黒魔術師松本沙耶香 妖霧篇
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1部分:第一章
第一章
かって日の沈まぬ帝国と言われた大英帝国の首都であったロンドン。今でもイギリスの首都であるがこの街には昔から不気味な影が存在していた。
十九世紀の繁栄の時代には切り裂きジャックという謎の猟奇殺人鬼がいた。娼婦ばかりを狙い惨殺していくこの殺人鬼の正体は今も知られていない。そしてその他にもロンドンの霧と影に隠れるようにして様々な犯罪者達が蠢いてきていたのである。
だがそこには人以外の存在もあった。魔界から来た異形の者達の存在もあったのだ。彼等もまたこの街で何かをしていた。その何かは時として人と相容れぬものである。そしてそれにより人が命を落とす場合も多い。こうしてロンドンの街では今日も突如として姿を消した者がいるのである。
二十一世紀になってもロンドンの霧は晴れない。そしてその中に消える人々もなくなりはしなかった。今日もまたロンドンで行方不明者が出た。ここ暫くロンドンの話題はそれでもちきりであった。霧が晴れず、そしてその中で毎日誰かが消えていくのである。ロンドンの市民達はそれにえも言われぬ恐怖を感じていた。
そんな中一人のアジア人の女がスコットランドヤードに呼ばれた。イギリスと同じ島国から呼ばれたその女性はまずはまっすぐにスコットランドヤードの本部には向かわなかった。まずはロンドンの裏道にある妖しげな店に向かったのであった。
「いらっしゃい」
外見はごくありふれた普通のホテルであった。十九世紀のつくりそのままの古めかしいホテルである。ロビーもその頃の雰囲気そのままで木造の椅子やテーブルが置かれている。そのままだとロンドンによくある昔ながらの品のいいホテルであっただろう。
だがそうなってはいなかったのは他ならぬその椅子やテーブルに座る者達のせいであった。そこには露出の多いだらしなくも見える身なりの品がいいとは言えない化粧の女達が座っていたのだ。
一目で娼婦とわかる。ここはそういうホテルだった。だが彼女はそれを意に介してはいないようであった。
見れば黒いスーツにズボン、そしてそれと同じ色のネクタイを身に着けている。靴も同じ色だった。
その下のシャツは白だ。だがそれがかえって黒を引き出させていた。
黒く長い髪を上で束ね切れ長の二重の目はそこに何か別のものを見ているようであった。肌は雪の様に白く、まるで死人のそれにも見える。だが唇だけは炎の様に赤かった。浮世離れした頽廃的な美貌であった。
「あれ、お客さん」
カウンターに立ついかがわしげな中年男もそれに気付いた。気が付いて声をかけてきた。
「ここは」
「わかっているわ」
この東洋人の女性は落ち着いた声でこう返してきた。低く、それでいて機械の様に硬い声であった。何処となくメタリックな響きが感じられた。そして完璧なまでに見事な発音の英語であった。このロンドンでよくあるコックニーの訛りでも東洋的な独特の癖もなかった。綺麗なイングランドの英語であった。まるで貴族が使うような。それがかえってこの場には不釣合いですらあった。
「女の人と遊ぶお店でしょう?」
すっと笑ってこう述べた。そして横目で椅子に座る女性達を見ていた。
「それとも私が遊んじゃ駄目なのかしら」
「いいや」
中年の男はその問いに対してゆっくりと首を横に振った。
「うちはそうしたことには無頓着でね。男でも女でも歓迎さ」
「よかったわ」
彼女はそれを聞いて頷いた。そして懐から何かを取り出した。
財布であった。そしてそこから札束を取り出した。それを男の前に出した後でこう言った。
「暫く休みたいわ。女の子は二人」
「二人」
「部屋は一番いい部屋を。ロイヤル=スイートとでもいうのかしら」
「ああ、そうだよ」
男は笑って頷いた。
「このホテルはこれでもさる貴族の方が持ち主でね」
「面白い貴族様だこと」
「その方が経営しておられるんだ。名前は出せないがね」
「聞くとどうなるのかしら」
「さて」
男は肩をすくめてみせた。
「あんたはテムズ河で泳ぎたいかね?」
「水泳は好きじゃないわよ」
笑いながらこう返した。
「生憎と」
「それじゃあ聞かない方がいい。わかったかね」
「ええ、よく」
彼女はまた笑った。そして男に対してこう述べた。
「女の子は金髪の娘と茶色の娘を一人ずつ」
「あいよ」
「可愛い娘をね。いいかしら」
「うちは女の子には五月蝿くてね。可愛い娘ばかりだよ」
「本当かしら」
「少なくともこれだけ出してくれる御客様には嘘は言わないよ」
男は相変わらず笑ったままであった。
「これだけあったら釣りに困っちまう位だ」
