月に咲く桔梗
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第6話
六
期末試験まであと二日と迫った日曜日、森本直樹はすっかり黄ばんだ地下鉄の駅の壁に寄りかかりながら、張り込みをするマル暴刑事のような目をして、自動改札機が吐き出す人の流れを眺めていた。
話は二週間前にまでさかのぼる。
「竹取物語を原作にして作りたい」と演劇部の部長、新島智が放った言葉に、直樹はおおっと大きな声を上げた。今まで智が演出を手掛けてきた作品の多くは現代小説や漫画が原作だったし、古典文学を軸にして演目を作るというのは、中等部に入学してからすぐに入部した直樹でも、初めて踏み入れる領域であったのだ。
「これ、シナリオね」
そう言って智は、朝倉達矢と直樹にホチキスで止められた五枚ほどのコピー用紙を配った。
「『天女の羽衣』ですか」
達也が感心したように智に話す。
「たぶんこのままのタイトルで行くと思う」
「良いと思いますよ。はい」
待ちきれないとでもいうように達矢はページをめくった。
最初のページには演目の骨子がまとめられていた。原作は『竹取物語』ではあるが、どうやら現代風の演劇にするらしい。
「時系列は現代ですね」
食い入るように活字に目を通す達矢は、作品の舞台設定に意外さを感じた。
「まあ、その方が書きやすいし、いろいろと融通が利くからね」
直樹はやけに冷静な口調で答える。相手がいくら部長であっても、演出家という立場には変わりない。これでは話が膨らまないと感じた点は容赦なく指摘し、改善をさせる。これらの繰り返しで作品は育っていくのである。
ストーリーはこのようなものであった。
主人公はかすみという名前の女子高校生で、成績優秀、容姿端麗であるが、他の女子からはお高く留まっていると睨まれてしまうような、喜怒哀楽の無い人物である。同性からの芳しくない評価とは裏腹に、その容姿に惹かれる男子は多く、学年で『イケメンファイブ』ともてはやされている美男子五人衆から、毎日のように猛烈なアピールを受けていた。
この美男子五人衆や他の生徒達に素気無くふるまう一方で、彼女が唯一表情を見せる、ひかるという男子がいた。かすみは幼いころに両親を亡くしていて、祖父母の家で暮らしていたのだが、彼はかすみの自宅と目と鼻の先に住んでおり、心寂しかった彼女に優しく手を差し伸べてきた幼馴染であった。けれども、彼らは恋仲にあるわけではなく、互いに異性として意識することもなかった。
ある日、あの手この手を使って交際を求めてくる『イケメンファイブ』に対して、彼女は「学校の何処かに隠した桔梗の髪留めを探し当てたならば、付き合ってやってもいい」と言い放つ。彼らは血眼になって髪留めを探そうとするが、一向に見つからない。同じようなものを買って「これがそうだ」と偽る者も現れるが、彼女は簡単に見破ってしまう。
実を言うと、彼女はそもそも髪留めをどこにも隠してはいなかった。幼馴染のひかるに預けていたのである。美男子五人衆が意地でも探し当てようとしている髪留めが、実は彼女から預けられた物であることを知ると、ひかるは彼女の五人を囃し立てるような態度に激怒し、髪留めを返そうとかすみに迫る。「こうするしかなかった」と懇願する彼女に、彼は持ち続ける代わりに一切の接触を断る。こうしたやり取りの末にかすみは突然訪れた哀愁が彼への恋心であると気付く。
自らの想いを知ったかすみであったが、その思いを伝えることは無かった。
彼女はどうも自分はこことは別の世界の人間ではないかと、ふとした拍子に思うことがあった。祖父母や幼馴染の男子の他に話の弾む人間など、未だかつて出会ったことが無かったからかもしれないが、ある日の出来事を境にその疑問が確信へと変わる。
上弦の月の夜のことだった。その日は次の日が休みだったからか、珍しく夜更かしをしていて、東の空に腰を据えている山吹の半月をぼんやりと眺めていた。突然、月が眩いばかりに輝きだし、あたりが昼間のように明るくなったと思うと、一筋の光線が自宅の庭に向かって下りてくる。彼女は寝静まっている祖父母を起こさないように忍び足で縁側へと向かうと、普段の自分がしているような血の通わぬ冷酷な目をした、平安装束に身を包んだ女が一人、周りの空気をきらめかせながら佇んでいた。
