トンデケ
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第一話 声
百香(もか)は、おもむろにワンピースの裾を上げ、
パンティーを足首まで一気にずり下ろした。
足踏みするようにそれを脱ぎ捨てると、
裸足でベランダへふわっと飛び出した。
二つのグーの手を空へとまっすぐ伸ばす。
背中を軽く反らしながら息を深く吸い、
「はぁ~~」と思い切り吐き出した。
その息はわずかに酒臭い。頭が少しずきずきする。
ベランダ前の崖で野生した低木の向こうには、
くすんだ色の海が見えている。
漁船やタンカーが蜃気楼のようにゆらぎながら、
白い波間に光る。
雲が多く、空はほのかに灰色がかっているが、
予報では午後から晴れるらしい。
近くを流れる黒潮のおかげで、春の訪れが他所より早く、
今朝も寒さはさほど感じない。
低木に茂った葉がざわわっとにわかに騒いだ。
つむじ風がベランダの埃を巻き上げると、
パイル地のワンピースの裾を大きくめくりあげた。
すらりと伸びた白い足が、付け根近くまで露わになる。
風は去り際に貝殻の風鈴を打ち鳴らし、
カラカラと笑いながら逃げていった。
けれど、百香はまったく微動だにしなかった。
手すりを握ったまま遠く海を見つめ続けている。
ふと気配がして足元に目をやると、
何やら黒いもふもふが絡みついている。
「摩周~! ママのお尻見ないで、このスケベ。」
百香は黒ネコをさっと抱き上げ、鼻と鼻をこすり合わせて
ひんやり湿った感触を存分に味わった。
すると、摩周が健気に「みゃ~」とご挨拶。
百香は摩周を抱いたまま部屋へ引っ込んだ。
彼を二人掛けのソファにそっとおろすと、
自分もその隣にドサッと弾むように座り込んだ。
「みゃ~ みゃ~」、甘えた声ですがりつく摩周。
「ごめ~ん、摩周。ママね、二日酔いなんだ。
先にお風呂入ってくるから、 朝ごはんはあとでね。
堪忍え~、待ってておくれやすぅ。」
下手なにわか訛りではんなり詫びると、彼の鼻先を人差し指でちょん、
と押して、重い腰をあげた。
ふーんだ、いつものことじゃん、と打ち捨てるように体を丸くする摩周。
後から、太いしっぽを優雅にたたんで、顔に蓋をする。
これぞ、ニャンモナイト摩周。
その一連の動きを観察し終えると、百香は落ちていたパンティーを足先
でひょいと拾いあげ、急いでバスルームへと向かった。
脱いだ服はまとめて洗濯機へポイッ。
つま先立ちでバスルームに足を踏み入れる。
スレンダーな白い裸体が立ち上る湯気に包まれた。
湯船に足を伸ばして浸かれば、その目線の先には大窓が展け、
先ほどの海がここからも存分に眺められる。
ハンドルを回すと、窓の両サイドについたルーバーが開いて、
涼風が窓のくもりをふき払ってくれる。
百香はふぅ~と息を吐きながら顔を湯に沈めた。
ぶくぶくぶく、泡を立て急浮上。
頭から滝のように湯が落ちて、目が開けられない。
両手で顔のしずくを払い、ようやく目があいた。
激しく波打つ水面。両乳房が荒波に揉まれ、百香はちょっとエッチな快
感に浸っていた。
今日は午後からラジオの収録がある。
と言っても、圷 百香(あくつ もか)の本職は絵本作家である。
彼女の絵本は、読んでやると子供がすぐに寝付いてくれるという魔法の
ような絵本らしい。
それが噂を呼び、新聞や雑誌で取り上げられるや、間もなく大ヒットした。
作家本人がテレビ番組に呼ばれるようになると、今度は、そのルックスと
美声でたちまち注目を集め、今では地元ラジオ局で番組を持つほどの有名
人だ。
なかなかマルチな才能に恵まれた彼女であるが、天は彼女に二物どころか、
あるとんでもない能力までオサズケになった。
まあ、ここではあえて触れないでおくが。
「じゃあね摩周、お留守番よろしくね。行ってきま~す。」
摩周は口で返事する代わりにしっぽを振って「バイ・バイ」。
百香にとって家族と呼べるのは彼だけ。
両親を早くに亡くし、兄弟もいない彼女は、二十二歳まで祖母の家で
育った。
美大を出たあと独立、東京にある広告会社で十年ほどOLをしていたが、
