機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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30話
エイリィ・ネルソンは、いつも通り気分よく目覚めた。さんさんと降り注ぐ太陽光―――といってもエイリィは人工の太陽光しか碌に感じたことは無いが―――は、一番の目覚まし時計だというのがエイリィの持論だった。
ズム・シティは流石観光コロニーの首都というだけあり、立ち並ぶネオンのビル街には驚かされる。早朝とはいえ既に忙しなく活動している街をホテルの窓から見下ろしていると、背後からうめき声にも似た欠伸が聞こえた。振り返ってみれば、半裸の男がとんでもなく眠たげに目元を擦っていた。そうして、判然としない視線をエイリィの方へ向けていた
「起きるの早いなぁ」
「起こしちゃった?」
「いや、普段はこの時間には起きてる」
ちょうど頭の上の壁際に据え付けられた時計を見た黒髪の男―――神裂攸人は、今がAM5:00を15分回ったほどの時刻と把握し、柔和な笑みを見せた。
「あーそっか、今は連邦の軍人なんだっけ」
ぽん、と手を打つ。そもそも攸人が連邦軍に居て、このサイド3にいる理由をつい忘れてしまっていた。
だがしょうがないではないか。エイリィにとっては、今は攸人と共に居られることが何より嬉しいことであり、『お堅いこと』は忘れていたいのだから。忘れてたのかよ、と呆れた素振りを見せながらも、笑みは崩さないあたりそれは攸人も同じらしい。素早く身を翻したエイリィは、そのままベッドに半身を起こしているだけの攸人の胸へとダイブした。
本来ならしっかりと攸人が抱き留め、ちょっと時間のたった焼きりんごのようなひと時が待っている―――はずだったが、眠気に負けた攸人と共に、勢いのままにベッドへと寝転がるハメになった。
「朝から元気だなぁ。3時間も寝てないのに」
目を丸くした攸人は、それでも破顔しながらエイリィの腰へと手を回した。
「ユートは温かいしベッドは良い匂いでふかふかだしサイコ―だワイ」
「なんだよ、俺はヒーターなわけ?」
「違うの?」
大仰にむっとした顔つきをした攸人の手が不意に腰から上へと這い上がり、エイリィの腋へと長い指先が闖入した。攸人の指の腹がエイリィの体表でも極めて脆弱な皮膚を刺激するのを合図に快楽ともつかない擽ったさが惹起し、劈くような悲鳴を上げた。
げらげらと一頻り笑った後、エイリィは全体重をベッドに預けた。
「でもベッドが最高なのは事実だよ。わりーね、金出してもらって」
「いいさ、連邦は結構金出してくれるし。良い職場なんだ」
ふーん、と攸人の顔を見上げる。ベッドから窓の外を眺める攸人の顔は、皮肉や揶揄は感じられなかった。
「本当にいいとこなんだね」
「うん?」
「いい顔してるよ」
そうか、と攸人エイリィに目を移す。こそばゆいような攸人の笑みは、まるで―――そう、まるで、母親に褒められて照れ笑いを浮かべるジュニア・ハイ・スクールの少年のようだった。
だが、そうかな、と呟いた攸人の顔からは、そんな無垢さは感じられなかった。むしろ色のない表情は―――。
エイリィは、だからと言って特に攸人に何かを聞こうとは思わなかった。悩みがあるなら話を聞こうか、というのはある種の傲慢で無知な所作でしかない。悩み、とは言語化し難い言説化以前の出来事、前理性・前本能的な本性が行き場を無くして心の裡で彷徨っている状態に他ならない。自我に統制され、明晰に語り得る悩みなどその時点で悩みと呼ぶには値しない。
結局、特別な言葉は交わさずに朝のバイキングまでの数時間を泥濘のように混ざり合い、朝食を腹に詰め込んだエイリィは攸人と別れた。別れ際の口づけは無かった。そうして、そんな関係でいい、と思う。元々恋人同士というわけでもなく、単に友人関係に多少の―――正確には結構な―――肉体関係がある程度の間柄なのだ。あんまりねっとりするのも関係を壊すだけだった。それに、今は友人関係以外にもしがらみがあるのだからなおさら慎重にもなった。
「なぁ、そんなのでいいのか?」
別れ際、攸人が不思議そうにエイリィのハンドバッグを指さした。攸人の指の先では、無地のハンドバッグから可愛げな熊のぬいぐるみがぴょこんと頭を出していた。昨日、攸人が何か買おうかと提案した際に、エイリィがねだったのがこの熊のぬいぐるみだったのだ。
「全然オッケーだよ」
「そうか?」
ぽかんとした攸人の顔が、なんとも愉快だった。
熊のぬいぐるみ。確かに子どもっぽいと言えば子どもっぽいもので、いい大人が男に頼んで買ってもらうようなものではないのだろう。だが、エイリィにとって熊のぬいぐるみは大事な物なのだ。あれはそう、一年戦争の末葉のサイド3の出来事で―――。
ぶると肌を震わせたエイリィは、考えるのを止めた。その後、2、3やりとしたエイリィは攸人と別れた。
Tシャツにジーンズだけという何とも適当な服装で都心を歩く。街の中心部から外れの方へとエレカを乗り継ぎ、あるいは観光目的にきょろきょろ。小型のタブレット端末とアナログな地図との睨めっこをしている姿に釣られて言い寄って来たがきんちょを散々にからかったり、途中アイスクリームの屋台でチョコミントを買い食いしているうちに、目的のビジネスホテルにようやく到着した。一応、安堵する。勇んでビジネスホテルに入り、エレベーターに乗り込み5階まで上がると、チェックイン済みの503号室のドアを開け放った。
「ただいまよー」
「おかえりなさい」
