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機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-

作者:桃豚(21)
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10話

 大きく伸びをする―――。
 栗色の髪の毛を幽らしたクレイが張り出したキャットウォークの前でふらふらと身を揺する。暇な時にクレイがやる癖のようなものだ―――と、攸人は把握していた。
 背中越しの親友の顔は窺い知れないが、クレイが緊張しているということは手に取る様にわかる。士官学校時代からの知り合いである攸人は、クレイとは様々な面でタイプの違う男だったが、長い時を共に過ごせばそれもわかるというものだ。
「限りなく実戦に近い形式でやりますけど、N-B.R.Dに関しては初回なので予測期待値の調整でいきますからね」
 キャットウォーク上に備えられたシミュレーターの調整を行うコンソールを叩くモニカが言う。目の下にできた黒い帯のせいで、いつものあどけなさと理知を内包した麗も気だるげなものに見えた。
 と曖昧な返答と共に、クレイは振り返りもせずに手をひらひらと振る。
 やっぱりな―――小さく笑った攸人は、「リラックスリラックス」と声を上げた。
「わかってるよ」
 上半身を捩るだけで振り返り、声を張り上げる。強がりでもあり、またリラックスのためのおふざけでもあり―――普段小難しいことを考えている割に、身振りはわかりやすい奴だ。
(コマンドポストより各員、準備完了しました。パイロットはコクピットへ)
 ヘッドセット越しに聞こえるアヤネの声。了解、と返事をしたクレイがどこか重たい足取りで丸っこい機材の中へ向かうのを、手を振って見送った攸人は、腰に手を当てた。
 わかりやすい奴―――だ。士官学校の時から、そして今に至るまで。
「俺もやりたかったなぁ」
 やや、愚痴っぽく嘯く。隣にいたモニカがきょとんとした顔をした。
「クレイさんの次まで待ってくださいよ。次になったら思う存分にやってもらっていいですから」
 困った様に笑みを浮かべる彼女に、わかってるよ、と笑みで返す。
 笑みを浮かべながら、軽く―――悟られないように鼻息を吐いた攸人は、その脇に設置されたシミュレーターを眺めやる。感覚にして20メートル幅を持って鎮座するその球体は、ともすれば神仏でも祀る依代か何かに見えた。
「どうなることやら―――」
 ぼそと呟く言葉に、モニカは特に反応しない。聞こえなかったのだろう。聞こえないようにしたのだから。
(これより演習を開始します。シミュレーター起動、繰り返す、シミュレーター起動)
 ※
 脳髄の奥底は、本能的なるものを司るという―――。
 脳髄の奥から澱が沁みだし、ヘドロのように溜まっていくような、そんな意識の薄さを感じたクレイは、赤く濡れた唾液を飲み下した。
 規則的に鳴る電子音。
 漆黒の『ガンダム』がデブリの中を駆けていく。
 慣性モーメントによるAMBAC機動により、バーニア類の使用を最小限にしつつMSを制動する。
 MS、というものについて疎い人間が見れば、小刻みに機動し、デブリの中を悠々とすり抜けていく様は卓越した技術を感じてしまうだろうが―――。
 IMPC―――Integrated Maneuver Propulsion Control―――システム。
