んで行く。何も変わらない青空。数万、数億の年月を見てきたに違いない。時代も人も変わり行く中、この空はただ見てきた。人の愚かさと…愛しさを…。
 そう思った時、俺は不意に首に下げたあるものへと手をやった。ワイシャツの下になっているが、それは胸元へ確かにあった。
 その俺の動作を見て、田邊君が淋しげな笑みを見せて言った。
「一緒にいて下さってたんですか…。」
「勿論だよ…。今でも彼は、私の一番の弟子で友人だからね…。」
 俺が触れたものとは…陸だった。正解には、陸の遺灰から造られたダイヤだ。
「父も母も、きっと喜びます。まさか…そうして身に付けてくれてるなんて…。」
 そう…これは半ば強引に渡されたものだった。本来ならば肉親が持つべきもので、俺が持っていて良いものじゃない。
 だが、陸の両親は俺が持つべきと主張し、これを俺へと託した。
「僕は兄が好きでした。無論、両親もです。だから…兄が愛した人の傍にと。正直、兄が同性愛者だったなんてショックでしたけど、貴方の人柄や才能に触れ、僕は理解出来た気がします。同性愛者なんて、そんなのは人の一面に過ぎません。人の価値は、その人生全て…。」
「そうだね。だから私は…彼と生きる。この人生を彼に捧ぐ…なんて重いことは言わないが、彼を…陸を忘れることは絶対に出来ない。」
 俺はそう言って笑った。それしか出来なかった…。
 未だ二年しか過ぎてはいない。立ち直るには時間が足りてないことも事実だ。
 あの事件では陸だけでなく、アウグスト伯父も亡くなり、他の顔見知りの人達も多く逝ってしまった。二年では到底傷は癒えない…。
 田邊君はそんな俺を気遣ってか、何も言わずに再び青空へと視線を変えた。
 そうした静寂の中、廊下からドタバタとこちらへ向かってくる音があり、その音はこの部屋の前で止まった。かと思ったら、ノックも無しにいきなりドアが開かれたのだった。
「お兄様!」
 そこにいたのた、俺の妹の美桜だった。それも何だか怒っている様で、ドアも閉めずにズカズカと俺の前へと来た。
「何だ。お前、日本にいたのか。」
「何だじゃありませんわ!何でこんなにスケジュール入れてるんですか!」
「久しぶりだと言うのに、随分なご挨拶だなぁ…。」
 俺も田邊君も苦笑した。田邊君は数回会っているが、まぁ…どれもこんな感じだったからなぁ…。
「で、今日は何かあって来たのか?」
「私が久々に帰国してみれば、お兄様…家を売り払われたそうじゃないてすか!」
「それかぁ…。別に引っ越しただけで、これと言って困ることじゃないだろ?」
「そう言う問題ではありませんわ!折角お顔を見に伺ったら、表札に“柏"なんてあるんですもの…。早く言ってほしかったですわよ…。」
 そっか…それで怒ってた訳だ。要はいじけてたってことだな…。
「済まないな。色々考えた結果、大学近くに良い家があったから引っ越したんだよ。そこだと空港へ近いし、何かと便利だからな。」
 俺は苦笑しつそう言ったが、美桜は未だ不服気な表情を見せていた。
 すると、そこへ田邊君が恐々と美桜へと問い掛けた。
「あのぅ…美桜さん。今日は何かご用があっていらっしゃったのでは?」
 美桜はそう問われるや、ハッとして持っていたバッグから大きな封筒を取り出した。
「これを渡しに来たのでしたわ。」
 美桜はそう言って、その封筒を俺に手渡した。
「これは?」
「奏夜からですわ。二年近くかけて少しずつ書いていたようですわ。」
 書いていた…?するとこれは楽譜ってことだろうと考え、俺は封筒から中身を取り出した。
 それは手書きの楽譜で、端がきちんととめてある。その表紙には“MASS"の文字が見て取れる。俺はそれをめくり、自分の目を疑ってしまった。
 奏夜は作曲家だ。その専門は現代音楽全般で、ドラマや映画音楽も手掛ける。その他、室内楽から管弦楽、鍵盤、弦楽、木管なんでもござれだ。
 だが、ここにあるのはバロック風のミサ曲だ。それも対位法さえ駆使している。今までだったら絶対に書かない作品なのだ。田邊君も俺の後ろから覗き見て驚いてる風だった。
「これ…」
「奏夜が言うには、今までに亡くなった方々のために作曲したそうですわ。レクイエムではなくミサにしたのは、死者だけでなく、生きる人々のためのものでもあるからだと言ってましたけれど。」
 そう聞くや、俺は直ぐに納得出来た。このミサは…バッハと同じ歌詞によって成っていたからだ。
 バッハのミサ曲ロ短調の歌詞は、通常のミサでは使えない。現在、研究者の間では統一された音楽ではなく、バラバラになっていた楽譜を纏めただけだという意見がある。だが、全体の第七曲と第二十七曲が同一音楽であることや、全体が三の倍数(三×九)になっていることからも、バッハが意図的に纏めたものであることは明らかなのだ。
 奏夜の場合、バッハがロ短調(♯が二つ。全体を見ればニ長調が支配しているが。)に対し、ホ短調(♯が一つ。全体はト長調に支配される。)で書いていた。
 ホ短調は暗すぎず、かといって明るい訳でもない。その平行長調のト長調は素朴な音色を持ち、そのト長調で書かれたグロリア以降の音楽からしても、その美しい響きは哀しみを包んでくれるように思えた。
「田邊君。このミサ曲、新しいホールで初演しても良いかな?」
「勿論です。是非そうして下さい。」
 それを聞いた美桜は、何故かその目にうっすらと涙を浮かべていた。
「さて、時間だな。田邊君、行くよ。」
「はい。」
 俺はそう言って席を立つや、美桜を見て言った。
「見てくだろ?」
「当たり前です!これを渡すために四苦八苦したんですから、最後まで見学させて頂きますわ!」
 美桜はそう言って田邊君を連れ、俺より先に部屋を出た。
「お兄様!早くいらして!」
 廊下から美桜が呼ぶ。それを制する田邊君のあたふたした声が面白く、俺は笑いながら「今行く。」と言って部屋を出たのだった。
 三人でホールへ行くと、入り口付近でレディ達が何かの話で盛り上がっていた。
「だから、あのカフェの苺ショートが絶品なんだってば!」
「そうそう!私まだ一回しか行ったことないんだけど、海外で賞を貰ったパティシエがいるんでしょ?」
「えぇ!私も行きたい!場所どこ…」
 時間なんてそっちのけで話すレディ達。
「お前達、準備は出来てるんだろうな?」
 俺がそう声を掛けるや、レディ達はハッとして言った。
「バッチリです!」
 こんなとこでハモらんでも良いんだが…。
 俺達三人は苦笑したが、俺は仕方無しに言った。
「カフェなら今度連れてってやる。この録音が終れば、少し休めるからな。」
 だが、これがまずかった。
「皆!先生が有名なカフェに連れてってくれるって!行きたい人!」
 一人がそう大声を挙げるや、全員が「はいっ!」と返事を返したのだった。まるで軍隊だな…。
 ってか…
「こんな大人数で入れるカフェがどこにある!」
 俺は怒鳴った。すると、隣にいた田邊君に美桜、目の前の皆が笑った…。



