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黒魔術師松本沙耶香 妖霧篇

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6部分:第六章


第六章

「今回の歌はリング=リング=ローゼィーズだったのですか」
「はい」
 部屋に帰ると二人に対してその歌のことを述べた。二人はそれを聞いて考える顔になった。
「ふむ」
「赤い薔薇の時にその歌ですか」
「花に歌を合わせたのでしょうか」
「それはどうでしょうか」
 だがハーネストはそれには懐疑的であった。
「といいますと」
「単なる偶然かもしれません」
「偶然」
「まだ確証が得られないということですよ」
 苦い顔をしてそう答えた。
「確証ですか」
「貴女が襲われた時はロンドン橋の唄でしたよね」
「ええ」
「ですが貴女はその時少なくともロンドン橋からは全く関係のない場所におられた筈です。それが何故」
「確かにそうですね」
 そう言われるとその通りであった。それを聞いて沙耶香も考える目になった。
「では一体」
「それはこれから先の捜査ですね」
 ハーネストはいささか突き放した声で言った。
「これからですか」
「とりあえずは犠牲者がこれ以上出ないことを祈りますが」
「はい」
「正直あまり話は進んでいません。今は本当に祈るだけです」
 そしてその日は終わりとなった。沙耶香は仕事が終わるとバーに向かった。あまり気が晴れなかったので酒でそれを晴らそうというのである。
 洒落たバーのカウンターで飲んでいた。飲んでいるのはスコッチである。知らぬ者はないイギリスの誇る名酒である。それを飲みながらあれこれと考えていた。
「どうかしましたか」
 銀色の髪の洒落たバーテンダーが声をかけてきた。
「何かお悩みのようですが」
「少しね」
 沙耶香は微笑んでからそれに返した。
「恋人の心がわからなくなっている、と言えばいいかしら」
「恋人の、ですか」
「振られるかどうか。瀬戸際かしらって思うのだけれど」
 あえて事件のことをカモフラージュしてこう語った。
「困った話ね。よくある話だけれど」
「そういった時はまず心を落ち着かせることですね」
「心を」
「はい」
 バーテンダーは頷いた。
「これを如何でしょうか」
 そう言って一杯の水割りをスコッチを差し出してきた。それは彼女が今飲んでいるスコッチと同じものであるが全く違うところがあった。
「それは」
「幸せと心の平穏をもたらすお酒です」
 彼はにこりと笑ってこう答えた。そのスコッチには一枚の薔薇の花びらが浮かんでいたのである。それは黄色い薔薇の花びらであった。
「何故黄色なのかしら」
 沙耶香は薔薇の花びらの色について問うた。
「黄色い薔薇は幸せを呼ぶしるしだからです」
 それに対するバーテンダーの答えはこうであった。
「恋に悩まれている時は。幸せと心の平穏が何よりいいですから」
「そうね」 
 薔薇の香りは人の心を穏やかにさせる。彼はそれを知ったうえでこれを薦めてきたのである。
「まあどうぞ。これは私のおごりです」
「有り難う」
 すっと笑った後でそのスコッチを手に取った。そして口に運ぶ。
 口の中に二つの味と香りが漂った。スコッチのそれと黄色い薔薇のそれである。白い薔薇や赤い薔薇とはまた違った黄色い薔薇独特の味であった。沙耶香はその二つの味を味わいながらそのスコッチを飲んだ。
「如何でしょうか、我が店特製のスコッチは」
「見事ね」
 口からスコッチと薔薇の香りを漂わせながら答えた。
「本当に心が落ち着いてきたわ」
「そうでございましょう」
「お願いがあるのだけれど」
「はい」
「今飲んでいるスコッチにも薔薇を入れてくれないかしら。その黄色い薔薇をね」
「わかりました。それでは」
 それに応えまずは沙耶香の前にあるスコッチのボトルを受け取った。暫らくしてまた一杯の薔薇が入ったスコッチが出されてきた。
「どうぞ」
「有り難う」
 それを受け取りまた飲む。また口の中に薔薇とスコッチの芳香が漂った。
 飲みながら心を落ち着かせる。同時に研ぎ澄ませていた。これからの為に。
 ボトル一本空けると店を出た。そして夜道を一人歩いていた。
 やはり霧の深い夜だった。街灯の光でさえぼんやりとしている。闇の中に漂うその光を頼りに道を進んでいく。ホテルまでもうすぐの場所で霧が動いた。
「オレンジとレモンと聖クレメントの鐘が言う」
 あのマザーグースの歌声が聞こえてきた。
「五ファージング借りたままだぞと聖マーティンの鐘が言う」
 その歌声は次第に近付いてきていた。そして沙耶香の側で気配が止まった。
「やあお姉さん」
 声は沙耶香に語り掛けてきた。
「暫くだったね。元気そうで何よりだよ」
「そうね」
 沙耶香はその声がする方に顔を向けて応えた。顔にはうっすらと笑みを浮かべていた。
「今度は来てもらうからね」
「私は子供でも誘いは断らない主義なのだけれど」
 言いながら構えをとる。
「強引な誘いは嫌いなのよ。断らせてもらうわ」
「悪いけどそういうわけにはいかないんだ」
 霧は言った。
「お姉さんがその香りを身に纏っているからね。来てもらうよ」
(香り!?)
