俺達は何を求めて迷宮へ赴くのか
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20.Soul Bet
ある者が、お前を許さないと言った。
言葉をかけられた者は、許される必要があるのか、と返した。
その言葉は傲慢だが、同時に正しくもある。
罪悪を覚えない者にとって、罪など何の価値もない言葉だ。
ならば――苦しみから逃れるために贖罪が必要だと言うのなら――受ける苦しみが罰ではないと言うのならば――罪を背負わぬまま苦しみを受ける者に、救済はあるのか。罪を背負わない者は、永劫に許される事もないのか。
オーネスト・ライアー。
嘘と真実を同時に内包した男の背中は、果たして何を語るのか。
これは、その答えの一端を垣間見た男の物語。
= =
西通りにある看板もない古びたバー。
夜にしか営業しておらず、客足も少なく、そしてサービスも悪い。どうして続いているのかが分からないほどに酷いバーテンダーに、その男は声をかけた。
「……ご注文は?」
無愛想極まりないバーテンダーは、こちらと目を合わせもせずに誰も使わないショットグラスを磨き上げている。男は、その素っ気ない催促に対し、「冷たいミルクを」と伝えた。バーテンダーは一瞬動きを止めて男を見ると、その首に古臭い木製のペンダントが下がっているのを確認するなり鼻を鳴らす。
「……うちにミルクはねぇ。ションベンして帰んな」
男はしばし考え、バーに備え付けられたトイレを借りる旨を伝える。
言葉通り用を足して帰る。そういう意味に受け取れる。
「便所はお前から見て左手にあるドアの向こうだ。ちゃんと便器の中にぶちまけろよ」
おおよそ飲食をする店のオーナーが発する言葉とは思えない台詞に、しかし男は気にした様子もなく会釈をしてそのドアへと向かう。ドアを開けた先のトイレは、ひどい有様だった。悪臭は勿論、壁や床に落書きや黄ばみが広がり、暗がりには虫らしき生物の蠢く音が微かに聞こえる。幸いにも水洗式ではあるが、1分も留まったら窒息してしまいそうな汚さだった。
個室に到ってはドアが外れたり「故障中」と書かれた張り紙が今にもはがれそうな程風化していたりと、とてもではないがまともに管理する気があるとは思えない。
男は躊躇いもせずに「故障中」の張り紙がある3番目の個室へと行くと、そのドアを軽くノックする。コン、ココン、コンコン、独特なリズムで遊ぶように叩かれる。それから数秒後に、ドアの内側からガチャリと錠前を開く音がして、ゆっくりと開く。
開いた先には、当然のように汚らしい便器が鎮座する。男はその便器に出来るだけ触れないように壁際を伝い、奥の壁にあるタイルをそっと押した。
ゴゴッ、と石の擦れる音がしてタイルが壁に沈む。
同時に部屋の便器が床の下へと沈み、奥の壁に切れ目が入る。ギギィ、と重苦しい音を立て、タイル張りの壁は石扉へと変貌した。奥には足元を最低限照らす魔石灯と、長く続く階段。男は驚きもせずにその階段を下りていく。幸いなことに、階段の奥からは悪臭を忘れさせてくれるお香の匂いが吹き上げてくる。
暗闇の中、延々と行き先の見えない階段を下りていく。この階段に辿り着く先があるのか疑いを持つほどに、その時間は永遠を感じさせる。実際には僅か1分程度でしかない筈なのに、男は果てしない時間を旅した気分になってきた。
しかし、この世に永遠は存在しない。男の旅路にも終わり――目的の場所の扉が見えてきた。
あの酷いバーと比べるとあまりにも奢侈な金細工の装飾が為された扉。男は扉に歩み寄り、ハープを象ったドアノッカーを鳴らした。
少し間を置いて、扉が開く。
薄暗い扉の向こうにいたのは、ギルド職員の服装に似た白シャツと黒ベストの男性が待ち構えていた。エルフ特有の鋭角的な耳と、天女の羽衣を想起させる薄布の肩掛けと金色のバッジをつけた男性は優美に一礼した。
