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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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85話

「助かりました。貴方方が来てくださらなかったらどうなっていたことか」
 基地内警備隊の隊長の顔を見下ろしながら、クセノフォンは「私は大したことはしていませんよ」と通路に急増されたバリケード越しに、その前で警戒する何人かの男に視線をやった。
 装備だけ見れば、自分の目の前に居る警備隊の男と変わらない。サブマシンガンも同じ型のものだ。だか、その身のこなしを見ればわかる。足の運び、呼吸の仕方。視線の動かし方、そうした些末な仕草が違う。
 と、胸元の無線のコールの音が鳴る。一礼した警備部隊の隊長に敬礼を返し、小走りに走っていく姿を見送りながら、壁に身体を預けた。
「こちらスパルタ」
(こちらルィシ。地下に立てこもっていた敵は排除した。そちらは)
「こちらも完了した。司令の安全は確保したよ。貴官の部下は優秀なようだな」
(当然だ。ECOSのようなルーキーと一緒にしてもらっては困るな)
「街の方はそのECOSがなんとかしてくれているがな」
(こちらには対MS用の装備が無い故仕方ない)
 無線越しの声は明るい。流石に設立から100年以上経つ由緒ある部隊、というだけはあるということか。
 通信を終えたクセノフォンは無線を右手に持ったまま、肩にかけたサブマシンガンのトリガーを見やった。
 敵から奪ったものである。その敵が誰かのかは結局わからずじまいなままだ。
 いや、本当はわかっているのだろう。特殊部隊を2部隊も投入しているのだ。上の人間が察知していない筈がない。財団なら軍を動かすことも可能であろう。
―――そして、この一連の事件を意図した誰かのことを考える必要はない。それに対して何かしらの感情を惹起させることも、しない。その立場にない。
 だが、それにしても外の方は大丈夫なのだろうか。クレイは、エレアは、攸人は―――。
 フェニクスは、大丈夫なのだろうか。
 メランコリックに生きている彼女は、大丈夫なのだろうか―――。
 ―――思案はそれまでだ。壁から身を離したクセノフォンは、血の付いたサブマシンガンのグリップを握り直し、トリガーガードに指を重ねた。
                       ※
 人形。酷く嘲笑的に、憐憫的に、嫌悪的に、憤慨的な色を沈殿させた男の鼓膜の奥を直接揺らすような低い声が頭蓋の中身のどこかで反響する。鋭利な輪郭を持った言葉が脳神経をずたずたに引き裂きながら悶えるようにのたうち、その度に頭蓋をかち割って中の白っぽいぷにぷにした肉を捥いでしまいたくなる衝動が全身の運動神経を励起させる。
「何を言っている?」全身の内側から剣でも生えてきそうな感覚の中、何とかクレイは咽喉を震わせ舌を動かし、鑢掛けされた声を絞り出した「まるで意味が解らないんだが」
(そうだな、では今の貴様でもわかるように1つ昔話でもしてやろう)
 男の声が鼓膜を透過する。気を抜けば意識が身体ごと融解し脳みそが勝手に膨張して頭蓋の中で圧潰してしまいそうなほどに最早何が何なのかの区別すらつかないというのに、男の重く軽いが直接聴覚神経に突き刺さってくる―――。
