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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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45話

 早朝の食堂は閑散としていた。数百人規模を収容する食堂も、昼ともなれば満杯に人が収容されるのだが―――。山盛りになったパンケーキに、純白のクリームを聳えるその異様な食べ物をトレーの上に乗せて手近な席に腰を下ろした。水を持ってくるのを、席に着いてから思い出したクレイが腰を上げようとすると、視界の脇からにゅっと腕が伸びた。ことん、と音を立て、水の張ったグラスがクレイの前に置かれた。
「忘れ物」
 攸人はいつも通りの人当たりの良さそうな笑みを浮かべていた。感謝しながら水を受け取ると、クレイの右隣に攸人が腰を下ろした。彼のトレーの上には、ミニトマトの赤さが眩しいアクアパッツァが横たわっていた。
「早いな。お前もうちょっと遅いだろ」
 酸化クロム色の軍支給品腕時計に目を落とす。時計の針は未だ7時を少し過ぎたくらいを指していた―――攸人が食事を摂るのは、早くてもあと1時間は後だったとクレイは記憶していた。
「ちょっと考え事しててね」
 照れたように笑みを浮かべた攸人が白身魚を口に運ぶ。
「お前も考え事なんてするんだな」
「お前は俺をなんだと思ってんだよ」
 大仰に拗ねたように顔を顰める。ふーん、と相槌を打ちながら、クレイはスプーンをクリームの中に突き刺し、白い塊をかき出す。アルミのスプーンに掬われた生クリーム塊を口に運んで、クレイは眉宇を寄せた。
 てっきりとんでもなく甘いのかと思いきや、案外あっさりした味づけだ。それでも幾分疲労感の残っている身体には、その微かな甘さでも心地良かった。
「お前良く朝っぱらからそんなの食えるなぁ。甘くないのか?」
「疲労には糖分が良いんだよ。それにそんなに甘くない」
 攸人は首を傾げた。釈然としないように相槌を打った攸人は、再びアクアパッツァを口に放り投げた。
 クレイもあまり好みには合致しないパンケーキをスプーンで切り取り、舌の上に乗せた。
 かちゃかちゃと食器とアルミが接触する音が鳴る。
 クレイは、時折網膜に残光となって閃くエレアの顔に顔を青ざめ、ごくりと蠢動するみさきの咽喉の動作に背徳の悦楽を惹起させ、恐怖のあまり身体が震えそうになった。人間には誰しも狂気が潜んでいる―――そう語ったのは誰だったか。理性などは、人工的に抽出された人間観である―――。
 クレイは、エリートだった。正確には、エリート意識と自尊感情、自愛が凝固した存在だった。そしてそれに見合う能力を持っていたが―――正確には持っているが故に、彼は狂気を鱈腹子宮に孕んだ己の事実存在をまるで別な人間のような解離を感じていた。
 そして、実戦。超高熱のメガ粒子が飛び交う戦場、MSパイロットの死は形すら残らないことも少なくない。
 超高熱で身体が蒸発する。人間の尊厳など欠片も無い、あまりにも画然とした物理的死。死んだという感覚すらなく存在が消え失せてしまう―――それは他人事ではないのだ。もちろんMSパイロットを志した時点で、そうした未来を思い描いたことは何度もあった。だが、今おかれた状況は、かつてとは全く違う。実感を伴った虚無への還元が眼前に立ち現われているのだ―――がちゃがちゃとスプーンが食器に当たり、耳障りな音を立てた。
「おい、大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「あぁ、大丈夫―――」
 気遣う攸人の声に応じ、顔を向けたクレイは自失した。
 攸人の顔色もすっかり青ざめていたのだ。忙しなく耳障りな音を立てているのはクレイだけじゃなく、攸人もまたフォークを持つ手を震わせていた。
 目が会う。困惑したように攸人はたじろぐと、ぎこちなく表情をひきつらせた。
 いつも通りの表情に見えたのは、単に自分の観察力が乏しかったからだ、とクレイの悟性は理解した。
「俺ら、実戦に参加するんだよな」
 ああ、とクレイはほとんど動作も無く頷いた。
「俺―――人を殺すんだよな」
 クレイは、発声の仕方を忘れた。アサリの貝殻を弄り、丸々と太った貝の身をフォークに突き刺すと、虚ろな瞳でその肉片を眺めた。
「軍人になるって決めたから覚悟はしてたよ―――でもいざ本当に殺すんだ、と思ったら俺―――」
 クレイは、ほぼ無意識的にもりもりとクリームを乗せたパンケーキを口に運んだ。
