姉ちゃんは艦娘
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10.姉ちゃんは艦娘
何度も足が縺れそうになりながら、僕は港に向かって走り続けた。右手に持つ比叡さんのバットが何度も手から滑り落ちそうになり、その度に僕は改めて右手に力を込め、金属バットを握り直した。
「姉ちゃん……負けるな……姉ちゃん……」
港が近づくと共に、恐らくは砲撃音だと思われる『ドン』という音が近づいてきた。貨物船はすでに炎上しており、貨物船からは次々に脱出ボートが投げ込まれていた。
一方、貨物船を挟んで避難する人たちとは反対側では、比叡さんとレ級が戦っているのが、僕が今いる場所から見える。比叡さんは微動だにしないレ級の周囲を周りながら攻撃しているようで、比叡さんのXアームが何度も砲撃を繰り返していた。
不意に、比叡さんの動きが止まった。何かに注意が逸らされたようで、比叡さんは貨物船の方を見た。
「姉ちゃん危ない!!!」
「シュウくん?!」
比叡さんが僕にも気がついた次の瞬間、一瞬で比叡さんとの距離を縮めたレ級が、比叡さんの身体を蹴り上げた。
「ガフッ……!!」
比叡さんの身体は信じられないほど軽々と吹き飛び、こっちに向かって飛んでくる。ヤバい。このままじゃ比叡さんは地上の貨物倉庫に突っ込む……
そのままの勢いで比叡さんは貨物倉庫に直撃し、倉庫に大穴が空いた。比叡さんは死んだのだろうか……
「ひぇぇえええ……やっぱり……強い……」
よかった……。信じられないことだが、比叡さんは無事だった。粉塵の中から傷だらけの身体を引きずりながら、比叡さんは姿を見せた。
「姉ちゃん……」
「シュウくん……ここにいたら危ないよ?」
「姉ちゃんは……姉ちゃんは逃げないの?」
「お姉ちゃんはね……アイツを倒さないと……」
比叡さんは再び、海上のレ級を睨む。一方レ級は不敵に笑い、そのしっぽのような部分から猫ぐらいの大きさのドローンのようなものを発射したのが見えた。
「艦載機?!」
「かんさ……?」
「シュウくん!!」
比叡さんが突然僕を押し倒し、僕に覆いかぶさった。次の瞬間、さっきレ級が飛ばしたドローンのようなものから比叡さんと僕に向かって爆弾が落とされ、僕と比叡さんを中心に、周囲が爆発した。爆弾の投下はとどまることを知らず、比叡さんめがけて何度も何度も投下され、その都度比叡さんとその艤装にダメージを蓄積させていく。
「姉ちゃん……ッ!!」
「シュウくんはお姉ちゃんが守るから……ガッ……任せてッ……」
比叡さんの後頭部に敵の攻撃が直撃し、比叡さんの額から血が流れた。口からも血を飛ばし、それが僕の顔にかかった。
「姉ちゃんもういいよ! 逃げよう!! 後は警察に任せて逃げよう!!」
涙が出てきた。何も出来ない。僕は何も出来ない。比叡さんがこんなに頑張って傷ついているのに、僕はさっきから邪魔しかしてない。自分が情けない。何も出来ない自分の無力さが腹立たしい。大切な人を守れないことが悔しい。
やがて爆撃が止み、比叡さんが“艦載機”と呼んだ奴らは、レ級の元に戻っていく。比叡さんは一度レ級を睨んだ後、僕に微笑みかけてくれた。額と口から垂れた血が痛々しい。
「……シュウくん、大丈夫?」
「……うん」
「よかった……」
僕は右手で比叡さんのほっぺたに触れ、口から垂れた血を親指で拭ってあげた。
「……姉ちゃんは?」
「大丈夫……お姉ちゃんは艦娘だから、こんな傷慣れっこだよ!!」
ほっぺたに触れる僕の手を握り、それをほっぺたから離して、立ち上がる比叡さん。僕の視界に比叡さんの艤装が写った。左下のアームが根本から折れ、元々砲塔が折れ曲がっていた左上のアームは煙を吹いており、無事だったもう一本の砲塔ももう使い物にならないことは見ただけで分かる。比叡さん自身を見ると、肩で息をしているのが分かった。こんなに疲弊している比叡さんは、初めて見た……
