機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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78話
ゆっくりと降下していく。スラスターの調整と地表との相対距離に目を配らせ、コロニー内を吹き抜ける風に苦慮しながらもクレイは《ゲルググ》をなんとか格納庫の手前に接地させた。
鈍い振動がコクピットの中を伝う。コクピットハッチの開放とともにオートパイロットモードで《ゲルググ》に膝立ちさせるようにすると、ヘルメットを脱いだ。
汚濁のような溜息を吐く。額を伝った汗が目に入った。
生きている―――生きて、またここに戻ってきた。コクピットハッチから流れ込んでくる酷く冷たい風を感じながら、クレイはヘルメットを頸椎部のアタッチメントに装着し、ハッチを潜った。
より強く風が吹き付ける。顔を叩いた味気ない風に奇妙な感覚の齟齬を覚えながらも、クレイは目の前に据えられた《ゲルググ》の手に飛び乗る。人一人を悠々と乗せる巨大な手。まるでクレイを守るように軽く握られたそその人差し指の指先のボタンを2、3操作すると、再び《ゲルググ》の手が動き出し、風にあおられながらも地面へと向かった。
《ゲルググ》の手に掴まりながら、クレイは格納庫の脇に人影があるのを見とめた。
フェニクスとエレアの2人だった。黒い髪と絹のような白い髪の2人は、遠くから見てもすぐにわかる。
いつも見る視線の高さで格納庫を眺める。帰ってきたのだな、と老成したかのような感想を感じながら地面に足をつけて、そうして―――。
「―――クレイ!」
ぼすん、と衝撃が胸を打った。何分不意打ちだったせいもあってたたらを踏むや、勢いのままに倒れ込んだクレイはそのまま《ゲルググ》の手に強かに後頭部を打ち付ける羽目になった。
鋭い疼痛がじわじわと頭の奥まで突き刺さっていくような感覚。今ので記憶が一分がとんでしまったかのような錯覚を覚えるほどに鮮烈な痛撃に、クレイはあいてて、とみょうちきりんな声を上げながら後頭部をさすった。
「ごめんなさい……」
腕の中で白無垢の少女が申し訳なさげに眉を寄せる。
「いやいいよ」その困ったような顔が可笑しくて、クレイはまだぎこちない表情筋を動かして微笑した。
よくわからないが、ともあれこの少女がこうして居ることが不自然なほどに―――嬉しい、という感情がびっしりと持続を塗りつぶしていく。
「約束、守ってくれたんだね」エレアのガーネットの瞳が濡れ居ていた。
「ちゃんと帰ってきてくれて嬉しい。クレイがちゃんとここにいてくれて―――」
クレイの背後に回った手の力が強くなる。自分でも驚くくらいにその抱擁に頬を緩めたクレイは、当たり前だろう、とエレアの額に自分の額を当てた。
「大分前の質問の答えだけど―――俺は居なくならないから。エレアが赦す限りはエレアと一緒に居るって、決めたから」
虚を突かれたように赤い目を開けたエレアは、そうしてうん、と無邪気な笑みを浮かべた。
あぁ、そうか―――クレイはどうしてこんなに嬉しいのか、なんともなしに理解した。
エレアの身体を身近に感じることが出来るのがこんなに嬉しいなんて、彼女が存在しているということがこんなに嬉しいなんて。
しとしとと降りしきる雪のように白く果敢ないこの少女の存在が、ずしりと重さを伴う。どれほど彼女がここに来ることに自分が貢献したのかは正直よくわからないが、微か程でもそれに貢献できたことが、忘我するほどに嬉しいという感情を惹起させた。
「それに言ったでしょう? 俺の腕を信じろって」
「やられてたけどね」
そう言われるとなんとも言えないのだが…。どこか悪戯っぽさと無邪気さを感じさせるエレアの表情に、クレイはまぁ、うん、となんとも歯切れ悪く応えるしかなかった。
「水を差すようで悪いんだが」
