ウラギリモノの英雄譚
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ムノウ――戦エナイ理由ト戦ワナイ理由
ショッピングモール内は、真ん中に大きな吹き抜けがある作りになっており、上の階から下のフロアをある程度見下ろすことができる。
念のため要は二階に登ると、怪人の出現ポイントを目指した。
上の階であれば安全だろうという考えの人間は他にもいたらしく、館内にはまだ何人かの野次馬が居た。
野次馬たちは吹き抜けの手すりを取り囲むように群れている。彼らの目線の先。一階のフロアには横たわる怪人の姿があった。
頭は馬で胴体が男性。地面に横たわる馬頭の怪人は、馬の口からよだれを垂らしながら、まんまるな瞳でジッと野次馬たちを見つめていた。
「本物のヒーローの戦いが、見れるかもしれないぜ」
のんきな野次馬がそんなことを言っている。
結局、要の嫌な予感はただの杞憂だったのだろう。
そう判断した要がその場を離れようとした。
その時。
――Pi!
下のフロアから、笛を吹くような音が鳴った。
慌てて音のする方を振り返る。
怪人の出現した通路の傍にある電気店の店舗に、ピンク色の服を着た五歳ぐらいの女の子が一人で立っていた。
怪人の目がギョロリと動いて、女の子の方を見た。
「うわ……」
異形の瞳に見つめられ、女の子が後退る。
「Pi、Pi……」女の子の靴が鳴る。
横たわっているだけだった怪人が、音に反応して頭を上げた。
「おい、あれ……」「やばくね?」
野次馬がザワつき始める。
「靴を脱いで逃げなさい!」
上のフロアから女の子に向けて誰かが叫んだ。
数名の野次馬達が怪人の気を引くために物を投げる。
「早く!」
「うっ……」
だが、女の子は動き出せない。
「ブルゥゥゥ」
物を投げつけられて刺激されたのか、怪人が立ち上がった。
その目は完全に女の子を見ている。
もう一刻の猶予もなかった。
「くそっ」
要は一階フロアへと飛び降りた。
五点着地で衝撃を殺し、即座に起き上がると怪人に背後から蹴りを見舞う。
女の子に向けられていた怪人の注意が、要に向けられる。
「走って!」
女の子に向かって要が叫ぶ。
彼女の避難さえ完了すれば、『変身』して身を守るなりと、やりようは幾らでもあった。
だが、あろうことか女の子はその場に座り込んでしまい。
「うわぁぁあああああ!」
大声で泣き始めてしまった。
女の子の泣き声に、怪人の注意が再び彼女に向けられる。
「くそっ……」
――戦うしかない。
要は即座に判断した。
「こっち見ろ!」
馬頭の怪人の背後からチョークスリーパーを仕掛け、そのまま首を持って怪人を投げる。
持ち上げた怪人の重量は六十キロほどだった。抵抗も無く投げ飛ばされた怪人を要が抑えこむ。
首を締めあげると、怪人が抵抗を始めた。
「ブルゥッ、ウッ」
怪人はまるで獣のような動きで、力任せに要を振り払おうとする。
何とか留まろうとしたが、圧倒的な力の前に要の体はいとも簡単に引き離されてしまう。
怪人は起き上がり、要は下らざるをえなかったが、怪人の注意は女の子から要に向いた。
相変わらず女の子は泣きじゃくったまま動き出す様子がない。
警報から既に五分が経過している。あと数分すればプロのヒーローが到着し、あの怪人を駆逐してくれるだろう。
感覚を失ってしまえば女の子の動きも分からなくなる。『変身』は使えない。
「時間を稼ぐだけでいい……。大丈夫。できるはずだ……」
要は姿勢を低くした。
怪人は要と体格差は殆どない。警戒すべきは腕力の差だ。
要が駆け出した。
怪人と一気に距離を詰め、上半身に強烈なタックルを食らわせた。
「ブルァ!」
体制を崩した怪人が再び地面に転がった。
「このっ!」
「ブル……!」
うつ伏せに怪人を転がし、サブミッションを仕掛ける。
怪人の右腕を抱え込みと、腕十字固のような姿勢で、怪人を押さえ込んだ。
怪人は要を振り払おうとするが、怪人の力が作用する前に位置を変え、怪人の力を受け流す。
紫雲の家で教えている関節技の一つだ。要は相手の力の流れを呼んで、絶対に外せない関節技を仕掛け続ける。