(昔ある少年がいた。少年にはある程度ニュータイプの素養があるとして、ジオンのサイコミュ研究所であるフラナガン機関支部で実験体として研究されていたようだな。ただ、能力が水準以下だったその実験体は破棄される予定だったようだが、運よく地球連邦軍が当施設を強襲したために難を免れた被検体は戦後、戦災孤児として連邦軍の女性士官に引き取らることになった。ジオンに比べてニュータイプ研究が大幅に遅れていた連邦軍にとっては、たとえニュータイプ能力に素養が無く後天的な強化の精度が悪かろうが、貴重なサンプルであることに変わりは無かったからな。破棄するなどあり得なかった。ただ、その少年が実験を受けていた施設で多くの完成個体が入手できた都合、わざわざ劣化個体を使用するまでもないと判断されたその少年は、将来的にニュータイプ研究がおこなわれる際に実験体が手に入らない場合に使用する代替物(スペア)として、その女性士官の下で育成されることになった。連邦政府はエレメンタリースクールからハイスクールまでの成績、士官学校入学時のテストの成績を改竄し、その少年が将来的に自発的にMSパイロットになるように仕向け、そして事実その少年は士官学校に入学。そして、丁度その少年が士官学校を卒業する時期になり、とあるサイコミュ試験部隊で代替としてのニュータイプが必要になったため、その少年がその部隊に入ることが出来るように、その部隊に入るための技能評価試験の諸々のデータを改竄することで、士官学校卒業したてという身でありながら教導隊に入隊した―――)
 脳みそが肥大化しながら拍動する。
 それは。
 それは。
 それは―――。
 臓腑が痙攣する。胃が不気味に拡張し、一気に収縮する。吐き出すものなど何もないせいか、胃やら腸やらをそのまま吐瀉してしまいそうになる。
(なぁ、ハイデガー少尉。お前のことだよ)
 視神経が途中で断裂する。眼球が潰れ、鼓膜の奥の器官が挽肉みたいにシェイクされる。
 人形、という言葉が液体となって脳髄の皺の一つ一つに浸透し、その内部へと浸潤する。ぎちぎちと音を立てながら思惟に食い込んでいく。
 人形。遊び道具として、玩具として、誰かに支配されるもの―――。
「嘘だ……」
 足元に広がっていた大地がぼろぼろと崩壊していく。視界に広がっていた世界に断裂が走り、その隙間からどす黒い何かが侵入してくる。
 全身が強張る。そんなはずがない、と頭の中でヒステリーじみた声が上がる中、囁くようでありながら、鼓膜をすり抜ける声が聴覚神経を悪戯っぽく触れる。
 そうだ。そうだとすると、全てが―――。
「―――嘘を吐くなぁ!」
 機器を破戒する勢いで左のスロットルを全開に叩き込み、フットペダルを破砕する勢いで踏み込む。全身にかかる負荷Gも構わず、クレイは眼前の白い『ガンダム』めがけて《ガンダムMk-Ⅴ》に猪突を志向させた。クレイの思惟を飲み込んだ赤紫の孤狼が双眼を真紅に閃かせ、1枚の翼で羽搏くように背中に爆発的な閃光を迸らせる。
 頭の中に何か波打った思惟が流入する。
 視界の先、蒼い双眸の奥で見知ったような気がする顔がぐにゃりと歪む。表情筋が強張ったその顔、口角が吊り上がっているようで、でもその蒼い双眸はどこか別な色に染まっているようで―――。
(いいや、嘘なものかよ! それは貴様が一番よく分かっているはずだ!)
 左腕に保持したハルバードの刃を発振させる。Iフィールドで固定された数万度の光の粒子が刃を形成し、一撃の元にあの白い敵を逆袈裟に溶断せんと振り下ろす。真空の常闇に桃色の孤光を描いた刃が直撃する瞬間、白い『ガンダム』はビームライフルのバヨネットを発振させるや、メガ粒子の束をハルバードの切っ先に重ね合わせた。
(お前は今まで一度なりともお前の生に疑問をいだかなかったか? 自分が思っている以上の成果を享受しているとは思わなかったか!?)
 力場同士が干渉し合う刺すようなスパーク光に乗った男の声が視神経を励起させ、頭蓋の中に直接流入する。
 そうだ。そう、なのだ。
 確かに自分は努力をしてきた。努力だけでは報われないと考え、そして事実報われないところもあった。だが、自分がこの『場所』に居ること、それだけに限って、結果的には一度とて『挫折していない』―――。
 (いいや、それだけじゃないな)まるで何かが憑りついているかのように、朗朗と詩を詠いあげるが如くに口からついて流れ出た汚泥のような言葉が鼓膜を突き破り、中を満たしていく。(お前は部隊に入ってからも、部隊にとって人形だったな?)