なんのためらいもなく、いきなり辞めてしまう。
そして一念発起、カルチャースクールを経て、絵本作家に転身した。
性格もルックスも悪くない彼女だが、なぜだか三十八を過ぎて未だに独身。恋人もなし。
が、いまのところは特に不自由もなく、婚活する気もない。
この海の見える小さな平屋で摩周とつつましく生きる彼女は、現状に充分
満足していた。
午後1時すぎ、桃色のキュートな軽自動車が三階建てのビルの屋上へ駆け
上がり、広々としたパーキングの枠内へ頭から滑り込んだ。
毎週火曜のこの時間、百香はラジオの番組収録のため、このショッピング
モールへとやってくる。
以前は、近くにある局内のスタジオで収録していた。
実を言うと、百香は閉鎖的な空間が大の苦手。
だが、古い局内にはその手のスタジオがほとんどだ。
彼女の耳は異状なほど敏感で、防音壁で密閉されたスタジオに長時間こも
ると、鼓膜に負担がかかり過ぎて、気分が悪くなるのだ。
そのため、今はモールの一角に設置された生放送用のスタジオを使わせて
もらっている。通路側の窓ガラスからスタジオ内が丸見えで、収録中、通
りすがりの買い物客が覗きこんだり、若者たちが手を振って騒いだりする
こともある。一見、落ち着きのない現場のようだが、百香にとっては、む
しろその開放感こそが大事だった。
スタッフルームで関係者に挨拶をすませ、アシスタントの佐野女史ととも
にスタジオに入る。デスクには各々にノートパソコン、手元にはカフス
イッチ、顔の高さにマイクが伸び、透けて平たい丸カバーがかかっている。
百香はヘッドホンをかぶり、ストップウォッチ片手に原稿にさっと目を通す。
「圷さん、お声いただけますか」
ヘッドホンから要請がかかる。覗き窓の向こうから音声スタッフがキューを出す。
百香が原稿の文字を数行読み上げると、耳に「OKでーす。」の声。
彼女は高校時代、放送委員だったから、この雰囲気には最初から慣れてい
た。それに、高校を代表して出場したアナウンスコンクールで入賞したこ
ともあり、プロが舌をまくほど滑舌がいい。安定した発声で、品のある声
がよく響く。リスナーからの反響も楽しみのひとつで、毎週届くハガキや
メールを番組で紹介すると、馴染みのラジオネームがみるみるうちに増え
ていく。最近ではこっちの仕事の方が本職より本職らしく思えていた。
収録は順調に進み、エンディングに入る。
「さて、そろそろお時間が来たようです。この番組もいよいよ三年目に入り
ます。今後とも、どうぞよろしくお願いしますね。圷百香でした。それで
はまた来週。さようなら。」
曲の音量が上がり、そしてフェードアウト。
「OKでーす。おつかれさまでしたー」
百香は集めた原稿をトントンと揃えると佐野女史に手渡し、スタジオから
スタッフルームへ移動した。打ち合わせが終わり、壁の時計を見ると5時
半になろうとしていた。彼女の心は既に摩周の待つ家へと向かっていた。
百香はいつも摩周を言い訳にして、スタッフからの誘いを断ることが多い。
今日も直帰の決心は固かった。
「それでは、お先でーす。失礼しまーす。」
百香はスタッフに手を振って挨拶すると、肩にかけたトートバッグからス
マホと車のキーを取り出し、そそくさとスタジオを後にする。
駐車場はもう暗かった。愛車へ近づくと横の四〇〇㏄バイクが目に止まった。
そばに人影が動いて、一瞬足がすくむ。
誰? 目が慣れて徐々に目鼻立ちがはっきりしてきた。
百香の顔認識回路が瞬時にフル稼働。そして次の瞬間「あっ!」と声をあ
げ、背筋を凍らせた。髪型が以前と少し変わっていたが、すぐに誰だかわ
かった。
「よお、おつかれさん。元気そうだな」
百香はバッグを胸元で握り締め、身構えた。
この男、百香の元カレで名前は眞鍋辰郎という。7年前、半同棲のような
付き合いをしていたが、彼から借金をせがまれ断ると、彼の態度が一変、
百香に暴力をふるうようになった。耐え切れなくなった百香が逃げるよう
にこの地へと越してきたことで、二人の関係は終わったはずだった。
