支え
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2部分:第二章
第二章
戦争は続いていた。舞鶴の冬は長い。だがその冬が何度過ぎてもこの戦争は終わらない。潤子は障子の向こうに思いを馳せながら女中に尋ねた。
「ねえ」
「何でしょうか」
女中は障子の向こうから声を返してきた。
「外はどうなっているかしら」
「相変わらずです」
「雪も?」
「はい」
女中が答えた。
「今は降り積もっています」
「そうなの。やっぱり」
彼女はそれを聞いて頷いた。それも当然だと思った。
今日はいつもより冷えるからだ。そうした時は外の世界が銀色になっている時だ。幼い頃からのことでそれはよくわかっていることであった。
「ねえ」
「はい」
女中はまた応えた。
「外を見てみたいのだけれど」
「けれどそれは」
「少しだけね。いいでしょう?」
潤子はそう頼み込んだ。
「今日は気分がいいから。それに外を見ると気が晴れるし」
「少しだけですよ」
女中は仕方がないといったふうに答えた。
「本当に」
「御免なさいね」
女中はすうっと障子を開けた。そして潤子に外を見せた。木々も土も完全に白く化粧されていた。
「まあ」
潤子はそれを見てうっすらと微笑んだ。
「まるで白粉で染めたみたい」
「白粉ですか」
「私にはそう見えるわ」
優しげに笑ってそう言う。
「そう思わないかしら」
「確かに白いですけれど」
女中は苦笑しながら言う。
「白粉はちょっと言い過ぎじゃないでしょうか」
「そうかしら」
潤子はそう言われて首を傾げた。
「私はそう思うのだけれど」
「綺麗ですけど冷たいですよ」
「わかってるわ。けど」
潤子は言った。
「その冷たさがいいのよ」
「そうなのですか」
「いつもこんな暗い部屋に閉じ込められているし。こうした白い世界を見るのもいいわ」
彼女の声が次第に明るくなっていく。
「気が晴れるし」
「それなら外に出られてみればどうでしょうか」
「いいの?」
それを聞いて驚きの声をあげた。
「けど」
「いいんですよ。病は気からともいいますし」
女中は言った。
「けれどさっきは」
「考えが変わりました。それでは駄目でしょうか」
「いえ」
それを聞いて思わず苦笑してしまった。
「それならいいけれど」
「ではこちらにおいで下さい」
「ええ」
潤子は部屋に入って来た女中に手を引かれ庭に出た。そして草履を履いて雪を踏んだ。しゃり、という小さな音がその耳に入った。
庭だけでなく見渡す限り白い世界であった。吐く息まで白い。
「本当に雪ばかりね」
「如何ですか」
女中は何故か自分がそうしたわけでもないのに自慢そうに潤子に尋ねてきた。
「お気に召されましたか」
「ええとても」
潤子は静かな声でそれに頷いた。
「見ているだけで何か気が晴れるわ」
「それはよかったです」
そう言いながら屈んで雪を少し手に取った。それを潤子に差し出す。
「何が見えますか」
「何か小さな宝石が」
彼女は雪の結晶を見てそう言った。
「眩しいわね。何か」
「けれど綺麗ですよね」
「そうね」
それに頷いた。
「何かこれを見ていると気が晴れてきたわ」
「左様ですか」
「ええ。これで忠行様もおられたらいいのだれど」
「それは流石に贅沢でしょう」
女中はそれを聞いて苦笑した。
「幾ら何でもそれは」
「そうね」
潤子もそれを聞いて苦笑した。
「これで満足よ。じゃあ」
「はい」
女中に案内され部屋に入ろうとする。だが部屋に入ったところで一人の青年が姿を現わした。その彼であった。
「忠行様」
「暇ができましたので」
彼は微笑んで彼女にそう答えた。
「暇が」
「はい」
「どういうことですの?」
「今までは駆逐艦に乗っていましたがこちらの基地司令部の配属となりました」
「司令部の」
「はい、軍医として。それでこちらに報告に来ました」
「そうだったのですか」
「これで今までよりこちらに来れる機会が増えると思いますが」
「それは何よりです」
潤子はそれを聞いて素直に微笑んだ。
「では機会がありましたら是非」
「はい」
忠行もそれに頷いた。
「宜しければ」