 ビームライフルごと機体を叩き切ろうとした瞬間、白い『ガンダム』が微かに左腰持ち上げると同時に左半身を逸らし、そして左主脚の膝の部分を折り曲げる。屈折した機体の各点のテンションを一気に解放するように、伸びるのに合わせて激烈の速度で爆発した左主脚が《ガンダムMk-Ⅴ》の脇腹に炸裂した。
 巨大な玄翁で殴られたような衝撃が全身の血肉を打ち付ける。ただの蹴り一撃を食らっただけでコクピット内の計器ががたつく音を鳴らし、一番脆い肉のアーキテクチャはそれだけで臓器からせり上がった液体をコクピットの中にぶちまける。
 咽喉が焼ける。口の中に刺すような味がのたうつ。意識が根こそぎ刈り取られてしまいそうだ。
 だが、そのインパクトの瞬間に、クレイは即座にバックパックのビームキャノン2門を脇下から立ち上がらせ、右肩に懸架されたN-B.R.Dの砲口とともに前方に指向するや、間髪入れずに3つの口からメガ粒子の咆哮を屹立させた。
 ほぼゼロ距離の砲撃。砲撃の寸前でスラストリバースした白い『ガンダム』が身体を捩じるようにして、閃く粒子の光軸のうちハイパービームサーベルから吐き出されたメガ粒子の砲撃を躱す。N-B.R.Dの閃光は肱から先を喪った左腕の肩の装甲を掠め、剣で生肉を切り裂いたかのような真紅の創傷を抉っていく。
「戯言ばかりを並べ立てるな! 俺がニュータイプな筈が―――!」
(じゃない、と? 随分と間抜けなことだな? そのN-B.R.Dの計器が貴様のニュータイプの素養をモニターするためのものとも知らずに!)
「何を―――」
 言っている―――。
 咽喉元まで声がせり上がって、クレイはその声を飲み込んだ。自分の左手側、丁度目線の高さに設置されたディスプレイ上の機器は、右端の方で何かの光を点滅させ、酷く卑屈そうに自分が稼働していることを主張していた。
(新型兵器の実証試験など貴様をいい気分にさせるだけの玩具にすぎん。そんなものに幾許かでもプライドを感じていたなら、とんだお笑い草だな)
 白い『ガンダム』が右腕のビームライフルを構える。指向からトリガータイミングまでは秒ほどの猶予すらなく、コクピット目掛けて黒々した孔から眩い閃光が迸った。
 AMBACとバーニアによる緊急回避をかけながら、クレイはその負荷Gに脳みそが揺さぶられ、視界の焦点部分に盲斑が重なっていくのを感じた。
 最初から違和感は、あった。
 何故俺なんだ、と。
 試験兵器の実証には腕の良さが要求される。適任は、いくらでも―――。
 白い『ガンダム』がスラスターを焚き、一気に相対距離の間隙を切り裂く。
 裂帛の気合いと共に突き出されたバヨネットをハルバードの穂先で受け止める。日輪のように押し広がる干渉光、弾けたメガ粒子が機体の表面に付着し、ガンダニウム合金の装甲に赤い班を焼いていく。
 相手の言葉を聞くな、と誰かが叫ぶ。聞く必要はない、ただのヒステリーでしかない、と頭の中で自分のような誰かのような声が乱反射し、脳神経を出鱈目に駆けまわっていく。
 だが、と頭の皮相から嫌に明敏な形を持った言葉が脳髄の奥へと突き刺さっていく。その声に釣られるようにして、クレイは、音声だけの通信ウィンドウに視線をやった。
 沈黙しかなかった。
 無線通信がつながったまま、じりじりと照り付けるような音だけが嫌に鼓膜を焼き付けていく。
 その声が、語られない声なき言葉が全てを語っていた。
(貴様の身体に起きている変調こそまさにサイコ・インテグラと呼ばれるサイコミュシステムによる弊害だ。時間軸上の身体感覚を積分することで強制的に知覚域を拡大させ、擬似的なニュータイプあるいはニュータイプの能力そのものを拡大させるそのシステムは、代償に生身の人間を数秒で廃人にするほどのものだ。仮に耐えられても一部感覚の異様な先鋭化とその反動に生じる感覚の鈍化、幻覚症状、各欲求の過剰な昂進、一部記憶の喪失、全身の疼痛が生じる―――)
 ざわざわと肌が粟立つ。蛞蝓が這って行ったかのような、異様な悪寒。
(いい加減に認めたらどうだ? なぁ、クレイ・ハイデガー!)