「ようこそ、この街で随一のギャンブラーが集う神聖なる決闘場――非合法賭博場『アプサラスの水場』へ。わたくしはこの賭場のオーナーを務める者……ガンダールと申します。以後、お見知りおきを……」
= =
「街の南にも賭場場はありますがね……ふふっ、一時期はこの店の方が規模が大きかったこともあるそうです。尤もそれは先々代の頃の話なので100年以上前になりますが、ね」
ガンダールは外見年齢こそ20歳前後に見えるが、エルフ故に外見相応の年齢ではないように思える。狐を連想させる細目と頭の後ろで結ばれた青白い髪が印象的なその男は、突然の来客にも動じずに丁寧な案内を続ける。
「それにしてもわざわざ旧道からのお越しとは通ですな。新道では会員証のネックレスも合言葉も変わっていますし、入り口は清潔な物に変えているのですが………おや、どうしたのですか?随分悔しそうな……ああ、会員証を手に入れた際に教えられたのが旧道だったのですね?ご愁傷様です……ふふっ」
男の通ってきたのは大昔に作られたカジノ入会ルートで、現在の客の殆どは新道という利便性の高い道を使っているそうだ。ではなぜ旧道が残っているのかというと、それは付き合いの長い通な客や神が愛着のある旧道を潰さないで欲しいと頼んできたからだという。
あの汚い空間を越えた先に待つ賭場――その独特の感覚は、長く入り浸った者にしか理解できないだろう。
やがて、古の冒険者や神々が心を躍らせた賭場がその姿を現す。
『上』にある公式な賭場に勝るとも劣らない煌びやかな装飾――テーブル、トランプ、チップ。
ルーレットの上を転がる球の行先に一喜一憂し、スロットの回転を見極める事に胸の高鳴りを覚え、トランプの模様を予想する瞬間に真剣な眼差しが交錯する。得るか失うか、その二つしか存在しない勝負場を、男はガンダールと共に通り過ぎる。
「ここ――『アプサラスの水場』は先ほども申した通り非合法の賭博場でございます。大昔は非常に高レートな賭けや、文字通り「命」を賭けた過激な物も多かったのですが、ギルドの長にロイマンが就いてからは締め付けが厳しくなりまして……わたくしがオーナーになった頃には激減しておりました。今はもうやってない、という訳でもございませんが……ね」
非合法、という言葉は反社会的な性格を持つ者の心をくすぐるし、悪性に近い神は敢えてこちらの賭博場を贔屓にすることも多い。訳ありで表に顔を出せない者や出禁になった者が辿り着くのもここだ。だから『アプサラスの水場』の歴史は以外に深い。
「……ん?ロイマンですか?ええ、実は同じ学び舎の先輩でしてね……わたくしの方が少々年下ですが、付き合いが長いので呼び捨てし合う間柄です」
男は一瞬首を傾げ、自分が疑問に思っているのはそこではないと告げた。
すると、ガンダールは一瞬キョトンとし、遅れて苦笑した。
「あの人がそんなに有能なのかって?……ふふっ、東の方には『鼓腹撃壌』という言葉がありましてね。想像できないかもしれませんが、彼をエルフの恥などと呼んでいる者は自分がロイマンの腹の上で踊っている事に気付いていない場合が多いのですよ?」
そこはかとなく彼のコネクションが裏社会にまで通じている事に男は意外そうな顔をしたが、あり得ないことではないと考え直してか直ぐに平常な顔に戻った。それを確認したガンダールは笑顔で話を続ける。
「さて、お客様は何を求め、何を賭けにいらしたのか………よろしければお聞かせ願えますか?」
ガンダールの問いに、男は躊躇いもなく一言だけ言った。
「………ほぉ、オーネスト様の『背中』の情報でございますか?――ふむ、その言葉の意味も正しく理解しているようだ。結構、結構……では、チップもそれに相応しい物を用意しておりますね?」
男は、自分の心臓を親指でとんとんと叩き、代償が何たるかを指し示した。
この店には特殊な賭けが存在する。
