機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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92話
「申し訳ありません」
デスクに座る老人に対し、『エウテュプロン』は腰が直角になるほどに深々と頭を下げた。
頭を下げる『エウテュプロン』の声は、どのように表現していいのかわからないほどに混然としていた。
後悔。憎悪。追悼。悲哀。何を感じていいのか、『エウテュプロン』本人とても理解できていないのである。噛みしめた下唇は既に裂け、顎を伝った血液がカーペットに滴っていた。
結局、作戦は失敗したとも成功したともいえない形で終わった。彼らの目的である擬似的なニュータイプである被検体を捕獲することは出来なかった。
長年ちゃくちゃくと準備を進め、来るべき時に備えて連邦軍の士官学校で秘密裏に育成していた若き将兵たちの命も喪われ、若者を導くはずのベテランたちも多くを失った。その見返りが、放置されていた《ゼータプラス》1機というのはどう考えればいいのか。
「頭をあげろ」
白髪の男が鈍く響く声を上げる。顔を上げれば、巨大なオフィスチェアに深々と座り込んだ老人は手を組みながら、ガラス張りの壁から外を眺めていた。
「元々連邦とネオ・ジオンのいがみ合いを煽るのが我々の目的だ。余計な欲を出したツケと思う他あるまい。幸い、事態はビスト財団の側で隠匿する動きになっているからな」
外を見たまま呟く老人の声は、どこか譫言のようだった。
余計な欲を出したツケ―――あまりにも色無く響いた声が耳を貫く。
腸が煮えくり返る思いで老人に視線をぶつけたが、外を眺める男の横顔を見て、『エウテュプロン』はすぐに己を恥じた。
憂いを含んだ鈍い色の瞳は、外を見ているようで別なものを眺めている。
社会を変えようと思う人間の志の高さは、凡俗には理解できない。凡人は常にくだらない常識で思考し、己の快の充足にしか興味が無い。高潔な人間の発する言葉を表面でしかとらえられない己の愚劣さ。
『エウテュプロン』は俯いた。
「見方を変えれば、連邦の手引きのお蔭とはいえ《ゼータプラス》を確保することは出来た。破棄されたサイコ・インテグラルシステムのサルベージと解析に時間はかかるだろうが、ビゲンゾンならなんとかする。あの男は優秀だからな」
「『アリストテレス』―――いえ、ビゲンゾンには余計な負担を」
「あいつは喜んでやるよ。そういう、男だ」
重たい表情のままそう言いながら、老人が重たい腰を上げた。
「そこの棚にあるグラスを取ってくれ。いつものじゃないぞ、右端のだ」
白髪の男はその老体に関わらず、健康そうな足取りで巨大な部屋の片隅にあったソファの方へと向かう。
『エウテュプロン』は自分の背後にある―――といっても5mほどは後ろだが―――棚からワイングラスを2つ取り出すと、その隣りにおいてあったワインセラーを開け、ボトルを何本か取り出す。特にラベルは見ずに上の方に横になっていたのを何本か。
老人が座るソファに対面する形で『エウテュプロン』も腰を下ろすと、老人がボトルの一本に手を伸ばし、グラスに注いでいく。
死んでいった者たちへの弔い。
いや、そんなものではあるまい。むろん、逝ってしまった者たちを思うためのものではあるが、これはもっと恐ろしい行為を行っているのだ。
きっと高級ワインなのだろう。一本でそれこそ高級車が買えるほどの値段はするそれを、酷く無造作にワイングラスに並々注いでいく。
その姿に気品は無い。唯、土くれの大地に力みながら踏ん張る農夫のようですらあった。
「カロッゾの研究が捗ることを願って」
老人がグラスを掲げる。顔は微かに笑みを見せていたが、その暗い瞳は―――。
同じくグラスに並々注いだ『エウテュプロン』も、グラスを掲げた。
「―――新貴族主義の栄光を願って」
老人―――マイッツァー・ロナが巌のような貌に皺を刻む。『エウテュプロン』は小さく頷き、マイッツァーが掲げたグラスに自分のグラスを微かに触れさせた。
弱弱しいうめき声のようなグラスの慄きが耳朶を打つ。ふれあうというよりぶつかり合ったような音だった。唇を噛み切っていたせいか、ワインを飲んでもざらついた舌に張り付くような味しかしなかった。
外を眺める。蒼穹が広がるコロニーの空は、間抜けなほどにのっぺりしていた。
ぽつりと呟く。
誰も聞くことのない名前、誰も思い出すことのない名前。
呟きは誰に受け取られることも無く、ただ何かに呑まれて消えていった。
※
「――――そうですか」
何の感慨も無く、マリーダ・クルスは呟いた。
周囲に広がる溟い常闇。まるで、自分が身一つで宇宙に投げ出された様な景色の中、マリーダはほんの微かにだけ、アームレイカーを握る手の力を強くした。
そんなマリーダの思惟に狼狽えたのか、まだ真新しい愛機が微かに挙動不審に陥る。慌ててAMBAC機動とバーニアで機体を制御し、何事も無いように愛機を宇宙の中で滑らせていく。