 それを聞いた沙耶香の眉がピクリと動いた。
(まさかその香りは)
 ここで何かが繋がった。沙耶香もそれがわかった。
「それじゃあ」
 言葉と共に霧が動いた。
「これで。痛くはないけれど我慢してね」
「むっ」
 霧が腕となった。そして沙耶香に襲い掛かってきた。沙耶香はそれを後ろに跳んでかわした。
「僕の腕をかわしたね」
「男の腕力には慣れているから」
 彼女は涼しい声で以ってこう返した。
「この程度じゃ。怖くとも何ともないわ」
「じゃあもっと手荒にいかせてもらうよ」
 霧はまた言った。そして腕をもう一本出してきた。
「生憎腕は何本でもあるし」
「あら」
「これで足りなければまた出すから。早く諦めた方がいいよ」
「もう一つ言っておくけれど」
 言いながら懐から何かを取り出した。
「私は諦めが悪いのよ。それは覚えておいてね」
「つまり情が深いってことだね」
「しつこいのと情が深いのはまた別よ」
 言いながら懐から取り出したものを構える。それは一本の黒い刀身の短剣であった。
 一振りするとそれが剣に変化した。黒い剣であった。
 それで向かって来る腕を切り払った。腕は一振りで文字通り雲散霧消してしまったのである。
 そしてもう一本の腕も切り払う。腕はまた霧に戻って消えてしまったのであった。
「これでよし」
「さっき僕が言ったこと忘れたのかな。これでよしって」
「いえ、覚えているわよ」
 剣を構えながら答える。
「何本でもあるのよね、確か」
「そうだよ、僕は霧だから」
 彼はまた言った。沙耶香はそれを聞きながらこの魔物の正体を探っていた。
(霧・・・・・・)
 そこに何か答えがあるようであった。
(香りで人の前に現われる。そして霧)
 その二つに何かがあるようだった。だがそれが何かまではまだわかりはしない。
 考えている間に周りに無数の腕が現われた。そして沙耶香に襲い掛かってきた。
「今度はかわせるかな」
「心配は無用よ」
 それに応えながら頭の後ろに手を回した。
「剣が駄目でも。私にはこれがあるから」
 髪を止めている紐を解いた。そして髪を下ろした。長い黒い髪が周りのぼんやりとした霧の中の灯りに映し出される。それはまるで夜の中の闇が彼女に舞い降りたかのようであった。
 それは自然に動いた。まるで髪自身が生物であるかのように。動きながらそれは徐々に伸びていった。
「いくわよ」
 その声と共に髪の動きが活発となった。そして霧の腕達に向かって突き進む。 
 無数の髪がそれぞれの腕を突き刺した。それで腕は消えていった。どうやらこの髪にも何かしらの魔法が宿っているようである。腕を全て消し去った後も沙耶香の身体を守るようにして宙に漂っていた。
「どうかしら、これで」
「お見事」
 霧は囃し立てるようにして言った。
「凄いね。感心したよ」
「そのわりには心が篭っていないようだけれど」
「いやいや、まさか」
 霧は沙耶香を嘲笑うようにして言葉を続ける。
「その証拠に今日はこれでお邪魔させてもらうよ」
「あら、諦めがいいのね」
「だってまた会えるから」
「また」
「その香りが案内してくれるからね。それじゃあ」
 そう言い残して霧は何処かへと消え去ってしまった。後には沙耶香だけが残された。彼女は一人そこに立って考え込んでいた。
「香りが」
 それがやけに引っ掛かった。
「どういうことなのかしら」
 だがそこまではわからなかった。彼女は霧の言葉の真意がわかりかねていた。だが一人道で考えてもどうにもなるものではなかった。とりあえずこの時は一人ホテルに帰ることにした。そして休息をとった。朝はこれまで通り入浴と着替えを済ませた後でルームサービスの朝食を採った。それからヤードに向かった。
「そうですか、遭遇しましたか」
「はい」 
 ハーネストとマクガイヤに昨日のことをありのまま言った。二人はそれを聞いて考える顔になった。
「今度はオレンジとレモンの歌ですか」
「はい」
「この前はリング=リング=ローゼィーズで」
「ええ。そして香りです」
「香りですか」
「はて」
