月に咲く桔梗
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第5話
五
今年に入ってから九つ目の台風が、関東地方に腰を据えた梅雨前線を意地悪く刺激しているせいで、都内各地で荒々しい雨が降り続いていた。もちろん、月姫町も例外でなく、浩徳もここ数日は徒歩での通学を余儀なくされていた。
台風はどうやら雨雲だけではなく、じめっとしてしつこい暑さも連れてきたようである。生徒達は皆、白く輝く半そでのシャツの襟元を汗で濡らしながら授業を受けていた。そのような中で、容貌の優れた生徒の透けたシャツがたちまち異性の話題となるのは、思春期の男女が集まる場所ならではの光景だろう。
汗は人の心を乱す、とまでは言えないが、それでも男子生徒の勉強に支障が出ていたことは事実である。教員達も彼らが黒板とは別の方向に目をやっていることに気付いていたので、とうとう教室の冷房を使うことにしたのである。
ただ、人間に快適を与えすぎてはいけないことは、高二―四組の教室で瞼を重そうにしている優大の姿を見れば、誰だって容易に理解できるだろう。
「次の体育、グラウンドが使えないから体育館でバドミントンだとよ」
世界史の時間を睡魔との勝負に費やしていた優大に、クラスメートの一人が声をかけた。
「サッカーじゃなくてうれしいなあ」
優大は大きなあくびを一つして、強ばった肩をほぐしている。
「お前ってサッカーはいつも見学だよな」
「球技全般、無理」
「なんで」
クラスメートの問いに優大が嫌そうな顔をした。
「当たると痛いじゃん」
「剣道だってそうじゃねえか」
「痛みの意味が違うだろ」
そう言った優大はすくっと立ち上がり、教室の後ろにあるロッカーへと向かった。彼の言った言葉をいまひとつ理解できていないというような顔で、クラスメートも後に続く。
「めんどくさいドMだなあ」
「ちげえよ。おい、早く行かないと先生怒るぞ」
優大はクラスメートの背中を勢いよく叩いた。
「お、今の痛みはいら立ちを感じたぞ」
「うるせえ」
しっとりと湿った廊下に出た優大は小走りで更衣室へと向かう。
靴底と床がこすれる甲高い音が廊下の空気を切り開いていった。
月姫学園の学び舎は、『禁固三年』の生徒が通う東館と『懲役六年』の生徒が通う西館の二棟に分かれているのだが、学園が創立された当時は現在の西館にあたる校舎しかなく、東館は現在の教育方針へと移行した際に建設された。つまり、東館は比較的新しい建造物であるので、西館よりも冷暖房設備や防湿対策がしっかりとしているのだ。だから、優大や望海がサウナハウスでもだえ苦しんでいる一方で、浩徳や舞侑は冷房がなくても快適に授業を受けることが出来ていた。
けれども、同じ東館の教室なのに、結月の心は西館と同じくらい湿りに湿っていた。
優佳と浩徳が兄妹であったことは、優大に近づく情報としては十分すぎる物であった。結月は、優佳に演劇部の練習日を聞いて早く優大を捕えようと、鼻息を荒くした。
ここがなんとも結月らしい、と言ってはかわいそうだが、これが彼女の運命なのだろう。演劇部と女子剣道部の活動日が重なっていた上に、演劇部は女剣の稽古が終わるよりも前に、活動を終了してしまうらしいのだ。だから、結月が部活後のシャワーも浴びずに、剣道場から講堂へと向かう通路を駆け走っても、舞台の上はいつもがらんとしていた。
こうまでも運の悪さが続くと人は誰でも目に見えて落ち込んでしまうものだ。現に結月は日に日に顔から明るさを失っていった。彼女は優大に会えない理由を、彼が自分や剣道を嫌っているからではないか、とさえ思う時もあった。もちろん、そうではないのは結月自身よく分かっていたのだが、それでもそう思ってしまうのは、心からその人を尊敬し、誰よりも慕っていたからであったのだ。
そして、とどめを刺したは優佳の言葉だった。
「マツさん、彼女いらないってさ―――」
結月は愕然とした。
高校生ならば誰だって彼女や彼氏を作りたいと思っているのは、自分に告白してくる男子を見ていれば分かった。「付き合ってるうちに好きになるよ」などと言って、いつまでもしつこく迫ってくる男子もいたぐらいだ。
この公理から言えば、優大は健全な高校生男児ではなかった。捉え方によっては、世間では一般的とされる恋仲とは違った、ある特定の行為に限られた関係を求める人物になってしまったり、別の気がある人物にまでなってしまう。もしそうだったらと考えると、さすがの優大狂いの結月も真っ青になった。