 それが、攸人の『考え事』だったのだろう。クレイも、殺人を考えなかったわけではない。だがそれより、自己喪失の恐怖しか頭になかった。
 碌に味のしない、まるでゴムに温いボンドでも塗りたくったようなそれを咀嚼した―――。
「細胞の中身を見たことはあるか?」
 攸人が顔を上げた。
「まぁ俺も肉眼で見たわけじゃないんだが―――昔テレビで放送してた教育番組で、拡大したイメージCGで見たんだ。どんなんだったと思う?」
 攸人は首を横に振った。なるべく、クレイは表情を和らげようと努めることにした。
「核がでけー恒星みたいになっててさ、その周りにぽつぽつある細胞小器官が惑星みたいになっててさ。宇宙があるって思ったんだ。なぁ、細胞1つの核の中に折りたたまってる染色体を伸ばすと何mあると思う? 2mだぜ! んでその細胞が60兆個もあるんだ。細胞の中の染色体全部を繋げると地球と太陽の間何往復できる? 300だ、300」
 早口で言い切る。きょとんと目を丸くしてクレイを眺める攸人に、クレイは固い表情筋を無理に緩めた。
「まぁ何が言いたいかって言うとだ。人間の身体ん中にはそれこそ壮大な宇宙(ミクロコスモス)が詰まってるんだ。人間は宇宙なんだ、と思ったとき、俺はビックリしたよ―――そして、人間てなんて凄いんだろうって思ったよ。科学の発展で人間は物理的なヒトでしかなくなると昔は言われてた―――そして実際そういう見方は今でも根強いけどさ。でももしかしたら違うんじゃないかなとも思うんだ。科学の発展でヒトの身体が解明されて、むしろ叡智に目覚めたんじゃないかって。科学の発展は自然と言うシステムの中に確かに俺たちは存在していて、そして己の中にも実に秩序だった壮大なシステムが存在して。人間存在が、いかに偉大なものなのかを教えてくれたんじゃないか―――科学に基礎づけられた人間存在の尊厳ってのを、俺は考えることがある」
「そうした人間を殺める―――それは、尊厳を持った存在を殺すことだ。たとえ如何様な理由があっても、それは許されることじゃない筈なんだ。己も殺される覚悟があれば人を殺していいってのは一件真っ当な意見に思えるけど―――でも、己の覚悟なんて言う放恣な理由で、どうして人間を殺すことが許されるのか? 所詮それは大義のために何を成してもいいというテロリズムの愚行となんら変わらない」
 攸人は身体を震わせていた。赤らんだ目もとから、熱っぽい液体が滴っていた。
「お前はいい人だよ。そうして人を殺すことを悩めるんだ。神がいるかはおそらく論証不可能でそれこそ信仰に依るものだろうけれど―――神がいると仮定して、多分お前みたいな人を神はお赦しになると思うさ。神が存在しないなら、そもそも死んだあとは虚無だ。エピクロスじゃないけどな―――」
 半分ほどなくなったクリームの塊に銀のスプーンを滑らせる。僅かな甘さを、味蕾はなんとか拾っているらしかった。
 仮に、神が存在したら―――クレイ・ハイデガーという存在は、果たして赦しを与えられるのだろうか。神の恩寵は、このように不完全な欠陥品を救うのだろうか。誰かは、そういう風に調和しているからな、と笑みを浮かべそうだ。誰かは、それが神の知的意思なのであるからして当然だろう、と言うのだろうか。よく、わからない。
「わりい、お前も色々あるのに―――」
「いやいいよ。お前の国の『人間(にんげん)』って言葉が良く指示してるさ。人間の存在はただ己のみで在るのではなく、人と人の間にあるって意味だろ。人間は、孤独じゃないんだ―――」
 攸人はいよいよ嗚咽と共にアクアパッツァを口にいれていた。クレイは大丈夫さ、と攸人の肩を叩きながら、最後のパンケーキ片とクリームを口に入れた。結局、味はほとんどしなかった。
                     ※
 エレアは、夢を見ていた。
 漠然とした感覚に抱かれて、子宮の中を漂っていた。あるいは、それは大洋なのかもしれない―――ともかく、彼女は底抜けの、それこそ自分が間抜けなのではないかと思えるほどに思考がまとまらなかった。
 暖かい、と思った。懐かしい感じ。ずっと昔、自分はこういう存在だった―――。
 でも、何だろう―――エレアは散らばった思案をまとめていく。何か、違和感があるのは、何なのだろう。
 胸の中にぽっと灯った疑心は、されど対して持続しなかった。猜疑を維持するほど、エレアの思案は分化していなかった。
 時間が澱のように沈殿し、身体感覚が混沌としている。それ自体は慣れた感覚だった―――が、エレアは奇妙な違和感を覚え続けた。
 あなたは、だぁれ―――?