ところが、彼女が有名になると、辰郎が再び姿を現し、つきまとうように
なったのだ。警察に相談して、電話で彼に注意してもらってからは、しば
らく何もなかったので、ほっとしていた百香だったが…。
「何しに来たのよ! かえって!」
絞り出すように言うと、百香の顔が一層こわばった。
「いつも聴いてるんだよ、百香の番組。百香の声が聞きたくてさ。」
そう言って、胸元からスマホを取り出し、ラジオのエリアフリーソフトが
開いた画面をこちらに向けた。辰郎はニヤリと笑い、ズカズカと足早に近
づいてくる。慌てて後ずさりする百香。
「来ないで。警察を呼ぶわよ!」
「なに怖がってんだよ。そんな顔すんなって。」
「警察を呼ぶわ。」
百香がスマホに目を落とした。そのスキをついて、辰郎が彼女のスマホを
強引にもぎ取った。百香は恐怖のあまり、頭をかかえるようにしてその場
にしゃがみこんだ。頭上から彼の声がする。だが、もはやそれは意味のあ
る言葉として聞き取れなかった。うわん、うわん、うわん、うわん・・・
耳の奥でノイズが鳴り響く。それが、ある瞬間からひとつの言葉となって
聞こえはじめ、百香は意識を集中した。
「・・・ケ、・・ンデケ、トンデケ」
呪文のように繰り返し聞こえてくる。
「トンデケ、トンデケ、トンデケ」
やがて、うわ言のように百香の口から漏れ出した。
「はあ? お前、何言ってんの? だいじょぶか?」
不意に辰郎の手が百香の肩に触れた。途端に、百香が大声で叫んだ。
「トンデケー! トンデケー!! トンデケーー!!!」
力の限り叫んだあと、百香はその場に突っ伏した。
どれぐらいそこにいたのか・・・。
右頬に何か硬くざらざらした感触を感じ、百香は目を覚ました。
「あれ? あたし、ベッドに寝てるんじゃないの?」
百香は体を起こすと、肩をぶるっと震わせた。
体がすっかり冷え切っている。
おでこにキッと痛みが走った。触ると少し血が滲んでいた。
おでこを押さえながら、立ち上がろうとして、ふと、辰郎の顔が浮かんだ。
はっとして、辺りを見渡す。しかし、彼の姿はどこにもない。
「やだ、まさか… アレをやってしまったのかしら…」
百香は階段を踏み外したかのような戦慄を覚えた。
きっとそうだ。気絶したってことは、アレをやってしまったんだ…。
ここ数十年、あの能力が発現することはなかったから
きっと自然消滅したんだろうと、半ば忘れかけていた。
アレはコントロールの効かない危険な能力だ。
彼女にとっても諸刃の剣になりかねない。
「じゃあ辰郎は…」
言いかけて、慌てて首を振る。
百香は震える手でバッグとキーを拾いあげ、車までよろよろと歩いていく。
エンジンをかけ、暖房をつけると、つけっぱなしだったラジオが
「プー」と6時の時報を告げた。
すぐ横のスペースには彼のバイクが置かれたままだ。
百香は口をすぼめ、ふーっと息を吐いた。
「落ち着け、落ち着け… 誰も見てなかったはずよ。」
自分にそう言い聞かせ、ハンドルを両手で強く握りしめると、
百香は慎重にアクセルを踏みこんだ。
家に戻ると、百香はバッグを放り投げ、ソファに体を投げ出した。
「みゃ~ みゃ~」摩周が甘えて鳴いても、なんの反応も示さない。
本気になった摩周。今度はママの大好物『もふもふ作戦』に切り替えた。
ソファに飛び乗り、ママの顔にもふもふを充てがう。すると、ようやく
ママの手が伸びてきて、背中を撫でてくれた。
百香が片手で摩周の体をぎゅーっと引き寄せる。彼の毛は保温力抜群。
百香の顔から肩にかけて、一瞬にして局地的な熱帯域が出現した。
摩周がママのおでこをざらっと舐める。
「痛いっ!」
傷に触れたらしい。思わぬ反応に驚き、摩周がぽとっと飛びおりた。
振り向きざまにしっぽを「ぶん、ぶん」、神妙な面持ちで侘びのポーズ。
が、残念ながら、それは百香の目には留まらなかった。
彼女は既に、遠のく意識に身をまかせていた。
ソファに体が沈みこむような感覚の後、すとん、と電池が切れた。
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