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姉ちゃんは艦娘

作者:おかぴ1129
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5.姉ちゃんは年上

 季節は夏真っ盛り。外では忌まわしいセミたちが命を振り絞ってミンミンだのジージーだのツクツクオーシだのとおぞましい求愛ソングで騒ぎ立てる、いわば異形の者共の間で繰り広げられる、戦慄の恋の季節。

 今は夏休みにも関わらず、僕は毎日学校に顔を出している。理由は、夏には吹奏楽部のコンクールがあり、僕の部も例外なく、そのコンクールに向けての最後の特訓を行っている最中だった。

 あの比叡さんの身体能力が発揮された戦慄の草野球大会のせいで練習のスケジュールは若干ズレ込んだものの、おかげさまで我が吹奏楽部は音、テクニック、そしてチームワーク……すべての点において昨年よりもバンドとして成長していた。一年間必死に練習した甲斐があった……

「おーし。こんなところで今日の練習はいいだろう。明日は本番だ。今晩はゆっくり休め」
「はい!!」

顧問が合奏練習のあとこう告げ、今日の特訓はいつもよりも早くに終了した。明日の本番に向け、今日はしっかりやすんでおけという配慮なのだろう。この日は居残り練習も禁止され、僕たちはさっさと家に帰った。

「というわけで、明日はコンクールです」

家での夕食時に、改めて僕は自分の家族にそう伝えた。今日の夕食のメニューは生姜焼き。比叡さんの皿にだけ生姜焼きがてんこ盛りになっていることには、もう突っ込まないようにしよう。

「ふぉっふぁ~もしゃもしゃ。あふぃふぁふぁふぅふんふぉもしゃもしゃふぁふぇふふぁいもきゅもきゅ」

比叡さんが口いっぱいにご飯と生姜焼きを頬張りながら何か言っている。黙ってればキレイな人なのに……ほら生姜焼きのタレが口についちゃってるよ……。

「比叡ちゃん、口の中のご飯を飲み込んでからにしたら?」
「ごきゅっ……ふぃ~……明日はシュウ君の晴れ舞台なんだね~」
「うん。明日のためにずっと練習してきた。これが最後のチャンスだし、金賞獲りたいんだよね」
「去年はギリギリ銀賞だったんだもんな」

父さんがポテトサラダをつまみながらそう言う。僕にとってはあと一歩で金賞を逃した、悔しい思い出だ。

「そうだね。父さんは金賞獲ったことある?」
「おれはないな。中学時代はずっと銀だった。高校の頃は部員自体が少なくて出場すら出来なかったしな」
「私も金は獲ったことないわ……」

もし、僕が明日金賞を取ることが出来れば、親子二代に渡る悲願を達成したことになるな…俄然闘志が湧いてきた。

「比叡さん」
「ん?」
「明日、お弁当作ってくれる? 明日は比叡さんの気合弁当が食べたい」

なんとなく、自分に気合を入れるために比叡さんの力を借りたくなった。あの気合弁当を食べれば、比叡さんの力を借りることが出来る気がした。

「わかった! 気合!! 入れて!!! 作ります!!!!」
「いや、比叡さんは気合いれなくていいです。あくまで気合弁当ってだけで」
「え~……しょぼーん」

最近、やっと比叡さんのしょぼん攻撃をやり過ごせるようになってきた。あとひとつ、比叡さんは料理自体は別に下手ではないことも分かった。下手ではないのだが、必要以上に気合を入れて料理をすると、最後の最後で余計かつ致命的な一手間を加えてしまう性格のようだ。

 うん。だいぶ比叡さんのことがわかってきたな。

 その後はいつものようにお風呂に入って就寝。僕自身はいつもと変わらないつもりでいたんだけど、やっぱり気分が高揚して寝付けず、少し水でも飲もうと思って台所に向かった。

 ぼくの家……といってもマンションの3階だけど……は台所から居間を通してベランダがよく見える。今日はベランダへ続く居間のカーテンが開いていて、ベランダの全景がよく見えた。