 教導隊の隊員をはじめとしたエースパイロットのMSの挙動データを蓄積・反映し、MS側でその機体制御を再現することで、誰しもがエースパイロットの挙動を実現できるシステムだ。一部のパイロットからは、人を堕落するシステムなどという理由から、インプなどと揶揄もされている。無論、誰しもがエースパイロットになれるというのはある程度の誇張を含むが、便利なシステムだ。
 この故に、この《ガンダムMk-V》の機動を見て、ある程度MSというものについて知っているならば、まぁいい腕をしているじゃない、程度の感想を持つぐらいだろう―――。
 前面、右方、左方から降りかかる負荷Gの圧力を感じながら、操縦桿を握る手の力は軽く、されど強く。眼前から迫りくる障害物との相対距離を悉く把握し、繊細に機体の四肢を可動。戦闘速度を落とさずに、デブリの中を潜り抜けていく。
 ―――違和感。
 「いつも通りの違和感」故に、クレイは焦りもせずにHUDに投影された機体ステータスに目を走らせる。
 予想していた機体進路よりやや右方向へのズレ―――ちらと右を見る。全天周囲モニターに映る黒金の武装が視界に入る。
 数値で記憶していた以上に、感触としては重たいらしいということを味わいつつ、すぐさまバーニアを焚き、機体の軌道を修正する。
(コマンドポストより08、ポイントE2クリア。残り30で戦闘区域に突入する。高濃度ミノフスキー粒子により戦闘区域では通信は行えない)
「08了解、オーバー」
 全天周囲モニターの内側、クレイを押しつぶすようにして圧し掛かる負荷Gを身体で感じながら、右方のディスプレイを一瞥する。
 問題は、ない。
 鋭利な眼球を四方に泳がせる漆黒の人狼が獲物は、沈黙の元に伏せている。
 速度は維持したまま、HUDに目を落とす。ちょうど、戦闘区域に入った―――。
 その理解の刹那、クレイの耳朶を俄かに赤い音が叩く。ロックオンされた、と理解するとほぼ同時にその方向を確認。左方11時、直上から―――。
 歯を食いしばる。操縦桿を手前に引く動作に連動し、身を捩った《Mk-V》の直近を光軸が掠める。
 続けざまに鳴る同方角からの攻撃警報を半ば無視し、クレイは左腕のシールドを掲げた。
 シールド、と言いながらそれはシールドとしての機能をほぼ放棄した武装だった。ジェガンの攻撃機改修用シールドであるそれは、シールドの半分以上がビームキャノンであり、その上砲身が露出している。シールドとしての機能は無いに等しい産物だが、そもそもクレイは防御用とはみなしていない。
 一瞬で砲身が展開し、シールド内のセンサーと連動してデブリの向こうの敵機を察知する。全天周囲モニターに映る敵機―――MS-14B《ゲルググ》に照準レティクルを重ね合わせ、メガ粒子を叩き込んだ。
 鋭利な閃光を放った灼熱の光軸が常闇の宇宙を裂き、コロニー資材ごと《ゲルググ》に殺到する。流石に敵も間抜けではない。デブリから身を翻した《ゲルググ》がビームの奔流から逃れ―――瞬間、《ゲルググ》の胴体を光のレイピアが串刺しにする。
 N-B.R.Dによる砲撃―――クレイ自身、ぎょっとした。
 普段使用するビーム砲と、明確な違いを見とめたわけではなかった。しかし、感触、あるいは感覚的なそれとして、クレイはそのメガ粒子の細剣が《ゲルググ》の装甲を鮮やかに貫いたのを感じたのだ。ビーム砲が直撃し、ぐじぐじに融解していくのではなく、まるで生身に刃を突き立てたがごとく―――ぶると身を震わせたクレイは、されど続けざまに鳴り響いた警報音に気を配った。
 3方向から。反射的にそれを理解すると同時に相対距離を把握。敵機種も同じと理解する。
