黒魔術師松本沙耶香 妖霧篇
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7部分:第七章
第七章
沙耶香の方は既に準備のことよりもそれから先のことに思いを馳せていた。その香りを何処で身に纏うべきか。それに思いを馳せると共に心に妖しげな悦びを見出していたのであった。
まずはホテルに戻った。そしてそこで腕に何かを纏った。
「これでよし」
それは黒いものであった。蠢きながらその手の中に消えていった。沙耶香はそれを見ながら妖しげな美しさの漂う笑みをたたえていた。
夕食を摂りそれからホテルを出る。そしてその足で例の娼館に向かった。
「また来たね」
「いい店には何度も足を運ぶ主義なのよ」
彼女はカウンターにいる例の中年男にこう言葉を返した。
「今日はちょっと指名させてもらいたいわ」
「指名料をもらうけれどいいかな」
「ええ、いいわ」
そう言いながら金を余分に出した。
「これでいいかしら」
「指名料にしちゃ多いね」
「言ったでしょ、チップも含んでいるの」
煙草を手に取り火を点けながら応えた。今度はライターで火を点けた。
「そうかい、気前がいいね」
「どうせお金は使うものだから」
虚無感を漂わせる口調であった。
「気持ちよく使わないとね」
「あんた幸せになるよ」
「それはどうかしら」
その褒め言葉には懐疑的に答えた。
「人の幸せ不幸せなんてわからないものよ」
「けど今はどうだい」
「幸せね」
妖艶な笑みを漂わせながら言う。
「これからのことを思うと」
「そうかい。で、女の子は誰だい?」
「最初にここに来た時の女の子を。二人いたわね」
「ああ」
男はそれに頷いた。
「ブロンドと、ブラウンだったな」
「そうよ。いるかしら」
「うちはサービスには心掛けていてね。何時でも呼び出せるんだよ」
「オフだったの、二人共」
「いや、これは例えさ。今丁度いるぜ」
そう答えると鈴を取り出した。そしてそれを鳴らした。
暫くして二人のドレスを着た女がロビーに出て来た。沙耶香が最初に相手をしたあの二人の娼婦であった。
「この二人でいいんだね」
「ええ」
沙耶香はカウンターにもたれながら答えた。
「文句はないわ。それじゃあ部屋は」
「ロイヤルスイートだね」
「わかってるじゃない」
「言ったろ、うちはサービスを心掛けてるって」
笑いながらまた言った。
「これ位はうちにとっちゃ常識さ。じゃあ鍵だ」
「有り難う」
そして鍵を受け取った。
「ごゆっくり。楽しんでくれよな」
「それじゃあ心ゆくまで」
そう言いながら娼婦達の方へ歩いていく。そしてそれぞれの腰を抱いた。
「また宜しくね」
「はい」
ブロンドの娼婦の耳元で囁く。囁いた後でその耳を噛んだ。
「あっ」
「続きは部屋でね」
「わかりました」
そして怪談を登りそのままロイヤルスイートへ歩いていく。その彼女を娼婦達の香水が覆う。それは彼女が予想していた香りであった。そして部屋でその香りをさらに濃厚に身に纏うのであった。禁じられた背徳の宴を行いながら。
宴が終わるとホテルを後にした。頽廃の香りをその身体に漂わせながら夜道を歩く。
やはり霧が深く出ていた。沙耶香はその中を一人歩く。来るであろう者を待ちうけながら。
「ロンドン橋落ちた落ちた落ちた」
(やはり)
またあの声でマザーグースが聴こえてきた。それを聞いて心の中で身構える。
「ロンドン橋落ちたロンドン橋」
「やっぱりその歌なのね」
沙耶香は自分の周りに漂う霧に話し掛けるようにして言った。
「予想通りだわ」
「どうやらわかったみたいだね」
霧はそれを聞くと楽しそうに笑ってこう返した。
「そうさ。僕は香りに合わせて歌を選んでいたんだよ」
「やはりね」
沙耶香は自分の身体に纏っている香りを楽しみながら応えた。彼女はそこに白薔薇の香りを漂わせていた。それはかって彼女がはじめてあの娼館に入った時に娼婦がつけていた香水の香りであったのだ。そして先程その娼婦と床を共にした。それにより再び身に纏ったのである。濃厚な頽廃と共に。
「白い薔薇の香りに。やはり貴方は薔薇の香りに誘われていたのね」
「その通り」
霧は楽しげに答えた。
「だって僕は死の霧だから。薔薇が好きなのさ」
「そうね」