 そしてベランダには、こちらに背を向けて立ち尽くす比叡さんの姿があった。

「あれ? なにしてるんだ比叡さん……」

比叡さんの姿に気付いた僕は、声をかけようかと居間に向かったのだが、なんだか比叡さんの背中からは、話しかけてはいけない真剣さというか、何か話しかけづらいものを感じて、声をかけることが出来なかった。

 話しかけてさえしまえば、きっと比叡さんは『ひぇえええ?』とか言ってびっくりしながら振り返り、いつもの比叡さんのように『なんだシュウくんか~……』と安心しきった笑顔を浮かべることだろう。

 でも、その一歩に躊躇してしまう何かが、今の比叡さんの背中には感じられた。話しかけるといなくなってしまうような、話しかけると壊れてしまうような、そんな際どい脆さのようなものが、比叡さんの背中から感じられた。

 僕は比叡さんに見つからないように、台所で静かに水を飲んで、そそくさと自分の部屋に戻った。なぜなんだ。あんな比叡さんを今まで見たことはないし、そもそも比叡さんを相手にそんなことを考えたことすらなかった。あの比叡さんに対して『話しかけづらい』だなんて……

 その日は、翌日が大会という事実に対する緊張と、『話しかけづらい比叡さん』を見てしまったという困惑から、ますます目が冴えて眠れなくなった。最後に時計を見たのは夜中の3時頃だった。

「おはよう! はいお弁当!!」

翌日、比叡さんはいつもと変わらない様子で僕に弁当を渡してくれた。あまりにいつもと変わらなさすぎて、朝少し身構えた自分が少し馬鹿らしくなってしまった……

「ありがとう比叡さん」
「お姉ちゃん、気合! 入れて!! 作ったよ!!!」

そういって比叡さんはいつもの『押忍!』ポーズをしてみせた。まさかあの殺人的な料理で構成された弁当じゃあるまいな……

「大丈夫よ。比叡ちゃん鼻歌交じりに作ってたから」

かあさんがそう僕に耳打ちしてくれる。そっか。なら大丈夫だ。……つーか母さん、比叡さんの気合があの凶悪なクリーチャー料理を生み出すのを知っていたなら、ちゃんとブレーキをかけてくれ……。

「味わって食えよ~。あんな楽しそうな比叡ちゃん見たの初めてだったぞ……ありゃ。また小田浦で漁船の座礁か。最近多いな~……」

父さんが新聞に目をやりつつコーヒーを飲みながらそう言ってくる。へぇ~そうなのか。ちなみに“小田浦”ってのはうちの近所にある港、小田浦港だ。

 ともあれ、これで準備は万端。今日は金賞に向けて頑張るのみだ。

「父さんたちはコンクール見に来るの?」
「そだな。お前の中学最後のコンクールだし、お前がどんな音を出すようになったのか聞いてみたい」
「母さんもそのために仕事休んじゃったわ」
「私も酒屋のアルバイト休んじゃいました!!」

そうそう。最近比叡さんは酒屋さんのアルバイトを始めたらしい。重い荷物を運ぶことが多い酒屋さんだけに、有り余るパワーを誇る比叡さんはけっこう重宝されているそうだ。

「わかった。……じゃあ行ってくる」
「おう。悔いの無いよう、頑張ってな」
「行ってらっしゃい」
「シュウくん! 気合だよ!!」

父さんは激励するでもなく、でもいつもの言葉で励ましてくれた。母さんはいつもと変わらない調子で、僕をフラットな気持ちで送り出してくれた。そして比叡さんはいつもの、見ているだけで気持ちが元気になる、お日様のような笑顔で僕を見送ってくれた。僕の家族は全員、僕の味方だ。怖いものは何もない。僕は意気揚々と学校に向かった。

