乱世の確率事象改変
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
羽と華を詠み、星は独り輝く
期待を込めて目を瞑り、彼の手が導くままに顔を寄せた。されどもやはりというべきか、彼が星に甘い口付けを与えるはずなどなく、耳元で囁かれたのは望んだ言の葉とは違ったモノ。
星には意味が分からなかった。示された地名はどちらの勢力にも属しておらず、かといって共に行こうという気軽な話でも無い。
続きが綴られる途中で、彼の声は怒声に遮られた。
「……っ……何やってんのよこのクソバカぁ―――――――――――――っ」
跳ねるようにその方を見やれば駆けてくる少女が一人。前は侍女服を着ていたはずの少女は、街娘の姿で眉を跳ね上げている。
――やれやれ……私の恋路はいつでも幼子に邪魔されるようだ。
せっかくの気分を台無しにされ、星が呆れのため息を吐く。それでも、彼から身体を離そうとはしなかったが。
もう少しだけこうしてくっついていたい。乙女心は確かにある。敵だとしても今くらいはこの温もりを感じていたい、と。
哀しいことに、星の些細な欲は達成されなかった。
「いっつもいっつもっ……好き勝手してんじゃないわよ――――――っ!」
見事というしかない流れるような動きで、詠は大地を抉るように滑り込んだ。
突き出された足は漸く詠を見つけた彼の腹に向かい、詠の視線が驚愕に支配されている彼の黒瞳に合わされる。
凶悪な一撃を予測すれば、武人である星が飛び抜かないはずもなく、押し倒されたままだった彼は逃げるのが遅れて……
「ぐっふぁ!」
それはもう見事に、詠のスライディングが秋斗の腹に突き刺さった。
土ぼこりを上げて転がる秋斗の身体。すっくと立ち上がった詠は息を弾ませてそれを睨みつける。
家屋に背中からぶつかってやっと止まった。幸いなことに空家だったのか住人が飛び出してくることは無かった。
「……久しぶり。確か――」
「あんたと公孫賛に真名は預けてないから呼ばないでよ? ボクはもう新しい名前を持ってる。“荀攸”って呼んで」
「ふむ……承知した。では改めて……久しぶりだな、そして“初めまして”、荀攸殿」
「ええ、“初めまして”趙子龍。あんたも街中で盛ってんじゃないわよ」
「おやおや、これは異なことを。私はただ旧知の友との再会を楽しんでいただけだが」
よく言う、と内心で呟き舌打ちを一つ。
あのまま止めなかったらどうなったかと想像して、詠の心にイライラが募って行く。
ジロリ、ときつく睨んで、また大きなため息を零した。
「……久しぶりに会ったのに悪いけどちょっと時間を頂戴」
「くくっ、どうぞどうぞ。こってりと絞ってやるがいい。無自覚鈍感女たらしには正座が似合う」
「ありがと」
「気にするな。私もやりかけの仕事がある。そちらの滞在中に酒でも飲みながらとっくりと話すさ。太守か桃香殿に用事が合って来たのだろうがそのような格好をしている……ということはその用事はまだ始まらないのだろう? 用事の前に一杯くらい付き合えとその鈍感男に伝えてくれ」
綺麗にウインクを残した星は、くるりと反転、上機嫌な足取りでその場を後にする。
南蛮からの客を相手にする仕事を投げ出したとなれば、星とて愛紗に何を言われるか分かったモノではない。例え秋斗が来ているとしても夜中まで仕事に縛られる……それだけは御免だった。
振り返ることなく彼女の足音が遠くなったのを確認して、詠は一歩、また一歩と秋斗に近付く。
不安が胸に浮かんでいた。恐怖も僅かに湧いている。
――趙雲がアレを普通に感じたってことは……やっぱり……
遠目で見た限り、秋斗が絶対にしない行動をしていたと詠は判断している。
押し倒されたなら抵抗するはず……否、罪悪感に耐えかねて、“記憶を失っていた秋斗”なら自分が記憶を失っていることを絶対にばらす。
劉備軍に波紋を広げられると知っているから余計にそうする。過去の友達を傷つけることすら厭わずに……“曹操軍の徐公明”なら、確実にだ。
ふるふると首を振った。拳を握り、勇気をと唱えた。万が一戻っていたなら……今だけは詠が“黒麒麟”を相手取らならなければならない。