彼女は迎えが来たのだと確信した。結局、数分間対峙した後、その女は跡形もなく消え去ってしまったのだが、それでも彼女は自分がこの世界の人間ではなく、いつか元あるべき世界に帰ることになるのだと悟った。それだけ、平安装束の女の目つきは自分と似ていた。
このようなことがあったからこそ、なおさらかすみはひかるに思いを伝えることはできなかった。断られるのが怖かったのではない。彼女は、たとえ幸せをつかんだとしても、その幸せはすぐに消えてしまうことが分かっていたのだ。
自分はきっと満月の日にこの世界と別れを告げることになるだろうと、かすみは本能的に推測していた。だから、それまでの一週間を何とかして耐えようと思った。ひかるに渡した髪留めを形見にさせようとも考えていた。そんな風にしていたら、全身からやる気が無くなってしまって、十三夜の月の日にとうとう学校をさぼってしまった。
かすみの欠席はひかるの罪悪感をますます成長させた。かすみのためにと思って言った言葉が彼女を傷つけてしまったと思い込んでいたので、自分から話しかけるのは無神経だと感じ、ひたすら耐えていたのだが、ついに我慢も限界となって彼女の自宅へと向かった。彼はかすみから彼女の宿命を聞かされるが、疑うことなく受け入れ、翌日に迫った月への帰還を阻止しようと仲間集めに奮闘する。
男子たちからのかすみの評価は依然として高かったことも幸いしてか、多くの者がひかるの意志に賛同し、運命の日の夜、かすみの自宅の庭へと集まった。
雲一つない夜空で自らの存在を主張するように輝く満月が真円となった瞬間、凄まじい爆風と閃光に男子たちは体が岩石のごとく固まってしまう。月から降りてくる光の道を、きらびやかな平安装束に身を包んだ月の使者たちが、血の通わぬ眼差しを浴びせながら練り歩いてくる。それに誘われるようにしてかすみが縁側から現れると、使者の一人が彼女に問いかける。
「さあ、かすみ殿。なぜこの地上を去ることを惜しもうか」
彼の言葉を聞き、名残惜しそうに人々を見回した後、かすみが光の道へと足を延ばしたところで劇は終わる。
「確かに竹取物語ですね」
読み終えた直樹が感心したように話す。
「ちゃんと色好み五人衆も出てますね」
達矢も目を輝かせながら智を見た。
「やっぱりキーパーソンだからね。帝も書きたかったけど、絶対権力なんて今どきありえないからな」
智は登場人物が書かれたページを人差し指で軽く叩いた。
「そしたら、だいぶベタになっちゃったけどな」
「相手が古いですから、王道になっちゃうのは当たり前ですよ」
達也が智をフォローする。
「んで、どこを変えようか」
智は自分の顎を撫でながら後輩の二人に目をやった。
「告白シーンが無いのは分かりますけど、結局、ひかるはかすみのことが好きなんですか」
直樹が待ち構えていたように問いかける。
「どう感じた?」
「そうですね。好きではあるけど、恋人として意識はしていない、って感じですね」
「なんでですか」
達也は興味津々で森本尋ねた。
「うーん。幼馴染同士がお互いを異性として意識し始める、って言う話はいくらでもあるけど、これのひかるがかすみを叱ったり助けようと思ったりするのは、どちらかというと親心の方が近いんじゃないかなあ、ってね」
「なるほど」
「好きなんだろうけど、自分は釣り合わないとも思ってるだろうしね。そんな感じです」
「面白い考察だなあ」
智はにやりとした。脚本家の意図を汲めたようで、直樹も満足そうにしながら
「あと、付け加えてほしい描写があるんですけど」
と智に話しかけた。
「うん。何でも言って」
智は嬉々として手帳とペンをポケットから取り出した。
「かすみの感情の変化をもっと描写した方がいいと思います」
「なんで?」
「原作では、最初は感情が無かったかぐや姫が、段々と豊かになっていくと思いますけど、僕はそこが竹取物語の決め手だと思うんです」
直樹の言葉に智はいまいちピンとこない顔をしていたが、達矢は直樹の言わんとするところを理解したようで、「あー」と小さく声を上げた。
「かぐや姫が地上に下ろされたのは、月の都で犯した罪を償うためって考えるのが普通なんです」
