黒魔術師松本沙耶香 妖霧篇
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3部分:第三章
第三章
「先程のお話ですけれど」
マクガイヤは部屋に戻るとすぐに沙耶香に声をかけてきた。昨日三人がはじめて会った下手である。
「私は歌がどれも可愛いものばかりと言っただけですが」
「はい」
沙耶香はまずはそれに頷いた。
「それがどうかしたのですか」
「そのマザーグースの唄のことです」
彼女はあらためて言った。
「まずオレンジとレモンですけれど」
「ええ」
「マザーグースは日本でも有名でして。詩人の北原白秋が訳していたりもしています」
「日本でも知られていますか」
「はい。その彼の訳で書かれているのです。最後に」
そして言った。
「首切り役人が御前のそっ首ちょんぎりに。これは御存知ですね」
「私も子供の頃から聞いて歌ってきましたから」
マクガイヤはそれに頷いた。
「勿論知っています。つまりこれは死刑の唄ですよね」
「はい。そして次にリング=リング=ローゼズィーズですけれど」
「今度は死刑でも何でもありませんよ」
「そう、今度は死刑ではありません」
彼女は一旦それは認めた。
「では問題ないのでは」
「それが違うのですよ」
だがここで否定してきた。
「この唄はクシャミが出ますね」
「ええ」
「そこに秘密があるのです」
「風邪、でしょうか」
ハーネストが問うてきた。
「昔からロンドンは寒くてインフルエンザが流行したことも度々でしたが」
「インフルエンザですか」
「違いますか」
「近いと言えますが違います」
それは不正解であった。ハーネストだけでなくマクガイヤも首を傾げさせた。
「では何でしょうか」
「かってロンドンにおいて流行したのはインフルエンザだけでしょうか」
「!?」
二人はそれを聞いて顔を見合わせた。
「私の国では知られていない病気ですが」
「!?日本では」
「少なくともあまりピンとはきませんね」
「日本では、ですか」
「はい」
沙耶香はあらためて頷いてきた。
「ですからあくまで話を聞く限りですが」
「はあ」
「もう一つのヒントは薔薇です」
「薔薇」
「そう、薔薇です」
あえて薔薇に注目させるように話を進めてきた。
「薔薇といえばどんな色ですか」
「それは当然赤でしょう」
ハーネストが言った。
「白や黄色のものもありますが。やはり薔薇となると」
「そうですね。では赤いものといえば」
「ロンドンで流行ったもので」
「はい。これでおわかりだと思いますが」
「まさか」
そこまで聞いてハーネストもマクガイヤも顔を青くさせた。赤い薔薇の話をしているというのに二人の顔は急激に青くなってきていた。
「そのまさかです」
沙耶香はその白い顔を変えることなく言った。
「ペストです」
そしてその病気のことについて言及した。過去に何度も欧州を恐怖の底に陥れた恐るべき病気である。またの名を黒死病という。これにより一時欧州の人口の四分の一若しくは三分の一が死んだと言われている。
「ペストは寒気がしますね」
「はい」
「クシャミはそれです。そして赤い薔薇は」
「紅疹ですか」
「そう。つまりこれも死の唄ということなのです」
「それではロンドン橋もそうですね」
「はい」
ハーネストの問いに頷いた。
「これはもうおわかりですね」
「あまりにも有名な話ですから」
彼はその言葉に頷いた。
「私はロンドンで生まれ育ったのですがあの橋についてはよくない噂がありましてね」
「あれのことですか」
それを受けてマクガイヤが彼に声をかけてきた。
「君も知っていたか」
「人柱ですよね。何でも若い女性が生け贄に捧げられたという」
「そうだ。キリスト教世界ではない筈のものだがな」
「ですがケルトの社会では長い間行われてきましたね」
「流石に御存知で」
「かってケルト人達はその儀式において生け贄を捧げてきました」
これはカエサルの書にもある。ケルト人達は生け贄を捧げる風習を持っていたのだ。それが長い間イギリス人の中に生きていたのである。例えケルトの神々が落ちぶれ妖精になってしまっていても。
「ロンドンの名前自体がケルト語ですしね」
「はい」
「それが残っていても不思議ではないでしょう」
「確かに」
ハーネストはそれを認めて頷いた。
「否定できませんね。キリストの中にあっても」
聖書においては生け贄は否定されている。そのかわりがキリストの血であるワインとキリストの肉であるパンなのである。だがこれにも欧州において長い間息づいてきていたカニバリズムが潜んでいると言われている。実際に欧州においてはカニバリズムは中国のそれのように顕在化していたものであった。グリム童話やペロー童話においてもそれは語られここで沙耶香達が語っているマザーグースにも歌われている。十字軍や三十年戦争においては普通に食人が行われてきた。これもまた欧州の歴史であった。