それは、オーナーとの賭けに勝てば『コレクション』を一つだけ得ることが出来る権利を得る、という物である。その『コレクション』は質代わりに非合法で持ち込まれたさる高名な剣士の愛剣であったり、国宝級の価値を持った盗難美術品であったり、そして情報であったりする。
その全てがオラリオのあちこちから本気の勝負師が持ち込んできた超一級の品であり、余人には一生知りえない真実であり、それを渇望する者にとっては命を賭してでも得たい代物だ。
オーナーに勝てば自分の宝と共に『コレクション』の一つを受け取ることが出来、逆に負ければ最大の宝を喪うことになる。そうした賭けを続けた結果が、男の目の前に広がる光景だった。
その円形の部屋は、一見して中心にゲームテーブルとイスが二つの簡素な部屋だった。だが、その部屋には決定的に普通ではない所がある。
それは、壁だ。
何層にも別れた小さな廊下と梯子によって何段も分かれているが、壁にあるのは全てが壁紙などではなく引出しそのもの。笑顔を崩さないガンダールと目を見開く男の目線の先には、全てが引出しで埋め尽くされた壁が悠然と見下ろしていた。
「驚かれましたか?ふふっ、実を言うとわたくしもこの部屋に来ると言葉に出来ない重圧を感じます。ここで大切な物を賭けてきた真剣勝負の残滓とでも言うのか……」
世界にこれほど巨大な棚があるだろうかと問いたくなる圧巻の規模が四方を埋め尽くす、異様な光景。錠で硬く閉ざされていた。引き出しの数はゆうに数千はあり、その7割近くに名札がぶら下げられている。
「お察しの事と思いますが、名札のない棚は空でございます。最初はこれほど大規模では無かったそうですが、先々代のオーナーが豪運の持ち主だったようで、その頃はこの棚の全てが埋まっていたそうです。ところが先代はギルドと一悶着あったせいでかなりの資金を必要としまして、ここにある品の半分ほどをオークションで流してしまったのです。勝負師としては余り褒められませんが、経営者としては英断だったと思いますよ。現にここは余所の違法賭博場と違って生き残ったのですからね……ふふっ」
つまり、『アプサラスの水場』はそれだけ強かに時代を生き抜いてきた。
そしてガンダールは、その現オーナーを務める男だ。
そして、もう一つ――先代が半減させたこの引き出しを、ガンダールは7割程度まで埋めている。
「――さあ、契約書にサインを。わたくしが提示するのはオーネスト様の背中の情報……そして貴方が賭けるのは、命でございます」
ガンダールはにこりと笑う。
その笑みは、どこか悪魔的だった。
= =
ガンダールと男は、静かな戦場でトランプとチップ手に戦っていた。
ルールは男の提案でデュース・トゥ・セブンになった。これはロー・ポーカーと呼ばれる変則的なドローポーカーであり、作る役の強弱関係が通常ルールと逆転していることが最大の特徴だ。最強にして奇跡の手札であるロイヤルストレートフラッシュはこのゲームにおいては最悪の手札に変貌し、最弱である筈のローカード――ブタこそが燦然と輝く栄光の道になる。
ポーカーではA,K,Q、J,10……という順番に強く、2が最弱になる。そのためこのルールでは模様の合わない2,3,4,5,7のローカードこそが最強のカード。故に、ゲーム名も『 2 - 7 』である。
「時に、貴方に一つ聞きたいことがあるのですが……構いませんかな?」
カードを見つめていたガンダールの視線が、男へと移る。
「とても基本的で根本的な疑問なのですが……貴方は何故オーネスト様の情報をお求めなので?」
この『アプサラスの水場』は会員制になっているが、会員が非会員に権利を委譲することは禁止していない。何故なら、その非会員が粗相やルール違反をした場合は移譲した元会員諸共に冷酷なる制裁が下るからだ。そして、この男は今日初めて神聖なる賭博場に訪れた。
会員ならばオーナーの持つ『コレクション』の名前ぐらいは知っているだろうし、移譲された権利と共にオーネストの情報の事を彼が知った可能性は十分にある。だが、ガンダールが質問しているのはその理由だ。