「―――喋るなぁ!」
 咽喉元で爆発した声は、もう単なる子どもの悲鳴でしかなかった。クレイ機体ごと体当たりをけしかけようとするのに合わせて、白い『ガンダム』が身体を仰け反らせる。ハルバードの切っ先が真空を裂き、不意に虚脱する感覚が身体を突く。
 ビームライフルの先端に装備されたバヨネット型のビームサーベルが奔る。ほぼ密着した体勢で放たれた一撃はガンダリウムβコンポジットの装甲を濡らした紙に指を刺すように突き破り、人間の身体など容易く焼き尽くすクレイの身体を物的存在にまで分解させていき―――。
 ざくりと頭の中で何かが生えた。神経がそのまま束になって脳髄を突き破り、体外まで這い出した知覚野が網膜の内側へと映像を逆流させていく。
 全天周囲モニターの向こうで閃くメガ粒子の光が視界全てを埋め尽くしていく。
 己に訪れる可能性の端末を惹起させ、クレイはその刃がコクピットを焼く寸前に、白い『ガンダム』の人間でいうところの腹部目掛けて右主脚の一撃を叩き込む。悟った白い『ガンダム』が回避挙動を取ったが、遅い反応だった。数トンほどもある金属塊が直撃し、衝撃で仰け反ったがら空きの胴体目掛けてクレイはハルバードを振り上げ、腰から両断するように薙ぎ払った。
 大出力の光刃が白い装甲を焼き尽くす寸前に、銃剣の刃が斧の一閃を受け止める。出力で押され、白い『ガンダム』の腹部の装甲が赤く捲れ上がり、赤化した金属がどろりと血液のように白い装甲を伝っていく―――。
(そうだ、その力だ! 相手の感応波をも己の情報として演算しながら敵に誤認情報を認識させる対ニュータイプへのアクティヴ・ジャマー能力! サイコ・インテグラルへと最適化しているわけだ!)