ごほん、と不自然に咳き込みながら、フェニクスは奇妙な顔をしていた。その表情が奇妙に罅割れているように見えて一瞬目を見張ったが、錯視にしか過ぎなかった。
慌ててエレアと立ち上がりながらも、クレイはフェニクスの言わんとしていることくらいは理解していた。何より、エレアが来ている服がYATL-00A―――オーガスタ研究所で制作された対G強化型ノーマルスーツであることが何よりも物語っていた。
「外の戦闘に介入するのですか?」
「正確に把握しているわけではないが押され気味らしくてな。コロニー守備隊側の戦力が足りていないらしい」
フェニクスが向こうに視線を投げやる。全身の装甲を高熱で焼かれ、コクピットにビームサーベルを突き刺されたままの《ギャプラン》の骸がどこかの格納庫に墜落し、拉げた金属の揺籃の中で声も無く片手を上げていた。
死のシーニュ―――浮かんだ言葉を、クレイは否定した。それはただの、物質と化した金属塊以上の存在性を剥奪されたものでしかなかった。
フェニクスは複雑な様子でそれを眺めていたが、そうしていたのは束の間ほどの時間だった。
「『偶然』我々の部隊は明日の実弾使用の演習のために実弾を装備しているからな―――疲れているだろうが、お前にも出てもらいたい。ヴィルケイとジゼルの機体はもう実戦に耐えられる状態じゃないからな」
記憶のどこかでオーウェンの声が耳朶を打つ。あれからまだ2時間と経っていない筈なのに、もう何十年も前の出来事のようだった。
「ヴィルケイの《リゼル》は中身の損傷が酷い。アムロ・レイの真似事でもしたんだろう。ジゼルの《ガンダムMk-V》は左腕をごっそり持っていかれた。オーウェンは市街で戦闘中、クセノフォンは司令部に侵入していた敵の掃除中。動かせる戦力は私とエレア、ユートとお前だけだ」
「ユートは大丈夫だったんですか? あいつ確か今日は休暇中で一日宿舎で休んでるって―――」
「あぁ、無事だ」そう言うフェニクスの顔は、ちらと格納庫を眺めた。「さっき戻ってきたばかりだ」
そうですか、と言うクレイの声は自然と安堵を含んだ。何や間やで士官学校からの同期だ。ずっと親密だったわけではないし、切磋琢磨し合った仲という程の間柄でもないが、やはり古い顔馴染であることに変わりはない。なんでもそつなく、というかなんでも水準のはるか上のレベルで熟せる男なだけに上手く切り抜けるだろうとは思っていたが―――。黒髪の東洋人の顔を思い浮かべ、クレイはただただその存在に驚愕するばかりだった。
「一応聞くのだが……」俄かにフェニクスが言いどもり、微かに眉を顰めた。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫ですよ」クレイはフェニクスのその仕草に意外さを感じつつも、強く頷いた。「これでも身体は頑丈な方ですから」
そうか、と応えたフェニクスの表情は、先ほどの幽かな変化の残滓も感じられなかった。どうしてそんなことを聞くのだろう。だって自分は連邦の軍人でMSのパイロットなのだ。如何に実戦を想定した部隊でないとはいえ、状況が迫れば己で武器を取る覚悟はできている―――と迷いなくは言えないが、それが軍籍に身を置く者、人民の公僕としての義務であるのなら、時間の要請に従ってクレイは銃を取らねばならない。己の恣意的な格率を優先することは、正義とクレイにとっての善に悖ることであるはずだった。
「お前の《ガンダムMk-V》はすぐに出撃できる状態にある。5分後に出撃だ、いいな?」
「了解しました」
敬礼して、そしてエレアと目くばせし合ったクレイは、自身の機体が鎮座している格納庫へと駆けた。
その背後を見守る金属のモニュメント。
原罪の物性。
贖いの摩擦。
立ち膝のまま佇む漆黒の《ゲルググ》の姿は、断罪の神判を受けるが如く―――。
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