 今日一日の流れをザッと説明すると、まず学校についたらトラックへ楽器の搬入を行う。それが済んだら、バスに乗って会場に移動。会場は隣の市にある文化会館だ。文化会館についたら、まずは各々昼食。その後到着しているはずの楽器を搬出して、割り当てられたリハ室で最後のリハ。そして出演。こんな感じだ。僕たちは滞りなくトラックに楽器を搬出してそれを見送った後、バスに乗って会場に向かった。

 バスの中は悲喜こもごも。『ヤバいよ……緊張してきた……』と口走る女子部員がいれば、『あそこの中学の演奏、聞いてみたいんだよね……』と意識の高い後輩もいる。中には『○○中の女子、カワイイらしくてさ……』と緊張の欠片も見せない剛の者もいる。

「そういや、この前のえらくキレイな人、先輩の知り合いなんですか?」

僕の隣の席に座った秦野に、不意にこう聞かれた。

「へ? この前の人って?」
「ほら、草野球大会の時に先輩に声かけてた……」
「ぁあ~、比叡さんか」
「ヒエイさん?」
「そうそう。親戚の人でさ。最近うちに居候してるの。姉みたいなもんかな?」
「ふ~ん……」

まさかここで正直に『神社で出くわした意味不明なことをのたまう元気な人』とは言えないし、とっさのウソとしては上々だったのではないか……と自画自賛したことは秘密だ。

「でも先輩知ってます? みんな最近、あの人の話題でもちきりですよ? 特に男子」

ほっほーう。そうかね。

「“なんであんなキレイな人と橋立が知り合いなんだー”とか“おれもあの人と仲良くしたい……”とか」

まぁ比叡さん、外見はホントに美人だからね。そう思うのも不思議じゃない。ちょっと誇らしいぞ。ハッハッハッ。

「んじゃ、別に付き合ってるとかそういうワケじゃないんですか?」

バカなッ。年齢は聞いたこと無いから分からないけど、比叡さんはどう考えても年上だ。秦野にこんな話をするのも何だけど、僕が好きなのは年下だぞ年下。

「へぇ~……そうなんだ……へぇ~」

そう。姉みたいなもんだ比叡さんは。この前あのピッチャー野郎にヤキモチを焼いたのも、姉をあんな奴に渡したくないという家族愛みたいなもんなんだよきっと。うん」
「先輩、声に出てます」
「うおッ?! マジで?!」

 知らないうちに心の声が漏れてしまっていたらしい。恐ろしく恥ずかしいセリフを秦野にきかせてしまった気がする……

「先輩、とりあえずガムでも噛んで落ち着いてくださいよ」

秦野がそういって僕にクールミントのガムを一枚くれた。僕がこのガム好きなのよく知ってるね。

「私もクールミントが一番好きですから」

 会場についたら一度控室に入り荷物を置いた後、会場の好きなところで昼食だ。僕は外の階段で比叡さんの気合弁当を開けた。気持ちを集中させたかったから、今日は一人で弁当を食べる。

 弁当の包を開けると、中には一枚の紙切れを折ったものと、いつものお弁当箱。お弁当箱の蓋を開けると、真っ白なご飯の上には細切りの海苔で書かれた『気合』の文字。そしておかずのすみっこには、僕が大好きな比叡さんの卵焼きが入っていた。よし。

 お弁当の中身を確認した後、折られた紙切れを開いた。そこには、比叡さんが書いたのだろうか……『気合! 入れて!! がんばろう!!!』の文字と、ヘタクソな比叡さんの似顔絵が描いてあった。

「プッ……ヘタクソだなぁ比叡さん」

ヘタクソだけどその似顔絵には、なんだか比叡さんのあのお日様のような笑顔が重なって見えた。『気合! 入れて!! がんばろう!!!』という比叡さんの元気な声が聞こえた気がした。

「ありがとう、比叡さん……気合、入れて、いただきます」

気合弁当を食べて比叡さんの気合のおすそ分けが終わった後は、楽器を搬出してリハ。そしてそれが終わって今、舞台裏に移動してきている。僕達の前の学校の演奏が今まさに行われている最中だ。この学校は去年も金賞を獲っていたのを僕はよく覚えている。今年の仕上がりも上々のようだ。

「うう……段々緊張してきた……」

ついさっきまではそんなことなかったのに、途端に緊張で体がこわばってきた。あれだけ練習してきて手応えも感じていたのに、今こうやって他校の演奏を聞いていると、途端に自分が実力不足な気がして仕方がなくなってくる。譜面台と楽譜を持つ手が震えて仕方がない。僕は震える左手を、右手で必死にさすった。

「先輩、落ち着いて下さい」

秦野が落ち着いた顔でそう言ってくる。お前緊張してないの?

