機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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15話
「よっこいしょ」
年寄りくさい掛け声とともに、アヤネ・ホリンジャーが両手に抱えるようにして持った本の山をテーブルの上に置いた。文庫本からハードカバーの本まで雑多な種類の本たちは、その見た目に反して中々重い。単なる物理的重量から重いと感じるのか、あるいはこの本に積まれた知識がアヤネの主体性に重さがあると働きかけるのか。ともあれ相当の重量があったらしく、アヤネの後についてきたクレイと紗夜のほかには誰もいないラウンジの中に鈍い音が響いた。
クレイも同じように本を置くと、すぐ後ろからよたよたとついてきた紗夜のもとに駆け寄る。
「も~こんなことに付きあわせないでよ……」
げんなりと顔を顰める紗夜。身を縮めながら謝意の言葉を口にするクレイは、彼女の抱える本の山を代わりに受け取ると、丸いテーブルの上に置いた。
「まぁこんなもんかな。なんかいらない本ある?」
振り返ったアヤネのツインテールと白いリボンが揺れた。24歳と僅かに1歳年上の彼女の容貌は、年の割に幼い。それでいてスラッと伸びる身長は170近くあり、グラビア雑誌を捲って彼女が写っていてもなんの違和感も抱かないであろう。グラビア雑誌など生来買ったこともなければ、華のある女性という存在とは終ぞ無関係だったクレイには仕事仲間以上の関係にはならないだろうなという相手だったのだが―――。
彼女の言葉に従うように、何冊か本を取る。著作者は有名どころが一杯だ。それに関する研究書なども多い。
「結構込み入った話の研究書なんかは今はいいですかね。入門書なんかは何冊か……」
「入門書? でも最初にそれ読まないほうがいいよ」
「そうなの?」
ドイツの有名な思想家を扱った分厚い入門書をぺらぺらと捲る紗夜がアヤネとクレイに視線を振る。
「だって入門書なんでしょ?」
「まぁ物によるから一概には言えないけどね。今紗夜が手に取ってるアドルノとかならこれとかまぁ良い本だし、しっかりしているのは手に取る価値ある。まぁでもそれにしたって余計な先入観つくこと受け売りだから。何々主義者~なんて先入観持って哲学書読んだら誤読するってこと。ほら、マルティンの方のハイデガーも言ってなかったっけ」
「いや、ちょっと違うような気はしますが」
ぴんと指を立てたアヤネが言う。なるほど彼女の言うことは確かだ。哲学史において中世から近代にかけて登場したルネ・デカルトを、単なる合理主義者という枠で見れば、デカルトの位置を見誤ることになる。先入観は利便性に長ける一方で、致命的な誤りを生む人間の生得的なシステムなのだ。
それにしても―――クレイはぺらぺらと懐かしそうに本を捲るアヤネの顔を一瞥した。
流行りのファッションに身を包み、颯爽と街中を歩く彼女の姿は誰よりも今を生きる女という言葉が似合う。先ほど彼女の部屋を訪れた際も、備え付けのロッカーの中に仕舞われた服の『イマドキの女の子らしさ』に眩暈を覚えたものだ。そんなロッカーの下に、直線的な時間の中で、時代の中に敢えて留まることを選んだ古の書物がぎっちりと並んでいるというのも妙な光景だった。
ラウンジに備え付けの自動販売機から飲み物を三つ買い、アヤネと紗弥に渡すと、クレイも椅子に座った。
缶のプルタブを開けると、鼻を貫く涼しい匂いが鼻の粘膜を刺激する。真っ黒なコーヒー缶に口を付ければ、後味残さない安っぽいブラックコーヒーの味がした。
「よくこんなの読むなぁ。頭おかしいんじゃないの?」
ココアの缶を呷る紗夜が苦い顔をして本を捲る。厚さも相応で、著作者の名前を見れば猶更尻込みする。
実際、哲学者なんてものは頭がおかしいものだ。クレイ自身も、自分の性癖を鑑みれば「まっとうな一市民」とは言えない気がする。紗夜のある種侮辱になりかねない発言も、特に不快なく聞き入れた。
―――まぁ、そんなものになる必要などないが。
「まぁそんなもんよね。デカルトなんて雇ったメイドに子ども産ませてるし」