 男の嗤う声は調子のハズれた目覚まし時計のようにがちゃがちゃとした音にしか聞こえなかった。音を鳴らすたびに、ぎぃぎぃ軋む不協和と共に己の振動で己の部品が零れ落ちていく。苦痛に悶えながら、それでも音を鳴らし続ける虚しいだけの錆びれた赤塗りのアナログな目覚まし時計―――。
 視神経が無理やり励起させられる。網膜が一斉に痙攣し、狂ったように点滅する。

 ―――知らない場所だった。
 灰色に染まった世界がどこなのか、地球の大地なのかそれともコロニーの地なのか。
 誰かが斃れる。ありふれた地獄だ、兵士たちが眼にした地獄だ。まるで朽ちた木が音を立てて倒壊していくように、大地へと堕ちていく。
 誰かが斃れる。ありふれた地獄だ、目の前で誰かが毀れていくのにどうすることもできない人間たちが眼にした地獄だ。どこかの破壊された都市、崩れたビルに押し潰されていく人間たち。
 誰かが斃れる。ありふれた地獄だ、自らの無力に身を焼きそうになって、その度に立ち上がってもあるのはただ無限に広がる荒野という名の地獄、独りの男の網膜に刻まれた平凡な地獄だ。暗く狭い部屋、囚人服を着た男が地面に転がり、口からだらしなく唾液を垂らしながら譫言を呟き続ける―――。
 誰かの記憶がフラッシュバックするたびに、全身に形容しがたい底抜けの虚脱と世界への絶望が浸潤していく。
 己は何のために在ったのか、と。
 己は何のために、己を磨き上げたのか。
 己の命は、ただ誰かのためにあったのではないのか―――。
 目の前の男の記憶が、男の世界の痕跡から覗く大地の悲鳴が足元から這い上がってくる。足を掴み、膝を握り、股座から覗いた昏い顔。
 目を瞑りたくても瞑れない。その泥人形のような何かが、目を瞑るという行為の残虐さを告発する。
 泥人形が腕を伸ばす。長く伸びた手が咽喉元に触れ、接地面からじわりと熱く冷たい思惟が肌を溶かしていく―――。

 クレイは、脊髄が砕けるような衝撃で意識を取り戻した。
 ずきりと胸に電流が走る。咳と同時に、咽喉の奥底から赤い錬鉄の液が飛び散る。
 赤く染まった視界の先、白い『ガンダム』の蒼い双眸が幽らめく。
 体当たりを食らったらしい、となんとなく思い出した。
 さっき、何かを見た気がする。誰かの内側に飲み込まれた気がする。だがそれが何だったのか、さっぱり思い出せない。
 記憶が欠損する、と確か目の前の『ガンダム』のパイロットが言っていた気がする。
 確かに先ほど見たばかりの記憶が維持できていない。それどころか、流水を捉えようとする掌を嘲笑うかのように手を擽り、指の隙間を潜り抜けていくように、もっと色々なものが毀れていく気がする―――。
「―――エレア……」
 口から誰かの名前が零れる。
 あどけない銀髪の少女の姿が確かな輪郭を持ち、視界の中で揺れることなく揺蕩う。
 まだ、彼女の名前を憶えている。彼女の姿を覚えている。彼女の身体を覚えている―――。
 (まだあの人形のことを覚えていたか)大仰に抑揚をつけた声は、多分に嘲りを含んだ声だった。
(人形は人形同士、お遊戯を演じるのが似合いだな)
 何を、言っているのだろう?
 己の内側に湧き上がる疑問―――そして、己の根底に淀んでいた別な疑問が首を擡げる。
 もう知っている。目の前の『ガンダム』のパイロットが口にするまでも無く、己はその疑問とその答えを、もう―――。
(エレア・フランドールが貴様に好意を寄せていたのは単にそう思うように調整されていただけの話だ。エレア・フランドールは貴様と共に在ることで不安定だった能力が安定することが判明した。だから彼女を管理している連中は貴様と共に居る時間を長くするために、意図的に貴様への好意を持つように調整した―――)
「あ――――?」
 フラッシュバックする彼女の顔。
 自分と唇を躱しながら、恥ずかしげな笑みを浮かべた少女の顔。
 雨に打たれながら、はしゃいでいた少女の顔。
 不安げな顔をしながら、自分への愛を呟いた少女の顔。
 薄暗い部屋の中、消え入りそうな声で呟いた少女の顔。
 闇夜の中、自分を受け入れてくれた少女の、顔―――。
(貴様への愛など単なる作り物だ。あの女はただ誰かに貴様を愛しているように思わされて、それにしたがって動いていただけの物だ。マシーンと変わらない。そこいらの獣以下の存在だ。そんなものに、どうして本物の情愛が宿るというのだ?)