ずっとこちらを見つめていたレ級が、不意に僕達から視線を外し、炎上する貨物船の方を見た。レ級の視線の先にいるのは、貨物船の乗組員が多数乗った救援ボート……
「いけないッ!!!」
比叡さんの艤装のうち、まだ無事な砲塔が火を吹いた。『ズドン』という轟音が鳴り響き、レ級の周囲に水柱が上がる。比叡さんはそのまま水面に飛び降り、猛スピードでレ級と救援ボートの間に割って入った。その直後、レ級の化け物の口も火を吹き、比叡さんと救援ボートの周囲に水柱が上がった。救援ボートはパニックに陥ったのがここからでも分かる。
「逃げて!! 早く逃げて!!」
「逃げろー!! 離れろ早く!!!」
レ級の砲撃を一身に受けながら、比叡さんが救援ボートにそう呼びかける。立ち上がった僕も、救援ボートから距離が離れたこの場所で、必死に声を張り上げ、救援ボートに向かって必死にそう叫び、必死に手を振った。
「キャアッ!!!」
救援ボートの距離がある程度離れた時、比叡さんの足元で爆発が起きた。比叡さんの身体は真上に空高く舞い上がり、そして海面に叩きつけられる。比叡さんの身体はまだ海面で浮いているが、そのままぐったりとうつぶせで倒れ伏してしまった。
「姉ちゃん!!!」
「…………」
倒れたまま動かない比叡さんに、レ級がゆっくりと近づいていく。レ級はこちらを気持ち悪い笑みを浮かべながらジッとみつめ、比叡さんの元まできた。
「姉ちゃんに何する気だよ……やめろ……やめろぉおッ!!!」
レ級はこれみよがしに自身の左足を高々と持ち上げると、その足で比叡さんの頭を何度も何度も踏みぬいた。その度にガツンッ…ガツンッ…という鈍くて嫌な音が周囲に鳴り響き、比叡さんが悲鳴を上げているのが聞こえた。
「やめろッ!! それ以上やったら殺す!! 絶対殺すッ!!! だからやめろッ!!!」
僕は埠頭に乗り上げ、喉が痛み、血が出るんじゃないかと思えるほどの勢いで必死にレ級を制止したが、レ級の残酷な勢いは止まらない。レ級は一際凶悪にニタッと笑うと、こちらに背を向け、まだ動く比叡さんのアームの一本に手を伸ばし、比叡さんの頭を踏みつけている足をそのまま支えにして、無理矢理にアームを捻じ曲げ始めた。金属がひしゃげる痛々しいイヤな音が周囲に響く。
「姉ちゃん!!!」
「シュウくん……早く逃げ……!!」
レ級がアームを無理矢理に、上下左右に何度も何度もねじ曲げていく。僕は金属バットを持ってきていたことを今やっと思い出し、自分の足元に転がっているその金属バットを拾い上げ、それを握りしめた。
それと同時に『バキン』という音が聞こえ、比叡さんのアームがついに根本から折れた。
「ァァァァァアアアアアアアアア!!!」
比叡さんの痛々しい悲鳴が周囲にこだました。レ級はアームをねじ切って満足したのか、こちらに背中を向けたまま、ねじ切って興味が無くなったアームをポイと投げ捨てた。
「当たれェ……離れろぉおオオオ!!!!」
僕は忌々しいレ級の背中に向けて、フルスイングでバットを投げた。バットはまるで、僕の意思が乗り移ったかのように回転しながらレ級に向かって飛んでいき、そのままレ級の後頭部にヒットした。ガンッという音が聞こえ、レ級の体勢が崩れたのがわかった。
「ダメ……シュウくん……逃げて……」
不意、海面にこちらに向かって走ってくる何かが見えた。海面の下を何かの影が3つ駆け抜けていて、それがレ級から発射された何かであることがわかった。その瞬間、僕の脳裏に、先ほど足元で爆発が起き、垂直に吹き飛ばされた比叡さんの姿が浮かんだ。
「あ……」
「シュウくん……! 魚雷……ッ!!」
直後、足元の埠頭にその影が直撃し、埠頭が爆発した。僕の身体は……先ほどの比叡さんよりはマシだったが……中空に舞い上がり、そのまま地面に叩きつけられた。
「ガッ……?!」
4mぐらいは吹き飛んだだろうか……詳しくはわからない……とにかく高い位置から地面に全身を叩きつけられ、僕の身体は激痛の警報を鳴り響かせた。あまりの痛みにうずくまり、息が出来ない。痛みを我慢するのに必死で、今の僕には何も出来ない。
