機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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91話
命の存在を許さぬ宇宙、という空間について。
ただ黒いだけの安らい、対して光の階層の上でしか物を見られないヒト/人間/人類にとってそこは、見る/見られるという人間スペクトラムがそうであるための十分条件の要件を満たさないスペースである。そもそも大地の上に立ち、そのような様態を基本として生きてきた連続-存在にとって、宇宙は全くもって不気味な他者なのである。人間の条件として、必ず人間の暗面、どろどろしたそれの蠢動、言い換えるならば、自然的な生命の絆、つまりは我々人間は世界-大地にいつの間にか投げ込まれ、その間隙の傷口の中で身体を引き裂かれ、我々の意思なるものから我々へと超越して、我々人間はいつの間にかこの大地の上に世界の中に存在しているというというそのどうしようもない所与性も、要請される。それを欠いてしまったのなら、人間スペクトラムは言及し難いスペクトラムの躍動、その軌道の比類なさを停止し、等質的で取るに足らないぽつねんとしたアトムになるのである。つまるところ、地球という井の中に住まう生命は、全き他者である大海へと漕ぎ出せば、人間であることを間違いなく完了し、須らく終息する。
そんな素っ気ない、不定な混沌の大地の中。
なおさら真黒のが在る。
生命を拒絶する絶対無の中に在ってなお、その人形は悠然と四肢を投げ出し、赤子のように無垢な視線を闇に投げていた。
奇妙な外観だった。人間の頭部にあたる部位には、突き出たような一角が屹立していた。いや、一角という表現は正しいが間違っている。より正確にその様子を記述するならば、角から襞が生えているようなそれは、鶏の冠を印象付けるだろう。
であるにも関わらず、その人形は翼を持っていた。星辰の世界でも、否、星辰の世界であるからこそ力強く羽撃く対の翼。漆黒の体躯も相まって、それは悪鬼の類にも見える。そしてそれは、確かに死の象徴であり、聖-存在に他ならない。
黒いそれが微かに身体を動かす。
黄金の秋が滲んでいる!
緋色の遥か向こう。
虹色の燃えるような羊水が氾濫していた。
産声が聞こえる!
世界が生み出されていく産声が聞こえる。歓びの慟哭が大地から迸り、宙吊りにぶら下がった世―界の古傷が柘榴のように裂ける。真っ白なペルソナが粒となって大地に滴り、にょきりとペルソナが聳え立つ。
冷たい空間の中に生命が横溢する。倦まれたばかりの胎児が、古代生物みたいな姿の胎児がぎょろりと身体の5割以上もある巨大な赤い石の瞳を剥いて、眺望する。
瞳が、全ての生命を裂け目から覗き込むようにして一足飛びに全てを捉える無規定の瞳が、焦点を合わせる。
黒いそれは、逸る気持ちで大地の詩を、すなわち赤子の、常人の鼓膜を破るような美しい詩を、すなわち大いなる時刻に、幽然と轟く沈黙の詩を……に耳を傾けた。
もっとその詩を聴けたら、どんなに嬉しいんだろうか!
だが裁判官はもう―――の依頼で目を覚ましてしまった。
法廷では詩作ではなしに思索が大きな顔をする。
―――確信する。
再びこの詩をうたう大いなる時間が訪うてくる。
だから、今は―――。
未だ幼い幻獣、黒いミルクを飲む時。
その、
時、
だ。
※
プルート・シュティルナーは、眼前に広がる光景に放心していた。
マクスウェルに指定された座標に到着して数十分。何の音も無く、ただ己だけが存在しているような孤独の中、プルートはディスプレイに映るデータは既に頭の中に入っていた。
事が終わった後は、ニューエドワーズの第666特務戦技教導試験隊のフェニクス・カルナップの元に向かえ―――と、だけ。マクスウェルとエイリィが後から着くとかなんとかという情報は欠片も無く、そして、この周囲の沈黙をしてプルート・シュティルナーは無残にも実情を把握していた。
だからだろう。真黒の世界に広がる、その極彩色の帯にわけも無く見惚れていた。
ヘルメットのバイザーを上げる。息を吸い込めば、少し薄くなり始めた酸素が肺に吸い込まれていく。
《ドーベン・ウルフ》のスラスターを焚き、その極彩色へと向かわせた。
ヘルメットが邪魔だった。だから、ヘルメットを脱いで、ヘアカバーを脱ぎ捨てた。
胸元を開ける。息を吸い込んで、プルートは碌に呼吸が出来ないことに気づいた。
息を吸い込んでもすぐ肺が縮んで酸素を押し出す。ごちゃごちゃしたものと共に、自分の声から、嗚咽が漏れていた。
視界が霞む。頬を冷たい露が垂れる。いくら目もとを拭っても、横溢する熱く冷たい夕暮れの露が頬を伝い、鼻を濡らし、法令線を潤わせた。自分の顔の穴から流れる液体のどれがどれなのかなどという判別はとうに意味を成さず、何もかもが差異化する以前の純粋持続の哭き声がただ、何かの水分となって下界に嘆くばかりだった。
まるでゼリーみたいだった。蒼い燐光と虹色の燐光が溶けあって、海の奥底の砂粒みたいにきらきらしていた。
コクピットの中にまで溢れてくる淡い光の氾濫。手を伸ばせばすぐそこなのに、プルート・シュティルナーには触れられそうも無い。
酷い世界。こんなにも暖かくて、そして誰も触れることを許されない世界。
プルート・シュティルナーはもう、9歳の女の子でしかなかった。無力に、無抵抗に声を上げるだけの純粋で愚かなものでしかなかった。
遥か向こう、隔絶の庭園の先に、プルート・シュティルナーは見た。
虹色の世界の先、誰かが漂っていた。灰色の身体を永久に投げ出した誰か。微かに開いた瞳はどこを見るでもなく、虚ろに志向を拡散させていた。リゾームと化した思惟は世界を塗りつぶし
プルート・シュティルナーはよくわからない表情をした。笑みにも見えたし、羨望に見えたような気もした。でも、彼女は相変わらず声帯を絞り出して滲んだ涙を流し続けていた。
プルート・シュティルナーは、よくわからないかおをしている。
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