「初めて訪れた賭博場で、突然に自らの命をベットする……あり得ないことではありません。現にそれをやった男達は何人か存在しました。しかし……分からない。オーネスト・ライアーの背中はこの街でもトップシークレットに入る情報ではありますが、手に入れるメリットはそこまで大きいとは言えないのですよ」
冒険者の背中には神聖文字でステイタスが刻まれている。何が強く、何が弱く、何のスキルを持っているのか……神聖文字を読める者にとっては相手の長所と短所を把握することが出来る。背中の情報とはそれだけ貴重であり、そして誰もが晒したがらない。人体の新たなプライベート・ゾーンとさえ言えるだろう。
しかし、命を賭けても知りたい物とは言い難い。
そも、他人の冒険者の背中など相手と敵対する事や弱みを握る事を前提とした情報だ。確かに利益にはなりうるが、余程重要な物を賭けた『戦争遊戯』や暗殺でもない限り命を賭ける理由にはなりえない。
そして、オーネストはファミリアに所属しないので決して『戦争遊戯』は成立しないし、暗殺をする前に自分が死んでは世話ない。客観的に見て、男が情報を欲する理由が欠如していた。
「背中は多くを語ります。その者の辿ってきた道筋、努力の後、人物像……ここだけの話、賭けの対象として背中の情報を求めたこともありました。オーネスト様も数少ない一人でございます」
ガンダールの眼がさらに細まり、妖弧の眼光へと変わる。
「あの方は、とても面白いお方だ。永く勝負師をやっておりましたが、あれほど印象的なお客様は他におりませんでした……お連れの方も中々に興味深い御仁でしたが、彼はもっと純粋な………勝敗の先にある彼岸を見た者の、覚悟の瞳でございました。では、貴方は?貴方は何の覚悟があってここに?」
男はカードを1枚チェンジしてから、「勝つ覚悟だけあればいい」と呟いた。
「……ふふっ」
ガンダールは小さく笑い、口を閉じた。
何を思い笑ったのかは、男には分からなかった。
ゲームは静かに進んだ。チップをベットし、カードを見極め、今のまま続けて相手に勝てるのかを吟味する。時にはドロップし、時には攻め、時折簡単な会話をして様子を伺いながら時は進み――おおよそ3時間の時が過ぎた時、勝負の決着の時が近付く。
男は、ガンダールに対して劣勢だった。
強い役が出来てもあっさり降りられ、相手の不意を突いたつもりでいれば負ける。時折チップを大きく奪い返して持たせはしたが、3時間にもわたる激戦の疲れから男は小さなミスや油断が増え始めていた。男は、自分の手札を見て、ガンダールの人を食ったような笑みを見て、チップを見て、今しかないと思った。
緊張でカラカラに乾いた声で、男は叫ぶ。
ガンダールは興味深そうに口元の描く弧を深くした。
「大きく出ましたね。全額ベットですか………ふふっ、ギャンブルの浪漫であり、同時に多くは破滅への道筋。面白い……貴方はその手に握った5枚の紙切れとチップに己の魂を注ぐ覚悟をしたのだ。その上で勝つと己を信じて……」
ポーカーのチップを賭した時、他のプレイヤーにはいくつかの選択肢がある。相手の額と同じ額を賭けて応えるコール、ベットより更にチップを上乗せするレイズ、そして勝ち目がないと見てゲームを降りるフォールド。ハッタリで自分の札を大きく見せるも、大きい札と悟られぬようにして相手を誘うも自由選択。それがポーカーの醍醐味であり、最も難しい部分でもある。
レイズは正にハイリスクハイリターン。勝てばコールより多くのチップを手に入れられるが、負ければその分多くのチップを犠牲にする。逆を言えば、レイズを仕掛けてきた相手は手札に相当な自信があると見て良い。
つまり、リスクを考えるならばガンダールが乗るべき勝負ではない。
「勝つ覚悟、とおっしゃっていましたね。ならばそれが本物か見極めるのもまたギャンブラーの矜持でしょう……コールでございます」
それでも、ガンダールはチップの山を掌で押した。
