機動戦士ガンダムMSV-エクリチュールの囁き-
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8話
脳みそが汚濁の掃き溜めにでも溜まっているような、重たい頭痛。
片頭痛―――。
倦怠感と添い寝するという最悪の寝起きになったクレイは、ノロノロと身体をベッドから起こした。
クレイが寝ているのは、個室だった。これは別に珍しいことではなく、MSパイロットに対しては様々な面で好待遇が普通のことなのだ。食事にしても、UC.0088年ではMSパイロットには非合成タンパクの食事、つまりはステーキなら本物のモウモウちゃんだったという。1人1部屋もその一端だ。
ベッドに寝そべりながら、瞼を開けもしないで思ったクレイの視界の中には、昨日の少女の姿があった。
あの日から既に数日―――1週間近くになる。
銀色の髪の少女のぼけた姿を思い浮かべ、寝返りを打つ。
胸中に渦巻くもやもやとした感情に眉を顰めたクレイは、薄く目を開けた。
見知ってはいるが、まだ見慣れてはいない部屋。無機質な灰色の壁に、質素なデスクがぽつねんと在るだけの部屋だ。それだけに、クレイの探し物はすぐに見つかる。
空っぽのデスクの上に群れを成す紙パックの山。
―――表紙に描かれたヘドロの魔物と目が合い、クレイは嫌な気分と良い気分を同時に味わった。
はっきり言って、不味かった。甘いだけの茶なんてレベルではない―――よく見れば期間限定でプロテイン増量だのという理解不能な文字が表紙の隅っこに書かれているではないか。
これを作った奴は頭がイカれてやがる―――。
憤慨を感じる一方で、心の中で一際明瞭な赤さで存在する感情にクレイは慣れていた。
いつものこと―――呆れたフリをするように、ワザとらしく溜息を吐いてみたとしても心境は何も変わらない。
頭蓋の裏に白濁とした少女の幻想がへばりつく。
上質な絹のごとき繊細な銀髪。
珠のような麗の肌。
それでいて、触れれば柔らかな感触であろう、肌。
飾り気のない、薄い唇。
背丈の割には豊かに膨らんだ双丘。
―――クレイが盛大にため息を吐いたのは、クレイ自身の妄想がそこで止まらないからである。そこで終われば、「少女」に恋い焦がれる少年の一時の夢なのだ。
――――――。
反吐が出る。脳みそが肥大し、頭蓋骨に圧迫されるような頭痛と、嫌悪感を殺すように、爪が皮膚を破る勢いで拳を握りしめると、そのままベッドに打ち付けた。
鈍い音、鈍い衝撃。
朝起きたばかりだというのに、何度目かの溜息を吐いた。もっとも、身体に籠った熱を吐き出すための吐息だ。
幾ばくかの冷静さを取り戻したクレイは、されど思う。
あの時感じた感情の惹起はなんだったのだろうか。いつものような、可愛い女の子を見た時のあの胸のざわめき―――もあった。しかし、あの時感じたのは単なる情愛的な胸の圧迫だけだったのだろうか?
