黒魔術師松本沙耶香 紫蝶篇
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28部分:第二十八章
第二十八章
「勝利の後の美酒でね」
「その時は私もですね」
「さて。それはどうかしら」
速水の誘いには気紛れで応じた。
「気分次第ね」
「ではその気分にさせてあげましょう」
「何で?」
「勝利の美酒で」
速水に答える。
「それで宜しいでしょうか」
「考えさせてもらうわ」
闇夜からすっと目を話して述べる。
「今はね。勝利の後で」
「では期待していますよ」
「わかったわ。それじゃあ」
「はい」
二人は美術館の壁の前に来た。そこに手をやるとまるで溶け込むようにその中に消えた。後には誰も残ってはいなかった。
美術館の中は誰もいない。夜の闇の中に様々な絵画や彫刻が飾られている。沙耶香と速水はその中を二人並んで進む。
ピカソやゴヤ、ベラスケス、そしてダリのものも多くある。速水はそれ等の芸術作品を見ながらそっと沙耶香に声をかけてきた。
「勝利の美酒の後でここに参りませんか」
「美術館でデートなのですか」
「はい」
速水はそう沙耶香に答える。
「だからこそです。どうですか?」
「それも。考えておくわ」
「つれないですね。どうにも」
「女というものは気紛れなものなのよ」
沙耶香の返事はこうであった。妖艶な笑みを闇が支配する美術館の中で浮かべてきた。その笑みは闇の中に白く浮かび上がっていた。
「それを忘れてはいけないわよ」
「男とは一途なもの」
速水はその沙耶香に反論して述べてきた。
「それも忘れて欲しくはありませんが」
「聞いたことがないわね」
妖艶な笑みのままとぼけてみせる。ベラスケスやエル=グレコの絵を眺めながら。その絵と同じように闇の中で浮かび上がっている。まるで最初から美術館の中にいたようにだ。
「男心の残酷さは聞いたことがあるけれど」
「男心ですか」
「そうよ。男は罪深く、それでいて常に女を必要とするもの」
沙耶香は言う。
「それが男なのだから」
「男もまたお好きだったと記憶していますが」
「否定はしないわ」
妖艶な笑みの中で目をさらに細めさせてきた。
「けれど。女もまた好きなのよ」
「女も、ですか」
「男には男の、女には女の悦びがあるもの」
そう言ったうえでさらに述べる。闇の中に二つの足音が響く。皮の靴の音が何もない美術館の中に響き渡るのであった。
「どちらも。離れられないものよ」
「私は違いますがね」
すっと沙耶香に目を向けて述べる。
「私にとっては花は一輪だけのもの。それは」
口元に微かな笑みを浮かべる。浮かべながら言葉を続けていく。
「闇に咲く一輪の黒百合です」
「その一輪の花。欲しければ」
「どうされますか?」
「その百合の気紛れに誘われて魔界にまで至ることね」
またしても速水の言葉をかわす。かわしたところでダリの絵の集まりのところにやって来ていた。
どれもが歪み、有り得ない世界が描かれた絵ばかりであった。時計に蟻、存在しない筈の場所に人がいて謎の影がある。その影を見ているだけで何かその影に誘い込まれて絵の中に入り込んでしまいそうである。沙耶香と速水はその中の一つの前で足を止めた。
その絵はダリの絵にしてはかなり風変わりなものであった。紫の美しく妖しい蝶達が舞って人々を取り囲む。睡蓮に横たわる人々はその上で恍惚として蝶に身を委ねている。その蝶の絵を見て沙耶香は述べたのであった。
「この絵ね」
「これがですか」
「ええ」
速水の問いにこくりと頷く。二人でその絵を見上げている。
「話に聞いたのはね。間違いないわ」
「紫の蝶」
速水は静かな声で呟く。
「妖しくもあり、かつ美しくもある」
「その蝶達を操る者こそ」
「あの方ということですね」
「そういうことね」
速水に対して答える。闇の中に紫の蝶達が羽ばたき舞っていた。二人はその絵を見て言葉を続けるのであった。
「後は」
「あの方ですが」
二人はあの蝶を舞わす女を探す。そこで。
「来たのね」
後ろから声がした。すうっと白い影が舞い降りてきた。
「ようこそ。よくわかったわね」
「ヒントを知ったせいよ」
沙耶香は依子の方を振り向く。振り向いてから言う。身体は絵に向けたままである。
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