アヤネの顔が笑みを浮かべる。その世俗的な言い様に何か反感を覚えたが、アヤネとてあえてそういう言い回しをしたのだろうと思えば何か言うこともあるまい。気持ちを静めるようにコーヒーを飲む。苦いだけなのに不味くはない、不思議な飲み物だなと素朴に今更なことを感じた。
「でも実際これ読んで理解してるって思うと凄いと思うんだけど。不在が現前……?」
さっぱりわからない、とペラペラ捲っていた本を群れの中に帰してやった紗夜は俗っぽい笑みを浮かべながらも、どこか感心したようにアヤネとクレイを見比べた。
「うーん理解してるかっていうとどうだろう……」
腕組みしたアヤネが眉間にしわを寄せ、クレイにどう? と尋ねる。
「何をもって理解したかとするとか、そもそも第一理解ってなんだとかって話ですか?」
「やっぱそうなるよね。研究者の間でも論争的なのに何を持って理解したとするのかがなんとも」
思いがけないアヤネの話振りに少し驚く。クレイ自身、こういう話を他人としたことはなかっただけに、よもやこんな綺麗な女の子とこんな話ができるというのがなんとも違和感がある。それでもその違和感も、嬉しい違和感というところだ。
「そんな話はまぁ良いとして。実際あたしは趣味で読んでるだけだから大したことないけどクレイはそれで論文とか書いたことあるんだから凄いと思うよ?」
うんうん、と紗夜も頷く。
「いやまぁ書くなら誰でも出来ますし……」
「でもさぁ、ジャミトフを語ろうってその姿勢が凄い好きだよ。当時なんて反ティターンズ意識バリバリだったのに敢えてジャミトフを再評価しようっていう心意気? 格好いいじゃん」
にこりと浮かんだ彼女の笑みは、見惚れるほどに綺麗だった。
顔が熱くなるのを自覚する。今まで綺麗な女の子にそんなことを言われたこともないクレイには、面と向かって格好いいだなんて言われることに免疫がないのだ。
「ジャミトフってあのジャミトフ・ハイマン?」
「そうそう。あたしなんてあのジャミトフがニュータイプについてどうこう言ってるなんて知らなかったよ―――って、そういえばクレイはどうしてあのジャミトフのこと調べの? あの人別に本とか出してないよね?」
ふと思い出したらしいアヤネが言う。
あぁそれ、とクレイは苦笑いした。クレイの論文のもっとも致命的な部分は、そこなのだ。
「俺の母親がジャミトフ・ハイマンと知り合いでして。手紙―――書簡っていうべきなのかな? あの人結構筆まめな人みたいでした。それで俺の家に結構あったりしましたから、それを使えば誰だって書ける内容でしたよ」
「は?」
紗夜とアヤネはぽかんとした表情をした。
「え、なに? クレイって結構有名な人の子どもだったりするの?」
「有名ってわけではないですけど。母さんはティターンズでテストパイロットやってましたからその縁で知り合ったらしいですよ」
はぁ~と感心したように溜息を吐く2人。親が軍属、という話は珍しくはないが、よもや一つの軍の頂点に立つ人物と知り合いが親族にいるというのは珍しいのだろう。
「でも母親がテストパイロットで息子も軍属でしかもテストパイロットってのも珍しいよね。お母さんに憧れて、とか?」
「いやそういうわけじゃないですよ。母さんがテストパイロットだったって知ったのも最近ですから。軍属なのは知っていましたけど」
「でもなんかお父さんちょっと不憫だね。せっかくの息子さんだからちょっと自分の職が~って思うものらしいし」
世間話の一環、程度の認識だったのだろう。炭酸飲料が入った缶を呷った彼女はいつものニコニコとした笑みのままだ。紗夜は顔色こそ変えなかったが、少し身を固くしたようだった。
「あぁ、俺父親いないんですよ」
「え?」
「いやまあ生物学上の父親は存在すると思いますけど。俺、養子なんですよ」
「え? え?」
いきなりの話に、アヤネは少し戸惑ったらしい。何を話していいのやら困惑している彼女のさまが面白い。
「戦災孤児っていうんですかね。俺、一年戦争の時独り身になったらしくて。今の母親に拾われたのが一年戦争が終わってすぐで。俺の母さんはそもそも結婚してなかったそうで」