「もちろん、そっちの方向じゃないよ」と、結月の顔色を見て優佳は慌ててフォローをする。どうやら彼は本当に彼女が必要でないらしく、告白もしなければ女子から言い寄られても良い返事をしないらしい。他校に彼女がいるという噂も無いし、思い人がいるという情報も無いと言う。結月には優大の恋愛に対する姿勢が皆目見当もつかなかった。一つだけ分かることは、自分はどうやら「土俵入りする前から既に黒星をつけられていた」らしい、ということだけだった。
一連の出来事を背景として結月の馬鹿に明るいオーラが失われていくさまを見て、クラスの皆が心配を通り越して不安を感じていた。誰かと会話をしている時は普段の明るさを取り戻すのだが、窓際の席で一人頬杖をつきながら、雨の降る外をぽけーっと見ている姿は、小柄な彼女をより一層小さく見せた。クラスの女子は結月を元気づけようとスイーツの食べ放題に連れて行ったり、昼食を皆でわいわいと食べたりしていた。女子の心など分からぬ鈍感な男子たちも、この時ばかりは結月の前で面白おかしい小話をして励まそうとした。だから、ここ数日の教室は担任も不思議に思うくらい賑わっていた。
せめて部活中では先輩たちに迷惑をかけないようにしようと、結月は精一杯気丈に振舞っていたのだが、ふとした瞬間に気が緩んでしまうせいで、部員からは軽いスランプに陥っているように見えてしまっていた。
もちろん、部員の悩みを解決するのも、また部長の仕事である。ある日、沙織は結月を稽古の後に呼び出した。
「座って話そうか」
沙織はきれいに整理された部室の真ん中に長椅子を移動させる。結月はすぐに手伝おうとしたが、沙織は遠慮した。
沙織が長椅子に腰かけた後、結月は一礼して、いくらか間を空けて座った。沈黙が続く中で沙織は、結月が緊張しているからではなく、落ち込んでいるから黙っているのだと考えていた。そして、実際のところ、その通りであった。
「最近、どうしたの」
責め立てる意思はない、と分かってもらえるように、沙織は結月に優しく問いかけた。
「すみません」
「謝らなくていいよ。何かあったら話してみ」
うつむきがちになっている結月の顔を沙織が覗き込む。結月は苦笑いをした。
「剣道のことで悩んでたり?」
「いいえ、違います」
結月は胸の前で両手を小刻みに振る。
「私的なことなので、自分で何とかします」
「自分で何とかできないから、悩んでいるんでしょ?」
沙織の言葉が遠慮なしに心に突き刺さり、結月は返答できなかった。
沙織は結月が何に悩んでいるのかは分からなかったが、それでも何かの足しになるだろうと、彼女に一つの教訓を授けることにした。
「いい、良く聞いてね」
沙織が人差し指を細かく振りながら自分の顔の前に出す。結月はそれをちらりと見た後、沙織の目を見た。
「中学生って言うのは、はっきり言って小学生に毛が生えただけなんだよ。かっこつけて大人びた行動をしようと思っても、所詮は子どもだから、自分のことしか考えていない。こういうのをガキって言うわけ」
沙織は途中から口調を変える。
「でもね、高校生は中学生の延長線上であるべきじゃない。大学生として自分のやりたい学問をして、社会人になったら自分の仕事に責任を持って働く。そういうような人間になるための、助走期間であるべきなんだよ」
「助走期間ですか」
結月はぽつりと言葉を口にする。
「そう。これは仲良い奴の受け入りなんだけどさ。良く大人って、自立しろー、自立が大事だーって言うじゃん? でもね、うちらに必要な『じりつ』は違うんだってさー」
沙織が大きく伸びをする。
「必要なことって、なんですか」
結月ははっきりとした口調で、沙織に問いかけた。沙織はなぜか得意そうな顔をしてから、こう答えた。
「そいつが言うには、必要なのは、自分を律する方の『自律』なんだってさ。自分のやりたいことがたくさんあっても、何かを犠牲にしなければならないこともある。自分がうまくいかないなーって思ったことを潔く切らなくちゃいけないときもある。新たな挑戦をしてみようと決断しなくちゃいけないときもある。何でもやりたいから何でも出来る訳じゃない。それを理解して、自分をコントロールできるようにならなくちゃいけないのが、うちら高校生ができなくちゃいけないことなわけ」
彼女の言葉の一語一語を、結月は心の中で咀嚼した。
中学生の頃はやりたいことを何でもできた。だが、高校生、ひいては社会では勝手が違う。自分が大切だと思うことを続けたいのであれば、別の何かをあきらめなくてはいけない。社会に出れば至極当たり前のことであるが、まだ十六歳の誕生日も迎えていない結月にとっては何よりも重い話であった。
「今の片山に何が必要か―――」