次の一手を出した瞬間、このポーカーは決着する。そして、男の命の行方もまたその瞬間に決定する。生きるか、死ぬか。繋ぐか、断つか。刹那に込められたデッドオアアライブの緊張感がその場の時間を停止させた。
男が手札を見せる。命の札を。
ガンダールもまた、それに応えて手札を見せた。
数秒の沈黙――そして、先に口を開くのはガンダールだった。ガンダールは満足そうに頷き、二人のギャンブラーの勝敗を感心したように見下ろした。
「ふむ、勝つ覚悟とやら……見届けさせていただきました」
男の手札……それはダイヤの7スペードの8、クローバーの10、ダイヤのJ、ハートのQ。
通常のポーカーでは最弱の手前、役とも呼べないような手札。しかし、ロー・ポーカーのルールではこのブタが非常に強い。確率的には二分の一程度で完成するこのブタこそが、この勝負で二人の追っていた物と言える。
順番に並びすぎてもいけない。模様が揃ってもいけない。数字が揃ってもいけない。かといって、カードをチェンジしてしまえば揃ってしまうかもしれない。そのギリギリの瀬戸際で男が絞り出した、最後の一手。
これに勝つにはガンダールも同じくブタで、かつ7以下の数字があるか、ギリギリで競り勝つための7,8,9の札が必要になる。揃えるのは無理ではないが、いつでも揃えることが出来るとも断言できない。強ければ強いほどにパターンが増えていくのもデュース・トゥ・セブンの面白さだ。
そして、ガンダールはその面白さを存分に堪能したうえで、冷酷に言い放つ。
「実に下らない……100%の覚悟があるからこそ賭博場は輝くのに、随分と純度の低い覚悟がやってきたものです。オーネスト様のそれが美しい宝玉ならば、貴方は精々海辺の褪せた貝殻程度――興ざめですよ、お客様」
ガンダールの手札は、ハートの2、クローバーの3、クローバーの4、クローバーの5、クローバーの7。
一歩間違えればフラッシュやストレートに化けて敗北する非常にきわどい――そして、このルールにおける最強の札で男を打ち破った。
その瞬間、ガンダールの心臓に強い衝撃が奔った。
「か、ふっ……ふふっ、そう来ましたか……ッ」
「俺は生憎とギャンブラーじゃなくて唯の強盗だよ。貧弱で穢らわしいデミヒューマンくん?」
男の手刀が、ガンダールの胸を深く鋭く抉っていた。男が手を引き抜くと風穴からどろりと赤い液体が漏れ出し、ガンダールは張付けた笑顔のまま椅子ごと倒れ伏した。
男はそれを一瞥すると、ガンダールの懐を探って金属製の円盤を取り出す。その円盤は円の内側に向けて夥しい数の鍵を収納するために作られた、『アプサラスの水場』のオーナー専用の鍵束。そのうちの一つ、『1684番』を強引に引き千切り、跳躍してその番号が付された引出しの錠を開ける。
男はにやりと笑いながら、棚の中に仕舞われていた賞状保存用の小さなフォルダを手にし、中を覗く。期待に胸を膨らませる男だったが、内容を改めるや否やその喜色は失せていく。
「………なんだ、これは?」
中の羊皮紙には、一言こう書かれていた。
『背中は黙して語らず、ただ在るのみ』。
「――何って、お客様の求めていた物でしょう。それが貴方の求めた答えでございます」
背筋に、ぞくりと悪寒が奔った。
「き、貴様………何故………」
「何故?何がですか?」
そこには、先ほどと変わらぬ笑顔のガンダールがいた。狐を連想させる目も、弧を描く口も、そして貫いた筈の心臓までもが最初にこの店に入った時と同じ形で、いた。
ありえない。確かに殺した筈だ。いくら魔術に長けたエルフといえどあの速度ならば詠唱する暇もないし、回復魔法を持っていたとして自分の心臓を丸ごと再生するなど不可能だ。しかし、ならば何故――ぐるぐると取り留めもない思考が渦巻いて冷静さを奪っていく。
「驚かれましたか?ふふっ、実を言うとわたくしもこの部屋に来ると言葉に出来ない重圧を感じます。ここで大切な物を賭けてきた真剣勝負の残滓とでも言うのか……」