悶絶している僕のすぐそばにレ級が来た。海面から上陸し、一歩一歩迫ってくるのはわかるが、痛みが酷くて立ち上がれない。頭が痛い。気持ち悪い……吐きそうだ……レ級はそのままうずくまる僕の髪を掴んで頭を持ち上げ、無理やりに立たせる。
「いだだだだ!! ちくしょう!! 離せ!! 離せ!!!」
僕の髪をつかむレ級の右手を必死に振り払おうとしたが、ガッチリ掴まれて振り払えない。手に力も入らない。ヤバイ……このままでは姉ちゃんも僕も殺される……
レ級の腰から伸びた怪物が、僕の顔のそばで大口を開けた。怪物の息遣いが僕の頬に生暖かい呼気を浴びせ、吐き気を催すほどの臭気とよだれを撒き散らし、僕の顔に近づいてくる。僕は湧き上がる吐き気を我慢しつつ、目をギュッと閉じた。
―シュウくんを離せ……
比叡さんの静かな声が聞こえ、僕は少しだけ目を開いた。幻だろうか……レ級のすぐ背後で、さっき僕が投げたバットを構える比叡さんの姿が見えた。
「姉ちゃん……」
「私の弟に手を出すなッ!!!」
幻ではなかった。比叡さんはレ級のすぐ背後でバットを構え、フルスイングでレ級の頭を打ち抜いた。バコンという嫌な音とともにレ級は右に吹き飛び、僕はレ級が反射的に手を離したおかげで、その場に開放され、再度うずくまった。比叡さんが、傷だらけの身体を引きずりながら僕のそばにかけより、抱きしめてくれる。
「シュウくん?! 大丈夫シュウくん?!!」
「ハハ……さすが、テレタビーズのヒーロー……」
「怪我は?! 怪我はない?!」
「体中が痛い……頭ハゲそう……姉ちゃんは?」
「お姉ちゃんは大丈夫……気合! 入れて……!! ……ッ」
ウソだよそれは……頭や口から血を出して……さっきだってあんなに痛そうな悲鳴あげて……比叡さんは僕を抱きしめるのをやめると、僕の両肩を掴み、まっすぐに僕を見据えた。
「シュウくん動ける?」
「無理……体中いだい……怖い……」
怖い……これは僕の正直な気持ちだ。比叡さんがいたぶられる様を見て、そして自分自身、死の恐怖に直面して……自分が殺される寸前まで追い詰められ、僕は今、体中の痛みと、それ以上の震えが止まらない。
比叡さんが、僕の首に手を回した。そしてそのまま僕の顔を自身の顔に引き寄せ、僕のおでこに自分のおでこを重ねた。比叡さんの綺麗な顔が、息が感じられるほどに距離を縮めた。
「大丈夫。お姉ちゃんが必ず守ってあげるから。だからシュウくんはここで、安心して身体を休めて」
「姉ちゃん……」
「大丈夫。お姉ちゃんに任せて」
ずっと海面をのたうちまわっていたレ級の、悍ましい悲鳴が止んだ。赤黒い血を頭から流しているレ級は、さっきまでの気色悪い笑顔を捨て、こちらをジッと睨む。
一方、比叡さんもレ級を見据えながら静かに立ち上がった。残り1本になったアームが、ガクガクと痙攣しながら動き、やがてバキンと音が鳴って煙を吹いた。
「艤装はもう使えない……弾薬ももう尽きた……」
バシュゥッという音が聞こえ、同時に比叡さんのアームが外れた。ガランという音と共にアームは地に落ち、それと同時に所々走っていた亀裂の部分からアームが折れた。
レ級の怪物が、こちらに向けて大口を開いた。よく見ると口の中に砲塔が見えた。レ級は静かにこちらを見据えている。一方の比叡さんも、レ級から見て半身の状態で静かに相手を見据えている。化け物は口の中の砲塔を伸ばし、こちらに狙いを定めた。
「姉ちゃん……」
「大丈夫」
「でも姉ちゃん、武器何もない……」
「……」
轟音が鳴り響き、レ級がこちらに砲撃した。直後、周囲の時間の流れがゆっくりになり、僕にはこちらに向かってまっすぐ向かってくる、青紫色に濁ったレ級の砲弾が見えた。
―んー。いつもは戦ってたからね。
敵の砲弾に比べたら、あの程度のボールなんていくらでも跳ね返せるよ!!