悩んでいた時間は数秒だったのか、数分だったのか、十数分だったのか。ともかく一頻り悩んだクレイは、判断を停止した。
とりあえず、だ。
まったくもって冷めた表情をしたクレイは、そろそろと右手を自分の股座へと伸ばした。触れてみれば―――触れるまでもなく、自分の『それ』が既に硬直しているのはわかっている。タンクトップに下着という服装のためもあって、クレイは難なく『それ』を外気に曝した。
予想以上に寒く、背筋を震わせながらも、右手にその熱した棒を握り込んだ。そうして、手首を上下にピストンさせる。
自分の有機体の一部であるはずなのに、そこだけ無機質な物質のような錯覚を覚えながら、クレイはただただシャフトを扱き、扱き、扱いた。
悲しきかな、自慰のネタは―――。彼女を愛撫し、唇を重ね、そして―――という、なんとも腐卵臭がたちこめてきそうなものだった。
どれくらい経ったか―――数秒で果てるほど、早漏ではないはずだ。ともかく、十何分かの格闘の末に、クレイは自分の精液を手のひらにぶちまけた。
ぬらぬらと不気味に照りかえる手のひら。
鼻を突くような、独特の匂い。
軽く、赤黒いため息を吐き出す。十秒も経つ前にベッドから起き上がったクレイは、至極冷静な面をしていた。
手のひらがべたつく。さっさとこれを拭いて、頭痛薬を飲みたいところだ。
顔を顰めもせず、部屋を見回して―――それから、顔をひきつらせた。
ティッシュが、ない。
こんな些末なことで慌てるのも馬鹿らしかったが、それでも些末なことであたふたするのが人という生き物であった。
はてどこに置いたか―――下着の中に自分のそれを仕舞い込み、ベッドから身を乗り出すと、部屋の中を浮浪する。
慣れない部屋なだけに、どこに何があるのやら。まだ荷物をまとめてすらいないせいもあって、部屋に散らばる段ボールに躓いてはよろけてを何度か繰り返す。
結局、ティッシュボックスが見つからないことにイラつきを覚え始めてから、ようやく自分の部屋にティッシュがないことを思い出す。
途方に暮れる―――といっても、いかに手のひらで反吐を催すような、それでいて嫌にならない奇妙な匂いを放つ粘液をどう処理するか、という下世話な問題で、だ。
いっそう服ででも拭くか―――気の進まない決断をした時であった。
扉を叩く軽い音が2、3回部屋の中を右往左往し、クレイはぎょっと身をすくませた。
「クレイ? もう起きてる?」
女の声―――ジゼルの、声だった。
世の中の青少年なら少なくない数が経験したであろう、AV等のエッチな産物を見ている最中の母親の奇襲に遭遇する狼狽を、クレイはありありと感じていた。何より、クレイはこの時まで少なくない青少年ではなかっただけに、なおのことである。
頭蓋の中で起こる恐慌の中、それでも冷静に事態の把握に努めようとしたクレイは、まず何故ジゼルがクレイの部屋に来ているのか、ということだ。よもや寝過ごしているのか、と慌ててデスクの上の電光時計に目をやれば、まだ6時。起床ラッパがやんやん騒ぐまでは2時間近くの猶予がある―――違う。思い当たる節もないが、自分に思い当たる物が無いと思っているだけという可能性は十二分にある。故に、クレイは「ちょっと待ってください」と声を上げてしまった。
ジゼルが了解~、と間延びした声を聞き終えると、なおさらクレイは焦った。ともあれ、クレイはベッドの布団に右手を痛いくらい執拗にこすりつけ、手のべたつきをほぼ拭い取る。後はさっさと汗だのなんだのでぐしょぐしょになったダークグリーンのタンクトップと下着を脱ぎ去り、部屋に備えられていたロッカーから下着とインナーシャツ、SDUを取り出すと素早く身に着けていく。ロッカー扉の内側の鏡で髪型を整え、缶スプレーの制汗剤を身体に一通り吹きかけ、最後は―――。
紙パックで山ができているデスクを振り返る。「ちょっと待ってくださいね」とドアに声を掛けつつ、山の中から薬の箱を取り出す。ふたを開け、5mmほどの錠剤を二つ取り出し、口の中へ放り込んだ。
後は少しもすれば、和らぐだろう。クレイは急いで扉へと向かい、ドアノブへと手を掛けた。
扉の開放と同時に、能面のような人工灯が網膜を刺す。
「おはよう。起こしちゃった?」
扉の向こうにいたジゼルは、少しすまなそうな顔をしていた。身だしなみを整えはしたが、顔を見れば寝起きかどうかはわかるのだろう。クレイも挨拶を返した。
「丁度そろそろ起きようとしていたところなんで」
「そう。なら良かった」
咽喉のいがいがを取るように、咳払いをしたクレイは鼻で息を吸った。