誤魔化し、曖昧、ぼかしは常套手段。見極めが出来たのはいつだって雛里と……秋斗の苦手な相手である華琳くらい。
ピクリとも動かない彼の前に立った。
大きく深呼吸。目を瞑り、覚悟を決める。何か言葉を話す前……秋斗に一番効く方法を知っている。
――確かめるなら、直接。“あの時”もそうしてこいつの弱さを吐き出させた。だから……
目を見てしっかりと彼の状態を確認する為に身体をこちらに向かせようとして、彼が動いた。
片方の掌で顔を覆い小さく震える。緩い息を数度、そのまま彼はのそりと身体を起こし始める。
とりあえずは怒ったほうがいいのかもしれない。そう考えた詠は尖らせた唇から言葉を流す。
「あんたねぇ……っ……」
されども途切れる言葉。息と共に飲み込んだ。
掌で覆ったままの顔からは表情が伺えない……しかし、指の隙間から見えた瞳の仄暗さに背筋が凍りついてしまった。
――な、なんて目ぇしてんのよ……。
詠にとって、絶望の底を覗き込んだ彼の瞳を見るのは初めてだ。
昏い暗い色を宿した闇色の瞳は、僅かな希望の光さえ映していない。
ダメだ、と思った。
しっかりと彼と向き合わなければ、そうしなければ……今にも彼が消えてしまいそうに感じて。
だから詠は……彼の胸倉を両の手で掴み上げた。
外された掌、闇色の瞳が見下ろしてくる。無感情で無機質、ぞっとするような虚ろな目。何にも心を動かさないような、狂気さえ宿った、そんな目。
何を切り捨てたらそうなるのか、何を失ったらそうなるのか、詠には分からない。
凡そ人のモノとは思えない漆黒の渦を見てしまえば、彼女の胸がより深く締め付けられる。
――なんでよ。どうしてあんたはそうやって……
唇が知らぬ間に震えていた。吐息が弱々しく吐き出されていた。それでも彼女は視線を逸らさなかった。
こんな目をした彼を、“黒麒麟”を連れて帰るわけにはいかない。否……“黒麒麟と道化師が混ざり合った秋斗”を連れて帰らないと、意味が無い。
「……また雛里を泣かすつもり?」
一言。
全ての音を世界から取り除いてしまったように寂しく張り詰めた幾瞬の後、彼の瞳が目に見えてブレる。
溢れ出したのはきっと悲哀。揺れているのは絶望と渇望のハザマで……そう、詠は思いたかった。
世界のために全てを賭けていた男と、たった一人の少女の為に全てを賭けている男。
詠は少女の為に戦う男を呼び戻そうと呼びかけた。
彼の救いは一つしかない。
いつでも彼を救うのは雛里。
壊れてしまったのも雛里への想いから。
人外の力に縋ってでも救おうとしたのだって雛里しかいない。
切り捨てようとして出来なかったのも、想いの全てを共有して来たのも、隣に立ち続けてきた雛里だけ。
道化師も同様に、彼女だけが救い。
戦う意味も、存在理由も、道化師の願いは彼女の笑顔のためだけに。
震える声で、泣き叫びそうになりながら、詠は彼を睨みつけた。
「また雛里を泣かすってんなら……ボクはあんたを絶対に許さないっ!」
グイ、と顔を近づけた拍子に彼の首元からナニカが零れ落ちる。
詠の顔が近づいたことで彼女の首元のナニカが揺れ動く。
小さな小さな金属音が響いた。二つの銀色が当たって鳴いた。
ふい、と視線を下げると……華の首飾りとツバサの首飾りが揺れていた。
同じように視線を下げた彼が、二つの銀色をじっと見つめ始めた。
「繋いでよ……あんただけの想いを……」
搾り出された声は弱弱しくも耳に響く。
瞳がまたブレる。彼の表情が歪んだ。心の痛みを堪えるかのように。
ゆっくりと大きな手が動いた。首飾りと共にぎゅうと胸を握りしめて緩い吐息を吐き出した。
目を瞑り、彼の呼吸が意図して止まる。引き結んだ唇から……漸く、呆れたようなため息が一つ漏れた。
「……“えーりん”」
「……えーりん言うな」
声音は優しく、暖かい。緩く笑った口元は冷たさの一つも見当たらない。
呼ばれたのは真名ではなかった。なのに安心と充足が広がった。
「なんで俺がお前さんに掴み掛かられてるのか聞いてもいいか? 苦しいんだが」
