機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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44話
デブリーフィングの後、結局クレイはシミュレーターに籠っていた。
単純に、ピュロン主義的判断保留を行っていたに過ぎない―――エレアの元に行けばいいのか、行かない方がいいのか。
《ギラ・ドーガ》の斬撃をシールドで受け止め、彼我距離0の状態でコクピットにビームライフルの弾丸を撃ち込む。立て続けに鳴る警報音にクレイの環世界はヴィヴィッドに反応し、反撃を撃ち込む―――。
シミュレーターを終えたのは、それから何時間か後だった。オペレーターを務めていた下士官の誰かに叩きだされる形でシミュレーターを終え、そのままシャワールームに直行する。就寝時間ぎりぎりのせいで、使用者はクレイ1人だけだ。カーテンで仕切られる個室に入り、やや熱いくらいの湯を頭から被る。疲労の溜まった身体に心地よい―――ほう、と溜息を吐いたクレイは、正面のガラスを見た。
水垢がこびりつき、釈然としないガラスに映る自分。鍛え抜かれた―――というにはまだほど遠いが、それなりに鍛えた身体。やや長くなり始めた前髪は、そろそろ小ぶりな団子のような鼻にかかるくらいになっていた。
冴えない面だった。顔立ちが、ではなく、いかにも疲れていますと言いたげなその顔が、気に入らなかった。
疲れたような素振りをするな。お前は全然疲れてなんかいないんだ―――。
手のひらにお湯を溜め、それを顔面にぶちまける。鼻を水が逆流し、つんとした痛みを感じながらも特に気にはしない。全身をしっかり洗い、お湯を止めると腰にタオルを巻いて外へ出た。脱衣所へ行くまでにタオルですっかり水気を落とし、ロッカーの自分の服を―――さっきまで着ていたよれよれで汗臭い服を身に着ける。もちろん部屋に行ったら着替えるつもりだ。
入口のドアが開く音に、クレイは顔を上げた。
サナリィの職員の制服を着た男が慌てたように服を脱ぎ、ロッカーの中へ投げ入れていく。視線を離したクレイは、ヘアトリートメントを髪に着け、ドライヤーで乾かしていく―――。
「うわ!? あっっつぅい!」
シャワールームから悲鳴が聞こえた。温度調整をミスったのだろう。
「大丈夫ですか?」
ドライヤーで髪を乾かしながら声を張り上げる。「ああ、大丈夫だよ」と平常な声で男が返した。
「前に使ってたやつがやたら高温に設定していたらしくてね……気づかなかったよ」
なるほど急いでいたからか―――お大事に、と声をかけたクレイは、ヘアトリートメントのお蔭ですぐに髪が乾いたことを確認すると、共同のシャワールームを出た。
少しだけ、乾ききらなかった髪を弄りながらもいつも通りの経路で部屋に向かう。踊場の鏡を無意識的に見ないようにしていることについぞクレイは気づかないまま、自室の前についた時だった。
パスワードを入力しようとした瞬間、自動ドアが音も無く開いた。
心臓が一度、大きく跳ねた。だってそれは、彼女がいる合図で―――そして、確かに部屋の中には人の姿があったからだ。狂乱したように彼女の名前を呼んで部屋に入ったクレイは、しかし振り返ったその人物に息を飲んだ。
「あ、ハイデガー君久しぶり」
ぱっと花開いた無邪気な笑みは、しかしエレアの笑みではなかった。
「―――ミサキさん?」
「そだよ、覚えてくれてたんだ。嬉しい」
にこにことした笑みのまま、彼女―――扶桑みさきがころんと首を横にした。
忘れるわけがなかった。だって彼女は、初めてクレイが性的に欲情して、自慰のネタにして、そして初めて告白して見事に玉砕した女だった。明確に初恋―――を描いたのは、確かにこの極東出身のアジア人だった。
「ミサキさん―――連邦軍に入ってたんですか?」
「うん。MSのパイロットしてるんだ」
平然と彼女は言った。
ニューエドワーズに居て、MSパイロット―――つまりそれは、試験部隊にいるということなのか?