まだ塗料をすることすら出来ず、白と黒のままの色合い―――というか下地の色そのままの機体だが、それでもマリーダはこの機体が気に入っている。その愚鈍そうな外見にそぐわぬ運動性、火力、装甲。機体のバランスも申し分ない。単純に高い出力の主機と装甲の厚さがあれば強い機体が作れる、などという凡愚な思想はこの機体に一部ほどもなく、その洗練には悠久の歴史とその中で行為する人間たちの流動し弛むことない技術の裏打ちが朧に立ち現われている。《クシャトリア》のその猛々しくも雄々しく力強い外観は、さながら力士といった風采だ―――。
(―――先ほど聞いたばかりですから確証はありませんが、ネルソン中尉はKIAと……)
全天周囲モニターに映る投影ウィンドウの向こうでは、まだ若手のパイロットが苦い顔をしていた。隣でマリーダの乗る機体をチェイスしている青い《リゲルグ》のパイロットだ。
―――サイド8への武力行使。ネオ・ジオンは2個大隊規模の部隊を出し、2割の損害に留めたのだから悪い数字ではない……。
マリーダ・クルスは、能面のように無表情を保ちながら、愛機を泳がせる。
そうだ。喪失した戦力は、そのような「戦闘単位」に過ぎない。それは数値上でのみ勘案され、感情の入り込む余地などあるはずもない。マリーダもまたそのような戦闘単位のデータとして見なされる身体なのであり、であるからして他の人間の死に対しても感ずるところは無い。
――――――はず、なのに。
マリーダはやはり顔色を変えず、スティックを握る力を抜いた。そうして、今はロールアウト前の試作機の調整を行っているという事実を再認識し、顔を上げた。
真っ暗な深淵の闇の先、他の恒星に比べて光量の大きな星光が正面で瞬く。
―――あの星は哭いている。
何故か、そんな詞が頭に浮かんで、健やかな栗色の髪の小さな女の子は、訳も無く慄いた。
※
「―――あれ、■■■[検閲済み]?」
エレア・フランドールは、薄暗がりの中で目を覚ました。
自分の私室ではない。いや、半ば私室みたいなものだ。だって自分は■■■[検閲済み]のもので、そうなんだから■■■[検閲済み]の部屋は自分の部屋なんだ。
ふわぁ、と欠伸を一つ。万歳しながら身体を伸ばすと、弛緩した涙腺が液体を流し、うーんと糸が張り詰めるような声を上げた。
上半身だけ起こして、エレアは部屋を見回した。
昨日確かに一緒に寝たのに■■■[検閲済み]の姿は無い。ベッドは昨日、彼に愛してもらった後にしてはなんだか綺麗で、そして何の温かさも無くて。
エレアはデスクに視線を移した。
暗闇の中、ぽっかりと丸く縁どられたように明かりが燈っていた。
「■■■[検閲済み]?」
なんだ、と応える声は無い。
いつもならそこに、机にかじりつくようにして本を読む姿が在る筈なのに。
あるのはただ、綺麗に整理された机と椅子。人がいた様子は無く、机の上は彼が居たにしては酷く小ざっぱりしていた。
「?? どこにいるの?」
ベッドから出て、エレアはふと己の格好に気づいた。
競泳用の水着とニーソックス。ぽかんと眺めてから、エレアは真っ白な肌をほおずきみたいに真っ赤に染めた。
別に自分の趣味なわけじゃない。だって■■■[検閲済み]はそういうのが好きと言ってたから仕方なくなのだ、不可抗力なのだ。
でも、それでいいんだ、と思う。■■■[検閲済み]がそうなってしまったのは、自分のせいなのだ。だから、自分がずっと一緒に居るんだーって、そして、多分、それが自分のしなければならないことなんだと思う。
そうだと納得しつつ、エレアはベッドの下に置いてあるSDU一式に身を包もうとして、それが眼に入った。
■■■[検閲済み]の服、だった。綺麗に畳まれた服はぴっちり折り目もついている。
不思議そうにそれを眺める。これがここにあるということは、■■■[検閲済み]は何を着ていったのだろう。まさか裸で? いやいや。
取りあえず軍装を羽織り、エレアは部屋の外に出た。
「■■■[検閲済み]ー? どこー? かくれんぼ?」
ぺたぺたと廊下を歩く。
食堂に出てみたが、誰もいなかった。
シミュレータールームに行ってみたが、誰もいなかった。
格納庫に行っても、誰もいなかった。
どこにいるんだろう。早く逢いたいのに、ふれあいたいのに。
基地中を回ってそれでもいなくて、エレアは取りあえず基地の外に出た。
ビル群が立ち並ぶ中の公園に入る。やっぱり誰もいない公園には、鳩のささやき声すらなく、風すらなく、ただ何の変化もない延長が横たわっていた。
公園の真ん中の小さい池に出た。
水面はぴくりとも動かずに、まるで鏡みたいに透き通ってなんだか綺麗。
水辺を覗き込めば、銀髪に白い肌をして、赤い目をした自分の姿があった。
それにしても誰もいない。どうしてこんなに誰も居ないのだろう? いや、他の人なんてどうでもいい。それより、それより……。
「ねぇ、どこにいるの? クレ―――」
ぶちん!