 これが俺の人生の一頁だ。語らなかったことも多いが、語る必要なんてないのかも知れない。
 これから先、何が待ち受けているかなんて分からない。宣仁叔父は、未だ終わってないと俺に警告した。俺が俺である限り、俺はそういうものに巻き込まれるようだ。
 それでも…俺は生きなくてはならない。どんなに辛くても、俺は俺であり続けなくてはならないんだ。
 俺は自分の部屋で、その開かれた窓から黄昏を垣間見ていた。
「陸…俺はどうすれば良いのかな…。」
 沈み行く太陽に、俺は小さく呟いた。

- 先生、そのままで良いんですよ。 -

 どこからともなく陸の声が聞こえた気がした。
 その時、俺は何故か安堵した気持ちになり、胸にあるものに手を置いた。
 優れた弟子であり、親友であり、家族同然の存在だった田邊 陸。性も歳も越えて俺の傍らに居続けてくれた彼の愛とは、無償の愛だったのかも知れない。俺が答えることが出来ないなんて…最初から分かっていたのだから…。

 俺は今、無性に会いたい二人の人物がいる。

 河内と陸だ。

 そんな想いを知ってか、太陽はその最後の光を放って地平線へとその身を沈め、入れ替わるように空には星達が輝き始める。窓から入る優しい風は、まるで俺の心を癒すかの様だった。

 ただ、今は何も言わず・・・涙の流れるままに・・・。




        …End.


 
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