「してますよ? してますけど、ここまで来たらあとはやるだけだなぁと」
「お前、強いね……」
「というか、先輩見てたら緊張がほぐれてきます」

秦野はこう言ってケラケラ笑う。お前、ホント強いよ……

 やがて前の学校の演奏も終了し、退場していった。

『プログラム8番、神楽中学校吹奏楽部の演奏です』

アナウンスが僕達の順番が来たことを告げる。身体がビクンと波打ち、心臓が痛くなるほど脈打った。緊張が最高潮に達し、顔から血の気が引き、手足から力が抜けていくのが自分でもわかった。舞台に出て自分の席に座り、譜面台を立てて楽譜を置くのだが、手が震えてうまくいかない。2回ほど手が滑って楽譜を落としてしまった。

「大丈夫ですか? 顔真っ青ですよ?」
「し、心配ない!! ドドドドイツ軍人はうろたえたえないない!!」
「私達ドイツ軍人じゃないですし、そもそも先輩うろたえすぎです」

うあああヤバい。緊張で自分が何言ってるかさっぱりわからない。観客席を見るとほぼ満員で、たくさんの人たちがこっちを見ている……ダメだダメだ緊張で頭がどうにかなってしまう……

「シュウくーん!!」

うああああああついにあまりの緊張で幻聴まで聞こえてきたぞ。

「シュウくーん!!!」

あうあうあうあうあアカンもう無理逃げ出したい!! などと舞い上がっていたら、秦野が肘で僕をコツコツ小突いてきた。

「先輩」
「ん?!! な、なんだよ?!!」
「ほら先輩、あっちあっち」

僕は秦野が指差した方向を見た。焦点が合ってなかった視界で必死にその指の先を見るとその先には……距離が離れていても、私服を着ていても分かる。あの金色のカチューシャとショートカット。そして、暗がりでもよく見える、お日様のような笑顔。そう、父さんと母さんに挟まれて、比叡さんが席から立ち上がり、こっちに手を振っていた。

「シュウくん!!」
「比叡さん?!!」
「シュウくん!! 気合! 入れて!!」
『えー…会場内での熱いエールはお控え下さい……』

わざわざ放送でそう注意されてしまい、比叡さんは途端に恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら席に座った。方々からクスクスと笑いが聞こえ、会場にリラックスムードが広がった。

 そして、それは僕も同じだった。全身から緊張が抜け、視界の焦点が合い、周囲がクリアに見え始めた。手の震えが止まり、力も入る。トロンボーンをしっかりと持つことが出来るようになってきた。心臓の鼓動はバクバクとしたままだが、それでも先ほどの何倍もマシだ。

「吹っ切れましたか?」
「あ、ああ。なんとか。これならなんとかなりそうだ」
「そうですか。……ちょっと羨ましいです」
「へ?」
「なんでもないです」

指揮を行う顧問が僕達に起立するよう促した。さっきまでの僕なら、緊張のあまり顧問のそのジャスチャーすら見逃していただろう。でも今は違う。顧問の手の動きも、会場にいる人たち一人ひとりの表情も見える。そして……

「シュウくん……気合、入れて、がんばれ……!」

真剣な面持ちでそうつぶやく比叡さんの顔もよく見え、不思議とその囁きも聞き取れる。大丈夫、いいコンディションだ。これなら行ける。父さんと母さん、そして比叡さんも見守ってくれる。仲間もたくさんいる。これならいける。大丈夫。