沙耶香はその言葉に頷いた。
「薔薇は死に関係することの多い花だから」
「そうだね」
霧もその言葉に頷いた。
「かってキリストは死んだ時にその血で赤い薔薇を作った」
「よく知ってるね」
「遅咲きの薔薇は家族の死を意味する。そもそも白薔薇自体が死をイメージするわね」
「そうだね」
「薔薇の王もまた」
一つの柄に三つの薔薇がついたものである。これを見た者には不幸が訪れるといういわくつきの薔薇である。
「そしてこの国では。薔薇を象徴として戦争が起こった」
所謂薔薇戦争である。イングランドの王位を巡って赤薔薇を象徴とするランカスター家と白薔薇を象徴とするヨーク家が争ったのである。その結果多くの血が流れている。
「これ以上はないという程死を表わした花ね。外見の華麗さとは裏腹に」
「ご名答」
「つまり薔薇は貴方そのものというわけよ。死神さん」
「死神とは心外だね」
霧はそれを聞いて悪戯っぽい声で言った。
「僕はあんな偉い存在じゃないから」
「じゃあ何かしら」
「強いて言うなら死神の弟子かな」
「弟子」
「まだ子供だから。僕はほんの霧の化身に過ぎないからね」
「霧の化身」
「イングランドの深い霧の中では多くの人が死んでいったんだ。血を流してね」
かって夜と共に霧は世界の表の顔を覆い隠す仮面となってきた。そして人々はその中でその邪悪な一面を見せていたのである。
暗殺等はその多くが夜に行われた。そして周りの見えない霧の中でも。そうした流された血の無念が何かとなるのも不思議な話ではないのである。夜も霧も昼の世界、神の世界のものではないからだ。
「その血の無念の集まりが霧に宿る。そして僕になったのさ」
「つまり霧に宿った人の心の負の集まりかしら」
「ネガティブな言い方だね、また」
「魔物にとってこれは褒め言葉だと思うけれど」
「口の減らないお姉さんだ」
「口は減らないのはね。承知しているわ」
にこりと微笑みながら言う。
「けどね」
「けど、何?」
「まだ気になることがあって。聞いてもいいかしら」
「どうぞ」
声はケラケラと笑っていた。
「それでお姉さんの気が済むのならね」
「有り難う」
彼女は返礼した後でさらに問うた。
「マザーグースのことだけれど」
「うん」
「オレンジとレモンはわかったわ」
「何だと思う?」
「あれは黄色い薔薇ね」
沙耶香は言った。
「オレンジとレモンは黄色だから。それで色が同じ黄色い薔薇の香りの時に歌っていた」
「その通り」
声は正解を言うと楽しそうに笑う。
「そしてリング=リング=ローゼィズは」
「お姉さんが思っている通りだよ」
「じゃあ赤い薔薇ね」
「そう」
「あの歌はペストの赤い発疹を薔薇に例えて歌ったもの」
かって彼女自身がハーネストとマクガイヤに説明したことそのままである。
「赤い薔薇の香りに合わせて歌っていた。そうでしょう」
「そう。それも正解だよ」
声はまた笑った。
「それじゃあロンドン橋は何かな。こえは白い薔薇だけれど」
「あの橋は過去何度も落ちているわね。歌の通りに」
「うん」
「そしてこれは隠された話だけれどその度に人柱が埋められた。若い女性のね」
ケルトの頃からある風習である。キリストの教えでは否定されていることであるがこのロンドンはその名自体がケルトのものである。すなわちその奥底にはケルトの因習が残っていたのである。
ケルトの宗教、ドルイド達を中心としたその教えは生け贄を捧げた。人柱はまさにそれだったのである。イングランドの奥底に隠された決して表には出ない影の歴史である。少なくともキリスト教世界においては語られることのない話である。それは闇であるからだ。キリストによって全ては正しく導かれた。こうした生け贄という風習が残っていたということはそれを否定することになるからだ。
「本当によく知ってるね。その通りだよ」
「何で私が知ってるかまでわかるかしら」
「勿論」
霧は答えた。
「お姉さんは普通の人じゃないね」
「ええ」
「魔法使い。それも黒魔術だ」
「ご名答」
沙耶香はそれに答えながら身構えた。
「黒魔術はかってキリスト教に異端とされた術を復活させたもの」
語るその目が赤く光りはじめた。
「その中にはケルトの秘術も入っている。これもまた当然でしょう」
「そうだね」