開いた瞼、瞳には昏い色が僅かに宿るだけで。信頼と親愛を届ける黒が揺れていた。
覚えていないのか、とは聞かない。瞳の奥を覗き込めば、もう何処にも絶望は居なかったから……ではない。
「……あんたの自惚れの結果よ。我慢なさい」
「……」
近すぎる距離。たじろいだ彼はやはりそういう事が苦手な道化師に戻っているように見える。
だが、詠はまだ信じない。
――混ざり合った上で嘘をついてるかどうか見抜かないと。
信じたいのに信じてはならないなんて……此れほど酷なことがあるかと悲しくなった。
睨み付ける瞳に悲哀が浮かぶ。それでも彼女は視線をはずさない。
「それで? 俺は何をやらかした?」
「……いつもよりもっとバカなこと」
覚えていないのか、と聞かず。
雛里のことで怒って戻ってきたのだろうとは思う。しかしそれにしては感情の揺れ幅が異常に少ない。
記憶を失うことも、親しい誰かが別人のようになり替わることも、同一の存在なのに二人に分離したのかもしれないことも、詠にとっては初めての経験。
覚えていなくとも、戻ってきただけで御の字だと無理やり納得させた。
「そうかい……」
見つめ合ったままで、彼の目に悲哀が浮かぶ。
しばしの沈黙。心地いいとは決して思えない居辛い空間。詠は漸く視線をずらした。
するり、と胸倉から両手を外す。
「“黒麒麟”に会ったんだな?」
抑揚の薄い、感情の読み取りにくい声が投げられる。
ピタリと言い当てられた。聡い彼が予測を立てないわけがない。俯いたままで今度は視線を合わさずに、詠は答えを返した。
「……うん」
短い返答に対して、彼は何も言わずに空を見上げていた。
詠が詳しく話さないなら自分からは聞かないと、そういうように。
――……あんたは多分、自分でも予想してるんでしょ?
詠の心がきつく締め付けられた。涙がじわりと滲み、零さないように唇を結んで蓋をする。
一連の出来事で示されてしまった事柄は、誰かにとって救いの無い方程式。
黒麒麟に戻るという証明は成った。しかしそれは余りにも、今の彼にとって残酷な証明だった。
――戻ってた時の記憶が無いんだから……戻った時に今の秋斗は消えるってことを。
引き戻されたということは詠の望んだ結果では無かったという証明でもあり、それもまた彼にとって残酷な事実。
――今の秋斗のままじゃ雛里の願いは叶わない。今の秋斗が消えても雛里の望む平穏は訪れない。こいつの願いはどっちに転んでも叶わないってこと。
記憶が無い別人の状態では雛里の恋は実らず。はたまた、自身が消えてまで黒麒麟を戻しても、その黒麒麟が雛里を不幸にする。
詠の対応から、読み取ったに違いない。そうでなければ黒麒麟のことを余さず聞こうとしたはずなのだから。
信頼してこそ、彼は何も言わずに詠に任せた。ただし裏返せば……
――どれだけ願っても、秋斗に出来る事が……何も無いってこと。
打てる手が無い。自分では何も出来ない。関与出来ない。
救いたくて仕方ないのに救えない。自らの手で願いを叶えてやりたいのに出来ない。まさしく、彼であってもお手上げなのだ。
「クク……そうかそうか」
渇いた笑い声は渇望をより深く映し出し、緩い吐息はいつもよりも軽く聞こえて、聞いている詠の方が泣きたくなった。
飄々と切り替わった彼の内心など詠には分からない。
きゅっと、袖を握った。今の彼を見るのが怖くて目を見れなくなった。
詠が抱いていたのは同情か、はたまた恋心故の同調か……きっとどちらでもあった。そのせいで、彼のことを見誤った。
「やっぱり黒麒麟は裏切りそうってわけだ。なら……やらなくちゃならねぇことが増えたな」
不敵を吐き出す。そんなモノは知ったことか、というように。
一寸、何を言っているか分からず。停止した思考が解けるまで時間が掛かった。
バッと顔を上げた先、黒い瞳が嬉しそうに見下ろしていた。
「ばーか。俺が演じてるのは黒麒麟なんだぞ? 出来ること全部やりきっても諦めてなんかやんないね。ただで消えるなんて真っ平御免だ。
それにさ、あいつは一人だけど俺にはお前さんらが付いてるし」