 顧問が指揮棒を持ち、右手を高々と掲げた。それに従い、楽器を構える僕達。二年と少しの部活の集大成をぶつける時間が今始まる。勢い良く振り下ろされる指揮棒の動きに従い、僕たちは最初の音を響かせた。

………………

…………

……

「……ごちそうさまでした」

いつものように母さんの夕食を平らげた後、僕は自室に戻ることにした。

「シュウ、お風呂は?」
「んー……今日は疲れたからいいや。このまま寝るよ」

実際、今日は疲れた…長時間の移動と慣れない場所での演奏、極限の緊張と二年半の集大成……今日は本当に疲れた……

「シュウ」

食堂を出るとき、父さんが僕の背中越しに話しかけてきた。僕は振り返らなかったから顔は見てないけど、父さんの顔が真剣な面持ちをしているのは、声色だけで分かる。

「二年半おつかれ」
「ん」
「お前の音、良かったぞ」
「ありがとう」

部屋に戻った僕は、机の電気スタンドだけ点けて、ベッドに横になった。その途端、ドッと疲れが押し寄せてきた。深くため息をつくと、心持ち胸が軽くなった感じがした。僕の部活は今日、全部終わった。

 長かったなー……二年前に初めてトロンボーンに触れてから、ずっとがむしゃらにやってきたなー……なんて色々と思い出していたら、目に少しだけ涙が溜まった。

「……シュウくーん」

閉めてあるドアの向こうから不意に比叡さんの声が聞こえ、僕は上半身を起こした。目に溜まった涙を袖で拭き、もし見られても泣いてたってバレないように。

「比叡さん?」
「うん。入っていい?」
「どうぞー」

 ぼくは反射的に、ドアに背を向けた。『失礼しまーす……』という比叡さんの声とともにドアが開く音が聞こえ、比叡さんが部屋に入ってくる足音が聞こえてきた。

「何か用?」

一応、比叡さんにそう聞いてみた。でも比叡さんは何も答えず、ベッドに乗ってきて、僕と背中合わせに座った。僕の背中に、比叡さんのぬくもりが伝わってきた。

「シュウくん今日はお疲れ様」
「うん」
「カッコ良かったよ。演奏も気合入ってた」
「うん。ありがとう」

父さんもそう言ってくれたし、比叡さんもそう言ってくれたのなら、僕の二年間のがんばりは無駄ではなかったのかな……?

「……でも結果は、残念だったけどね」

震え始めた喉の奥底から、僕は声を振り絞ってそう言った。そう。結果は去年と同じく銀賞だった。確かにレベルアップはしていたけど、金賞の壁は思った以上に分厚くて、今の僕らではそれを突破することは出来なかった。

―神楽中学校吹奏楽部、銀賞

このアナウンスをされた時、実は僕は、思ったほどショックを受けなかった。最初の感想が『そっか……ダメだったか……』だった。僕の横では、演奏前の僕を気遣ってくれた秦野が悔しそうに泣いてたけど、僕自身は思ったほどのショックを受けることがなかったのは意外だった。

『先輩……』
『ん?』
『来年は絶対に金を獲りますから……先輩たちの悔しさの分まで、頑張って獲りますから……!』
『うん。頼むよ』

秦野とそう約束はしたが、正直なところ、悔しさというか、そういう感情の変化はなかった。自分でも不思議に思ったんだけど、酷くフラットな感覚で、秦野との約束を受け取った。

「でもさ。不思議と悔しいとか、悲しいとかそういう気持ちが沸かないんだよ。なんでかなぁ……やりきったからかなぁ……」

 比叡さんの背中が僕の背中から離れた。比叡さんのぬくもりが背中に感じられなくなったことに少々寂しさを感じていると、次の瞬間、比叡さんは僕を背中からふわっと、本当にふわっと、優しく包み込んで抱きしめてくれた。