「あくまで伝説ですが。そう言われているのもまた事実です」
「すなわちこの三つの唄には共通するものがあります」
「死、ですか」
「はい。おそらくあの霧の中にいる存在は死を司る存在です」
沙耶香は言った。
「死を」
「そう、この三つの唄を見る限り。おそらく今までの犠牲者は」
「この世にはいませんか」
「霧の中で。消されたのでしょう」
「まさに魔物ですね」
「とりあえず私がわかったのはこれです。そしてもう一つ気になることがあります」
「それは」
「この霧の魔物による犠牲者達です」
「犠牲者」
「彼等に何か変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと」
「若しくは特徴があったとか。そこに何かあると思うのですが」
「そうは言われましても」
「例えば私ですが」
ここで襲われながらも只一人生きている沙耶香本人が口を開いた。
「はい」
「私はアジア系です」
「それはもう承知ですが」
「そして同性愛者でもあります」
次に自らの性的嗜好を告白した。
「同性愛者」
「例えば。同性愛者が襲われたということはないですか」
「それは」
彼等はそれを聞いて顔を顰めさせた。
「少し待って下さい。すぐにはわかりません」
「そうですか」
「ですがそれぞれ調べていけばわかりますので。それで宜しいでしょうか」
「わかりました。では今日はそれへの調査ですね」
「はい。宜しくお願いします」
こうして三人は犠牲者の調査に入った。その中には捜査官達も入っていた。調査はその日の真夜中になってようやく終わった。結果面白いことがわかった。
「成程」
ハーネストがまず呻いた。
「同性愛ではなかったですが」
「まさかこんな結果だったとは」
「意外でしたね」
沙耶香がそれに応えて頷いた。調査の結果は実に面白いものであった。
「皆娼館に入ることが好きだったとは」
「思いもよりませんでした」
「警察官でもそうしたことがあるのですか」
「我々もまた人間ですからね」
ハーネストはそれを否定しようとはしなかった。
「何処かで。そうしたことも必要です」
「中には男娼館に入る同性愛者もいたようですね」
「私もそうですから」
「男にも興味がおありですか」
「私は博愛主義者ですので」
笑いながらうそぶいた。
「性別にこだわることはありません。例え誰であっても気に入れば」
笑っていた。その笑みはこの場には似つかわしくはないが時間には似つかわしい妖艶なものであった。そしてその笑みが実に彼女に似合っていた。
「それはまた」
マクガイヤはそれを見て苦笑した。
「我が国はよく同性愛者が多いと言われますが」
「両刀使いとは。また面白いですね」
「恋愛というものは本来性別なぞ関係ないものですから」
今度は持論を述べてきた。
「本来は。インモラルでも何でもないでしょう」
「日本では特にそうらしいですね」
「御存知でしたか」
「我が国の同性愛者達の間では評判ですよ」
ハーネストはこう答えた。
「歴史上同性愛で処罰された者がいない国だと」
「ええ、その通りです」
これは事実であった。今でも同性愛は多少奇異の目で見られはするが絶対的な罪悪とは思われてはいない。平安時代にはとある公卿が自身の日記に同性愛のことを楽しげに書いている。当時の日記は他の者も読むことを念頭に置いて書かれるので彼はそれを特に罪悪とは思っていなかったのだ。
とりわけ戦国時代には同性愛は盛んであり織田信長が同性愛者であったことはよく知られている。自身も細面の美男子であったが彼は美少年を好んだ。前田利家や蒲生氏郷、そして森蘭丸といった美男子でありかつ武芸や知略に優れた者を愛していた。また彼が恐れていた武田信玄もまた当代随一とまで謡われた絶世の美男子であり武田の名将であった高坂弾正正信を愛していた。信玄は彼への恋文も残っている。やはり彼等も同性愛というものは不自然なものであるとは思っていなかったのだ。
これは江戸時代も同じでやはり男色は普通にあった。小姓もそうであり若衆歌舞伎が風俗を乱すとして禁止されたのもこれがあったからである。もっとも歌舞伎の方は野郎歌舞伎になったが実際は若衆も普通に出ていたのであまり効果はないものであった。実際に女形はそういった男色の修業も行っていた。これは今でもあると言われている。実際にそうした小姓を口説こうとする久米寺弾正のような役や弁天小僧やお嬢吉三のようにあからさまにまで同性愛を匂わせる役も多い。これもまた日本では同性愛が普通だったからである。