不敵に笑うその口が、楽しそうに語るその瞳が、信頼を伝えるその心が……昔の秋斗と同じにしか見えず。
そういえばそうだ。昔の彼も今の彼も、いつでも諦めが悪かったと思い出す。
可笑しいのか哀しいのか分からなくて、詠は困ったような笑顔を浮かべた。
「なによ……ばか。人の気も知らないで」
「ごめんな、頼りにしてる」
ニッと歯を見せて笑われてはもう何も言えない。
信頼を真っ直ぐに伝えられたらどうしようもなかった。
狂っていなかった時の彼ならきっとそんな対応をしたはずで、今の彼でも同じく。やはり秋斗であることに違いなど無いのだと、詠は堪らなくなって彼の首に手を回して抱きしめた。
「……ほんと、ばか」
怖かった。
大切なモノを失うことが、全てを彼自身の手によって壊されそうだったことが、あまりに深い絶望が、あまりに昏い狂気の渦が、あまりに悲しい……愛しい男の成れの果てが。
震える背中を撫でつけられながら、優しい声を耳にする。
「大丈夫、俺が黒麒麟を捕まえてやる。それにさ、えーりんが居れば戻れたんだ。俺だって消えてやるつもりなんかない」
自信満々にそう宣言する彼は緩く詠の頭を撫でた後に、チャリ……と胸の垂らした銀の首飾りを上げて見せて、綺麗な笑顔で笑い掛けた。
見惚れてしまうその笑みに、詠の心に浮かんだ恐怖も悲哀も、全てが晴れ渡った。
「俺にはツバサがあるんでね。綺麗な華の場所に迷わず帰って来れるだろ?」
優しく抱きしめられて詠の心は安堵に包まれる。この時機はずるいだろう、と思うも拒絶することはなかった。今だけは彼が与えてくれる安心に甘えよう、と。
不思議と、そんな彼を懐かしく思ったのは先ほどのせいだ。否、今の彼がより一層黒麒麟に近付いたということ。
このままなら、ただ“思い出す”だけで済むのではなかろうか……それが一番いい。別人同士が混ざり合うよりも、ただ単純に“思い出す”のがいい、と。
――そうよ、何回だって戻してやるわ。ボクだってあんたの側に居るんだから……忘れないでよね、秋斗。
ふっと嘆息を漏らして抱きつく腕に力を込める。
今だけは、ただ今だけはこのままで。彼の存在を此処に感じられるように。自分の存在を彼に忘れさせないように。
緩い昼下がり、狂い咲いた黒の華は幻の如く。
ただ……優しい少女を抱き締めている彼の瞳から一滴、ポタリと涙が落ちた。自覚なく、その意味も分からず、彼は気にしないことにした。
溢れた渇望の想いはまた封じられた。白に侵食されたその時を思い出す術はなく、黒の意識を読み取る術も無い。
黒麒麟が沈んだ絶望の深さを、彼は知らなかった。
†
南蛮からの客の相手も終わり、侍女に後のことは任せて星は風呂に入っていた。
口ずさむは民の歌。遥か北東の大地から流れてきたとされる想いの歌。情報収集からであれど確かに自分達二人に届いた愛しい同志達の歌。
「―――――♪
やっと出会えたというのに今度はあなたが居ないとは……天はよほど我らの関係が羨ましいようだ、なぁ白蓮殿? 彼の滞在中に間に合えばいいが」
歌が終わり、一人ごちて上機嫌に湯を掬う。ゆるゆると指の隙間から零れるのを眺めて、ほう、と熱い吐息を吐き出した。
勘違いさせるような態度を取ったくせに、切なくて痛々しい瞳で見つめてきた男を思い出す。
ただ星としては疑問に思う事はなかった。
――私を敵とは思えない、ということ。さすがに戦場に立てば平気で刃を向けるだろうが、平穏な場所では嘘が下手になる……そういう男だ、彼は。
正直に嬉しかった。敵と思っていないのなら、彼が死ぬまで戦うという事態には陥らないと思ったから。
自分を敵と見れないのなら、必ず止めることが出来ると思えたから。
「ふふ……」
身体を抱き締め、小さく笑い声を漏らした。
希望が見えた。彼女が願ってやまない希望の光が。少女の笑みで星は笑う。
自分で自分を抱き締める内、ほんの僅かに切なさが湧く。
――この肩に、この腰に、この腕に、この頬に……昼間は彼が触れていたのだ。
順々になぞって行く。触れた箇所をなぞればあの大きな手の温もりが甦る。きゅう、と胸が締め付けられた。
思い出せば思い出す程に募る想い。厄介な病に掛かったモノだと苦笑しながら、彼女は唇に指を当てた。