クレイの疑問を感じたのか、みさきは破顔して「警備部隊だけどね」と続けた。
「流石にいきなり試験部隊になんかなれないよ。わたしは頑張ってコロニー警備部隊に入るのでやっと」
特に後ろ向きなところもなく、ころころと言った。
だからか、と思った。試験部隊の人員を記録してある資料には一度目を通してある。すべての人間を覚えているわけではないが、それでも昔の知り合いと同姓同名の名があったら普通記憶に残るものだ。が、コロニー警備部隊には目を通していなかった。
「ハイデガー君はやっぱ凄いね、新任で教導隊に入っちゃうなんて。チュウガク―――ジュニアハイスクールの時から頑張り屋さんだったもんね。初めて聞いたとき嬉しかったよ」
今日は、なんだか褒められる日だ。やはり良い気分になりながらもそれを封殺し、ぎこちない笑みを浮かべた。
「ミサキさんの方が俺よりずっと頭良かったじゃないですか。運動だって出来たし、生徒会長とかだってしてたし―――なんでわざわざMSパイロットなんか目指したんですか? ミサキさんなら官僚にだってなれたでしょう」
「んー、まぁMSって格好いいなぁって思ってさ。それでそのまま」
呆気にとられる。ただそれだけの理由で、MSパイロットの道を選んだのか―――本当に、彼女は頭が良かったのに。才媛、という言葉は彼女のために在ると言うほどの才女には、もちろん官僚なんかじゃなくても様々な選択肢があっただろうに。
いや、そういうものなのだろう。いい仕事に就く―――そういう観念ではなく、己のしたい仕事をする。ただその心のおもむくままに、みさきはMSパイロットを選んだのだろう。
だとしたら、ちょっと羨ましい。クレイはただ、皆から尊敬されたくて―――ただそれだけのために、社会的地位のある教導隊という選択肢を選んだ人間だったから。自由にのびのびと思考できるほど、クレイの回路は柔軟には出来ていなかった。
琳霞の姿が、一瞬網膜を掠めた。
ぽすんと空気の音を立て、みさきがベッドに腰掛ける。
「そういえば、どうして入れたんですか? というかなんで俺の部屋に―――」
「どうしてって、ハイデガー君元々ロックしてなかったよ?」
「―――え、マジ?」
「マジマジ。おっちょこちょいなんだから」
からからとみさきが笑う。記憶を辿ったが、よく覚えていなかった。
「ちょっと前に街で見かけてさ、ハイデガー君ここに配属だったんだなーと思ったら会いたくなっちゃって。ホントはもっと前に会おうかなって思ってたんだけど、君サイド3に行ってたからさ―――あ、そうそう! エレア、ってあの時手繋いでた子? 彼女なの?」
クレイも椅子に座ったところで、みさきがぐいと身を乗り出した。
街で見かけた―――手を繋いで―――すぐに心当たりが見つかった。初めて、人生でまともに『デート』なるものを体験した時だ。その後は何かと忙しくて、基地内でしか彼女とは会う暇がなかった。「まぁ、そうなるかな」と照れたような、複雑な笑みを返すと、みさきは満足そうにうなずいた。
「彼女出来たんだ、良かったね!」
「えぇ、ようやく初めて…」
「あれ、そうなの?」
みさきが驚いたように目を丸くした。そして、事態を理解したらしいみさきはははぁと納得したようにこくこくと頷いた。
「一目惚れして即告るって、そりゃ彼女も出来ないですよね…大して顔も良くないし」
「いきなり好きって言われた時はビックリしたよ。ほとんど喋ったこともなかったのにさ―――」
かつてを思い出したようにみさきは笑った。
深刻な事態というのも、過ぎてみれば笑い話になる―――そういう、ものなのだろう。クレイも表情筋をなんとか動かし、苦い笑みを返した。
みさきは変わらない。親しみ深くて、分け隔てのない人だ。それをみさきは自分のことが好きなのだろうかと錯覚して、自爆したというわけだ―――思い出してみれば、確かに間抜けな笑い話だ。
息を吐いた時、クレイは愕然とした。
息が少し苦しかった―――心臓が奇妙に拍動し、肺を圧迫しているようだ。
みさきはすっかり成熟した女の肉体に、日本人らしい幼げな顔立ちで、クレイは確かに眼前の質料的存在者に欲情を抱いた。勃起しそうなのを隠すために足を組むようにした。
「今の彼女も同じパティーン?」
「まぁ今回も同じ…というか、今回は相手から逆パターンというか…」
「似た者同士かよ。銀髪で不思議そうな見た目だったもんね。大人しそうなのにガーターなんだぁとか思ったケド」