自分と同じくらいの身長のジゼルの顔はクレイのすぐ目の前―――綺麗な顔立ちだ。大人っぽいと言えば大人っぽいが、まだ10代の気が抜けきらない顔。美人と言えば美人だが、可愛いと言えば可愛いという形容もまた相応しい顔立ちの女性が、なんと自室の目の前にいるではないか―――クレイは、ありったけの哀しみを覚えた。
あ―――とジゼルが口走る。
「そうそう、隊長が呼んでこいって」
「ブリーフィングですか?」
デスクの時計を振り返る―――時間はさきほどと対して変化はない。
わざわざブリーフィングする、などという伝達は無い。毎朝起床ラッパ30分後にあるからだ。
「なんか色々忙しいから今日は早いんだって」
手慰みか、右手で口許に手を添えたジゼルが眉を顰める。
「あと15分後くらいだから早くしてね」
「15分て早……」
よほど急ぎなのか―――それにしても急なことだ。といっても、何か持って行くものがあるわけでもないのであれば既に準備は整っていた。一応ジゼルに確認を取りつつ、部屋に戻りフェイスタオルで顔を拭う。本来なら水で洗いたいところだ。次いで、ベッドの枕元に置いておいたポーチから手鏡を取り出し、顔を確認。特に不自然な所がないことを確認すると廊下に出る。
「じゃあ行きましょうか」
壁に寄りかかっていたジゼルに声をかける。ええ、と応じたジゼルが顔を上げ、彼女の瞳がこちらを見る―――剣呑な表情を湛えていた彼女が、不意に噴き出した。
「ごめんごめん。さっきまで我慢してたんだけど」
ひぃひぃと涙目にならながら、パンツの後ろポケットから手のひらサイズの鏡をクレイに差し出す。
さっき確認したんだけど、と思いながらも鏡を受け取り、鏡に自分の顔を写した。
何も問題はないはず―――なんですか、と少し憮然とした態度を取ると、彼女はなおのこと笑った。
「鼻だよ鼻」
言われるがまま、鏡に映った鼻を見る。団子っ鼻というほど丸くはないが、それでもやや丸まった鼻の下―――鼻孔から、黒い筋が一本見えた。それが何なのかは言うまでもない、顔が赤くなるのをありありと自覚しながら、慌てて左手で鼻を覆った。そして、急いで右手を左手の裏へ。
目標はひ弱な毛一本如き。顔を真っ赤にしながら、そのせいもあって理不尽に対象のない怒りを覚えながら、クレイは右手の指さきに微かな感触を覚えた―――刹那、その獲物を指先で捕捉し、一気に引っこ抜く。
ぷちっという間の抜けた音が体内で反響する。
じわじわと涙腺を溢れてくる液体を拭きながら、取りましたよ、と顔を上げる。
「ブハッ」
ジゼルはなおのこと笑った。
慌てて鏡を見直す―――筋が、一本増えていた。
※
結局、地下のブリーフィングルームに着いたのは予定時刻より数分遅れてのことだった。慌てて部屋の前に着き、ドアをノックする。
「クレイ・ハイデガー少尉、入ります」
「同じくジゼル・ローティ少尉、入ります」
口々に言う。入れ、と中から言われたのを確認すると、ドアノブを回した。
こうしてこの部屋に入るのも3回目。ドアを開けると、いつものようにフェニクスが部屋の前で腕組みしていた。
「3分遅刻。随分な身分だな?」
横目で鋭い視線を刺す。弁明のしようもないだけに、クレイは身をすくませた。
気高く、鼻を鳴らす。日本刀のように流麗な瞳が頬を撫でつける。ぞっと身を強張らせた。ジゼルもクレイの隣で身を固くしている。
「まぁいい。イチイチ礼儀だなんだと口うるさく言うまでもないだろう」
次は無いからな―――琥珀色の瞳が無言で語る。
腕組みしたまま、くいとフェニクスが顎をしゃくる。さっさと座れ、ということなのだろう。忙しいらしい―――なおのこと遅れたのは不味かったな、と思いながら、クレイは部屋を見回した。
フェニクスの隣に女性が1人―――部隊専属のオペレーターを務める人だ。あかぶちのメガネが知性と茶目っ気を匂わせる。そしてデスクが並んでいる方に顔を向ければ、初日の連中と同じ面々がずらりと並んでいた。
副隊長のクセノフォンとオーウェンが並んでいる様はボディビルダーかプロレスラーか…ヴィルケイはイタリア男のような笑みを浮かべていた。
クレイはヴィルケイの脇に座る攸人の隣に座った。
「お前なんかあったの?」
攸人が困惑気な顔をする。当然のことだと思った。クレイは割と規律やなんやをかっちり守るタイプの男だからだ。「ちょっとしたテロだよ」と肩をすくめてみせた。
「わけがわからないんだけど」
肩をすくませ、困惑顔を尚更強くする。
別にわかってほしくもない―――それでもいずれわかってしまうんだろうな、とクレイの左に座ったジゼルを一瞥した。
面倒なことになった、と思いながらも、嫌な気分は無い。
「えーっとお、それじゃあ始めますね」
オペレーターの女性―――アヤネが声を上げた。
もう?