 手前に《ギラ・ドーガ》が2機に、奥に《ガザ・C》が1機。《ガザ・C》の放った大出力の閃光を苦も無く後方に逸らし、N-B.R.Dの砲口を指向する―――それよりワンテンポ早く、前面に展開する《ギラ・ドーガ》でも左方―――やや奥の敵機目がけて、シールドに内蔵された対MSミサイルを放つ。バーニアの尾を引いたミサイルが《ギラ・ドーガ》の周囲に炸裂。直撃弾は無し―――クレイにしてみれば、それでいい。炸裂し、破壊したのはデブリの群れ。砕けた岩石やらが《ギラ・ドーガ》に襲い掛かっていくのを見届けるまでもなく、N-B.R.Dの砲口を迸らせる。《ゲルググ》を屠殺したのと同じ氷柱の光軸がデブリを貫き、《ガザ・C》の胴体部を貫く―――撃破、2。残敵、2。
 クレイの意識は即座に手前の《ギラ・ドーガ》へ。《Mk-V》目がけて機関砲の掃射を放ちながら、右方の《ギラ・ドーガ》が左方の《ギラ・ドーガ》との距離を詰める。ぶつ切りの光軸を躱しながら、クレイの視線は瞬間右方のディスプレイへ―――。
 エネルギーリチャージまで、あと10数秒。まだ試作品、という意識を再認―――。
 耳朶を叩く警報音。
 《Mk-V》に機関砲の砲撃を浴びせる《ギラ・ドーガ》とは異なる《ギラ・ドーガ》がバーニアを爆発させ、猪突する。
 シールドビームキャノンの砲撃をするりと躱した《ギラ・ドーガ》がビームサーベルを引き抜く。
 舌打ち。
 流石に、難易度は最高レベルのことだけはある―――焦りが網膜を掠める。されど、それに囚われることはなかった。即座にバックパックのビームキャノンを指向。脇下からビーム砲の口を展開すると同時に、クレイはまだ人生何度目かのシステムを起動させた。
 バックパック・ユニットに装備された平べったい小円状のユニットが射出。真空に漂うや否や、次の瞬間にはまるで何者かに導かれるようにして直覚的な軌跡をなぞる。
 シールドのミサイルと背中のビームキャノンによる牽制射すら躱した《ギラ・ドーガ》がサーベルを握る右腕を振り上げる。
「―――こっちのFCSは砲撃戦仕様だってーのに!」
 うめき声とともに吠える。無論、聞こえていることだろうが、愚痴の一つ言ったって文句は言われまい。
 キチンと、やれれば。
 声は自棄気味だろうが、クレイの判断は冷静の元にある。たとえ機動格闘戦に不向きだとしても、クレイに負けの二文字は無い。即座にシールド裏に装備されたビームジャベリンの刃を発振させると、灰色の《ギラ・ドーガ》が振り下ろすビームサーベルの光刃目がけて叩きつける。
 接触。力場によって形成される光の剣が防眩フィルターでも殺しきれない閃光を炸裂させ、コクピット内が俄かに揺れる。
 クレイは、直ぐにバーニアを焚いた。微弱に炎を吐いた漆黒の陰が、《ギラ・ドーガ》の右側方に僅かに回りこむ。狙いは、ひとえに砲撃支援に回る《ギラ・ドーガ》との間に、味方機である《ギラ・ドーガ》を挟み盾とすることだ。
 生じる隙―――この隙は、2秒と持たない脆弱な隙だ。鍔ぜり合う《ギラ・ドーガ》がそれを察知、ビームサーベルを引き、即座に左に回避しようという挙動を見せる。
 それで、十分だった。《ギラ・ドーガ》が脇に逸れた瞬間、上下から光の牙が《ギラ・ドーガ》を襲う。頭部と両腕に立て続けに直撃し、小爆破を起こす。頭部と両腕が排除された時点で、MSとしての機能はほぼ刈り取られている―――が、クレイにとってはまだ利用価値がある。慣性に従い、右方に流れていく《ギラ・ドーガ》の胴体を左腕で保持すると、クレイはフットペダルを踏み込んだ。
 攻撃警報の音が耳朶を叩く。
 ―――流石に甘くない、と瞬時に理解し、左腕に保持した《ギラ・ドーガ》の残骸を蹴り飛ばす。同時にスラスターを逆噴射し、骸と化した巨人から離れると、その骸めがけてシールドの切っ先を掲げた。