「では私がこれから何をするのかはわかるわね」
「うん」
「さあ来なさい。貴方を冥府へ送り届けてあげるわ」
「冥府か」
霧はそれを聞いてもまだ笑っていた。
「生憎僕はそっちには行ったことがないんだ。そしてこれからも行くつもりはない」
「貴方にそのつもりがなくても私が送り届けてあげるわ」
「できるの?お姉さんに」
「そうでなければここには来ないわ。薔薇の香りを漂わせてね」
「そう」
「で、どうするのかしら」
沙耶香は問うた。
「自分で行くのかしら。それとも私が送り届けてあげようかしら」
「そのどちらでもないよ」
霧は第三の答えを述べた。
「どのみち僕は行くつもりはないからね。だから」
「逆に私に行ってもらいたいと。そういうわけね」
「そうだよ。折角薔薇の香りを漂わせているんだし」
霧はまだ言う。
「行かせてあげるよ。天国にね」
「生憎だけれど」
また霧が腕になった。そしてそれが沙耶香に襲い掛かる。沙耶香はそれを見据えながら冷静な口調で言った。
「私は天国に行くことはできないわ。何故なら」
その赤く光る目はまさにルビーであった。闇夜の中に輝く宝玉であった。それは妖しい光を放っていた。
「私はキリストの僕ではないから。私の信じる神は」
語りながら動く。まるで影の様に静かで風の様に速い動きであった。
「闇の神々だから。闇の中にあって人々をそれぞれ導く神」
動きながら何かを放つ。そしてそれで腕を消していく。
「闇の中より生まれた道。それはかってキリストによって否定された道」
「じゃあ僕と同じだ」
「違うわ」
だが霧の言葉は否定した。
「かってこの欧州の森の中で信じられてきた深い神々。それは森が切られることによってその居場所を失っていった」
欧州はかっては深い森の中に覆われていた。そこには妖精や魔物が潜むと言われてきた。実際に無法者が逃げ込み野獣が棲んでいた。森は人々にとって異界であり、恐るべき魔界であったのだ。
ヴォータンを信仰していた魔女もそこにいた。竜も小人もそこにいた。そして人とはまた違った世界を作り上げそこに棲んでいたのだ。魔王もいた。死霊達も蠢いていた。そこはまさしく異界であり魔界であったのだ。
その中にドルイド達もいた。ケルトの神々を伝える者達が。今沙耶香の心の中にそれが宿っていたのだ。
「このロンドン、そしてイングランドもまた。かっては森に覆われていた」
「魔女もね」
「ええ」
霧の言葉に頷いた。それはこのイングランド、ブリテンにおいても同じだったのだ。
マクベスに運命を伝える魔女達。彼女達もまた森の住人であった。マクベスは森の住人達の言葉に誘われ王となり、そして森が動いた時に滅んだ。全ては森の言葉通りに。
「私はあの魔女の血を受けた者」
「血を」
「正確に言うならば。その教えを受け継いだというべきかしら」
両手から放つ何かで霧の腕を消しながら言葉を続ける。
「貴方とはまた違った世界なのよ。森の世界はね」
「じゃあ霧に勝てるとでもいうの?」
霧はそれを聞いておかしそうに尋ねてきた。
「森は水を吸うもの」
それに対する彼女の返答はこうであった。
「だったら霧を怖いと思うこともないわね」
「大した自信だね」
霧はそれを聞いても怖れるところはなかった。相変わらず余裕が感じられる声であった。
「けれどね」
そして霧はまた言った。
「僕はこれだけじゃないんだ。腕だけじゃね」
「他にもあるのかしら」
「うん」
霧はそれに頷いた。
「お姉さんが森なら。これはどうかな」
そして周りの色を変えてきた。
「これは」
霧が淡い赤色に変わっていく。それはまるで血を混ぜたかのような赤であった。毒々しい不気味な色であった。
「血!?」
「似ているけれどそうじゃないよ」
霧は嘲笑に近い笑みを込めてこう言った。
「これは毒だよ」
「毒」
「僕はね、毒も操ることができるんだ。かってそれで死んだ人達を霧の中に包んできたから」
「そうだったの」
影の世界に潜む者ならではの技であった。
「これで今まで。多くの人達を天国に連れていってあげたよ」
霧は楽しそうに言う。
「色々な人をね。そして今お姉さんも」
「さっきも言ったけれど」
沙耶香はそれに対して言う。
「私は天国に行くことはできないのよ。貴方が言う天国にはね」
「じゃあ地獄かな」
