機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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58話
エレアは静かに目を開けた。
眼球の中のガラス体が異様に染まり、肌の上を視神経の電気信号が波打つ。
「えぇ、ヴァルキュリア現象は完全な形で観測されたといっていいでしょう。初めて観測されたあの事件―――あの時よりもより確度の高いデータです」
目がちかちかする。耳小骨を掴まれ、無理やり揺さぶられている気がする―――。
だんだんと感覚が安定してきた。臓腑に溜まる不快な気分が薄まり、鼻から粘着質の熱い息を吐き、強張った身体を無理に起こす。頭やら腕やらに張り付いたままのコードに煩わしさを覚えながら、輪郭がぼやけた視界で部屋の中を見回す。
いつもの研究室とは違う部屋だった。部屋、というよりも格納庫と言った方がいい。
エレアは、自分の側に高く聳える仰々しいマシーンを眺めた。
まるで、高い山だった。あるいは、その白と黒で塗り染められたそれは白亜の神像―――。
エレアは、ふと自分の手許にある何かが気になった。青竹色の病衣を着た彼女は、襟元が少しはだけそうになるのを直しながら、それを手に取った。
コードだった。黒く細いコードが親指と人差し指、小指と薬指をくぐってぐったりと萎えていた。
指を動かし、その酷く気だるげなコードがくねくねと動きまわる。
「あ、エレアさん―――すみません」
声の方に顔を向けた。
黒い髪の少女―――名前を思い出そうとして、頭に刺すような痛みが奔り、顔を歪めた。無理に思い出さなくても、いい。いつも、時間が解決してくれる問題だったから。
「こうして遊んだりできるんですよ」
その少女がそのコードの両端を結び、指に絡めていく。何度も指を交叉させてはコードが絡まる。
「じゃんじゃじゃーん、東京タワー」
その黒髪の少女が珍しく年相応の笑みを浮かべ、その指に絡まったその平面構造を持ち上げた。
下にした左手の部分は台座のように末広がりで、上にした右手にかけてすぼまっていく。東京タワーなるものがなんなのかエレアはちっとも知らなかったが、思わずその芸術に目を丸くした。たった一本のコードで形作られているとは思えないほどの幾何学的真理的美しさが、奇妙なほど強力に彼女の頭に観念となって焼き付く。
「どうやったの?」
ようやく声が出せるようになったことなど気にも留めずに、彼女の手に触れた。
彼女の手から自分の手に感じた暖かく柔らかい触覚の知覚にほっとしながら、エレアはその少女―――モニカからコードを受け取る。エレアの隣に腰掛けたモニカはエレアの肩越しに手を回し、白い少女の両腕を手に取った。
モニカの手がぴたりとエレアの手の甲の上に重なる。ぶつぶつ言いながらモニカが手を動かし、それに伴ってエレアの指に黒いナイロンで包まれたコードがくるくると絡まっていく。
「ほら、出来た」
モニカが年相応の笑みを浮かべる。わぁ、とエレアは目を輝かせて、己の手に現出した東京タワーとかいうコンストラクチャーとモニカの笑みを見比べた。
魔法みたいだった。所詮一本のケーブルで作った輪っかでしかないそれがみるみると手の中で形而上学的存在を憑依させ、現実世界に具現していく。一見出鱈目に絡まっているように見えて、精妙な秩序のもと絡まり、その形を把持し続ける。
モニカがエレアに重ねていた手を離すと、するすると形を失ったケーブルは疲れたようにだらりと手の中で溜息を吐いていた。
「これなんていうの?」
「アヤトリというんですよ。日本の昔ながらの遊びだそうです。疲れた時の頭の体操によくやるんですよ」
気恥ずかしそうにしたモニカは、エレアの隣に腰掛けたまま、再び指にケーブルを操り始める。
2分ほどした後、モニカが「蟹~」と言いながら両手を持ち上げた。
「うーん、十脚目異尾下目?」
「まぁまぁ……」
蟹かどうかはよくわからなかったが、綺麗であることには変わりなかった。
「わたしもできるかな?」
「そんなに難しくはありませんから大丈夫ですよ―――じゃああと一本くらい適当なケーブル取ってきますから、ちょっと待っててください」