沙織が沈黙を破り、自分の荷物を手に持って立ち上がる。結月もそれに続く。
「いろんなことを一度、清算してみたらいいんじゃない? さ、椅子、片付けようか」
沙織がそう言うと、二人は長椅子の端を持った。木製の座面の温かみを掌に感じる一方で、金属製の脚は結月の指から熱を奪う。床に降ろすと錆びた留具がぎしぎしと悲鳴を上げた。
「今日は、ありがとうございました」
部室の鍵を閉める沙織に向かって、結月はお辞儀をした。
「無理しないでね」
そう言った沙織の普段は拝めないような笑顔に、結月もようやく白い歯を見せた。
学校の門をくぐって自室のベッドに倒れ込むまで、結月は時間の経過を感じなかった。時が止まったわけではなく、時の流れの中に自分がいないように感じていた。
お気に入りのふかふかの枕にしばらく顔を沈めていたが、やがて息苦しくなって顔を枕からそらした。結月は顔をそらした理由が、息苦しいせいではなく心が苦しいせいではないか、と思った。そう思ったのは、そっと撫でた枕が湿っていたからだった。
夕食後、いつもより長く湯船に浸かった結月は、自室に戻るとベッドに勢いよく腰掛け、携帯で優佳あてのメールを打ち始めた。まだ乾ききっていないショートヘアーからは、高校生になったのだからと母親に頼んで変えてもらった、少し高めのシャンプーの甘い香りがしていた。画面をなぞる指は湿っていて、まるで携帯が拒んでいるかのように、思いどおりに文字を入力できなかった。メールを打ち終わると、結月は大きく伸びをしてから深呼吸をして、机の上に置いてある写真立てを手に取った。受験勉強中に何度も救われた大切なその写真を、結月は鍵付の引出しにしまおうとしたが、結局そうすることは無かった。
翌日、教室に現れた結月は以前の明るさを取り戻していた。いや、明るさが倍増したと言った方が正しいだろう。クラスメートは結月の無邪気な笑顔に安堵の表情を浮かべ、何かの穴埋めをするかのように会話を競い合った。そんな彼らを笑顔で受け答えをする彼女の顔は、いつにもなく大人びていた。
* *
優大が足を踏み入れた体育館では、壮絶なバトルが繰り広げられていた。
月姫学園の体育館は創立時からあるA館と、東館と共に建設されたB館の二つに分かれている。学園の運動部の多くが男女で区別されているのと同じように、A館は男子の部活、B館は女子の部活と、使用する体育館も区別されていた。
B館はバスケットボールのコートを二面、バドミントンのコートを六面作ってもおつりが出るくらいの大きさなので、普段から二つのクラスが合同で使用していた。ただ、『懲役六年』のクラスと『禁固三年』のクラスが一緒になることは無かったのだが、今日は長雨のせいでグラウンドが使えないという特殊な理由であったため、高二―四組と高二―B組が体育館を使用していた。
部活をやっていればこそ交流はあるものの、『禁固三年』の生徒たちの三分の一は帰宅部であることから、両者に交流はほとんどなかった。ゆえに、全員が入り乱れてバドミントンをすることは無く、クラスごとに固まって授業を受けていた。
そのような状態をあまり良く思っていなかった『体育科の玉鋼』こと矢代は、両クラスのバドミントン部に目を付けた。
一人は、高二―四組の男子バドミントン部員にして副部長、杉山善人である。彼はシングルス個人戦でベスト四入りを果たしていて、団体戦ではシングルスの主力として大いに活躍している。強烈で力任せの攻撃と言うよりも、シャープで計算された攻撃を売りにしていた。
一方で高二―B組からは、女子バドミントン部主将兼部長、加賀野舞侑が選ばれた。彼女も団体戦でシングルスの要として重宝されていて、個人戦では善人と同じくベスト四に入っていた。
高校生のバドミントン人口は女子の方が圧倒的に多く、同じベスト四でも舞侑の方が重みのある順位だった。だが、筋力で言えば男子の善人の方が断然有利であり、熱い戦いが好きな矢代にとっては何ともおいしい二人だったのだ。
試合は二ゲーム先取制で行われることになったのだが、試合は第三ゲームまでもつれ込んでいた。最初は羽根つきをしていた者たちも、次第に白熱した試合に目を奪われていき、動きを止めて二人のラリーに一喜一憂するようになっていった。これでは全くバドミントンの授業になっていないのだが、矢代も釘付けになっていたから生徒達も安心して試合を観戦することが出来た。
第一ゲームでは十点もの差をつけて舞侑が勝利した。この得点差にB組の生徒は誇らしさを混ぜた歓喜の声を上げ、四組の生徒は悔しさをかみしめながらも善人に激励の言葉を送っていた。