クレイは視線を巡らせた。
人員は8人―――足らない。
1人足らない。
1人、足らないのだ。
見知った顔はそろっている―――また、『彼女』か。
「フランドール中尉は、今日もちょっとと事情だが、体調が悪いわけではない」
クレイの内心の疑問にフェニクスが応えた。
慌てて彼女の方を見る。
琥珀色の瞳にはなんの含蓄も見られない。無論、彼女がクレイの心を読んだわけではない。クレイの身振りで、それとなく察知したのだろう。
フランドール…エレア・フランドール、という名前らしい。エレア、という名前を聞いて現代科学の根底をなす原子を思い出すのはちょっと偏った人だ。無論、クレイもその1人―――加えて、クレイは亀とアキレウスが相並んで走るという奇妙な構図を思い出していた。
クレイと攸人がこのニューエドワーズに着任して1週間ほど。未だ部隊の1人に出会っていないという奇妙な事態になっていた。
「えーですから、今日予定されていた《ゼータプラス》と《Mk-V》の比較試験は延期になります」
ちゃかちゃかとタブレットを弄るアヤネは部屋の全員を見回す。くすんだ金色のショートツインテールの下の顔はやや童顔―――アヤネ、という名前だから日系人なのだろうか。紗夜といい攸人といい、日系人が多いことだ。
それにしても、残念だなぁとクレイは思った。
サイコミュ技術―――ニュータイプ、という言葉に対して、あるいはその言葉が含む様々な含蓄に対して心穏やかでない感慨を持つクレイは、そうしたサイコミュ兵器に対してい複雑な感情を抱いていた。
無論、好意的な視線も向ける。今の感慨もそれに端を発するものだった。
サイコミュ技術、と言えば最新鋭の技術だ。それに触れられるというのはそれはそれで興味深い物がある。
お預け。
落胆。
気のない鼻息を吐く―――それで終い。落胆は落胆だが、それをうじうじと引きずることもない。クレイが就いているのは、仕事なのだ。各々了解の意を示す中、クレイも了の声を上げた。
「それで今日の予定ですけど、サナリィの方で用意した武装の試験運用の項目を繰り上げることにします」
ずれ始めたメガネをくいと元の位置に上げる。アヤネが8インチほどのタッチパネルを操作すると、それに合わせるようにしてフェニクスが組んでいた手をほどき、右手に持っていたリモコンを操作する。音もなく、フェニクスとアヤネの背後の巨大なモニターが点灯する。
口笛の音が耳朶を打つ。ヴィルケイだろうか? ヴィルケイだろう。クレイも、モニターに投影された物を見て小さく感嘆の声を漏らした。
「システムの名称はN-B.R.D―――サナリィで作っている新概念実証兵器ですね」
New Beam Rifle Device―――新世代のビームライフル、といったところか。少しだけ、部隊の中でどよめきが起きる。
「ガンっていうより、無反動砲って感じ」
ジゼルの呟き。クレイも同じような感想を抱いた。
暫定的に《ジェガン》に装備した図だが、《ジェガン》が肩に担いているその様を見れば、ライフルというより長物の武装と言った方が正しい。
「メガ粒子の弾速とか収束率を高めることで貫通力を高められるって点に注目した武装だそうです。理論そのものは一年戦争初期から考案はされていたそうですけど、当時はそんなことに気を使わなくても十分な火力だったから技術的な進歩も遅かったとか」
「まぁ、当時のMSは対ビームなんてほとんど考慮されていなかったからな。わざわざ貫通性を高めるまでも」
腕を組んだクセノフォンが思い出すように言う。この中で唯一あの「一年戦争」の経験がある人間だ。
横目で、後ろの列の席に座るクセノフォンを一瞥する。
厳つい顔立ち―――年は40過ぎ。どうして、まだ中尉なのだろう?