「まじで?」
「はい。中二で習いました」
智は『懲役六年』とのギャップを痛感した。
「知らなかったなあ」
「知らなかったのにここまで書けてる方が、逆にすごいですよ」
「で、続き続き」
智は早く先を知りたいとペン先で手帳をリズムよく叩いて、直樹を急かした。
直樹が言うには、かぐや姫に与えられた罰とは「感情を奪われること」であるらしい。
かぐや姫は月の都の民であるので、人間の持つ感情というものが欠如していた。だが、翁や媼と起居を共にし、色好みと呼ばれる男衆との攻防戦、帝の求婚を経ることで、喜怒哀楽のなんたるかを知る。豊かな感情を持った一人の人間として新たな人生へと歩みだそうという最中で、感情を奪われ、月へと還されてしまう、というのだ。
「えー、残酷だなあ」
さも嫌そうに、それでも興味のあるような声を智は出した。
「でも、いいなあ、そういうの」
「そうですよね。良く考えられてますよね」
「そうか。ならその部分をしっかり描写するか」
智は手帳に書き込んでいた『かすみの感情の変化』という文字の下に、二つの罫線を引っ張った。
「クラタツはなんかある?」
「いいえ。付け足すやつだけで十分だと思います」
達也は恐縮そうに答えた。
「オッケー。で、今回はクラタツが『舞台』で、森本が『芸術』ね」
さらりと智の放った言葉に、直樹が嫌そうな顔をする。
「うわあ、まじですか……」
「衣装の手間とかかからないようにしたから、これぐらいゆるしてよ」
智は困り半分笑い半分で直樹をなだめた。
「いや、別に大丈夫なんですよ。衣装とかについては」
直樹は顔の前で手を振る。
「ただ、ヒロさんの妹が手芸部に入ったんで、絶対絡まれるんですよ」
なぜそこで浩徳の名前が出るのか分からなかった智は、僅かながら頭を巡らせた後に合点がいったような顔をした。
「ああ、あいつと森本、家近いもんな」
「はい。なので、ちょっと面倒くさいんです」
智には幼馴染がいないから同じような場面にあったことは無かったが、それでも直樹の言っていることは分かったような気がした。自分の過去を知っている人物―――それも、ある程度の距離をわきまえているような人物ではなく、竹馬の友とでもいえるような親しい仲の人物―――が所属しているパーティに足を踏み入れて、その人物に過去の自分を笑いの種として使われてしまうというのは、何とも恥ずかしいだろう。智は幼馴染を彼の従妹に代えて考えてみたら、顔が赤くなってきてしまった。
「まあ、役回り的に森本だから、我慢してください」
同情の気持ちがたっぷり添えられた智の言葉に、直樹は「任せてください」と深みのある声で答えた。
場面は期末テスト二日前の午前に戻る。
「直樹。はやいじゃーん」
改札をじっと眺めていた直樹の横から、一人の女子が軽やかに声をかけた。
直樹が彼女の方を振り向くとき、整髪スプレーのラベンダーな香りが直樹の鼻筋をなでた。
「おう、都営じゃなかったんだな」
直樹が意外そうな顔をして話しかけるのは高山優佳であった。
「うん。新宿まで出て、そっからJR」
夏らしいさわやかな水色のブラウスの胸元についた、大きなリボンがホームから吹いてきた風にたなびく。
「別にお前んちから一緒に来てもよかっただろ」
直樹がうんざりそうな声を出すと、優佳は大きく嘆息し
「ロマンがないなあ。こういうのが良いんじゃん」
と、非難めいた口調で返した。
なだれ込む風に逆らって、二人は出口へと歩みだす。
「勉強しないとやばいんだよ。あんまり拘束しないでくれ」
「はあ? 演劇部の衣装作ってやってるのはどこの部活なんですかあ?」
「だーかーらー、なんで今日なのかって話だよ」
「仕方ないでしょ。部長が今日行って来いって言ったんだから」
「ほら、結局悪いのは手芸部じゃねえか」
「うるさい!」
大手柄を立てたかのように話す直樹の方を、優佳が勢いよく叩く。
「痛ってえな」
優佳のストロークがよほど応えたらしく、直樹は顔をゆがめながら患部をさすった。
直樹の苦痛の表情を見て、優佳は少しやりすぎたかと後悔した。
「あ……。ごめん、大丈夫?」
「あ? ああ。うん」
普段は叩いても謝りなどしない優佳に、直樹は拍子抜けしてしまった。