 トリガーを押すとともに屹立する大出力の光軸が《ギラ・ドーガ》を貫き、その向こう、直線に相対していたもう一機の《ギラ・ドーガ》を襲う。寸でのところで《ギラ・ドーガ》は躱したが、それで終いだった。回避挙動を取った《ギラ・ドーガ》を上下に挟撃するように滑り込んだインコムが光軸を奔らせ、左腕を撃ち抜く。AMBAC機動の一瞬の誤差に戸惑う《ギラ・ドーガ》の胴体に、即座にN-B.R.Dの照準を重ね合わせるや、一瞬の間隙もなくトリガーを引き絞った。
 亜光速の鋭利な光線が正確に《ギラ・ドーガ》のセラミック複合材を貫き、パイロットを屠り去った。
 終わり―――だ。
 爆発することもなく、人間の死体が漂うように幽らつく《ギラ・ドーガ》を眺めたクレイは、バックパックにインコムを収納するように操作すると、ヘルメットを脱ぐとともに溜息を吐いた。身体中に淀む粘つく疲労感を消すように、深く、深く、息を吐く。
 悪くない、と思った。敵機は計4機―――被弾無しで撃破できたのには我のことながら驚きだ。
 体調は決して良くなかった―――朝からの頭痛は治りつつあるが、気分の悪さは紗夜への劣情以来治る気配がなかったし、現に今も身体が鉛のように重たくなっているような感触がある。
 にも関わらず、今日の操縦は冴えていた。むしろ、体調が悪いがゆえに慎重な操縦になったのかもしれない。
 好意的に捉え、カタカタと操縦桿を指で叩きはじめ―――ふと、疑問が湧いた。
 長い、のだ。シミュレーターの試験項目を終えて、1分以上過ぎようとしているのに一向にオペレーターからの報告がない。
せっかちでもないクレイは、それから数分ほど漠とCGの宇宙を眺めていた。
 ―――一向に通信がない。手慰みにカタカタと操縦桿を指で叩いていたクレイは、空いている左手をHUDに伸ばし、通信ウィンドウを開く。
「こちら08、コマンドポスト聞こえていますか? ミッションは終わっていますよね?」
 反応は、無い。
 ハムノイズと呼吸音だけが鼓膜を撫でつける。
 もう一度通信を入れたが、やはり同じ反応だった。
 故障か、何か不調か。マジか、と溜息交じりに吐き、コクピットシートに身を預けた。
 シミュレーターを使用する際には、1人から2人のオペレーターが就かなければならないことになっている。理由は色々あるが、ともかくオペレーターはつけなければならないことになっている。そして、問題はここ―――オペレーターが試験項目解消とミッション終了の指示をしなければ、シミュレーションを終了できないのだ。
 面倒な―――呆れ、イラつき。眉間を指で擦りながら、まぁいいか、と投げやり気味に思惟する。どこの不調かにもよるだろうが、すぐに不調に気づくだろう。10分―――いや、5分もあれば、無為の時間の消費も終わるだろう。それまで精々さぼらせてもらおう―――。
 今一度、シートに寄りかかり、ハリボテの宇宙を眺めやり―――気づいた。
 デブリが、消えている。
 最初、これも不調だろうと思った。だから、クレイは特に気にも留めずに、計器に目を奔らせ―――。
 ざわつき。
 高鳴る赤い音。
 反射的に握る操縦桿。
 スロットルを全開に叩き込み、破壊する勢いで踏み抜くフットペダル。
 押しつぶされるような負荷Gの最中、一瞬で加速した《Mk-V》のコクピットから背後を振り返ったクレイは、光の牢獄を見た。
 四方から襲うビーム砲―――それが何なのかを考える猶予は、なかった。
 一呼吸する暇なくコクピットを荒れ狂う警報音。悪態の暇もなく、負荷Gに曝されながらロックオンレーザー照射方向―――背後を顧眄した。