もちろん、善人は舞侑が女子だからと見くびっていたわけではない。むしろ、第一ゲームは彼女に譲ることを決めていたのだ。これは舞侑に花を持たせるだけでなく、効率良く攻め、最低限の労力で勝利を得たいがために第一ゲームは犠牲にして相手の弱点を見抜こうという、未知の相手にしばしば使う手であった。
舞侑の方も善人の戦法をすぐに見抜いた。彼のような戦い方の場合、なるべく多くのデータを収集する必要があるため、コートのあちらこちらにシャトルを出して相手を揺さぶろうとするのだが、実際そうであったのだ。舞侑は普段は控えている攻撃的なショットをお見舞いして、ラリーの時間を短くしようとした。シャトルが宙を舞う時間が短ければ短いほど、データは収集できなくなるのである。こうして生まれたのが十点の差であるのだ。
だが、一つのゲームと引き換えに善人の勝ち取ったおよそ百三十回のラリーは、十分すぎるほど舞侑の情報を含んでいた。それまで決定打と言えるようなショットを打ってこなかった善人に、四組の生徒は少なからず不安と焦りを抱いていたのだが、本領発揮ともいえる彼の豹変ぶりに応援の声をより一層大にした。B組の生徒も余裕綽々に見えた舞侑が押されているのを見て、立場がすっかり逆転してしまったと悔しがることになった。
このように熱い状況の変化を経て始まった第三ゲームだからこそ、試合を見ようとコートの周りには黒山の人だかりができていた。その一方で、はす向かいのコートでは二人の男子がのんきに羽根つきをしていた。
「おお、四組が持ち直したみたいだな」
シャトルを打ち返そうと口を開けながら天井を見上げて、相手に話しかけているのは優大であった。
「そうらしいな」
優大の情けない返球を智はぽこんとラケットで叩く。シャトルはネットに引っ掛かり、優大の手元に戻ることは無かった。
「B組の応援、しなくていいの」
「あんなにいるのに、今更いいだろ」
智は落ちたシャトルを拾うと、優大に小さく振って見せた。
「まだやるか」
「いや、もう飽きた」
ラケットを手でくるくると回しながら優大は答える。二人はコートを出て体育館の床に胡坐をかいた。
「お前こそ、見に行けばいいじゃん」
智は言葉と共にシャトルを優大へと投げた。
「うーん、俺が行くとどっちを応援していいかわからんからなあ」
「へえ、加賀野知ってんだ」
「ああ。十二年くらいかな」
優大の思いがけない返答に智は吹き出してしまった。
「まじで?」
「まじ、まじ。俺がここ引っ越してきたのが五歳だから、そんなもんだな」
優大は照れくさそうに笑う。
「へえ。じゃあ、加賀野と高山とお前は、三人そろって幼馴染なのか」
周りに幼馴染と言えるような人物がいなかった智は、世の中にはこうした関係もきちんと存在するのだな、と感心してしまった。
「家近いしね。だけど、ヒロの方がもっと幼馴染だぞ」
「へえ」
「あいつら中学も一緒だからなあ」
「高山の彼女ってわけじゃないんだろ」
智の質問の後、優大は天井を見上げて「うーん」と唸ってから
「もったいないよなあ」
とぼそっと答えた。だが、試合をしているコートから沸き起こった歓声のせいで、智にはよく聞こえなかった。
智は優大が何を言ったのか聞こうとしたが、それよりも前に優大が智に「でさあ」と話しかけてきた。
「納涼祭りで演劇やるんだろ」
「ああ。高山から聞いたか」
智がなぜこの回答をしたかというと、演劇部では台本がまだ仕上がっていない間は、部員に新しい演目の詳細をアナウンスすることは原則的に控えており、「もし聞かれたら場所と日時だけは答える」までにとどめているからである。これは演者が役作りをしようと思って、原作を読むなどして登場人物やストーリーの深読みをして、封を切った時の新鮮さが失われてしまうことを防ぐためだ。
「風変りだよなあ」
「やうがりだな」
「すまない。古典はNGで」
両手の掌を見せて、優大は遠慮のポーズをとった。
「本当に嫌いだな、古文とか」
呆れたように智は返す。
「ストーリーだけを読む分にはいいんだよ。竹取物語とか、面白いし」
優大の言葉に智ははっとしてしまったが、得意のポーカーフェイスで優大に気付かれることは無かった。
「まあ、テストに出なけりゃ、それでいいのさ」
優大はすくっと立ち上がり、シャトルを遠くへと投げると、ゆがんだ放物線を描いて落下した。試合をする二人の靴が床にこすれる心地よい音だけが、体育館中に響いている。
直後、四組の生徒たちが歓声を上げ、矢代が力強くホイッスルを吹いた。
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