勢いよく声を出すと、茫洋とした返事が返って来た。右手の3点ユニットに阻まれた入口から中に入ると、ベッドの上で難しい顔をしてコンビニのパンを並べているマクスウェルがのろのろと顔を上げた。
「隊長、何していらっしゃるのですか?」
「いや、どのコンビニのパンがうまいのかが気になってここ周辺のコンビニの焼きそばパンを買って開けたんだが」
コンビニの袋をシートにして、コッペパンに挟まれたソース焼きそばがてらてらと陽光を受けて光を放っていた。4つ並んだそれらを見比べたマクスウェルは、途方に暮れたようにもう一度エイリィを見上げて、肩を竦めて見せた。
「どれがどこのコンビニのかさっぱりになってしまった」
確かに、ただむき出しに置かれた焼きそばパンは多少の違いはあれども、ほとんど違いは判らなかった。
「どこのコンビニかわかるようにパンが入っていたビニール袋を下に敷くとかすればよかったのでは?」
肩を落として隊長を見返すと、眉間に皺を寄せたマクスウェルが腕を組む。
「それでは公平性が保たれんと思った次第」
「はぁ……」
うーむ、と唸りながら食べかけの焼きそばパンを口に押し込むマクスウェル。悩みは継続中だが、焼きそばパンの味には納得したようだ。固く結んだ眉も少しだけ緩んだ。
「なんだその―――クマ? みたいなものは」
マクスウェルの視線はエイリィのハンドバッグから顔を出す黒々とした物体に注がれているらしかった。
「買ってもらったんです。前から好きなんですよね」
「あぁ―――」マクスウェルはやや得意げな顔になった。
「リア王? とかいう奴だな。俺も知っている」
うんうんと頷く―――リア充と言いたかったのだろうか? とことん真面目なはずなのにどこか抜けた男―――。
「リア王ビームに焼かれて蒸発しろ!」
「―――――リア王が何をしたっていうんですか」
「何? こういうのがテンプレなのではないか?」
「違いますよ。無効」
む、そうか、ときまり悪そうにもぞもぞしたマクスウェルは、無理やり話題を変えるためにとてもわざとらしく咳払いのような詰まった声を出した。
「それで、彼はなんと―――あ、これ食うか?」
残りの焼きそばパンのファランクスと戦闘を始めたマクスウェルが言う。エイリィもバッグをベッドに放り出し、腰を下ろし、マクスウェルが差し出してきた新品のコンビニのパンを受け取った。
サバの塩焼きバーガー―――とりあえず紙の包みを破いた。
「いえ、特に。やはり『あっち』はあっちで独自に動くようです―――あ、美味しい」
だろうな、と焼きそばパンのレギオンを鎮圧し、手を叩いた隊長が険しい顔をする。元々予定していたわけでもなく、望み薄とはいえ期待していたのだが。ペットボトルのコーラを飲み込んだマクスウェルは、憤懣やるかたないといった風に、サーモンソテーを挟んだパンを開けた。軍人の楽しみは古来より食事とセックスしかないが、マクスウェルのメーターはほとんど食事に振りきれていた。いかつい顔立ちの男の趣味は、ほとんど食事しかないのである。エイリィはどちらも充足していた。
「出資者は何をお考えなのやら」
「まぁ邪魔はしないとは言っていますから」
「だといいがな。インテリ風情のクソガキどもが調子に乗って……」
パンの半分を無理やり口の中に詰め込んだ。
「あープルートといちゃこらしたいー」
ベッドに寝転がったエイリィは、気の抜けたように丸い声を吐いた。生産性の無い会話はやめにしよう、という意図だったが、その発言自体あまり生産性が無かった。それでもマクスウェルは察したらしく、気の抜けたようにベッドに寝転がった―――ライスボールを口に押し込めながら。
「今までお楽しみだったんじゃないのか?」
もごもごとした声色だった。食事となると、いつもの俊英さと威厳は微塵も無く掻き消えてしまうのである。
「隊長、デザートは別腹でしょう?」
「なるほど……なるほど……?」
なるほど、と口にはしているが、あまり納得はしていないらしい。再び眉間に皺を刻んだ隊長は、はたしてエイリィのプルートデザート説について思いをめぐらしているのか、任務について考えているのかはわからなかった。おそらく、前者だろう、とエイリィは考えることにした。
「そう言えばプルートは上手くやっています?」
「さっき定時連絡があった。目標にはまだ合っていないようだが何か興味深いことがあったようだな」
「興味深いこと?」
「あぁ―――まだ詳しくは言えないようだが」
「いい人でも居たのかな?」
どういう意味でのいいなんだ、とマクスウェルが眇める。それは特に気にもせず、プルートのことを思い浮かべ―――あ、と一つ思い出した。
「そういえば彼が言っていましたよ。教導が一通り終わったらリゾンテでゆっくりするって。プルートも行くそうで」
「リゾートかぁ……」
マクスウェルは生真面目に悩み顔をした。エイリィにはそれがちょっと驚きだった。マクスウェルは食べ物のこととなると執心が強いが、観光や娯楽には全く興味がない堅物と思っていただけに、リゾートと聞いて悩み事をするとは思わなかった。隊長の違う一面を見たようで新鮮な気分に―――。
「青い海……魚が旨そうだな。確か養殖もやってるんだったか?」
やはり隊長は隊長だった。脳神経の発火が作り出すビビットカラーの魚料理に唸り、そうしてそれを口にできないことに肩をがくっと落とす大尉に同情していいのか呆れていいのか。困惑しながらも、エイリィは寝転がったまま奇声を上げて伸びをした。
「あたしもリゾートいきたーい!」
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