そしてその禍々しい砲弾を、比叡さんがそのバットの真芯で捉え、次の瞬間……
「ほりゃぁあああああああ!!!!」
『ガズン!!!』という音が鳴り響き、比叡さんのバットで打ち返された砲弾はレ級に向かってまっすぐ飛んでいった。レ級は自分の身体の前に怪物を持ってきたが、砲弾は『ボギャアッ!!!』という嫌な音共に怪物の身体を突き抜けて大穴を開け、さらにレ級の身体にゆっくりとめり込み、そしてさらに突き抜けて大穴を空けた。
砲弾が突き抜け大穴が空いた自身の身体を見た後、レ級は驚きと苦悶の眼差しをこちらに向けた。その口と目から赤黒い血が流れたのが僕達からも見え、次の瞬間、爆音とともにレ級の身体が弾け、同時に炎に包まれて、大爆発を起こした。上がった火柱からはたくさんの赤黒い火の粉が大量に立ち込め、それらが熱に煽られて上空に上がっていくのが見えた。
『ヴォォオオオオオオァァアアアアアアアアア゛ア゛ア゛ア゛!!!!!』
身の毛もよだつ叫び声が周囲に響き渡った。叫び声が轟くあいだ、比叡さんはキッと前を見据えていた。砲弾を打ち返したことでもはや形状を留めないほどにネジ曲がってしまったバットを持つその手から力を抜かず、肩で息をしながら、それでも比叡さんは警戒を緩めなかった。
やがてレ級の叫びが聞こえなくなると、緊張の糸が切れたのか……それとも体力の限界が来たのか……比叡さんは全身の力が抜けたかのように急にフラフラとしはじめ、後ろに倒れそうになった。僕は必死に比叡さんを抱きかかえ、勢い余って比叡さんと一緒に倒れてしまい、そして比叡さんの下敷きになってしまった。
「いだッ?!」
「ひぇぇ……?」
レ級の方はさらに巨大な火柱となり、赤黒い粒子を上空に撒き散らしながら、貨物船も巻き込んで大炎上していた。避難した船員たちが呼んだのだろう。たくさんの消防車と警察のサイレンが周囲に聞こえ、だんだんと周囲が賑やかになってきた。
「シュウくん……見ててくれた……?」
肩で息をし、体中が痛々しい傷だらけになっている比叡さんが、息も絶え絶えにそうつぶやく。自慢の巫女装束はボロボロになり、比叡さん自身も、体中が傷だらけだ。
「うん……見てたよ……ありがとう姉ちゃん」
僕のそのセリフを聞いて満足したのか……頭と口から血を流し、息も絶え絶えながらも、比叡さんはいつものお日様の笑顔を浮かべた。
「そっか……なら、がんばった甲斐があったよ……」
「うん……うん……」
少しずつ人が増えてきた。消防車や消防船が到着し、燃え盛る貨物船の消火をし始める。僕と比叡さんは、お互いに支えあってなんとか移動して、人だかりの目の届かない、すぐそばの倉庫の影に隠れた。比叡さんは艦娘だ。怪我も心配だけど、見つかったらヤバいことになりそうな気がする……そう思ったゆえの行動だった。
「シュウくん、私の艤装はある?」
そういえば、さっきの戦いの最後で、比叡さんは自分の艤装を外したことを思い出した。
「ちょっと待ってて。取ってくるから」
僕は比叡さんを座らせ、痛い身体を引きずりながらさっきの場所に戻った。さっきぼくたちがいた場所にはまだ人はいなかったものの、消防車のライトや炎上する貨物船の明るさで、かなり見晴らしがよくなっている。
「……? あれ?」
そこで、僕は比叡さんの艤装がなくなっていることに気がついた。確かに比叡さんは艤装を外し、自分の足元に落としたはずだった。その後、僕も比叡さんもその艤装には触ってなかったはずだけど……。あれ? 誰かに持って行かれたのかな?