「サイコ・インテグラルシステム終了。モードインテグレイションからモードダイバージェンスへ移行―――分化措置、完了しました。フランドール中尉の意識レベル正常値で安定」
 アヤネの報告に頷いたフェニクスは、腕組みしたまま眼前のマシーンに目をやった。
 小型MS、RH-90《グリペン》をベースに、目的に従い腕部が切除され、代わりに背後やら脇からや夥しいほどの―――蟲が群がっているとすら見えるほどにケーブルが接合されたユニットは、薄暗いフロアの真ん中に物々しく鎮座していた。RH-35E《ドラケンE》のコクピットが強化ガラスで覆われていたのに対し、《グリペン》のレイアウトは大きく異なる。全面を装甲で覆われ、全天周囲モニターと同じ原理で内側に映像を投影するという機構になっている。その故に、外側から見る限り内側を窺い知ることはできなかった。
 微かに不安がよぎる。もう何度も経験しているからと言って、危険な実験であることに変わりはない。身体感覚及び時間感覚の積分を誘発するためのある種の薬物投与と暗示、そして感覚の統合から急激に分化へと移行する際の反動は、生得的に強化された人間でなければほとんど耐えられるものでは―――。
「やはりダメですね。構築現象―――ヴァルキュリアの発現は観測されてもほとんどミリ秒単位でしか持続しません。これ以上の試験はあまり実りのあるものとはならないかと」
 オーガスタ研の研究者は顔色暗く言った。そうですか、と応えるフェニクスの声は素っ気ない―――ゆっくりと開いていくハッチにほとんど注意を向けていたからだったが、非難されたと思った男は困惑気味にたじろいだ。
「以前も説明しましたが、元々サイコ・インテグレイションの技術母体はオーガスタのものではなくチャクラ研で研究開発されたものです。その上にチャクラ研究所自体が崩壊してしまっており―――」
 フェニクスはそこで手を上げた。うんざりするほど聞いた説明をわざわざ聞くまでもない。フェニクスにとっても、男にとっても益のないことである。男は複雑な表情を浮かべたが、ほっとしたように溜息を吐いていた。
「寄っても?」
「ええ、大丈夫です。ただあまり強度の刺激は控えるようにしてください」
 この会話も何十回と繰り返したルーティーンだったが、一度なりとも欠かしたことのない行為だった。わかりました、と研究者には目もくれずに言いながら、フェニクスは歩みを進めた。
 ゆっくりと―――実際は早歩きで―――《グリペン》を改修したユニットに近づいた。
 何人もの技術者がユニットの周囲を取り囲み、慎重に接続されたケーブルを着脱あるいは再び差し込んでいく。隣に併設される形で設置された管制ユニットに座っていたアヤネはフェニクスの隣に、どこか不安げに並んだ。
 医療スタッフがコクピットの中からエレアを壊れ物のように丁寧に運び出す。ぐったりするでもなく、ベッドの上に置物のように横たわったエレアの瞳は未だ閉ざされていた。点滴やらなにやらの処置を施される彼女の側に近寄ると、エレアのガーネットの瞳が重たげに開く。あちこちを恐々と彷徨った後、フェニクスの姿を映した彼女は、強張った表情筋を痙攣させた。
「フェニクス?」
 雪のような少女の声に、フェニクスはいつも通りの声色で応じた。そっと握ったエレアの手のひらは氷のように冷たい。その事実に動じなくなってしまったことに苛立ちを募らせ、それでもフェニクスは欠片ほども感情を表出しなかった。