なるほど、と曖昧に頷くアヤネは、されどどこかおどおどしていた。
一年戦争。
地球だけでは収容しきれず、宇宙に棄てることで問題を先送りしなければならなくなったほどに膨れ上がった人口を、高々365日で一挙に半数近く死滅させた地獄。人類の死滅は地球でこそ大々的に語られるが、コロニーとて惨劇は変わらなかった。コロニー内での戦闘など滅多に生じなかったが、なかったわけではない。その数少ない例の被害者がクレイだった。
だが、何もクレイだけではない。一年戦争を超え、デラーズ紛争、グリプス戦役、第一次第二次ネオ・ジオンと―――地球圏が経験した戦争は多すぎる。その度に人は死んでいくのだ。紗夜も、第一次ネオ・ジオン抗争の折に父親と兄2人を喪ったと聞く。親族が死んでいるのはさほど特異なことではなくなってしまったのが、宇宙世紀という異常な時代なのだ。
「なんかごめん。変なこと聞いちゃって」
もう一度ごめん、と頭を垂れた。
「いや、俺はなんか昔の記憶がなかったりして思い出すこともないから別にどうでもいいっちゃどうでもいいんで」
愛想笑いを浮かべる。
どうでもいい―――本心だった。物心つく前に喪ったクレイよりも、寧ろ紗夜のほうがよっぽど辛い目に合っているだろう。クレイ自身、自分が不幸な身だとは思わない。強がりや、己が境遇を乗り越えるためなどという前向きな思考故でなく、単純に比較した上で自分は恵まれているのだと思っている。
うん、わかった。すぐに笑みを作ったアヤネに内心ほっとする。クレイ自身がどうでもいいと思っていることで、誰かに気に病んでもらうのもありがたい話ではあるが、申し訳なく思ってしまうのだ。それに、まだ私的な話も碌にしていない、ある種まだ他人のアヤネに心配してもらうのも心苦しい。こういう女の子には悲しい顔も似合わないでもないが、やはり笑っていたほうがいい―――そう思う。口には出さないが。
それでも、少しだけ空気が沈んだ。親兄弟の生き死にの話は、たとえ普遍化したとしても空気を重くするものであるらしい。
「よお、クレイはいるか?」
―――そんな重い空気を破ったのは、ヴィセンテの陽気な声だった。ラウンジの扉を開たヴィルケイは、そう言いながらクレイの姿を見とめると、人懐っこい笑みを浮かべる。
「いや~いたいた。探したんだぜ?」
「なんです?」
「いやちっとばっかし用事。お前の機体さぁ、ちょっとフルでオーバーホールすることになってさ。一週間ぐらい実機乗れなくなるんだよ」
虚を突かれるとはこのことだった。一瞬言葉を失ったクレイは、はい? と間の抜けた返事をした。
「いやだから一回、解体すんだって―――あぁいや違うな、理由か。大丈夫、お前のせいじゃない。ほら、今度サイド3で教導あるだろ? それに合わせて念入りに調べようってことになってな。元々整備に不安のある機体だからよ、徹底的にやりたいんだよ」
人懐っこい笑みに変わりはない。出会ってからまだ長くないが、他人への気配りができる男だと理解している。
オーバーホール、と言われて頭をよぎったのは自分の操縦性の荒さだった。
普段はあまり喋らない質で、うるさいか静かかと言われれば十人が十人静かな人間というだろう男である。そんな男だが、MSの操縦においては力づくな機動制御が多い。無論だからといって下手くそな操縦でない、ということは、今のクレイの立ち位置と士官学校での来歴を鑑みればわかることであろう。 それでも、無理やりな操縦が多いことは確かで、それだけ機体に余計な負荷をかけるのだ。量産機なら別に荒い操縦でも構わないが、クレイの乗る機体はそう数が多くない。《ガンダムMk-Ⅴ》が追加生産され、サナリィに供給されているのも相当政治的根回しだのなんだのを経た故なのだ。整備性については劣悪とまではいかないが、他部隊でも運用していることを鑑みれば、「ゲシュペンスト」にだけ部品の供給をするわけにもいかない。クレイに要求されるのは、高度な技術以上に繊細な操縦なのだ。
「ま、お前の荒っぽい操縦もある程度原因だがな」