「シュウくん」
比叡さんの優しい声が聞こえた。コンクールの日の夜、僕を抱きしめて慰めてくれた時のような、柔らかくて温かい声だった。
「姉ちゃん、艤装がなくなっ……て……」
僕は振り返り、比叡さんを見た。比叡さんの身体が淡く光り輝き、星のように綺麗な粒が、比叡さんの身体から、紅茶からたちこめる湯気のように立ち上がっていた。キラキラという音が聞こえてくる気がするほどに、その光景は美しかった。
「シュウくん。……やっぱり艤装、なかったみたいだね」
そう答える比叡さんの表情は、ベランダや神社で見せていた、とても脆い笑顔だった。
「姉ちゃん……何やってるの?」
「んーとね……お姉ちゃん、帰るみたい」
僕は体中が痛いのを我慢して比叡さんの元にかけより、比叡さんの手を握った。ほら、触る事ができるじゃないか。帰るってなんだよ突然。
「あのね……さっきレ級を倒してシュウくんが私を受け止めてくれた時に分かったの。私はきっと、シュウくんを守るためにこっちに来たんだなーって」
いやだ。そんな話聞きたくない。
「で、チラッと私の艤装が見えたんだけど、今の私みたいにキラキラ光って、そのまま消えちゃったの。だから、多分私の予想は間違ってない……」
光の粒子がたちこめる勢いは止まらず、それにつれて、少しずつ比叡さんの身体が薄く透けてきた。僕は必死に比叡さんの手を掴み、比叡さんの腕をさする。大丈夫。まだ触れることが出来る。
「だからよかったぁ~……シュウくんを守れてよかったぁ~……」
「……やだ」
「お父様とお母様には、シュウくんからお礼を言っといて」
いやだ。そんなのダメだ。そういうことは自分で伝えるから価値があるんだ。お礼は自分で相手に伝えなきゃいけないんだ。だから自分で言ってくれ。姉ちゃんの代わりに伝えるなんてイヤだ。
「あと、このバットもらってくね。シュウくんと出会えた証に」
比叡さんは、力の入らない手でなんとか握っているバットを持ってそういった。比叡さんが持っているためか、バットも光り輝いていて、光の粒が立ち込めている。
イヤだ。あげない。持ってくなんて絶対許さない。そのバットは、比叡さんがテレタビーズでホームランを量産できるようにってあげたんだ。だからバットを手元に置きたいなら、こっちでテレタビーズにずっといて。
「鎮守府に帰ったら、金剛お姉様たちに自慢するんだぁ~……私に弟ができたんだって……」
「帰らないでよッ!!!」
自分でもびっくりするぐらい、大きな声が出た。イヤだ。絶対イヤだ。あんなダサくてふざけた名前の鎮守府になんてうちの姉ちゃんは絶対に行ってほしくない。つーかどこにも行ってほしくない。
「シュウくん……お姉ちゃんを困らせないで……」
比叡さんは、困ったような苦笑いを浮かべながらうつむいた。知らない。姉ちゃんが困ってるなんて知らない。だって姉ちゃんだって僕を今困らせてるじゃないか。キラキラ光って少しずつ透き通ってきて、『帰る』だなんて言って、僕を困らせてるじゃないか。ほら、早くウチに帰ろう。そして母さんに朝ご飯作ってもらおう。二人でいっぱい食べよう。
「ごめんねシュウくん。一緒に家には帰れないよ」
「ヤだよ!! なんで帰るとか言うんだよ!!」
ぼくはさらに声を張り上げた。姉ちゃんがいなくなるなんてイヤだ。玉子焼き食べられなくなる。家の中で僕を挑発する人がいなくなる。つっつきたくなるほっぺたの人がいなくなる。お日様のような笑顔が見られなくなる……そんなのイヤだ。岸田に会わせて自慢しなきゃいけない。姉ちゃんに提督の真の姿を教えなきゃいけないんだ。僕の背中を後押ししてくれた秦野にも紹介したいんだ。姉ちゃんと一緒にやりたいことがたくさんあるんだ。
