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黒魔術師松本沙耶香 毒婦篇

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3部分:第三章


第三章

「それはね」
「気のせいなのね」
「ええ。そうだけれど」
「ふふふ。それじゃあ起こることも気のせいね」
 そう言うとそのまま彼女の身体の間に入る。それから愛撫に入った。
「これも」
「ええ。全ては気のせいで夢の中」
 それを理由にしようとしていた。
「そういうことよ。だから」
「二人で」
 二人はそのまままた溶け合い夢の中へと入るのであった。その日は夜の間そうして絡み合ったままであった。そうして朝までお互いの身体を貪り合った後で沙耶香は店を後にした。朝焼けの上海は空がやけに赤くまるで椿の花を散らしたかのようであった。
 沙耶香はその街の中を一人で歩いている。まだ街は完全には起きてはいないがもうあちこちに人が出はじめている。流石に中国で最も賑やかな街だけはあり人々の動きも活発であった。
「さあいらっしゃいいらっしゃい」
「安いよ安いよ」
 商店街に行くともう商売人達が商売をはじめている。海の幸や野菜、豚肉等が売られその中には生きた鶏や産みたての卵まである。沙耶香はその中を一人で歩いている。
 その彼女にも。商売人達が声をかけてきた。
「ねえそこのお兄さん」
 だがその声には振り向かない。
「お姉さん」
「何かしら」
 これでようやく振り向く。そうして商売人の方を見るのだった。
「ほう、えらく別嬪さんだね」
「本当だね」
 その店は初老の夫婦がやっていた。彼等は沙耶香を見るとひゅう、と声をあげる。まるでここには普段は現われないものを見た感じである。
「ここの人じゃないね」
「何処の人なんだい?よかったら」
「日本から来たのよ」
 沙耶香はそう答えた。
「東京からね」
「へえ、日本からねえ」
「映画か何かでかい?」
「そう見えるかしら」
 夫婦の言葉に心なしか微笑んだ。実際に悪い気はしなかった。
「だってねえ。奇麗だし」
「日本から来た女優さんか何かだと」
「嬉しいけれど女優ではないわ」
 沙耶香はそれは否定してみせた。
「悪いけれどね」
「そうかい。あんまり奇麗だったからね」
「そう思ったけれど」
「有り難う。じゃあ悪い気はしなかったから」
 見れば店には様々なものが売っている。その中には茶卵や餅まである。ここで言う餅とは麦を練ったものを焼いたものである。米の餅とはまた違い中国北部でよく食べられているものだがこの店にも置いていた。茶卵は茶で茹でたゆで卵である。普通のゆで卵とはまた違う独特の風味がある。沙耶香が見ているのはその二つであった。
「それとそれを貰いたいのだけれど」
「あいよ、茶卵と餅だね」
「ええ、それを御願いするわ」
 親父さんにもそう述べる。
「あいよ。それで何個ずつだい?」
「茶卵は三つね」
 沙耶香は少し考えてからそう述べた。
「それで餅は五つ」
「それだけだね」
「ええ、それで御願い」
 今度はおかみさんにも答えた。
「ここで食べさせてもらうわ」
「あいよ」
「じゃあそれでね」
 こうして沙耶香はまずは手頃なところで朝食を済ませた。まずはこんなものであった。最後にお茶を一杯貰って店を後にした。味もかなりよく思いも寄らぬ場所での美食であった。
 その美食を終えてから彼女が向かうのは繁華街の裏であった。そこの奥の黒い地下への入り口を降りていくとその果てには一つの店があった。何やら中国か何処かさえもわからない様々な品物があちこちに置かれている。そうしてそのさらに奥にはやたらと鼻が長くしかもその鼻が折れ曲がった西洋の魔女を思わせる老婆が蹲るようにして座っていた。
「何じゃ、御主か」
「ええ、お久し振りね」
 沙耶香はその老婆にまずは挨拶をした。
「お元気そうで何よりだわ」
「ニューヨークで妹に会ったそうじゃな」
「ええ、会ったわ」
 その言葉にこくりと頷いたのだった。
「東京にいる姉さんも元気そうじゃしな」
「あの人も相変わらずよ」
 その言葉にもこくりと頷いてみせた。
「元気で。何時まで生きているやら」
「ふぉふぉふぉ、いいことじゃ」
 老婆は沙耶香のその言葉を聞いて顔を綻ばせるのであった。その声も顔と同じものになっていた。
「姉妹が皆元気ならばな。それでいいことじゃ」
「それにしても。本当に似ているわね」
 沙耶香が次に言うのはそこであった。
「最初見た時は移転してきたのかと思ったわ」
「それはないぞ」
 老婆はそれは否定したのであった。
「わし等はれっきとした姉妹じゃ」
「そうなの」
「しかも日本人じゃ」
「日本人ね」
 これにはいささか懐疑的な目を向ける沙耶香であった。それを自分のその低めながらも艶を存分に含んだ声で問うのであった。
「あまりそうは思えないけれど」
「では何人に見えるのじゃ?」8
「そう問われても困るわ」
 実は沙耶香には彼女が何人なのか皆目検討がつかないのであった。
「一応人間には見えるけれど」
「ふん。人間かどうかも疑わしいのか」
「そもそもこの上海に住んで何年なのかしら」
「さてな」
 しかもこの質問にもとぼけてみせる。
「戦前からじゃったかな。妹もあそこに随分と長いな」
「何もなかったの?その間」
 上海の歴史は動乱の歴史である。国民党時代にはここで日本軍と国民党の衝突もあったし共産党政権になってからは長い間日本と交流はなかった。文化大革命の発信地もこの街である。今も様々な人々が集い中国の魔都と呼ばれている。そうした様々な歴史や政治の事情がある街なのである。
「日本人で」
「国籍なぞどうにでもなるものじゃ」
 老婆は素っ気無く沙耶香に答えてみせた。
「簡単にな」
「そうなの」
「表の世界のことなぞ裏から見れば実に簡単なものじゃ」
「簡単なのね」
「難しいことは何一つとしてない」
 老婆はくぐもった笑いを浮かべながら述べた。
 
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