 身体の中で何かが膨れ上がる。
 ずっと身体の内に押し込められてきた誰かが堤防を破壊しようと波となって押し寄せてくる。
(貴様の生など、余すことなく誰かの掌の上で踊らされていただけにすぎないのだよ。お前の生まれも、育ちも、努力も、満足も、悦楽も、愛も! 全て誰かの作り物を、そうとも知らずにお前は受け取っていただけのことだ。お前にあるのはただの借り物の人生、人形としての在り方だけだ!)
 ビームライフルを腰に懸架し、白い『ガンダム』がビームサーベルを抜刀する。
 ライフルの付属品でしかないバヨネットのそれとは比較にもならない大出力の光刃が迸り、力場に固定しきれないメガ粒子の飛沫が飛び散り己の身体を焼いていく。
 己を業火で焼き、想像を絶する苦痛の中、なお歩みを止めない殉教者。磔にされ火炙りにされてもなお、己の神への帰依の格率に絶対的な確信を抱き、この汚濁しきった現世に神の救済を求める聖教徒のようだった。
 蒼い宇宙の中、なおもって蒼く哀しい瞳の閃きを漂わせる白亜の神話が満身創痍の体躯で刃を振り上げる。
 真っ赤に染まった視界が罅割れる。
 何を意思しても身体はぴくりとも動かない。力を入れよう、と思う瞬間に、身体のどこかが濡れた声を上げる。
 何のために、と。お前は何のために戦うのか―――生きるのか、意思を抱くのか、と。
 お前がこれ以上生命活動を維持し続けることに意味はあるのか、と。
 震えた囁きが鼓膜を抜け、聴覚神経をすり抜けて、頭蓋の中で静かに確かに木霊する。
 クレイ・ハイデガーがこれ以上この世界の内に存在している意味など、ミリほども喪い。
 裂帛の気勢とともに振り下ろされるビームサーベル。その軌道があまりに遅く見えながら、クレイはぴくりとも意思することはせず―――。
 ハルバードの穂先を繰り出した。
 光の刃同士が接触する。力場が干渉し、スパーク光が炸裂する。弾けた粒子が躍り、真っ赤な視界の中を明滅する。
 2撃目の逆袈裟をなぞるように薙ぎ払われたビームサーベルも、ハルバードの刃を掬い上げるようにして防御。出力に押された白い『ガンダム』が一瞬たじろぎ、バーニアを焚いて距離を離す。
 まだだ、と。まだ死ねない、と。
 己の身体の別な箇所が叫びをあげる。
 お前の生はここで終わるわけにはいかないのだ、と声高に叫ぶ声は、叫びというよりは哀れな声色の悲鳴でしかなかった。現実を直視してもなお抗おうというだけの、身体の意地汚さ=しぶとさがそうさせただけだった。
 想いだけでは何も為せない。身体があっても何も為せない。たとえ身体が動いても、それを統率する人間の意思が無ければ何にもならない。
 だから負ける。白い『ガンダム』が瀑布のような勢いで叩き付けるビームサーベルを捌き切れず、掬い上げる勢いで屹立した剣光がハルバードを打ち上げ、左手を上げる形で《ガンダムMk-Ⅴ》がのけ反る。
 それで終いだった。怯んだ瞬間、ありったけのスラスターを爆発させた白い『ガンダム』が身体ごと突撃し、金属塊の衝撃が鼻先で爆発した。
 鈍器で殴られたどころの話ではない。それだけで肋骨数本が砕け、内臓が潰れた。
 痛い、という生の感情を抱く暇も無く、背後からの衝撃が脊椎を殴りつける。
 何か漂流物にぶつかったらしい、などという嫌に単純な思惟が頭を過る。咳き込むと同時によくわからない液が口から洩れたが、それが何の色をしているのか、どんな味をしているのか、クレイの知覚は捉えられなかった。
 ぎしぎしと視界に入った罅が広がっていく。
 その傷痕の隙間で、白い『ガンダム』の手の中に光が収束していく。
 鈍い振動が身体の芯を揺らす。全天周囲モニターの向こうで、傷だらけの白い物語が手を伸ばし、
(―――どうだ。お前も俺たちの元へ来ないか?)