「今日はなんだか優しいんだなあ」
「いや、めっちゃ痛そうにしてたから、なんか罪悪感」
「告訴します」
観客のいない夫婦漫才を繰り広げながら、二人は七月の太陽が照りつける地上に出た。
どこにでもありそうなビルが立ち並ぶありふれた大通りを十分ほど歩いた後、優佳は「こっち」と、これまた平凡な路地を指さして直樹の先を行く。初夏の日差しを建物が遮ってくれるせいか、ひんやりとして心地よい風が二人の首筋をなでる。
直樹は涼しげな水色をまとった優佳の背中を、何気なく見ていた。
優佳とはだいぶ長い付き合いである。家も高山家の玄関から見えるぐらいの位置にあるので、小学校に通っていた六年間はほとんど毎日、登下校を共にしていた。六年生で集団登校の班長を任された時は、優佳は副班長だった。
直樹と優佳が頻繁に会わなくなったのは、直樹が月姫中学に入学した頃からだった。
思春期を迎える年齢にもなり、異性同士二人きりになることが恥ずかしかったのもあるが、二人は、会えば話すものの、それこそ以前のように互いの自宅へ遊びに行くようなことはしなくなって、いつしかそれが当たり前のようになった。
俺にとっての幼馴染は、どんな存在だろうか。
手芸用品店の看板を探してあちこちを見回している優佳を見て、直樹は『天女の羽衣』に出てきたひかるのことを思い出した。
ひかるは主人公のかすみのことを保護者としての立場で見ているに違いない、と直樹は考えていた。設定では二人は小中高と通学路を共にしているから、恋心は意外と早く芽生えるのではと予想していたからだ。思春期に互いを意識し合うことなしに日々を過ごせるかと言われたら、まず無理だろう。ひょっとしたらひかるはそう思った時期もあるかもしれないが、それでもその恋心を押し殺して接してきたのは、不幸なかすみの境遇を知っていたからだろう。自分に向けてくる笑顔は家族愛の類のものだと思っていたに違いない、と直樹は踏んでいた。
では、自分が優佳と三年間疎遠になっていなければ、俺は彼女のことを好きになっていただろうか。
ぼーっとして歩いていた直樹は、優佳が立ち止ったことに気付かず、そのままごちんとぶつかってしまった。
「ちょっと」という非難めいた言葉の後に、ふわっと甘い香りがする。
「なにぼやっとしてんの」
口をとがらせながら優佳は直樹の目を見る。
「ちょっと考え事してたわ。悪い」
直樹は頭をポリポリと掻きながら苦笑いをした。
「ここ、ここ。目当てのお店」
優佳が指さした先には、緑の下地に白抜きで『手芸用品のモリタヤ』と書かれた看板が掲げてあった。
「僕は今日みたいな日も悪くないと思ったよ」
けたたましいモーターの音をトンネル中に響かせながら走る地下鉄の車内で、吊革に両手を預けてぶらぶらしながら、直樹は生地の入った紙袋を抱えて座っている優佳に話しかけた。
「なに、その言い回し」
口に軽く手を添えて、優佳が破顔する。
「中学入ってからどっか行くなんてことなかったから」
直樹も笑みを浮かべながら、優佳の顔を見た。
「確かに、直樹と遊びに行くのは久しぶりかあ」
「最初の頃は普通に遊んでたんだけどな」
「そういうもんでしょ。部活とかもあったし」
列車がトンネルを抜けて、高架へと続く勾配を力強く駆け上がっていく。行き場を失って車内へなだれ込んでいたモーター音が外へ逃げていくと、直樹は耳が詰まったような感覚に襲われた。
やがて駅に到着し、各駅停車へと乗り換えを促す駅員のしゃがれた声がホームから聞こえてくる。
「座れば?」
蛍光灯の人工的な明るさとは違った、目を刺すような七月の日光をまぶしそうにしながら、優佳は空いた隣の席をポンポンと叩いた。
「いや、あと二駅だし、いいや」
ドアの上に設けられたディスプレイを見ながら、直樹が返事した。
優佳は「どうせなら座ればいいのに」と最初は思ったが、なんだか話しかけ辛くなりそうだと考え直して、結局それ以上勧めることは無かった。
警笛を一つ鳴らして、赤と青の帯をまとった銀色の列車が、西東京を目指して軽快に走り始めた。
* *
月姫学園の期末試験は火曜日から始まることが多い。授業は月曜日から土曜日の六日間行われるので、試験前の休日が日曜日の一日だけでは足りず、月曜日を休校にせざるを得ないからである。土曜日を休校にすればいいのではと思われがちだが、その日は午後の授業がないことから、生徒も教員もそんなことは望まないだろう。