「ちょ……比叡さん?」

あまりに突然のことで僕は狼狽えたけど、僕を優しく包み込んでくれる比叡さんのぬくもりはとても優しくて、とても暖かく心地いい。

「……私ね、金剛お姉様っていう姉がいるの」
「うん」
「私たち、いつもシンカイセイカンと戦ってたんだけど、自分のせいで仲間が大怪我しちゃったり、ちょっとしたミスが大失敗になっちゃって、それを悔やんで落ち込む子がやっぱりいるの」
「……」
「でもお姉様は、そうやって落ち込んでる子や元気がない子を見かけると、いつもこうやって元気付けるの。“大丈夫デース。アナタの頑張りはみんな知ってマース”って」
「……? なんで英語訛り?」
「イギリス生まれの帰国子女だから。……んで私もね。落ち込んだ時は、こうやって金剛お姉様に元気付けられてきたんだ。だから今は、私がシュウくんを元気づけようと思って」
「はは……大丈夫だよ比叡さん。思ったほどショックはないから」

喉の奥がキューッと締り、心臓を誰かに掴まれているような感触が胸に走った。いけない。ショックなんて受けてないはずなのに。落ち込んでなんかいないのに……悔しくなんかなかったはずなのに。

 比叡さんは両手に力を入れて、僕を更に力強く抱きしめてくれた。いけない。それ以上されたら。

「お姉ちゃんには嘘つかなくていいよ」
「ウソじゃないよ」
「ウソだよ。だってシュウくんの顔、泣いてたもん。涙が出てないだけで、ずっと泣いてたもん」

 喉の奥が締まり続ける。あまりの痛みで目に涙が溜まってきた。やめて比叡さん。それ以上言わないで。

「大丈夫だよ。 思ったほどショックも受けなかったし、全然悔しくなんか……」

 不意に、比叡さんが右手で僕の頭を撫でた。その温かい右手で優しく、でも不器用な比叡さんらしく少しだけ乱暴にクシャッと僕の頭を撫でた。右手の温かさが心地よくて、髪の毛をクシャッとされる感触がとても優しい。

「お疲れ様。今までよくがんばったね」

 その瞬間、僕の喉の痛みが最高潮に達した。決壊したかのように、涙が目から溢れてきて、鼻から鼻水まで出てきた。

「あぁあ……ぁぁぁぁああああ……比叡さん……ぁぁあああ……」

締まりきって声なんか出ないはずの喉から、情けない声が自然と出てきた。どうやら僕は、自分自身にウソをついて平静を装っていたようだった。そんなことに僕自身、今更気づいた。

 比叡さんは、僕が自分自身にもウソをついていたことに気付いていたんだ。だからこうやって、僕の部屋に来て、僕を抱きしめてくれたんだ。

「悔しい……悔しいよ……ずっとがんばったのに……」
「そうだね」
「金賞欲しかったよぉ……最後に県大会行きたかったよぉお……」
「行きたかったね」
「今日で最後なのに……もう来年なんてないのに……がんばったのに……」
「がんばったね。シュウくん、ほんとに今までよくがんばったね」

比叡さんは、更に僕を強く抱きしめて、頭を何度もなでてくれた。その心地よさと身体を締め付ける痛みが、僕の胸にとても心地よくて、僕は自分が心から安心していくのを感じた。

「泣いてもいいよ。お姉ちゃん、ずっとこうしててあげるから」

この言葉を合図に、僕は子供のように情けない声を上げて泣いた。比叡さんに見られることもいとわず、涙をボロボロと流し、鼻水が出て、言葉にならない赤ちゃんのような声を出して、僕は泣いた。

「うあああああぁぁぁぁ……比叡さん……ありがとう……悔しいよぉ……」
「うん」
「ありがとう比叡さん……ありがとぉ……」
「いいんだよ。お姉ちゃんなんだから」
「ありがとう比叡姉ちゃん……うああああああああああ」
「うん」

 いつもいつも、僕は比叡さんのことを『まるで五歳児のようだ』と言っているけど、それは訂正する。

 比叡さんは……比叡姉ちゃんは、やっぱり僕より年上で、僕の姉ちゃんみたいなもんだった。 
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