要の健闘に、野次馬たちが湧く。
(このまま、ヒーローが到着するまで保たせる……)
要も勝利を確信した。
だが……。
ふわり、と。
要の体が浮いた。
「え……?」
「ブルゥァアアアアアアア!」
怪人が奇声を上げる。
握力で砕かれた床材を鷲掴みにした怪人が、指の腕力だけで自身と自身にまとわりつく要の体を浮かせていた。
「そんな、くそっ」
要は出来るだけ上体を逸らして、モーメントの力で怪人を押さえつけようとするのだが、怪人はびくともしなかった。
「ブルァアアアア!」
怪人が浮いた体を振り下ろす。
怪人の体の下敷きとなって、要の体は床に叩き付けられた。
「かっ」
背中を打ち付けて肺の中の空気が飛び出していく。
酸素供給を失って、腕から力が抜ける。
二回目の叩き付けで、要の体はボールみたいに弾き飛ばされていった。
要が通路脇の商品棚に叩き付けられる。
野次馬たちが息を呑む音が聞こえた。
頭を打ち付けた衝撃で、視界の端が赤に染まる。遅れて痛みがやってきた。
頭を打った衝撃で、何故自分がこんなことをしているのかと、記憶も少し混乱する。
怪人を押さえ込んだ時、要は勝利を確信していた。
なのに、今こうして地に伏しているのは、要だ。『怪人』と『人間』の歴然とした力の差に打ちのめされていた。
何故、怪人の対処をする『ヒーロー』などという職業があるのか。
答えは簡単だった。
(ヒーローじゃなければ、怪人には勝てないからだ……)
怪人の注意が近くで泣きじゃくる女の子の方へと向く。
(立たないと……)
要は朦朧とする意識の中で、無理やり立ち上がろうとした。
しかし、腰の辺りが痛むばかりで、足に力が入らない。
(くそっ……)
遅れて意識がはっきりとしてきて、目先の危機に気が付く。
動かない足を諦め、地面を這って怪人を追う。
だが、怪人の歩く速度の方がずっと速い。
一歩。一歩、と。
動けない女の子に怪人が近付いていく。
このままでは女の子は殺されてしまう。
――僕が、『変身』出来ないせいで……。
そんなことを思った。
戦わなければいけなかった。
要が『変身』できない。そのツケを女の子に払わせるわけにはいかなかった。
夢を諦め、人生を妥協して、本心を偽って……そんなことは大したことじゃない。
自業自得の自己責任。そんなものは、幾らでも飲み込めた。
だけど、目の前の誰かの命を。
自己責任(要のせい)で失ってしまうことは、許せなかった。
――戦わなければいけい。
「――変身」
確かな意思をもって、要はその言葉を口にした。
瞬く間に、要の体をヒーロースーツが包み込む。
傷が癒え、胸の痛みが消えていく。
要は立ち上がる。
しかし、急速に視界が暗く霞み始めた。
(まだだ。待て。待ってくれ)
要が走りだす。
(ほんの一撃でいいんだ……)
手を伸ばす。
しかし、届かない。
(ほんの一撃、力を振るえさえすれば、こんな怪人倒すことができるのに……)
床を踏みしめる足の感覚も無くなって、泣きじゃくる女の子の声が急速に離れていく。
まともに『変身』することさえ出来れば――。
(女の子を救うことができるのに……)
要の手はまだ怪人に届いていない。
要はまだ女の子を救えてはいない。
なのに要の視界は、真っ暗に閉じてしまった――。
微かに音が聞こえる。
この音もいずれ消えるだろう。
やっぱり無理だったのだ。
こんな時にまで、要は戦うことが出来なかった。
このまま『変身』を解除して、もう一度だけ怪人と戦おう。
そんなことを考えて、ためらった。『変身』を解除した自分が、運を悪くすればものの十秒でやられてしまうのが目に見えていたからだ。
何をしても、しなくても、要には女の子を救うことが出来ない。
真っ暗な世界の中に幼い要の姿が現れた。
要は小さな体で弱々しく振る舞う幼い頃の自分に苛立つ。
(分かってるんだろう? 戦わなきゃいけないんだっ。何でそうやって縮こまってんだよ……)
膝を抱えた彼が、耳を塞ごうとする。
要はその手を掴んで止めた。
(……頼むから。この一瞬だけでいい。僕に……戦わせてくれよっ)
目の前の幼い自分に、要は願うように訴えた。