「で、だ。この装備は予備パーツ含めて2機だ」
フェニクスが部屋を見回す―――。
目が合う。少し、身を委縮させた。
「クレイ。お前がやれ」
反応がワンテンポ遅れた。
「俺……ですか?」
「そうだが、何か問題があるのか?」
「いや、問題はないですが」
問題はない―――唾液を飲み込んだ。周囲の視線が集まるのを感じ、唇が急速に乾いていく。
何故、自分なのか?
クレイ・ハイデガーは自分に自信を持っている。いつだって、クレイは自分の力で未来を切り開いてきた、という自負がある―――無論、本当の意味で自力だけ、という自惚れはないが。
努力に裏打ちされた自尊意識。それは自尊であって、自己愛に浸かっているということとは同意ではない。故に、クレイは自分の実力に自信こそあれ程度というものを十分に理解していた。
フェニクスがいる。
クセノフォンもいる。
オーウェンもいる。
ヴィルケイもいる。
ジゼルもいる。
―――攸人だって、いる、のに。
「私は特に問題はないです」
声が強ばる。
多分、自分だけにしかそのようには聞こえなかったであろう。
「モニカから推薦があってな。随分腕を見込んでいたぞ」
大人のイロを湛えた容を艶っぽく笑む。
大人の女の笑みは、何かを孕んでいる。そんなことを言ったのは誰だったか。
フェニクスの笑みも、そうなのだろうか―――?
そんな理性的な思惟の一方、クレイは顔がにやけるのを感じた。
照れ。
そんな羞恥にも似た笑みを隠すように、口元で手を組む。
「それじゃあハイデガー少尉は0930より指定の場所に行ってください。N-B.R.Dは《ガンダムMk-V》用に改修されていますので、ローティ少尉も同時間にお願いします。えーと、それじゃあ他の人は……」
また、アヤネがタッチパネルを操作する。大型ビームライフルの画面が切り替わり、別なものが表示されるのをどこか獏とした感じに眺めやる。
少し油っぽい鼻を撫でる。
期待。
責任。
腕の組みを強くしたクレイは、ただ思惟に耽った―――フェニクスの視線を、感じることもなく。
※
「もうダメっすねぇ、こいつは」
薄汚れた整備服の男が気の抜けた声で言う。キャップを深く被った男が視線を上げるのに合わせ、プルートも顔を上げた。
ガントリーに収まる漆黒の《キュベレイ》。ニュータイプ対応の傑作機も、整備不良には勝てないというわけか。こうなってしまえばただの鉄屑でしかなかった。。
「こっちもできる限りのことはしてはみましたけどねぇ……」
「いやいいよ。元々は私が下手なのが悪いんだから」
すまなそうに声を落とす整備兵に、プルートは慌てて首を振って、そうして《キュベレイ》をもう一度見上げた。
元々、《キュベレイ》はガタがきている機体だったのだ。その上、《キュベレイ》は深刻な予備パーツ不足に悩まされる機体でもあった。プルートの乗る《キュベレイ》は量産モデルではあるが、生産数はごく少数―――第一次ネオ・ジオン抗争時に持ち出せた《キュベレイ》は片手で数えられる程度しかない。いずれこうなる運命なのは、少し考えればわかることだ。右足に重心を置きながら、プルートは隣にいるメカマンに気づかれないように、鼻から少し息を吐いた。
「哨戒くらいはできる?」
「まぁできなくはないですけど……あと一回で限度っすね。後はあり合わせの部品でカバーすれば戦えなくも無いってくらいには出来るでしょうけど、ちょっと今ここにある部品だけじゃ無理です」
一回、か。
ややきつくなったノーマルスーツの前のファスナーを開ける。元々同年齢の女性よりも発育がいいように『調整』されているプルートにとって、数年前のお古ではどうにも辛い。