浩徳はいつもこの日曜日に優大の家へと出向いて泊まり込みで勉強をしている。両者のカリキュラムは国語だけ共通であるから、どうやっても平均点にすら届かない優大が赤点回避のために泣きついてくるのだ。逆に、浩徳は理系科目を全て優大に解説してもらっているので、文系科目を教えるぐらい造作もないことであった。
ただ、今回はいつもと違って、優大は浩徳の家で勉強したいと言い始めた。浩徳は以前、新しいアクションゲームを買ったと優大に話したことがあり、どうせそれが目当てだろうと優大を問い詰めた。
「違うって。久しぶりにお前の家行きたいだけだからな。勘違いするなよ!」
にやつきながらわざとらしい訂正する優大に浩徳は苦笑してしまった。結局、優大の家に泊めてもらっているだけなのも厚かましく思えたので、快く引き受けることにした。
自宅に優大がやってくると聞くと、優佳の頭の中には「結月を優大に会わせよう」という考えしか浮かばなかった。だが、件のメールのこともあったので、結月にはただ「勉強合宿をしよう」とだけ伝えた。結月も高校生になって初めて友人の家に外泊するとあって、二つ返事で応じた。
結月は当日、待ち合わせに指定された駅で優佳を待っていた。「部の買い物があるから帰る途中で会おう」と聞いていたので、勉強道具と着替えが敷き詰められたバッグを両手で持ちながら、列車の到着を心待ちにしていた。
特急が到着して大勢の乗客が改札を慌ただしく通り過ぎる中、結月は優佳を見つけたが声をかけるのをためらってしまった。彼女は隣にいる男子と親しそうに話していたのだ。
「かたやまちゃん!」
結月がこちらを見ているのに気付いて、優佳は手を振って走ってきた。
「もしかして、優佳、彼氏できた?」
残された男子の方を見ながら、声を小さくさせて優佳に話しかける。
「違う。ただの幼馴染」
「本当?」
「本当」
恥ずかしそうなそぶりを見せないので、結月はなんだかつまらなくなってしまった。
その男子は自分のことを森本と名乗った。優佳とは家が近いおかげで幼少時からの知り合いらしく、月姫には中学校から入学したと言う。なにより驚いたのは、優大と同じ演劇部に所属していたのだ。
戸塚沙織から教訓を聞かされた日の夜、結月は自分が恋愛に固執し過ぎていたということに痛いほど気付かされた。そして『恋は盲目』状態にあった自分が恥ずかしく思えた。夢見た高校生活は恋愛が全てではなかったはずで、むしろ友人関係や部活動に充実した、華々しい学園生活の中に恋愛があるべきはずだった。
要するに、『自律』できていなかったのである。
だから、『自律』しようと心に決めた。このままでは他を棒に振ることになるだろうし、何より他人に迷惑をかけたくなかった。意気消沈していた自分を励まそうと幾度となく話しかけてくれたクラスメートの存在に、結月は有難さと心強さを改めて感じた。
だが、結月は恋をあきらめたわけではなかった。彼女はこのことを『戦略的撤退』と考えることで、前向きな気持ちを保つことが出来た。優大へのアプローチを極力控えると、優佳にもメールで伝えていた。
「戦略的撤退だよ。戦略的撤退」
無理をして膨れ上がってしまったバッグを膝で蹴りながら、結月は直樹と別れて二人きりで歩く優佳に語りかけた。
「ああ、あのこと?」
「うん。今考えると、何だか自分が怖くなってきた」
結月が白い歯を見せる。
「しおらしいかたやまちゃんも、またかたやまちゃんだよ」
優佳は結月の背中を軽く叩いた。温かみのある痛みだった。
「ここが我が家」
顎をくいっとさせた先には、『高山』という表札が掲げられた二階建ての家が構えていた。
「すごい、庭付きじゃん」
結月は目を丸くした。東京で庭付き一軒家なのだから、この子は相当裕福な家のお嬢さんなんじゃないかと、自分の顔を見て得意そうにしている優佳をまじまじと見つめた。
「それじゃあ、入って入って」
優佳はおもむろに玄関のドアを開けた。
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