だが、幼い要は言葉を返さない。これまで一度だって、彼が要に反応したことなんて無かった。
今回もいつものように、無視されるのだと思った。
しかし……。
幼い要が顔を上げ、頑なに目を閉じたままで、要を見返してくる。
今までどんなに語りかけても返事をしなかった彼が、言葉を返してきた。
「戦ったって、いいことなんて何もないよ」
小さな手で、彼が耳を塞いでしまう。
かろうじて残されていた聴覚が消えていくのを関した。
聞こえていた音が急速に遠のいていく。
すべてが消えてしまう、その寸前に。
「――要くん」
莉子の声が、聞こえた。
彼女が近くに居る。
要の目に闘志が戻ってくる。
(何とかなるかもしれない)
咄嗟に要は両腕を広げた。
「五秒だ!」
五秒後、力いっぱい腕を抱え込む。だから、何とかして怪人を腕の中に放り込んでくれ。
そう叫んだつもりだった。
「五、四……!」
カウントダウンを開始する。
聴覚まで完全に消えてしまう。
要の意図が伝わったかはわからない。
莉子の声は要の真上から聞こえてた。恐らく彼女が二階のフロアに、それも要の真上にいる。
要は彼女の行動を想像した。
この一週間で、何度も手合わせをした相手だ。
彼女の動きは鮮明に想像することが出来た。
観衆を押しのけて二階から莉子が飛び降りてくれる。怪人の頭部に蹴りを見舞う莉子だが、彼女の体重では怪人を崩し切れない。だけど、一撃で相手の体重を測った莉子は、足払いを仕掛け、要の腕の中に怪人を転がしてくる。
要の想像の中で、莉子は四秒とコンマ二で、怪人を転がしていた。
(五秒後に腕を閉じていたのじゃ、遅いっ)
要が腕を力いっぱいに閉じた。
そしてどうなったのかは、要には分からない。ただ何も感じられない暗闇の中で、要はこの腕だけは離すまいと、懸命に腕を閉じ続けた。
数えて八分が経過する。
もう、プロのヒーローは到着したのだろうか。
「一分後に手を離します」
宣言し、余裕を持って九十秒数えて腕を離した。
『変身』を解除する。
失っていた感覚が戻ってくる。視覚に眩しいぐらいの光が差し込み、アンモニア臭が鼻を突いた。
腕の中には、グッタリとうなだれた馬頭の怪人の体。怪人の胸にはぽっかりと大きな穴が空いており、そこを中心に止めどなく血が溢れ出していた。
「君、大丈夫……?」
狐のお面に顔を覗き込まれる。
どうやら、この狐は駆けつけたプロのヒーローらしい。彼が手にしたクナイの様な武器は、怪人の血で真っ黒に汚れていた。
「ごめんね。念のため止めを刺しておいたんだ。随分汚れちゃって気持ち悪いよね? 洗いに行く? 先に病院かな」
そこでようやく、要は自分の体が怪人の返り血でひどく汚れていることに気がついた。
先程から鼻を突くアンモニア臭は、怪人の血の臭いだった。
「あの……女の子は……?」
「怪人に襲われそうだったっていう小さい子なら、無事だよ」
狐面のヒーローが事の顛末を説明してくれる。
床はえぐれ、物は散乱し、血だまりが出来ている凄惨な現場では有ったが、幼い女の子に怪我はなく、途中参戦した莉子も無傷らしい。
要が最も重傷だったが、変身している内に傷も癒えている。
実質、被害者はゼロだった。
「君がいてくれたおかげだね」
そう狐面のヒーローが言う。
要は目を伏せた。
褒められるようなことは、何も出来ていないと思ったからだ。
結局要は戦うことが出来なかった。
莉子が来てくれなければ、事態は解決しなかっただろう。
誰かの危機に際しても、要は『変身』が出来なかった。
これはヒーローとしては、失格だろう。
だけど――、
「要くん」
要と狐面のヒーローを見守る群衆から、莉子が飛び出してきた。
その向こうには、要が身を挺して庇った女の子の姿も見える。ショッピングモールの入り口で、必死に女の子を探していた母親と手を繋いでいた。
彼女達に怪我は無かったらしい。
ヒーローにはなれなかった。
手の届く範囲にいた誰かを何とか守ることが出来た。
そのことに安堵する。
要は溜息とともに笑ってみせた。
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