《キュベレイ》も、それなりに乗りこなしてきた機体だ。それだけに手放すことになるのは残念だった。
「あんたもお預け?」
背後からの声。もうだめみたい、と応じながら振り返ると、ノーマルスーツに身を包んだエイリィが格納庫上部のキャットウォークからふわふわと漂ってくるところだった。
砂金のような金髪のショートボブだが、右側の一部だけが胸まで届くほど長いという奇妙な髪型が目立つ女性だ。
「ヤクトもぼっしゅーだって! クサクサしちゃう」
綺麗にプルートの隣に降り立ったエイリィがむくれた顔をする。
「サイコ・フレーム関係の?」
プルートがサイコ・フレームの名を出したのは、一重に《ヤクト・ドーガ》と《キュベレイ》とは事情が違うからだ。
《ヤクト・ドーガ》は《ギラ・ドーガ》との部品の共有率が高い。故に、整備に関しては容易ではないにしても《キュベレイ》とは雲泥の差がある。
そうなんだ、とエイリィが眉を顰める。
「なんかねー、パラオの方で使うから返せって。新型機開発のためにサイコ・フレーム使うからとかなんとか」
「聞いたとこあります。なんか《クィン・マンサ》のダウンジングがコンセプトらしいですね」
新型機開発―――俄かには信じがたい話だ、と思った。
現在のネオ・ジオンの経済状況を鑑みればそれどころじゃないハズ、だが。
「ったくそんな無駄なことに金使ってる暇あるんなら《ギラ・ドーガ》でも揃えなさいって」
「まぁ、でもサイコ・フレーム採用するってことはそういうことなんじゃない? 最近トップになった人の旗機が欲しいところだし」
腕組みしたエイリィが憤懣をたっぷり孕ませ、鼻を鳴らした。
口ではそう応えたプルートだが、わざわざ旗機をそろえることがどれだけ無駄なことかはプルートも十分知っている。現在の地球連邦軍のように金を湯水のように使えるわけでもないのに―――連邦軍も連邦政府からは大分締め上げられてはいるのだろうが―――、コストも高ければ整備性も劣悪な機体を1機揃えたところで、どうなるというのか。
黒の《キュベレイ》を眺めやる。
溜息が漏れた。
「補給は《ドーベン・ウルフ》とか……ないかなぁ」
エイリィも溜息を吐いた。そして、そろって背後を振り返った。
クリストファーの格納庫にあるのは《キュベレイ》と《ヤクト・ドーガ》に加えて、もう1機。
強大な輸送力を持つコロンブス級輸送艦の格納庫のがらんどうの中で一際存在感を発するMS、《ドーベン・ウルフ》。餌を見つけた蟻が群がるようにして数人の整備士が取り付いている中に、プルートの隊長も交じっているのが見て取れた。
「追加生産もしていませんからね。ガルス系の機体がもらえれば御の字ってとこですかね?」
だよねぇ―――。
沈んだ声のエイリィは明らかに落胆の色が見られた。
項垂れるエイリィに同情の念を抱いたのは一瞬。そういえば自分の問題でもあるのか、と思ったプルートは、今一度《キュベレイ》を見上げた。
「ねぇ、プルート。今日の夜ひま?」
振り返る。
鬱屈したエイリィの顔―――頭を掻き毟った。
「あたしは別にいいんだけどさぁ、男の人が居るところでそういう話をするのはどうなの?」
くいと顎をしゃくる。あ? と間抜けな顔をしてプルートの指す方を見やる―――隣にいた整備兵がそそくさと《キュベレイ》の元へ飛び上がっていったところだった。
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