「地獄でもないわ。強いて言うなら」
言いながら動きを止める。そしてその両腕に何かを宿らせる。
「森の中よ。神々が棲む森の中へ」
どうやらそれが彼女の言う神々であるらしい。森の中に潜む。それはおそらく只の森ではない。
人の心の中の森。キリストにより否定された神々。彼等が棲む森なのだ。
「そしてそこへ行くのは私の意志によって。貴方の意志じゃないわ」
「じゃあどうするの?この毒を」
「毒、これが」
急に笑ってうそぶいた。
「てっきり絵の具かと思ったわ。面白い趣向ね」
「そんなことを言っていられるのも今のうちだと思うけれど」
「生憎毒とかそうしたものには強くて」
両腕に何かが宿った。それは先程から投げていたものであった。
「そうそう簡単にはやられないのよ。残念だったわね」
「それじゃあこちらも別の方法があるよ」
霧はそれを聞いても平然としたものであった。
「これでね。どうかな」
今度は霧の中から人が出て来た。いや、それは人ではなかった。
霧が人の形をとったものだ。おそらくはこの霧が作り出した人形であろう。
「色々と器用なことね」
「霧の中だったら何でもできるよ」
相変わらずおかしそうに言う。
「何でもね。ここは僕の世界だから」
「それは本当ね」
沙耶香は一旦はそれを認めた。
「この中にいる限り貴方には勝てないわね」
「よくわかってるじゃない」
「それじゃあこちらにもやり方があるわ」
その手の中に宿らせたものが大きくなっていく。
「これなら。どうかしら」
「それは」
それは黒い何かであった。ユラユラと蠢いている。まるで生き物の様であった。
「これが何かまではわからないようね」
沙耶香はそれを悠然と漂わせながら言葉を続ける。
「これは炎よ」
「炎!?」
それを聞いた霧の声がうわずった。
「あら、どうかしたのかしら」
「まさか、そんなものが」
「怖いの?」
沙耶香はうわずる霧の声を楽しみながら問うてきた。
「まさか。こんなものが」
「こ、怖くなんか」
「意地はよくないわよ」
顔にも笑みを浮かべていた。明らかに霧が怯えているのを感じていた。
「それは怖いでしょうね」
「それは・・・・・・」
「霧は水。水は火によって消えるもの」
彼女は言った。
「怖くない筈がないわね。けれど不思議でしょう」
その赤い切れ長の目が歪に曲がっていた。三日月の形で上に曲がっていた。それはまるで狼が笑ったような目であった。
「炎が黒いだなんて。当然よね」
目だけではなかった。口もまた同じであった。不気味な笑みであった。整った顔に浮かび上がる魔性。それはまさに魔界の笑みであった。
「そんなことは有り得ないことなのだから」
「それがどうして」
「これが魔術よ」
沙耶香は言った。
「魔術」
「そう、黒魔術。けれどこれはケルトのものでもゲルマンのものでもないわよ」
「それじゃあ一体」
「私が生み出した炎。言うならば私の気かしら」
「気だって!?何だいそれは」
「日本では気を使った術があるわ」
自身の祖国にある術について言及した。
「それは自分の中にあるオーラのようなものを使うのよ。そしてそれで敵を討つ」
「敵を」
「私はそれにアレンジを加えたのよ。黒魔術と合体させて。そしてそこに日本古来の術も混ぜ合わせたの」
「それがその黒い炎」
「そうよ。本当は別の色になったのでしょうけれど生憎私は黒魔術師」
自身を半ば嘲笑するようにして言った。魔界の笑みはそのままである。
「黒い炎になってしまったわ。けれどそれはそれでいいこと」
笑ったまま言葉を続ける。
「私は黒魔術師だから。別に構わないわ」
言いながら再び構えをとる。その両手に炎を宿らせたまま。
「覚悟はいいかしら」
「くっ」
「そろそろお別れしたいのよ。名残り惜しいけれど」
「炎なんかで」
霧は苦し紛れの様な声を出した。
「やられるわけには」
「そうこなくてはね」
沙耶香の笑みが変わった。
「面白くないわ。闘いは長くないと」
そう言いながら斜めに動く。笑みは魔界のものから戦士のものとなっていた。笑みを変えながら鞭を取り出す。
「楽しくないから。いくわよ」
そして鞭を出した。それにも炎を宿らせる。
「これはどうかしら」
黒い舌のようであった。禍々しい闇の炎が霧を切り裂く。それだけで何かが蒸発する音が聞こえ闇が蠢く。霧はそれを見てまた声をあげた。