 鼓膜を男の声が撫でる。体温のように、触れれば溶けてしまいそうなその声が破裂しぐちゃぐちゃになった頭の中に溶けていく。
(確かにお前の人生は借り物でしかなかっただろう。だが、お前が今確かに持っている力そのものは本物だ。その力は我々に是非とも必要な力だ)
 声が遠くに聞こえる。それなのに、耳元で強く囁く声が耳から入ってクレイの心臓をぐいと握りしめる。
 心臓が脈を打つ。どうやって血液を身体に送っていたのか全く覚えていなかった筋繊維の塊が強く縮まり、肋骨を押し上げるように痛いくらいに膨張する。全身を駆けまわった溶岩のような血液が、血管の中に沈殿していた血液を洗い流していく―――。
(俺たちの組織はまだ若い。構成する人間も若い世代の人間たちだ。新しい時代を作るのは老人ではないからな―――だからこそ、今お前の力が欲しい。若く才気に優れた貴様こそ我々の組織の将来を担う人材だ)
「俺が―――?」
 アルミホイルをくしゃくしゃにしたような、金属が軋むような音がして、それが自分の声だと気づいた。もう、咽喉の動かし方、声の出し方すらよくわからなくなっていた。
(そうだ。腐敗した連邦をいつか打倒する未来のために、地球圏に住む人々の善き生のために。目先の快苦に囚われる愚かな大衆どもに世界の重さは背負えんのだ。優れた人間が世界を動かしていればいい。その一員としてお前は相応しい)
 血流がぐるぐると頭の中を回っていく。襤褸になった血管は、その勢いの良い真っ赤な血の流れだけで破裂してしまいそうだった。
(お前を道具のように扱った連邦になど気を使う必要などないだろう。そんなものよりお前はお前の実存を生きるんだ。本当のお前の生、本当のお前の力で生きる生、本当の愛という実存をな)
 咽喉が痙攣した。
(エレア・フランドールは今我々の手の内にある。今までとは違う、彼女との本当の愛を交し合うこともできよう。お前には、そうする資格がある。そう思わないか?)
 ずぶりと頭に何かが突き刺さる。
 全くその通りだ。
 男の言葉は魅力的だ。お前の力を貸せ、という言葉には確かな大地の重力を感じる。連邦軍に入隊する際に、地球連邦政府憲法に形式的に忠誠を誓ったあんな薄っぺらな儀礼などは単なる子どものお遊戯だ。虚しいお遊び以下の行為だ。
 それでも忠誠を、公僕として在ることを誓ったことに変わりはない。それなのに、連邦政府が、連邦軍が行ったことは、ただ自分の生を玩具みたいに扱っただけだ。
 何の仕打ちであろうか。
 一体そこに何の忠誠が生じよう。いや、どうして忠誠を誓わなければならないだろう。一体何の正義があって、己はその組織に忠誠を誓わなければならないのだろう。
 その必然は無い。
 そんなものはさっさと捨てて、己の生を―――己の自我存在に相応しい生を送ることこそ、善き生ではないか。
 クレイ・ハイデガーには、もう連邦政府に対する義務の履行を忠実に執行する責務など、ミリほどすらも存在していない―――。
 視界が黒く落ち込んでいく。
 永遠に落下していくような、感覚の、中。
「―――……」
(―――なに?)