「お釣りはいらないわよ」
だが彼女はお釣りは断った。
「それはまたどうして」
「チップよ。貴方と女の子達のね。その分こちらも楽しませてもらうわ」
「気前がいいね」
「明日どうかるかすらわからないもの。気前よくいかないとね」
その笑みが妖艶なものとなった。まるでこれからのことに思いを馳せたかのように。
「それじゃあキーをお願い」
「はいよ」
男はそれに応え部屋の鍵を彼女に手渡した。
「ごゆっくり」
「楽しまさせてもらうわ」
そう言って彼女はホテルの奥へと消えていった。そして束の間の宴に入ったのであった。
彼女がそのホテルを後にした時にはもう真夜中になっていた。ロンドンは霧に覆われていた。
「夜になっても霧が出るのね」
彼女はそれを見て呟いた。別に夜であろうとなかろうと霧は出る。だが彼女にはそれが如何にもロンドンらしいと思えたのである。
その霧の深い夜の街を歩く。カツーーーン、カツーーーンと皮の靴の響きが夜の闇の中に聞こえる。彼女はゆっくりとある場所に向かっていた。
「ロンドン橋落ちた」
何処からか歌声が聞こえてきた。子供の声であった。英語の歌であるのは言うまでもない。
「落ちた落ちた」
「マザーグースね」
彼女はそれを聞いて呟いた。この唄はマザーグースの有名な曲の一つであった。ロンドン橋の唄であった。
「ロンドン橋落ちたロンドン橋」
歌は終わった。それは霧と闇の中に消えていった。だが気配は消えてはいなかった。それは彼女に近付いて来るようであった。
「ロンドン橋は別の方角だと思うのだけれど」
彼女はその気配を感じながら言った。
「何故ここに来るのかしら」
「それは貴女にロンドン橋に行ってもらいたいからだよ」
声が彼女にこう言った。先程の歌声と同じ子供の声であった。
「何でかしら」
「そこで。ロンドン橋の下のテムズ河で泳いでもらいたいからさ」
声はこう言った。それは近くなっていた。それと共に気配も近付いてきていた。
「嫌だと言ったら?」
彼女は声に対して問うた。
「私は水泳は好きじゃないのよ。これでわかったかしら」
「貴女のことは関係ないよ」
声はまた言った。それは不気味さを増していた。
「だってそれは僕が決めるんだもの。どうするかね」
「子供だからって我儘言うと厳しいわよ」
彼女はこう言い返した。
「私は子供にも厳しい主義だから」
「へえ、それは嬉しいね」
しかし声はそれに臆するところがなかった。
「じゃあ見せてよ。その厳しいところをさ」
「そこまで言うのなら」
彼女はそれに応えて身構えた。
「見せてあげるわ、坊や」
咄嗟に動いた。そして霧の中に姿を消した。
「これが私のしつけよ」
その声と共に霧の中から何かが飛び出て来た。それは無数の針であった。
「針!?」
「唯の針と思わないことね」
姿は見えないが声だけはした。それは明らかに彼女のものであった。
「この針を受けたら唯では済まないわよ」
「じゃあ受けなければいいんだ」
子供の声はそれを聞いて言った。
「簡単なことだね」
針は空中で静止した。そして全て落ちてしまった。アスファルトの上に金属音が空しく響いた。
「針を止めた」
「まさかこれがお姉さんのしつけなの?」
声はからかうようにして尋ねてきた。
「冗談だよね。こんなので」
「どうやら貴方にはもっと厳しいしつけが必要なようね」
霧の中からまた彼女の声がした。
「やってあげるわ。それもとっておきのを」
そう言うと鞭が飛んで来た。皮の黒い鞭であった。
「愛の鞭とでも言うつもり、今度は」
「生憎愛の鞭じゃないわ」
彼女はまた言い返した。
「魔法の鞭よ。悪い子をお仕置きする」
「魔法の鞭」
「貴方が何処にいてもこの鞭はやって来るわ。覚悟しなさい」
鞭はその言葉に従うかのように動いてきた。そして声の方に向かう。それはまるで蛇の様な動きであった。
「おっと」
声はそれをかわしたのであろか。よけるような声を出した。
「危ない危ない。どうやら本気みたいだね」
「本気にならないとこんなのは出さないわ」
彼女はそれに答えた。
「さあ、どうするのかしら」
「どうもしないよ」
だが声はあっさりとした調子でこう述べた。
「今日のところはね。これでバイバイ」
「子供扱いはしないのに」
「だからだと。お楽しみはとっておかないと」
「あら、子供なのにわかっているのね」
そう言って不敵に笑った。
「楽しみだわ。これからが」
「パーティーははじまったばかりだから」
霧の中の声はまだ言う。
「焦らないさ。ゆっくりとね」
そして何処かに消えていった。後に霧だけを残して。
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