 どうと屹立する大出力の閃光を紙一重で躱す―――即座に足らない、と悟り、シールドをビームの濁流の方へ掲げる。高出力の飛沫がシールド表面の対ビーム被膜を瞬時に蒸発させ、ぐずぐずにシールドが融解する―――ビーム砲を内蔵したシールドが誘爆する前に腕部から切り離した。
 ぼんと間抜けな音とともに炎に飲まれていったシールド周辺から素早く身を翻し、ビームの飛来した方向を捉えたクレイは、硬い唾液を飲んだ。
褪せた絵の具の黒の中に浮かぶ漆の黒。真紅の双眸を閃かせるその機体は―――。
 ※
「08機体ダメージ増加。右脚被弾確認」
「02、フィンファンネル残弾0。エネルギー・リチャージ開始」
「02反射速度、予測規定値内です」
 薄暗いシミュレーター管制室。
 茫々としたモニターの光を受けたフェニクスの顔は、いつものような凛乎とした様子はなく、つまらなそうに漠としていた。
 肩が凝るのだ。石像のように身じろぎもせず、ただモニターの映像を眺めている、というのは―――そして、自分の胸にぶら下がる、手に余るサイズの肉の小鹿どものせいで。
 矢継ぎ早に入る報告に耳を傾ける。いつも通り、と言えばいつも通りの様相に、フェニクスは感慨もなくモニターを眺めながら、首を傾けた。
「流石にエレアを相手には分が悪いんじゃあないですかねぇ」
 腕組みするフェニクスに、ありのままの感想を素直に述べるクセノフォンも、同じようにモニターに目をやっていた。憐れむようですらあるクセノフォンの声にはフェニクスも同意したい。
 ―――黒々した宇宙を駆ける光が漆黒の《Mk-V》の腰付近を刺し、小さな炎の花を咲かせる。
 1個中隊をさもなく殲滅してみせるようなパイロットとサシでやり合う。考えただけでも背筋が凍るような話に、不意に巻き込まれる形になったクレイに対してはほんの幾ばくか後ろ向きの感情を惹起させた。
「08、頭部メインカメラ被弾。サブカメラに切り替えます」
「こりゃダメみたいだな」
 眉をひそませる。渋った独り言をしたクセノフォンが黒い瞳をフェニクスに向けた。
「ちょっと強引過ぎはしませんかね。いくらなんでも」
 クセノフォンが声を低くする。ちらとこちらを一瞥する瞳は、歴戦のパイロットであるからこそ抱く生暖かい不安感が滲んでいた。
 腕組みしたまま、フェニクスは咳払いを一つした。
 察したクセノフォンが身をかがませる。
「予想以上に「奴ら」の動きが速い。「銀の弾丸」が運び込まれたらしい」
 クセノフォンの目が見開かれる。
 「銀の弾丸」。
 まだ連邦政府が出来る以前のアメリカ合衆国空軍で用いられた「切り札」の暗喩の言葉―――。
「それに―――丁度ユートとクレイが着任するぐらいの時期だったか? ルナ・ツー付近で出た、と」
「随分と昔の話じゃあ……」
「黒を白と言い張るのは政治家と金持ちどものお家芸ということだよ」
 背を伸ばし、腕を組んだクセノフォンが唸る。
 一年戦争からの古参―――そして本当の意味でのエリート組織だった、最初期のティターンズにも抜擢された腕を持つクセノフォンは根っからのパイロット気質の男だった。連邦政府とサナリィ、ネオ・ジオン、アナハイム―――そしてその裏に潜む「財団」の微妙な駆け引きに頭を悩ませる必要などない。
 険しい顔をするクセノフォンを横目で見つつ、鼻を鳴らしたフェニクスは、なんともなしに自分の胸に目を落とした。
 誰かに揉んでもらおうか―――肩を。でもないと肩が凝って、仕方がない。
「08左腕部被弾。バックパック・ユニットに損傷を確認、機体主機出力30パーセント低下」
 ※
 視界を閃光が埋めつくす―――。
 暗転。激震。
 数秒の後、網膜を刺々しく刺す光がHUDに点灯する。