「ええ」
何処かぎこちなかった。戦争と病気が二人をそうさせていた。それがなければこれよりもっと普通の婚約者同士としての付き合いが可能であったろうに。女中はそれを思うと不憫でならなかった。
それから忠行は今までにも増して潤子のところに顔を出すようになった。それに伴い潤子の病状も少しましになっていた。心が晴れやかになると病もよくなるということであろうか。
白い冬が過ぎ桜の春となった。それはすぐに過ぎ去り紫陽花の花が咲く梅雨となった。
この時機舞鶴はとかく雨に悩まされる。舞鶴の雨の多さは有名であり潤子もそれは子供の頃から肌で感じ取っていた。
「生憎の雨ですね」
「ええ」
障子の向こうから話し掛ける女中に頷いた。部屋の中にいても雨の音が聴こえてくる。
「本当に舞鶴は。雨が多くて」
「その雨もね。慣れると愛しいものよ」
しかし潤子は雨でも機嫌は悪くはなかった。
「この雨はね、不思議なのよ」
「何故でしょうか」
「いつも降っていると思うでしょ。けれどそうじゃないの」
「そうでしょうか」
女中もまた舞鶴に生まれていた。だからこの雨のことは知っている。彼女の知る舞鶴の雨は何時でも降っている忌まわしい雨であった。雨は結核にも悪い。そうした意味でも忌まわしかった。
「時々晴れるのよ」
「はい」
それは彼女も知っていた。
「その時に限ってね。いいことがあるのよ」
「そうでしょうか」
少なくとも舞鶴の多くの者はそうは思っていない。特に軍人達は。
「舞鶴ってのは都合の悪い時だけ雨が降るな」
それが彼等の感想であった。舞鶴というのは雨が多いがそれは何故か重要な行事等の時に降るのである。そして降って欲しい時には降らないのだ。軍人達はそう言って舞鶴の雨を嫌っているのだ。
「それにな、雨になるとあれが出るんだ」
彼等はここで忌まわしげに言葉を濁すのである。
「あれって?」
それをよく知らない者が尋ねる。すると彼等はある岸辺を指差すのだ。
「あそこにな」
「はい」
「雨の降る夜になると出て来るんだよ、あれが」
「そのあれって何なんですか?」
「これだよ」
彼等はここでそう言って両手をだらんと垂らして幽霊の真似をする。
「これが出るんだよ」
「まさか」
「じゃあ行ってみな」
それを否定すると彼等の態度は冷たい。
「手旗振ってる子供がいるからよ」
「感心な子供ですね」
「そう思うか?」
軍人達にとっては感心な筈だ。夜中まで手旗を練習する子供なぞ本来は将来が頼もしいと思う筈だ。だが彼等はそれに対して表情を曇らせるのである。
「十年以上同じ子供なのにか?」
「えっ!?」
それを聞いて殆どの者は顔を強張らせる。
「あの、それは」
「わかるだろ。雨の降る夜になると何故かよく出るんだ」
彼等の顔がさらに暗くなる。
「だから嫌なんだよ、雨ってやつは」
「そうですか」
「ここのはな。ここの雨は特別だ」
その子供は何時からいるか誰も知らない。気が着いた時にはもういたという。何者なのか誰も知らない。調べようとする者もいない。調べたら何があるかわからないからである。
不気味なものも含む舞鶴の雨である。だがそれでも潤子はこの雨が好きだった。女中はそれについて尋ねたくなった。だがそれより前に潤子の方から声をかけてきた。
「知りたい?」
「は、はい」
女中は戸惑いながらも答えた。
「私がここの雨を好きな理由はね」
「はい」
「雨が止むとね。何故かよく忠行様が来てくれるから。何故かわからないのだけれど」
「そうなのですか」
忠行が晴れ男ということであろうか。
「いつもね、そうなの。どれだけ降っていても忠行様が来られる時は止むの」
「はあ」
「今でもそうよ。多分雨が止むとね」
「あら」
ここで急に雨の音が止んだ。不思議なことに。
「止みましたね」
「来られるかも」
潤子はそれを確認して微笑んだ。
「忠行様が」
「まさか」
「来ないと思うの?」
「それは」
どうでしょうか、と言おうと思った。だがそれより先に本屋敷の方から声がした。
「お嬢様」
「忠行様よ」
潤子はそれを聞いて微笑んだ。
「悪いけれど。迎えに行って」
「はあ」
半信半疑のまま頷いた。そして屋敷の方に向かった。すると潤子の言う通りであった。
