機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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40話
シャワールームから出たクレイは、まだ長くなり始めた髪の毛がドライヤーで乾かしきれていないことを右手の人差し指で前髪をくるくると巻きながら確認しながら、しんと静まった廊下に軍靴の音を鳴らしていた。無神経と言えば無神経な音なのも、仕方ない話ではある。消灯時間はすっかり過ぎてしまっていて、静まり返った部隊員宿舎はとっぷりと熟睡しているのだ。慎重に歩いてもかつかつと音のする軍靴にやや苛々を感じながらも、一階から3階にある自室へと向かう。
かつ、かつ、とコンスタントに蝸牛を揺さぶる波が鳴る。
階段を上がる。夜間のエレベーターの使用は禁止されていたし、そもそもクレイはエレベーターを使わない人間だった。
灰色に淀んだ視界。琳霞の声が揺れもなく鼓膜を叩き、耳小骨を伝わり、リンパ液を揺さぶった。
自分は、何故教導隊に入ったのだろう。否、そもそも何故クレイ・ハイデガーは軍人と志したのであろう?
答えは自分の中に当然のように存在していた。
ただ、誰かから凄いと思われたかった。ただ、そのために自分は凄くならなければならないと思っていた。
それだけである。そこに高潔さは無く、ただ己というモナドの内側にのみ目を向ける存在者でしかない。
なんと卑小なことだろう!
もちろん、動機を他者と比べることが無意味であることは理解している。後ろ向きな思案が時に偉大な結果を生み出すことも、知っている。
だがそれでも、クレイはその自己の矮小さが許しがたかった。
かつ、かつ、とコンスタントに蝸牛を揺さぶる波が鳴る。
憤懣が臓腑から沁みだして脊髄を浸透し、そのまま脳みそを腐らせている。
エレアに会いたかった。彼女の顔を見たかった。滅茶苦茶に彼女の身体を好きにしたかった。スクール水着でも着せて彼女を後ろから犯してやりたく―――。
かつん、と鋭い音が聴覚神経を打ち鳴らす。ぎょっとしたクレイは思わず顔を上げた。
階段の踊り場に出たのだ。
ぞっとするほどの冷風が首元を掠めていった。
何を考えていた? のろのろと踊場から次の階段へと向かう曲がり角を正面に見たところで、クレイは愕然とした。
鏡があった。こんなところに鏡があったか? でも鏡はあった。踊場に据え付けてある、縦60cm、横30cmほどの小さな鏡。丁度クレイの顔の位置に存在するそれ―――。
嗤っていた。
ずっとその顔を見返す―――見間違い、と気が付くのにさして時間は必要なかった。写っていたのは、どこかぼんやりして取り柄のなさそうな凡夫がただ、間抜けな面を晒しているだけだった。
手が震えた。
ぐしゃぐしゃになった混沌の有機体的情念に行き場を失ったクレイは、拳を振り上げて鏡を殴りつけ―――。
なかった。その寸前で拳を止め、身体を瞋恚に震わせた。殴る代わりに両手を壁に着いて崩れ落ちたクレイは、ただ気体化したタングステンを肺から絞り出した。
疲れているんだ。そう、前に誰だったかが言ったように、自分は疲れている。だから休まなければ―――。
顔をごしごしと拭った後、倦怠感を背負いながら立ち上がる。足がふらつく。ばちんと太腿を引っ叩いた。
かつ、かつ、とコンスタントに蝸牛を揺さぶる波が鳴る。
もう一階分階段を上る。途中の鏡は無視し、上りきると同時に息をつく。後は階段を右手に曲がり、突き当りを左に回れ右すれば自室はすぐそこだ。
インターホン付きのタッチパネルに手を伸ばしかけると、ご親切にもスライド式の自動ドアは音も無くクレイを出迎えた。
このタイミングで―――? 網膜に映る残像に気取られながら、クレイは所在をなくした足取りで部屋に入った。
こじんまりとした部屋だ。ベッドと机があって、歓楽街で買い足してきたカラーボックスにはぎちぎちと本が並んでいた。早々に2個目の本棚を買い求めるべきだろう。
部屋にはいつもの甘ったるい匂いが横溢していた。
大脳の奥の方の部位の命令で、クレイはベッドの方に目を向けた。
こんもりと膨らんだ毛布。規則正しく上下する毛布の下からは、銀色の光が覗いていた。
動悸が早まっていた。クレイの事実存在性は、確かに彼女の身体の柔らかさと膣の引き締めと感触を、子宮の内のアタラクシアを貪婪に要求していた。
何をやっているんだ。チェアに腰掛け、ぎゅっと目を瞑る。
冷静になれ。疲れているだけだ。早く寝なければ―――。ぐしゃぐしゃと髪を掻き毟っていると、クレイの気を知ってか知らずかむくむくと毛布が盛り上がり、頂点に達するとずり落ちていく。
目が遭った。薄暗い部屋の中でも恐ろしいほどに妖しく光る一対の真っ赤なガーネットがクレイの奥底をひたと見据えるように、鋭角的な輪郭を刻む。
「どうしたの?」
赤い輪郭は既に崩壊していた。白いかんばせに影を差していたエレアの不安げな顔がクレイに注がれていた。
なんでもないよ、と務めて笑顔を作ったが、エレアは不安げな顔立ちを変えなかった。
全く不意に、彼女は自分を『見て』いるのではないかという不安が鎌首をもたげた。本当に何でもないから、と取り繕っても、エレアの表情は変わらないのだ。
ぞっとした。自分のこの醜さを、よりにもよって彼女に見られているなんて―――。
内心で舌打ちした。そんなわけはないのだ。エレアは普段は見ていない、と確かに言っていたではないか。
頬を、音を立てて引っ叩く。目を丸くしたエレアに、クレイは照れ笑いを返した。
「実はちょっと疲れてるんだ。眠くて眠くて」
よっこらしょ、と大義そうな掛け声をして立ち上がる。クレイに見上げたエレアの赫い瞳は、どんどんと輪郭を失っていた。
エレアの隣に静かに座る。いつものように、そっと壊れ物に触れるように右手を上げて彼女の頬に触れた。艶やかな彼女の白い肌は温かくて柔らかくて―――。
何かがちらちらと光った。
ガーネットから垂れた雫が彼女のミルキークォーツの肌を流れ、クレイの手を伝う。
「なに? 俺何かした?」
慌てて手を引っ込めるが、彼女は滔々と涙を流し続けたまま、声も無く首を横に振った。
「ごめんなさい」
彼女の声は、やはり涙に滲んで掠れていた。
「何が何だか……言ってくれなきゃわからないよ」
わざとお道化たように肩を竦めて見たが、エレアはただ謝罪の声を繰り返すだけだ。クレイは戸惑いながらも、彼女の酷く小さな身体をそっと抱き寄せた。エレアはクレイに縋るように肩を掴みながら、未だにごめんなさいの繰言を吐き続けて、小さな小さな身体を衰弱したように震わせ続けた。クレイは、ただその巣から落ちた裸の小鳥のようなその震えに対して、あまりにも無力だった。
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