「―――断る、と言った」
 誰かの顔を、見た、気がした。
 身体中が捩じ切れるように悶え、咽喉が引き裂かれそうになりながら、クレイはなんとかその声を抉りだした。
「私は、国家の公僕だ。私は俺の思想だとか感情だとか、そんなもののためだけに存在しているわけじゃないしそんな存在性は貧困な発想だ。私がやらなきゃいけないことは背負ったものを放り出すことじゃない。誰かに背負わされたものでも―――いや、だからこそ、背負い続けることだ」
(貴様何を―――)
「俺は……私は、連邦の士官だ! 私にはそう在り続ける義務があるんだ!」
 言い終わらぬうちに、臓腑からせり上がった赤い液体が口から飛び散る。咳き込みながら、全身が巨大な手に握りつぶされ圧潰するような激痛を感じながら、記憶が断絶しそうになりながら―――クレイは、全天周囲モニターの向こう、赤く淀んだ先に佇む白い亡霊を睨めつけた。
 後悔なんてあるわけない―――嘘だ。だが、そんなことはどうでもいいことのように思われた。
 (そうか―――)ぽつりと滴った言葉が首筋に落ちていく。
(貴様も下らん存在だったな)
 声が背筋の中にどろどろと侵入する。
 蒼い瞳が、それに重なった知らない知っている男の目が重なる。明確な睥睨の色、侮蔑を感じさせる、沈むような言葉―――だが、ただそれだけではない言葉。その奥深く、男自身も気づいていない潜在感情の萌芽を、微かな―――ほんの微かな羨望をずっと奥底に沈ませた言葉がクレイを見据える。
 あ、と思ったときには、既に衝撃がクレイを殴りつけていた。
 もう何度目だろう―――たとえ意識が保てても、肉体の限界強度は当の昔に過ぎていた。頭蓋の内容物が破裂し、視界が一気に真っ白に染まっていく。
 音ももう、聞こえない。己の息遣いも、身体の中の肉の蠢動する音も、計器ががちゃがちゃとなる音も、何もかもが聞こえない。ぷつりと神経が切断して、真っ白な暗黒の内へと落ち窪んでいく―――。
(せめてもの手向けだ。かつての仲間の手で逝け)
 遥か最果て、何光年と先で喋っているようだ。もうその言葉の意味が何なのかを考えることすら億劫で、今すぐにでも身体がかき抱く自己存在把持を放り棄てたかった。
 ―――だと、言うのに。
 なぁ。
 酷く明瞭に、その言葉が耳朶を打った。
 お前は俺のこと、やっぱり憎んでるか?
 その声は聞き覚えがあるその声は、何の気負いも無い普段通りの声だった。
 俺、ずっとお前のことだましてたんだぜ? 士官学校に入って、お前に知り合ってからずっと。最初からってわけじゃないけど
 まだ、ずきりと頭が痛んだ。
 そうか―――思えばなんでだろう、と思った。士官学校でも成績トップで居続けた奴が、その癖毎日楽しげに振る舞っていた男が、何故自分なんかと話すようになったのだろう?
 だが、今となってはわかる。男も最初から、なにがしかの理由があってそうしただけのことなのだろう。ただ、それだけのことだ。
 さぁな。別にいいんじゃない。
 どうしてだ? だって俺は―――。
 あんただってそうしなければならない理由が、必然があったからそうしただけのことなんだろ。だったら、俺に何か言うことなんてないよ。それに―――。
 なんだよ。
 俺にはもう、そういう感情がどういうものだったかわからないんだ。憎いとか、嫌いとか、それがどういう意味でどういう感じの感情だったのかさっぱりわからないんだ。それに、あんたの名前ももう、覚えてないんだよ。
 息を飲む音、咽喉が蠢く音が耳元でなる。
 そっか。言う声は、やはりいつも通りだった。
 なあ、あんたに頼みがあるんだが。
 なんだ?
 いや……あんたにエレアのこと、頼もうかなって。あんたもあの組織の人間なんだろ? 俺はもう、無理、だから。
 束の間、間があった。
 ふぅ、と鼻息が漏れる音が耳朶を叩く―――。
 《リゼル》がビームライフルのトリガーを引く。ロングバレルのライフルの銃口の奥で縮退寸前のメガ粒子がバレルを通ってメガ粒子と化し、黒い孔から眩い閃光が立ち上がった。
 そんなの、俺の知ったことかよ。 
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