「シュウくん……」
「元の世界に戻っても、今日みたいに傷だらけで戦わなきゃいけないんなら、こっちにいてよ!! 姉ちゃんがいないなんてイヤだよ!!」
「……」
「好きなんだよ!! 姉ちゃんのことが好きなの!! だから帰らないでよ!!」
死にもの狂いで口をついて出た本音だった。僕は比叡さんのことが好きになっていた。いつも一緒にいて、お日様のような笑顔で僕の心を暖かくしてくれる比叡さんが、いつの頃からか好きになっていた。だから帰ってほしくなかった。だから、ずっとずっと一緒に生きて行きたかったんだ。姉ちゃんの隣りにいたかったんだ。
「私だって……帰りたくないよ……」
比叡さんがワナワナと震えだし、顔を上げた。比叡さんの澄んだ両目からは涙がポロポロと流れ落ちていた。もう殆ど消えかかった両手で僕の身体にしがみつくように、痛いほどの力を込めて抱きしめてくれた。
「私だって、一緒にいたいよ……お母様のご飯毎日食べたい……お父様の朝のニヤニヤをずっと見たい……草野球だってやりたいよ……」
「姉ちゃん……」
「せっかく決心したんだよ? “シュウくんたちと一緒なら、もう帰れなくてもいいや”って思えたんだよ? それなのに……それなのに、シュウくんと離れたくないよ!」
「姉ちゃん……帰らないで……帰らないで姉ちゃん!!」
「シュウくん……イヤだ……帰りたくない! 一緒にいたいよシュウくん!!!」
比叡さんの身体の感触が消えた。比叡さんが僕から離れ、澄んだ眼差しでまっすぐに僕を見た。もう殆ど消えかかっていて表情が分かり辛くなっているが、まっすぐにこちらを見つめる眼差しと、比叡さんの口の動きだけはかろうじてまだ分かる。身体からたちこめる光の粒が少なくなってきた。嫌だ。消えないで。どこにも行かないで姉ちゃん。
「シュ」
比叡さんの眼差しが消えた。最後のほんの少しの光の粒も消え、僕の名前すら最後まで満足に言うことも出来ず、比叡さんの姿はなくなった。
「姉ちゃん?!! 姉ちゃん!!!」
いるかもしれない。見えないだけかもしれない。周囲を見回す。姉ちゃんはいない。手を動かし、周囲に姉ちゃんの感触がないか確かめる。でも姉ちゃんの感触はない。
「イヤだ!! 姉ちゃん!!! 姉ちゃん!!! イヤだぁあアアアアアアア!!!」
精一杯声を振り絞り、どこかにいるはずの姉ちゃんに叫んだ。お願いだから僕のもとに帰ってきて。お願いだから出てきて。一緒に帰ろう。でも姉ちゃんの声はどこからも聞こえない。
「ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
返して。姉ちゃんを返して。お願いだから、世界で一番大切な人を返して。お願いします。返して下さい。帰ってきて下さい。帰ってきて下さい。
「ね゛え゛ぢゃぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!」
僕は叫んだ。喉が痛み、枯れ、裂け、口の中に血の味が広がっても、何度も何度も姉ちゃんを呼びつづけた。
その日、姉ちゃんは僕の前から、文字通り姿を消した。
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