 エレアは困惑したように眉間に皺を寄せていた。恐らく今ここがどの時間にあり、また自分の視覚聴覚嗅覚触覚味覚各々が、どういった類の感覚を自分に齎してくれるのかを区分けできていないのだ。未だ彼女は、全は一であり一は全であった時の感覚を引き摺っている。言わばそれは、生得的に全盲だった人間が、不意にヴィヴィッドな世界に投げ込まれた様なものである。あるいは、生得的に全聾だった人間が、不意に躍動感あふれるリズムの世界に投げ込まれるようなものである。
「―――クレイは変だと思ったかな?」
「何がだ?」
「『昨日』の服装。あの靴下ずり落ちないようにする―――」
 エレアの表情が歪む。
「あれはずっと前のことだった?」
 そうだね。そっか。短い言葉を交わした後、彼女は難儀しながら目を細めた。
「ありがとね」
 ずきりと心臓の内側から針が突き出た。
「フェニクスと先生のお蔭で―――大事なこと、知ったから」
 右心房のあたりから生えた不可視の棘が不随意筋の壁を突き破っていく。それでもフェニクスは表情をミリほども変えずに、無言で微かに頷いた。
 エレアの口が強張る。息が漏れるように喘いだ彼女の口元に耳を当て―――。
 ―――ま、も、る、か、ら―――?
 何か言いかけ、そうしている内に彼女はうとうとし始めていた。
「大尉、そろそろ―――」
 医療スタッフの班長を務めている男がフェニクスに声をかけた。脂肪のたっぷりついた顔に、申し訳なさそうな、もどかしそうな表情を浮かべていた。
「―――すまない。貴様たちの邪魔をした」
 いえ、と太り気味の男は首を横に振った。それ以上、その男とは話も無く、エレアを医務室へと連れて行った。
「なんて言っていましたか?」
 隣に立っていたアヤネは、身を縮めていた。
「―――聞こえなかった」
 フェニクスは、エレアが運ばれていく様を見届けながら―――何故か言わなかった。それを言うことは、神的な何かを無法に踏み荒らすことと同義であるように思われた。そうですか、とアヤネは言ったきり、押し黙ってしまった。
「大尉はフランドール中尉を実戦に参加させるおつもりで?」
 研究員は、酷く事務的な言い方で言った。アヤネは不愉快そうに男の方を見た―――が、フェニクスはやはり表情を変えなかった。
 いかにも学のあるエリート学者。そんな風貌の眼鏡の男は、だからと言って冷血で人を純物理的物質によって構成される機械と変わらないものとしか見ない、人間非ざる者というわけではない。家に帰れば妻と娘を持つ人間である。ただ、彼は私的人間であるのと同じ存在論レベルで社会的人間なのである。だから、フェニクスは今更に男のその科学者の眼差しに嫌悪感を覚えることもしなかった。
「財団の方々はデータが欲しい。予備はあまりにも不安定で実用段階ではない。中尉は生得的強化によりインテグレイションに耐えられる―――投入しない理由があるとしたら、試験小隊故に戦闘する相手の技量でしょう?」
 男は―――表情を変えなかった。男もまた、フェニクスの心情を察していた。
「相手は高々ジオンの残党で、連邦軍は大規模な軍隊を使用するつもりです―――財団もそこまで早急にデータを欲しがっているわけではありません。慎重を期すべき、と私は判断します。《リゼル》の護衛以上には戦闘には参加させません」
「同意見です。フランドール中尉は貴重な被検体ですからね、不用意に喪失のリスクを負うべきではありません。予備体は中尉に比べれば未完成ですから―――」
 男はまるで赤子のように言葉を並べ続ける。
 フェニクスはただ彫刻のような表情のまま、研究員の説明を聞き続けていた。 
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