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8部分:第八章
第八章
「どうにかしてくれると思うがな、西本さんが」
「西本さんっていえば阪急は」
阪急にも話が及ぶ。
「どうなるのかな」
「そちらもわからないな」
本田にしては珍しく曖昧な返事が続く。
「どうなるやら」
「わからないことばかりなんだね」
「結構不安定要素が多いんだ」
これが彼の返事を曖昧にさせている理由の一つだった。問題はそこなのだ。
「上田さんだろ、今度の阪急の監督」
「上田利治さんだったね」
この名前は小坂も知っていた。かつて関西大学であの村山実とバッテリーを組んでいた男だ。しかし選手としての実績は僅かでこれといって知らなかったのだ。
「ああ、その上田さんだ」
「随分と頭の回転がいい人だって聞いてるけれど」
「名将かもな」
本田は肌でそれを感じ取ってはいた。
「あの人なら巨人を倒せるかもな」
「巨人を」
「どっちにしろ。今は阪急担当じゃないんだ」
そう答える。
「冷静に見させてもらうさ。どうなるか」
「巨人もね。どうも」
今度は小坂の言葉だ。彼の口調もどうにも曖昧なものだった。
「長嶋さんがいよいよ」
「引退か?」
「今年で終わりじゃないかな」
首を傾げてこう言うのだった。
「もう。限界だよ」
「長いようで短かったよな」
本田は長嶋の引退を聞いて一言呟いた。
「引退するとなると」
「寂しい?」
「随分やられたさ」
日本シリーズにおいて。阪急も長嶋には散々打たれて敗れている。そのことで散々悔しい思いもした。しかしそれ以上に今の彼の心を占めるのは。寂寥だった。
「それでもな。いなくなると」
「そうなの」
「寂しいことだよ」
また言う。
「けれど監督にはなるんだよな」
「そういうことで話が進んでいるみたいだね」
川上の次は長嶋だと。この頃から言われてきている。記者である彼もこのことは当然知っていた。しかしそれでも。まだ確実なものではなかったのだ。
「とりあえずは」
「じゃあ今度は長嶋の巨人を破るさ」
「上田さんの阪急がだね」
「もう一つ決め手が欲しいけれどな」
こうも言い加えるのだった。
「実際のところな」
「決め手ね」
「阪急にな。バッターなりピッチャーなり」
つまり人材ということだった。その人材を求めているのだ。彼はそれを見ていた。
「誰かがいないと。長嶋がいなくても勝てないさ」
「そうなんだ」
「出るか出ないかもわからない」
本田の言葉は曖昧なままだった。
「出たらシリーズどころかペナントでも勝てるさ。その時にな」
「こっちは。多分」
「出て来れるかどうかもわからないか」
「うん。けれど出て来た時は」
「宜しくね」
「こちらこそな」
いつもの闘争心はない。激しさも。静かなやり取りだった。それが終わってから二人は仕事に戻る。この年は阪急も巨人も、そして近鉄も優勝することはなかった。巨人の連覇は終わり長嶋は引退した。引退の時小坂は静かに泣いていた。一塁側のスタンドで静かに泣いていた。
「泣くなっていう方が無理か」
「悪いね」
隣にいる本田に対して謝罪する。
「涙が止まらないよ」
「一つの時代が終わったな」
本田は泣いてはいない。しかし寂寥をこれまでになく強く感じていた。
「遂にな」
「そうだね。もう背番号三を見ることはないよ」
「そうだな」
この時はそう思っていたのだ。長嶋の背番号が永久欠番になることはもう決まっているようなものだった。実際にそうなったのだが。
「村山実もいなくなったし」
「そうだな。村山もな」
長嶋を終生のライバルと定め常に正面から向かっていた村山も既にマウンドを去っていた。そして今長島自身も去るというのだった。
「いなくなったし。後は」
「けれど巨人はまだあるだろ」
ここで本田は小坂に告げた。
「巨人は?」
「今長嶋言っただろうが」
花束を持ってファン達に話している。丁度その時だったのだ。
「声援がある限り巨人は永遠に不滅だってな」
「そうだね」
「そうだよ。杉浦がいなくなっても南海だってある」
杉浦は昭和四十五年に引退していた。多くの選手やファンに見送られての引退だった。最後は右腕を壊していたがそれでも。大エースに相応しい花道だった。そして今の長嶋も。
「巨人だってそうだ」
「じゃあ。これからも巨人の記事を書いていくよ」
「そうしろ」
一言だった。
「日本シリーズで待ってるぞ」
「うん」
こう言い合って涙を止めた小坂だった。この年のオフに阪急に山口高志が入った。ドラフトでは近鉄が交渉権を獲得したが近鉄は彼を獲得せず阪急に流れた。その彼の恐ろしいまでの剛速球を得た阪急はそのまま日本一を決めた。だがその相手は広島であり巨人は何と球団史上初の最下位に沈んでいた。
「最下位だなんてね。流石に思いもしなかったよ」
「しかも相手は広島か」
「広島も。強くなったね」
二人は屋台にいた。そこでおでんを食べながら話をしている。どうにもしんみりとした感じだった。
「近鉄もな。あれは間違いだった」
「山口を取らなかったからね」
「ああ」
この返事には無念の情が満ちていた。
「おかげで後期優勝したのがふいになった」
「山口を手に入れた阪急はかなり強くなったね」
「何年かは無敵だな」
「何年かは?」
今の本田の言葉に引っ掛かるものを感じずにはいられなかった。それでまた尋ねた。6
「ずっとじゃないの?山口がいるまで」
「確かに山口は凄いピッチャーだよ」
それは彼も認めるところだった。
「あの剛速球は今までにないな」
「尾崎とか江夏より上だろうね」
「巨人でいうと別所や堀内の極盛期よりも上か?」
「間違いないよ」
小坂もそれは認めるところだった。
「あれだけ速いのは見たことがないね。球威も」
「打てるものじゃない。あれだけ凄いのはな」
「けれど何か今の本田君の言い方気になるけれど」
「今山口は二十五歳だ」
本田はそこを指摘した。
「一年目だ」
「けれどまだ二十五歳だよ」
ここでは年齢に関する本田と小坂の認識の違いが出た。本田はもう二十五歳と考えていて小坂はまだ二十五歳と考えていたのだ。
「まだまだいけるじゃない」
「普通のピッチャーならな」
しかし本田はまだ言う。真剣そのものの顔だった。
「大丈夫だよ。けれどあの剛速球だ」
「一六〇は出てるね」
これが重要だった。
「それとあの球威。それがどうかしたの?」
「身体にかかる負担は尋常じゃない。ましてあまり大きくないしな」
「そこ?問題は」
「何年持つかわからない」
本田の言葉はかなり悲観的なものだった。少なくとも小坂にはそう聞こえる。しかしそれでも本田は言うのだった。
「山口がいなくなったら。阪急は無敵じゃなくなるな」
「いる間は無敵でも」
「いる間はな」
これに関しては全く否定しないのだった。本田も。
「今の巨人じゃ打ち崩すのは楽じゃないぞ」
「そうだね。その時は確実に苦戦するね」
「阪急が勝つ。覚悟しておけよ」
こう言うのだった。その年阪急は山口の恐るべき剛速球で日本一となった。最下位になった巨人は追い詰められた苦しさから必死に特訓を繰り返しそのうえ様々な工夫や補強を行ったうえでペナントを迎えた。その結果彼等はリーグ優勝を果たした。最下位から優勝という劇的な胴上げだった。
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