「うぐっ」
「あら、痛いのかしら」
沙耶香の声がまた楽しげなものとなった。
「それは痛いでしょうね。身体が切り裂かれるのだから」
「そこまで」
「ええ。知っているわよ」
笑みをたたえたまま言う。
「知っているというよりわかったと言った方がいいかしらね」
「うぐぐ」
「貴方は霧そのもの。霧の妖精なのだからね」
「わかったの」
「ええ、わかるわ。貴方の声は霧の中から聞こえてきた」
沙耶香は霧の中を動き、そして切り裂きながら言う。
「霧が腕となって襲い掛かってきたわ。その腕は貴方の腕だったわね」
「それもわかったの」
「何でもね。そして私の炎を怖れたのを見て確信したわ」
「しまった」
霧はその言葉を聞いた時己の迂闊さを呪った。
「貴方が霧そのものだということをね。それではいいかしら」
ダメージはかなり蓄積されてきていた。既に霧には沙耶香を攻撃する力は残ってはいなかった。
それを察して沙耶香も攻撃を変えてきた。鞭をしまい動くのを止めた。
「これで。最後にするわ」
そして身体全体にその黒い炎を宿らせた。それはまるで影の様に彼女の身体を覆った。
「さようなら」
そしてそれをあらゆる方角に放つ。それで最後であった。
霧が消えていく。まさに雲散霧消であった。跡形もなく、シュウシュウという蒸発する音だけ残して霧は消えていった。
「グググ・・・・・・」
だが彼はまだ生きていた。断末魔の苦しみに耐えながらも沙耶香を見据えていた。人には決して見ることのできない目で。
「まさかこんなことが」
「人間にやられるなんて思ってもいなかったようね」
炎は既に消えていた。沙耶香は霧が消えた夜の闇の中に身体を置きながらその言葉に応えてきた。
「まさか。そしてここで消えるなんて」
「お姉さんは一体」
「私?私は只の人間よ」
今度は妖艶な笑みを浮かべて言った。
「嘘だ」
「本当のことよ」
霧に応える。
「ただの黒魔術師よ。それ以外の何者でもないわ」
「けれどその力は」
「只の人間を甘く見ないことよ」
霧の声は地の底に消え失せようとしていた。沙耶香はそれを感じて後ろ、それも左斜め下を横目で見下ろしながら言った。丁度そこから声が聞こえてきたからである。
「人間はね、凄いのよ」
「凄い」
「そうよ。だって神にも悪魔にもなれるのだから」
「嘘だ」
「嘘だと思うのなら私の炎は何かしら」
「うぐうっ」
そう言われては沈黙するしかなかった。彼はそれにより倒されてしまったのだから。
「これが何よりの証拠よね。人間の凄さの」
「それで僕を倒したのだからだって言いたいんだね」
「その通りよ。人間を馬鹿にしていたでしょう」
「否定はしないよ」
霧はそれを認めた。
「人間は。僕にそのまま冥界にまで送り届けられるだけの存在でしかなかった筈なのに」
「それが間違いだったのよ」
沙耶香はさらに言う。
「それがわからなかったから。貴方はこうなった。否定はできないわよね」
「・・・・・・・・・」
「もっとも私が神か悪魔なんてことはどうでもいいわ。どちらにしろ簡単になれるのだから」
「そんな馬鹿な」
「あら、簡単よ。だって」
彼女の顔から一瞬表情がなくなった。そしてすぐに別の表情になった。
「人間はその間にいるのだから。神になるのも悪魔になるのも」
不思議な顔であった。
「一歩踏み出すだけなのよ」
右半分は純粋で穢れのない笑みであった。だが左半分は。
さっきの笑みであった。魔界の笑み。一つの顔に二つの表情が同時に浮かんでいたのであった。
「わかったかしら」
だが返事はなかった。
「もう消えてしまったのね。早いわね」
既に霧は滅んでしまっていた。気配は完全に消え失せてしまっていた。こうして沙耶香はこの一連の事件を解決したのであった。
霧が滅んだのを確かめるとその場を後にした。街灯が照らすロンドンの夜道を歩いて行く。今までの朧な光ではなくなっていた。はっきりとした明るい光であった。
だがその中においても沙耶香は闇の中にいた。そしてその中で動いていた。それはまさしく夜の中に咲く一輪の黒い花であった。
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