明治にも昭和にもこれは残った。そして同性愛の雑誌も普通にある。今では多少奇異の目で見られるがやはりそうした文化が根強く存在しているのである。これは事実であった。
「我が国では違いましてね」
「オスカー=ワイルドですか」
「ご承知でしたか」
「有名ですからね、あれは」
沙耶香は言った。アイルランドに生まれたこの作家は耽美派として知られ乗馬服に身を包み美を讃えることを説いていた。彼はとある貴族の美青年と恋仲にあったがこれがもとで投獄されたのだ。海外に逃げていたが何を思ったか強気に出て牢獄に入れられたのだ。出所後は心身共にかなり弱っていたという。少なくとも当時のイギリスだからこそ投獄されたのであり日本ならそのようなことは全くなかったであろう。
「そうした歴史がありますから。日本が羨ましいと考える者もいるわけです」
「そうだったのですか」
「しかし同性愛者ばかりを狙うのならまだ納得がいきますが」
「はい」
「誰でも狙うとなると。正直そうした店に通うのは誰でもありますし」
「まあそうですね」
これは日本もイギリスもどの国も同じであった。所謂売春や風俗産業はどの時代のどの国にも存在する。禁止しても影でする者もいる。世界最古の職業であり人間が人間である限りなくなりはしないものだ。これは共産圏においても存在した。人間がそうした欲望を持っているのが否定できない以上こうした産業もまた否定できないのである。
「殆ど見境なしと言っていいですね」
「では私が襲われたのも」
「同じではないでしょうか」
マクガイヤはこう言った。
「貴女の通われた店についてはまあ聞いてはいます」
「左様ですか」
「とある高貴な方の所有でして。まあ名前は伏せておきますが」
「はい」
「遊びでやっておられるようでして。正式に届出はしておりますのでそちらは御心配なく」
「ロンドンでも裏でやっている者は多いのですね」
「それは日本でも同じではないですか、こう言っては何ですが」
警官だけあってその辺りはよくわかっていた。
「その通りです」
沙耶香は笑ってこう述べた。
「私も遊ぶことでは苦労しません」
「やはり」
「東京にも大阪にも立っている女はいますよ。ロンドンと同じでね」
「おかげでこの街の娼婦は有名でして」
ハーネストも言った。
「切り裂きジャック以来。数はパリの方が多いというのに」
ここで言葉にいささかシニカルな響きが宿った。やはり彼もイギリス人ということであろうか。少なくともフランスにはいい感情を抱いてはいないようである。
「困ったものです」
「私が会った女の子達は二人共美人でしたよ」
「そうですか」
「趣味のよい店でしたね。薔薇の香水をつけて」
「薔薇の香水を」
「二人共白の薔薇の香水でした」
つけていた香水に関して言及する。
「薔薇は色によって香りが微妙に違うのですが」
「そうだったのですか」
どうやら二人は薔薇やその香りに関してはそれ程詳しくはないらしい。殆ど沙耶香の独壇場であった。
「その辺りもよく考えられたいい香水でしたよ。おかげで気に入りました」
「それはよかったですね」
「はい」
沙耶香は頷いた。
「しかしそこに通ったのが理由で魔物に狙われたとなると」
「以後考えられるべきでは?」
「いえ、これは好都合だと考えております」
彼女の返事はこうであった。
「これであの魔物を釣りだせるのですから」
「御自身を囮に」
「そうです」
声が強くなった。
「また通います。そして釣りだしてみせます」
「そして倒すと」
「しかし危険なのでは」
「黒魔術師に危険ですか」
それを聞いた笑みが先程のハーネストと同じようにシニカルな色彩を帯びた。だがハーネストのそれとはまた違った色彩のシニカルさであった。それは危険に対して向けられたシニカルであった。
「それはまた」
「意に介されないと」
「介していては。この仕事はやっていけませんから」
そしてこう言った。
「黒魔術は大きな力を得るかわりに一歩間違えればその心も身体も闇の中に落ちるものです」
「はい」
二人はそれを聞いて口の中にあった唾を飲み込んだ。
「そのことを思えば。多少の危険なぞ」
「そうなのですか」
「ですから。囮に関しては御気になさらずに」
「わかりました」
二人は不安であったがここは彼女に頷くことにした。
「それではそのところはお任せします」
「はい。それでは」
「ええ」
おおよその捜査方法は決まった。こうしてヤードを出て宿泊先のホテルで夕食を採った後釣りも兼ねてあのホテルに向かった。中に入るとあの中年の男がカウンターのところにいた。
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