意地悪く破顔してみせる。無論、これとて気づかいの一旦なのだろう。自省癖の強いクレイであれば、生半可な優しさはむしろ毒になりかねないということを既に熟知している。
「まぁそういうことだ。あと隊長から、オーバーホールついでに休暇だと。お前休みなのにずっと仕事してるから心配してたぞ?」
自動販売機から缶ジュースを買いながら、世間話ついでにヴィセンテが言う。
「隊長が?」
フェニクスの顔が浮かぶ。凛という言葉が誰よりも似合う彼女はそれこそ隊長だ。部下一人の体調管理にも神経質になって当然。まだ30になったばかりの彼女には、中隊長という席はクレイの想像以上の重圧との戦いのハズである。
「わかりました」
「正式な通達があるから、後で隊長のところにも寄っておけよ」
ええ、と頷く。フェニクスに謝意も含めて謝らなければならないなと思った。
「じゃあ俺はもう行くから―――っとそうだ、そういうわけだから紗夜借りてくぞ」
「ええー! 私休みだよ?」
「休暇返上だよ。終わったら休ませてやるから」
ヴィセンテに腕を取られた紗夜がじたばたしながら引きずられていく。
恨めしそうな紗夜の目は、これから少しばかり長い休みを貰うクレイに向けられている―――紗夜の休暇を奪ってしまってようで心苦しいのと、その子どもっぽい眼差しに苦笑いした。
引き摺られていく紗夜を見送る。ぽつねんとテーブルに残ったココアの缶が睨んでくるようで、慌てて目を反らした。慌ててコーヒーを口にし―――。
「何、間接キスでもしたい?」
俗っぽい笑みを浮かべたアヤネがそんな爆撃を敢行した。なんとか吐き出す寸前に下を向いたが故に、口からスクランブルした黒茶の液体はSDUを汚すだけで済んだ。
「え、マジで?」
「いきなり変なことを言うからですよ!」
わざとらしい侮蔑的な表情に、せき込みながら抗議の声を上げる。口端に残るコーヒーを袖で拭った。
「だってキミ、ロリコンなんでしょ? だったら紗夜って結構タイプなんじゃないの?」
む、と口を結ぶ。確かに紗夜は可愛い。だが固く紗夜に対する可愛い、という感情と劣情は別―――一時の気の迷いは気の迷いでしかないハズなのだ。事実、先ほど彼女とともにいて淫猥に身を許しはしなかった。今だってやはり、こうからかわれて彼女を意識しても自分の身体に変化はない。
無言で立ち上がり、残ったココアを手に取る。あ、とアヤネが呟く間もなく、近くにあった流し台に残り半分ほどになったココアを捨てた。白磁の流し台に薄く伸びたココアの茶を水で洗い流し、缶捨てに捨てる。
こういうことですよ。そう言うようにアヤネを見ると、いつも通りの彼女の顔が戻っていた。彼女なりの気遣いと理解し、むっとした憤懣も誤りだったと思い直した。
「そういえばさぁ、休みってなんかする?」
クレイが椅子に座ると、アヤネが言った。
「急でしたからなんとも……でも別に何かする予定もないですかねぇ」
どうして彼女がそんなことを聞くのか、と思いながらも、明後日の虚空を眺めるように思案する。
クレイ・ハイデガーは自堕落な男だ。自堕落なる自己を分析しているが故に、己を律しなければならない。その決然たる意志の履行の方法の一つが哲学でありMSのパイロットであるといっても過言ではない。いつもの休暇はそのどちらかに全て振っている故に休暇でありながら暇はないのだが―――。
「今度サイド3に教導がてらリゾンテに行くじゃん? 水着とか色々買っておきたいんだよね~」
一緒に行かない? と彼女の笑みが告げた。
「俺ですか?」
少しドギマギする。
「だってほかの男休みじゃないし~?」
あぁなるほど―――感じたドギマギも急速に沈降する。要するに体のいい荷物持ちだ。甘い話は己にはない、と再度、再度思い直す―――。
フラッシュバックする光景。
昏い夜。
微かな光。
近くで煌めく銀色の光。
綻んだ笑み。
破裂しそうな心臓―――。
―――甘い話はないのだ。
「いいですよ。やることもないですし」
「ほんと? やった」
少女然にはしゃぐ素振りを見せた彼女を見ながら、クレイは知らず銀色の光を幻視していた。
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