その声は、ガンダールの声だった。だが、目の前のガンダールは喋っていない。無意識に声の行先を目で追うと――男とガンダールが入ってきた部屋の扉から、男とガンダールが入ってきていた。そしてガンダールは心臓を抉られて絶命したガンダールを踏み越えてテーブルに付き、男は勝負のルールを提案している。
背後に足音がした。利き手を血染めに、鍵を持った男だった。
男は、まるで実体がないかのように男をすり抜けて『1684番』の棚に強引に鍵を差し込む。
「実に下らない……100%の覚悟があるからこそ賭博場は輝くのに、随分と純度の低い覚悟がやってきたものです。オーネスト様のそれが宝玉ならば、貴方は精々海辺の貝殻程度――興ざめですよ、お客様」
男がまたガンダールを貫く。なのに貫いた男の後ろには未だにけちなチップでポーカーをする男とそれに向かい合うガンダールがいる。得体の知れない力に縛られるように震えだす体を無理に横へ向けると、そこには先ほどから変わらないガンダールがいた。そのガンダールの後ろには、ゆっくりと階段を上るガンダールがいる。
さもそれが当然に起きることであるかのように、男を置き去りに部屋に男とガンダールが増えていく。とても恐ろしい事が起こっている筈なのに、震えで声も出すことが出来ない男は、その場にへたりこんでガンダールから後ずさった。
この男が元凶だ。この男を殺せばいい筈だ。なのに――『この男はさっき殺した』。
まるでペテンだ。この空間が、彼自身が、賭けそのものが全てペテンだったかのようだ。
しかし一つだけ――男が追い詰められているという焦燥だけが、本物だった。
ガンダールは笑顔のまま、後ずさった男の方へと歩み寄る。
「ええ、理解できないのでしょう?しかし、説明する義理はありませんねぇ……あんなにも退屈で下らないゲームを続けさせた上にルールまで破ろうとした貴方の行いは少々度が過ぎております。分かりますか?――貴方の賭けた命、ギャンブラーとして素直に受け取るには些か不愉快だ。本来ならばさくりと介錯でもしてあげる所ですが……」
ガンダールの仮面のように張り付いた笑顔が、魔石灯の逆光を浴びて歪んだ陰影を描いた。
「貴方は『時間をかけて』さしあげます。黄泉路への寄り道にどうぞお楽しみくださいませ、お客様?」
「何なんだよ……何なんだよぉ!!お前は何だ!あのメッセージは本物なのか、嘘なのか!?この部屋は一体……俺とお前は何なんだ!?」
根拠のない自信を掲げた果てに現れた、現実とも夢とも形容しがたい光景。
その中で、唯一くっきりと明確に自分を見つめるガンダールは、答えを知っている筈だ。
せめて自分がどうなっていて、どうなるのかだけでも――知って後悔するとしても、真実を知りたい。
「何なのか、ですか………さあ、何なのでしょうね?」
伸ばした手は、求める物に届かず空を切る。
男が最期に見たガンダールの笑顔は、さきほどのそれより悪魔的に見えた。
数日後、丁度人一人程度の大きさの荷物がダンジョンに運び込まれた。
一部商人や大型ファミリアはダンジョンに荷物を別途持ち込むことも珍しくないため、その光景や荷物の行先を気にする冒険者は一人もいなかった。
荷物は、オラリオの日常の中に融けて消えた。
後書き
今回はいつもと毛色が違う作品でした。
ぶっちゃけポーカーのルールよく知らないんで間違ってるかもしれない……(汗)
オーネストはガンダールと賭けをするために一度この部屋に入りました。ガンダールとオーネストの接点はそれ一回こっきりです。その間二人の間に何があって、どのような経緯を経て『コレクション』に背中の情報が追加されたのかは謎しかありません。
ただ、アズ曰く「あいつは手ぶらで部屋に入り、『狙いの品』らしい物を持って出てきた」そうです。勝ったのか、負けたのか……どっちなんでしょうね。
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