 それがどういうことなのか二人にもわかりかねていた。
「そういえばその香水は」
「キンモクセイの香水ですが」
 沙耶香は自分が着けている香水に関して言及した。
「キンモクセイ」
「日本では秋に咲く花でして。人気のある花の一つです」
「そうなのですか」
「黄色い花で。この様に非常にいい香りがします」
「黄色い花」
 それを聞いてマクガイヤの目の色が変わった。
「ええ。それが何か」
「キンモクセイは黄色い花ですよね」
「はい」
「それで昨日霧の怪物が歌った歌ですけれど」
「オレンジとレモンの歌が何か」
「それです。オレンジとレモン、そしてそのキンモクセイの共通点は」
「黄色ですか」
「そう、それです」
 マクガイヤの声が大きくなった。
「怪物は香りと言いましたね」
「はい」
「若しかすると貴女のその香水に気付いて来たのかも知れません。だからマザーグースの歌はそのキンモクセイと同じオレンジとレモンの歌」
「そうだとすると」
「そう、そしてリング=リング=ローゼィーズは」
「赤い薔薇」
「あの学生が襲われた時に持っていたのも赤い薔薇です」
「では」
「はい。おそらく魔物はその花の香りに誘われて人を襲っているのです。娼婦通いが好きな者が狙われるのも」
「香水の香りですか」
「そうです。これで納得がいくのではないでしょうか」
「そうですね」
 沙耶香はそこまで話を聞いてある程度は理解した目になった。だがどういうわけか全て理解した目ではなかった。
「ですがまだ疑問があります」
「それは」
「花の香りといっても色々あります」
「はい」
「マザーグースも色々あります。ですがあの怪物が歌っているのは三曲だけ。知られている限りでは」
「それは」
「それだけではありません。あの学生が襲われた日私は娼館に通いました。そしてそこで娼婦達の香りを身に纏ったのですが」
「その時は襲われなかった」
「はい。怪物は全ての香りに誘われているわけではないと思うのですが。どうでしょうか」
「言われてみれば」
 マクガイヤはそれを聞いて落ち着いた。そして考える顔になった。
「それにあの怪物は犠牲者を消していますね」
「はい」
「霧の中に連れ去って。おそらくその香りに死を意味するものがあるのでしょう」
「死を」
「それは一体」
「まだ確証が得られませんが」
 彼女はそう語りながらふと気付いた。あの時自分が見に纏っていた香りはキンモクセイのものだけではないということに。
(スコッチと)
 もう一つあった。それが別のものとも結び付いた。
(まさか)
 そこで気付いた。そして二人に対して言った。
「あの」
「何でしょうか」
「この事件、今日で全てを終わらせることができるかも知れません」
「といいますと」
「全ては私に任せて下さい」
 彼女はこう申し出た。
「考えがあります。今夜でそれが推察から確信に変わるでしょう」
「推察から確信に」
「ええ。その準備に今から取り掛かりたいのですが」
「どうやら何か策がおありで」
「勿論」
 そう答えて不敵に笑った。
「では今日はこれで。その準備がありますので」
「はい」
「それでは貴女に全てをお任せしましょう」
 二人はそれぞれ言った。だがハーネストは一言付け加えることを忘れなかった。
「ただ」
「ただ・・・・・・何か」
「御気をつけ下さい。相手は人ではありませぬ故」
「それはこちらも承知しております」
 沙耶香はそれに応えて笑った。闇の中に咲く一輪の妖しい花を思わせる笑いであった。
「これが仕事ですし」
「左様ですか」
「ですからお任せ下さい」
 その妖しさと美しさを混ぜ合わせた笑いのまま応えた。
「全ては今日終わりますから」
「それでは明日吉報をお待ちしております」
「はい」
「グッドラック」
 それがこの日沙耶香が聞いたハーネストの最後の言葉であった。彼はこれが彼女にかける最後の言葉にならぬよう内心神に祈った。だがこれは杞憂であった。


 
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