はーい、と肯くと、立ち上がったモニカがぱたぱたとどこかへ駆けて行った。
※
「―――それでは彼らに?」
そうだ、と返す金髪の男―――フル・フロンタルの声に、ゴティは顔を顰めた。
かつんかつんと通路に音が響く。電力の節約とかで、お世辞で言えばなんとか明るいくらいの通路を歩くフル・フロンタルの姿はそれでも威圧的だった。
正確には、その豊かな金髪の髪に真紅のやや硬さを感じさせる礼装、そしてその額に装着したマスクが醸し出す、奇妙な圧迫感。恣意的に発せられるのではなく、フル・フロンタルという存在から流出した本性がその周囲の人間の認識に作用するのだ。決して、ネオ・ジオンの総帥という肩書だけではその存在の力場は生じ得ない。慣れたとはいえ、我知らず緊張するのをゴティは感じた。
「確かに貴重な戦力が損なわれるのは今の我々には惜しい。中尉の技量も、《スタイン》に乗っていればわかる―――《スタイン》はどこの角も無く調整されている。シューフィッターとしての技量を見れば、その本質は推して知るべしだ。大尉も同じだ。だが、今我々にはクルス准尉がいる。それに、彼らとて見返り無し我々と懇意にしているわけではあるまい?」
誠意が必要なのさ、とフロンタルが一瞥をくれる。
まるで彫刻だ―――。ただ、古代ギリシャをモチーフにした芸術品と異なるとすれば、芸術品が生命の躍動感への飽くなき追求を感じさせるのに対し、ゴティの隣にいる男はむしろ物理的静止を如何に表象するかに技巧を凝らした物であるという点であろう。
むしろ、それ故に優秀さを感じさせるのだ。秘書として、フロンタルは安心できる存在であることは論を待たない。
「連邦の弱体化のための駒、ですか」
「共に戦う同志―――とも、言える。物は言いようだ。それに、事実我々は彼らの供与が無ければ《クシャトリヤ》も《スタイン》の強化外装も開発は出来なかった。アナハイムも設計図を形にするほど余裕はないのだろうな。もちろん我々も、だ」
む、と眉間に皺を寄せる。
使者を名乗ってパラオに訪れた男を思い出す。金持ちを嵩にかけたような、尊大な男だった。思い出しただけでも業腹だったが、それはそれだろう。
そうしている間に、隔壁の前に着く。壁際のセキュリティ装置のタッチパネルに触れてパスワードを入力し、指紋を認証。
認証完了の音とともに、見るからに重たそうな隔壁がゆっくりと左右にスライドしていく。
MSの格納庫だった。さほど高度なセキュリティロックではないのは、向こうから聞こえてくる騒がしい音で納得だ。その都度、2桁を優に上回る暗証番号と何重もの生体認証を要求されては利便性に欠ける。そして、それほど絶対的な秘匿を必要とするわけでもないのだ。
ガントリーではなく、トレーラーに寝かされる形で横たわる灰色のMS。第一次ネオ・ジオン抗争にかけて誕生した『恐竜的』とも呼べるMSとは異なり、マッシヴながらもすらりとした四肢は、第4世代機の到達点であり、かつてのネオ・ジオンの旗印だった《サザビー》とは正反対の印象を受ける。不必要な重武装はただの金食い虫、というわけだ。フル・フロンタルが《サザビー》を捨て置いた理由の1つにはそういう点もあるのだろう。
一部分、仮に装備された赤い装甲が目に入る。地球連邦軍の機体設計を思わせる直線的なデザインラインの中で、曲線的な装甲の腕部と頭部はその色も相まって目を引く。マス・プロダクツな硬さとは一線を画するその曲面の装甲は、MSというよりかは中世の気品高い貴族のイメージをそのままMS大にまで拡充させたようでもある。頭部のカメラアイはマスクされており、その奥に潜む単眼―――そしてその最奥に永遠に眠るデュアルカメラは窺い知れない。
「彼らもまだ歴史の表舞台に出る気はないのだろう。だから我々に頼る」
キャットウォークからやや身を乗り出すようにして、フロンタルは眼下に静かに眠るMSを見下ろした。その背中は、やはり何の感慨も感じられなかった。己の愛機であろうと、この男にとって眼下の機体は道具の範囲を出ないのだろう―――。
「また、ですか?」
「だ、そうだ。今度は―――」
格納庫で派手な音が響く。フロンタルの声は、甲高い金属音の中に融けていった。
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