「お邪魔します」
「あら」
忠行を見て思わず声をあげてしまった。実に不思議な舞鶴の雨であった。
不思議な梅雨も去った。そして夏になった。ある日突然サイレンが鳴った。
「空襲!?」
「お嬢様」
女中が血相を変えて部屋に入って来た。
「こちらへ」
「え、ええ」
庭の端にある防空壕に案内された。そして女中と二人でその中に入った。
サイレンは遠くから聴こえてくる。潤子はそれを聞いて呟いた。
「街の方ね」
「港がありますからね」
女中はそれに答えた。
「あそこには船や倉庫が一杯ありますから」
「兵隊さんを狙っているのかしら」
潤子の顔が急に蒼ざめた。病の為白くなっている顔がさらに白くなった。
「忠行様が」
「お嬢様」
それを受けて女中がキッとした顔で彼女に言った。
「何があっても御気を確かに」
「ええ」
潤子はそれに頷いた。軍人の妻となる身なら何があっても受け入れなければならない。それがこの時代の考えであった。それがこの時代の常識であったのだ。
「いいですね」
「わかったわ」
防空壕の中で頷いた。やがて大した数は来ていなかったのか空襲警報は解除された。二人はそれを受けて防空壕からゆっくりと出て来た。
「早いわね」
「偵察か何かだったのでしょうか」
二人はそんな話をしながら部屋から出た。
「それにしては何か変なのですが」
「変」
「ええ。今までにも何回か来ていたわね」
空襲は日本のあちこちで起こっていた。そして多くの者が犠牲になっていた。アメリカ軍は軍事施設も一般市民も攻撃の対象にしていたのだ。
「それが今回は。やけに早かった気がするわ」
「そうでしょうか」
女中はそれには懐疑的であった。
「いつもと変わらない気がしますが」
「そうかしら」
何か嫌な予感がしていたのである。潤子はそれを受けてこう言っていたのだ。部屋に戻って暫くしてから青い顔をした男がやって来た。
「お嬢様はいるかい?」
「貴方は」
女中は彼のことを知っていた。長い間この家に仕えてきた老人である。歳で仕事を息子に譲ったのだ。その息子は今出征している。フィリピンか何処かにいるらしい。
「さっき街にいたんだけどな」
「街に」
女中もそれを聞いて嫌な予感がした。
「何かあったのですか?」
「さっき空襲があったな」
「ええ」
「それでな。軍の施設が爆撃を受けたんだ。わしが見たのは火を噴く建物だ」
「兵隊さん達は御無事でしたか?」
「いいや」
彼はそれを受けて首を横に振った。
「何人かは怪我しとった。ありゃ助からんかもな」
「そうなんですか」
「結構大勢怪我しとったぞ。海軍さんの人がようさん怪我しとった」
「海軍さんが」
「ああ」
女中はそれを聞いて顔色がいよいよ悪くなった。
「じゃあ」
「詳しいことはわからんがな。覚悟しとた方がいいかも知れん」
彼はそう言った。
「何があるかわからんからな。ええな」
「はい」
女中はそれに頷いた。
「お嬢様にもそうお伝えしておきます」
「すまんのう。いい話じゃなくて」
「いえ」
だが女中はそれには首を横に振った。
「今はよくあることですから。それじゃあ」
「おう」
老人は屋敷を後にした。女中はそれを見送った後で屋敷の奥に向かった。そして潤子にこのことを話すのであった。
「そう、やっぱり」
潤子はそれを聞いても意外な程落ち着いていた。
「そんなことだろうと思っていたわ」
「宜しいのですか、お嬢様」
女中は冷静な潤子を見てかえって心配になってきた。
「忠行様のことは」
「覚悟はしているわ」
彼女はそう答えた。
「戦争ですもの。私も軍人の妻となる身だし」
「そうなのですか」
「ええ」
潤子はこくり、と頷いた。
「だからね、私のことは心配しないで」
「はい」
「私のことはいいから。わかったわね」
「わかりました」
そう答えるしかなかった。彼女は潤子の思いも寄らぬ芯の強さに心を打たれたのであった。だが実はそうではなかった。このことはやはり潤子の心と身体を打ち据えていたのであった。
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