※
全身の倦怠感と鈍く重たい頭痛で目を覚ました。
重油にでも漬けられたように頭が働かない。そして頭頂部を起点にして全身に回った重たい汁が倦怠を引き起こし、指一本動かそうとしてもぴくりとも動かなかった。
視線の先には白い天井は張り付いている。比喩でも何でもなく、確かにそれは白い天井だ。
白い。何だろう、ここは。何回か来たことがあるような、無いような。
いや、そもそも自分は何でここにいるのだろう。何か試験があったような記憶は無いのだけれど。
さっきの光景はなんだろう―――夢、だろうか。なんだか変な夢だなぁと思った。
うめき声が漏れる。
微かな音が周囲でなっている。何かが唸っているような音。
視界が次第にはっきりしてくる。それでも何か目に入るものが何なのかはわかるのだが奇妙に断裂していて、酷く寂しげだ。
動きたい、と思っても身体が動かない。酷く頭が重たくて、動くたびに脳幹の部分が握りつぶされるように痛い―――。
「―――先生! フランドール中尉が目を覚まされました!」
遠くで声がする。そちらに目をやろうとした時には、白衣を着た男がどこかへ駆けていくところだった。
男の声が頭の中で何度も反響する。
フランドール。エレア・フランドール。そうだ、それが、私の、名前。
ずきりと何か鋭いものが左脳と右脳の間の隙間に突き刺さるような痛みが奔る。
何か思い出しそうだ。ずっと記憶の奥底に沈殿した物が湧き出しかけているのに、その度につっかえ棒みたいなのが頭の奥底へとぐいぐい押し込んでいく。
「エレア!」
誰かの声が爆発して、鼓膜が破裂しそうになる。
そんなに大きな声を出さないでほしい。もうちょっとで、思い出しそう、なんだから―――。
むっとしながら声の方に顔を向ければ、黒髪に金のメッシュが入った長髪の女性の顔があった。
誰だろう。知っているけれど、わからない奇妙な継ぎ接ぎ感。
「エレア」
女性の顔が歪む。涙が目端から溢れて頬を伝い、滴った液体がベッドのシーツを濡らした。
「フェニクス―――?」
声が出た。
そうだ、フェニクス―――この女性の名前は、フェニクス・カルナップ。
「良かった……お前が無事で本当に……」
身体の奥底から声を滲ませ、眉間に皺を寄せながらそれでもほっとしたように肩を落としたフェニクスが、右手でエレアの左手に触れる。柔らかくて、でも固い彼女の手の皮膚の感覚にはどこか安堵を覚え、眉に入れた力を抜いた。
いつもエレアという少女にふれていた手。■■■と、違う、感触、だけれど―――。
また何かで突き刺されるような痛みが奔る。思わず顔を歪めて、倦怠に浸されていた身体が弓なりになった。
「どうした!? まだどこか―――」
左手を包むように両手で握りしめたフェニクスが身を乗り出す。酷く慌てたような顔立ちがなんだか珍しくて、酷く身体が痛いのにエレアは微笑を洩らした。
「なんでも、ないよ。ちょっと頭が痛くて」
刺された脳みそが血を流しているようだ。澱のような血が頭蓋の底に溜まっていく。
フェニクスの不安そうな顔はちっとも変わらない。しょうがないから自分が宥めようと思って、手を包むフェニクスの右手に重ねようと彼女の手から自分の手を引き抜いて―――。
あ。
何かが、自分の手の中で光っていた。
あ。
病室の電灯を照り返し、ピンクゴールドに煌めく何か。
あ。
眼球の中で閃光が溢れる。その横溢する光の果て、輪郭を喪失した誰かの後姿が微かに滲んだ。
その背が振り返る。気恥ずかしそうな男の顔、生真面目そうな男の顔。子どもみたいに涙を流していた男の顔、無邪気に甘えてくる男の、顔。その全ての感情の教会が喪失した誰かの顔、輪郭が揺らいでいてもそれでも確かに彼女だけが捉えられる存在、存在。
あ。
血がどんどん溢れてくる。抑えきれなくなって氾濫した流血が頭蓋を突き破り、身体中を水浸しにしていく。
あ――――。
全身が軋む。歯が鳴る。髪を掻き毟る手は痙攣し、内蔵がぐにゃぐにゃと蠢動する。
エレア・フランドールは己の肺を轢き潰して絶叫した。まるで巨大な芋虫が身悶えるようにベッドの上で身体を軋ませ、瞳孔の開いた真紅の瞳が裂けるように見開かれる。
掌に残る斬撃の味が惹起し、胃から何かがせり上がって、そのままベッドの上に吐き出した。
何―――ただ、ただ、剣が―――を―――擦れあうよう―――し―――な慟哭を迸―――た―――らた。?
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