朱の差した頬と悩ましげに寄せられた眉が彼女の悔しさ表す。惜しいことをした。もう少し、もう少しで……と。
「荀攸も恋敵になった。きっとあの時一緒に居た少女もそうなのだろう。曹操軍は百合の園だが他にもいる、あの女たらしなら絶対に。雛里だけでも強敵だというのに……まったく……」
好かれる理由を知っているからそれ以上の悪態は付かない。自分勝手で意地っ張りで弱くて強い彼のことを知れば、きっと誰かしらは慕うだろうと分かっていた。
悪態の代わりとばかりに苦笑を零して、また彼女は上機嫌に歌を歌い始めた。
幾分、丁度いい時機で事務仕事も終わったらしく、黒髪の美女がゆらりと湯煙の中から現れた。
「ふぅ……機嫌がいいな、星?」
しとやかに、静かな所作で湯船に浸かった愛紗。疑問を向ける声は安息のため息の後に。
「ああ、いいとも。今日は風呂を出たら酒をたらふく飲むからな」
ただでさえ大酒飲みな星のたらふくとは如何なモノか……片眉を上げた愛紗がジトリと見つめた。
「……明日の仕事に支障は?」
「無い。あるはずがない。此れから数日……もしくは数十日、私の仕事に支障が出ることは無い。その代わり酒を自由に飲ませて貰うが」
またわけの分からないことを、と呟き、白磁の腕で愛紗は身体をなぞる。傷の一つ一つを確認するように。
あまり無茶な戦はしていない。傷もそれほど目立つモノは無い。小さな傷ばかりだ。大きな傷と言えば、普段は服で隠れている腹の辺り、飛将軍と戦った時に付いたモノくらい。
此れは誰かの真似。戦の度にキズをなぞっていたその意味を知っているが、愛紗と誰かは部隊の戦い方が違い過ぎた。だから此れは気慰め程度。少しでも彼の想いを知りたいが為の。
じ……とそんな愛紗の行いを見ていた星は空を見上げてため息を吐いた。
「覚悟しておけ、愛紗。気をしっかりと持たねば喰われるぞ」
「……ああ、そうだな。戦うのなら分かったつもりになるのが一番ダメだ」
「いや、いやいやいや……違うぞ」
何がだ、と言う前に星と視線が絡んだ。
真剣な眼差しが伝えるのは何か、愛紗には読み取れない。分かるのは、負の感情は無く、友として忠告を伝えるということ。
「風呂から上がってからか、明日か……桃香殿に尋ねるがいい。必ずや……“私達劉備軍”にとって大変なことが起きる」
「なんのこと、だ?」
「さてな。それを知るのは私じゃない。何が起きるかなど私にも分からない。だが必ず何か起きる、必ずな。
ではお先に、良い夢を」
疑問だらけの愛紗は首を捻った。
ザバリと勢いよく湯船から上がった星は、上機嫌な足取りで出口に向かう。
――あなたが来たのだ。甘いことばかり考えているわけにはいかないさ。安易な判断は下さないが……敵と見極めた時はこちらとて本気で行かせて貰う。
恋心よりも優先させるモノがある。いや……星にとってそれは間違い。
趙子龍という武人と星という少女、二つ共を認めさせて彼の隣に立つと心を決めている彼女が、甘い時間にばかり捕らわれているわけもない。
どちらも全力で、どちらも全開で、彼女に持てる全てを賭けて彼と向かい合う。
ただ、彼女としても今回ばかりは少し参ったらしく、着替えを済ませた後で、グビリと酒を飲み下しながら月を見上げた。
「敵だとしても……せめて酒を飲む時くらいは友として、そしてあなたを慕う一人の女として……居てもいいでしょう?」
夜天に煌く輝きの真名を持つ少女はやはり知らない。
彼女の想い人が彼女の想像もつかない状況にあることも。
彼女の想いが……彼を狂気に落とし掛けたことも。
楽しい友との時間は、今回も手に入らないことも。
そして狂い咲いた黒の華が彼女に残した……曹操軍を追い詰める為の欠片の大きさも、彼女は知らなかった。
後書き
読んで頂きありがとうございます。
狂ったままだと意味が無い感じで今回も失敗。しかし前よりも明確になってきました。
えーりんマジ天使。
劉備軍に何が起きるでしょうか。
次はそのお話。
実は、劉備軍ハードモード益州編は南蛮ではなくここからが本番。
ではまた
ページ上へ戻る