乾いた笑声を出した。あのミニスカにニーソとガーターという組み合わせは、後後やはり攸人の指図だったことが判明していた―――曰く、クレイとデートするなら、と攸人とエレアが買い物に行ったときに攸人が半ば冗談交じりに買ったのを、エレアが真に受けた結果らしい。あの時2人で居たのはそういうことだったらしい―――。
そうだ、エレアはクレイにわざわざ気に入られようとまでしてくれたのだ。彼女は確かに自分を好きでいてくれているのだ。なのに、なのに―――。
みさきがそろそろと立ち上がった。一歩、クレイに近づいて、彼女は静かに腰を落とした。
身体に重さがのしかかる。みさきが、クレイの胸に顔を埋めて―――。
「ミサキさん!? 何を―――」
「わかんないけど、なんかクレイと話してたらこうしたくなっちゃった」
心臓が酷く脈打つ。みさきの手が背に回り、肉体はぴたりと接触し合っていた。
これも、彼女は単にスキンシップ好きというだけの話なのだろうか。エレアと同じくらい、軍服越しでもわかる肉の柔らかさに戸惑っていると、そんなクレイの思惑を知ってか知らずか彼女の手が背から腰に回り、そのまますっかり出来上がったクレイそれ自体をカーゴパンツの上から妖しく愛撫した。
大脳皮質が悲鳴をあげる。逃げるように悶えるのをあざ笑うように、みさきは手慣れた手つきでパンツのファスナーをおろし、下着前面の開閉部から抜き出した。
みさきの手つきは恐ろしくこなれていた。彼女の手がドアノブでも回して引いてはその逆の動作を繰り返すようにするたびに腰が砕けそうになり、ダメだと言おうにも酸素の足りない魚のようにパクパクと口を開けるだけだった。
右手で玩具でも扱うようにしながら、身体を起こしたみさきはクレイの咽喉元に舌を這わせ、そうして外耳に温い息をかけ、異生物のような舌が耳を支配する。
お口でしてあげようか?
甘く囁く声に、クレイはきつく目を瞑った。もうダメだ、これ以上は本当に―――。
けれど。
腰を砕き脊髄を痙攣させ視床下部を溶かすそのパシオーに、クレイは抗えなかった。否定もせず、肯定もせずに息を荒くしていた様を肯定と取った彼女は、そのあどけないかんばせに、成熟した雌の色香を漂わせた。
あとはもう、流されるままだった。膝をついた彼女はクレイのそれをゆっくりと、だが確かに動物と人間の境界的部位で咥えた。みさきの口とその内部を構成する部位は深淵のような快楽を生み出して、おかしいほどに感覚が先鋭化していたクレイは10数分で彼女の口の中を汚した。
幽霊のように、ゆらゆらとみさきが立ち上がる。口の中に淀む腐敗した人間存在の汚泥を吐き出しもせず、ごくりと口の中の液を飲み込んだみさきがジャケットを脱いで―――。
すうすうと寝息を立てる裸体のみさきを抱きながら、クレイは彼女の頭を優しく撫でた。
ばらばらに砕けた思考を、頭の中の自分が必死に接着しようとしているのを漠然と眺めていた。
どうして自分はこんなに愚かなのだろう。どうしてクレイの事実存在は本質存在を殺すのだろう。
エレアを侮辱して、そして後悔することでみさきのことも侮辱して。
何かが頬を伝った。そうしてうじうじしていることに腸が煮えくり返るようだった。
全身を震わせ、顔色を青ざめさせたクレイの本質存在は、虚ろな意識のままベットから抜け出した。
みさきを起こさぬように床に立つ。衣服を着用し、椅子に座ってもまだ瞳からは冷たい液体が流れていた。
いけないことをした。してはならないことをした。
だというのに、何故みさきとのセックスは異様なほどに心地よかったのだろう。その背徳の悦楽に戸惑い、嘔吐感を催しながら、クレイはデスクに突っ伏して音も無く嗚咽を吐いた。
どうして自己の存在はこれほどまでに欠陥品なのか。
所在なく宙を彷徨ったクレイの手が何かに当たる。分厚い、本、だった。拍子に描かれたつぶらな瞳が、親しげにクレイを凝視していた。
ぽつねんと荒野に一人佇むように、クレイは過去と戯れはじめた。ぺらぺらと空気を撫でる紙の音が耳朶を打ち、不愉快そうに顔を顰めたアエルがあてつけのようにクレイの頬をぺちぺちと叩く。
クレイは、右下の端に書かれたページ数、1という数字を目にすると、そこでページを繰るのを止めてその冒頭へと視線を落とした。
幾何学の精神と繊細の精神との違い―――。
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