「08、胸部コクピット部に致命的損傷を確認。シミュレーターを終了します」
 オペレーターのいつも通りの報告に、クレイはまともに応答できなかった。
 『敗北』の言葉が頭蓋の裏にへばりつく。
 ただの敗北ではない―――完璧な敗北だ。
 クレイ・ハイデガーは自尊意識の高い人間だ。それ相応の実力があるという自負のもとの自尊なだけに、クレイは茫然と暗い虚空を眺めていることしかできなかった。
 網膜に焼き尽く真紅の双眸。
 終始なりっぱなしだった、鋭い攻撃警報の音。
 造り物の世界で感じた、あまりにもリアリティのある超越の「力」。ニュータイプなのか、それに「類するもの」の「力」なのか、ともあれクレイはあまりにも感じた恐れと畏れと非力に、指一本動かせない。
 空気の抜けるような音とともに、シミュレーターの扉が開く。さっと差す温い陽光を受けてなお、クレイは身体を強張らせることしかできなかった。
「生きてるか?」
 間延びした声。攸人の声だ、と気づき、ようやく意識を取り戻したクレイは、うめき声のような返事をすることしかできなかった。
「生きてるかぁ?」
 呻き声の返事は聞こえなかったらしい。今一度同じことを聞いた攸人がコクピットの前に顔を出した。
 いつも通りの、屈託のないほがらかな顔だ。
「実戦だったらKIAだよ」
「コクピットにサーベルぶっ刺されてたもんな。即死即死」
 空想上のサーベルを逆手に構えた攸人がぶんぶんと腕を振り、頓着なく言う。こういうところは、「わかって言っている」のが攸人という男のいいところであろう。
 まだ思うように動かない身体を揺すり、のろのろとシートから立ち上がった。コクピットから這い出すように外に出、ヘルメットを脱ぐ。さわさわと肌を撫でる冷たい風に、ぞわりと身体を震わせた。
「とんだサプライズだよ。あれって途中対人だったんだよな」
「そうだよ。「例の彼女」が相手」
 ね、とモニカに顔を向けると、彼女も首を縦に振った。
 なおのこと、身体が固くなる感触を味わった。
 「例の彼女」―――。攸人の口振りがあまりにも馴れ馴れしいのに、ついぞ気が回らなかった。
 あれだよ、と攸人が顎をしゃくる。つられて振り返ると、20メートルほど先のシミュレーの前で数人が何かをしているところだった。
 ぷしゅ、と間の抜けた音が耳朶を打つ。おもむろに、シミュレーター装置の扉が開く。
 ひょこりと顔を出した、パイロットスーツは、小柄だった。その小柄な人影が、ヘルメットに手をかけ―――。
 あ、と声が漏れた。
 ふわりと夢のように舞う白銀の光。
 無邪気そうな、顔は、どこかで見たことがある顔だった。
 心臓を握りつぶされるような拍動、頭に回る血液が沸騰しそうな緊張。
 自分の息を飲む音が、嫌に大きく聞こえた。
 スタッフからタオルを受け取った彼女―――エレア・フランドールが、こちらに気づく。
 20メートルは距離がある。それでも、こちらを向いた彼女の生々しい真紅の瞳が、ゼータプラスの瞳と重なる。
 真紅の瞳が見据えるのは、誰だろう。まだ幼さの残り香を匂わせるかんばせが、花のように綻ぶ。
 あの、酷く甘ったるい緑茶を飲むときと同じようにちょこなんとした動作で、彼女が手を振る。
 全身の痙攣を押さえつけるので、クレイは精一杯で―――。
「ほら、お前も手ぐらいだなぁ―――っておい、お前!」
 知らず、クレイは逃げるように駆けだしていた。
 攸人の声の残滓を鼓膜に残しながら。
 モニカの黒々した瞳を網膜に焼き付けながら。
 彼女の、エレアの容貌を、脳髄の奥に刻みながら―――。 
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