支え
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1部分:第一章
第一章
支え
これは我が国がまだ古い世界にいた頃の話である。その頃日本は戦争に明け暮れていた。
『進め一億火の玉だ』
『欲しがりません勝つまでは』
『八紘一宇』
『贅沢は敵だ』
『鬼畜米英』
そんな言葉が巷に溢れていた。そうした時代であった。暗いと言えば暗い、そして一部の者にとっては誰かを糾弾する為の種になっている時代である。過去は変えられない。それを利用して他者を貶め、自らを高みに置こうとする。人間として卑しい行動の一つだ。
だがその時代に生きていた人達にとっては違う。彼等はその時代しか知らない。その時代の正義に従って生きている。それを批判する権利は誰にもない。批判するとすれば卑しい愚か者だけである。そうした輩はいずれ自分達が裁かれる。後の価値観により一方的に。因果応報は世の摂理である。
その時代にしかないものがある。その時代にはないものもまたある。それにより不幸になる者がいる。これはこうした話である。
「ゴホッ・・・・・・、ゴホッ・・・・・・」
舞鶴のとある屋敷の奥の部屋から咳き込む声がする。何やら苦しそうな声だ。
「また、また血が・・・・・・」
白く細い、透き通る様な美しい手が紅に染まる。染まっているのは手だけではなかった。口も、そして白い着物も、布団もまた紅に染まっていた。まるで雪の中の牡丹の様に。
「もう終わるのかしら、わたし」
少女は己の血に染まった手を見て力なく呟いた。黒く、絹の様な光沢を持つ長く美しい髪も、琥珀の様な黒く大きな瞳も生気がなかった。整った人形の様な顔は血に半分汚れている。死の恐怖に怯えた顔であった。
少女は側に置かれていた布で手を拭った。血は消えたがその匂いはこびりついている。それはまるで死を知らせるようであった。
死、それは今の彼女を支配するものであった。この時は戦争が全てを支配していたが彼女は死に支配されていたのだ。
だがそれでも生きていた。そして生きたかった、何としても。それには理由があった。
「お嬢様」
障子の向こうに影が見えた。女中の影であった。
「何?」
血で汚れた服を着替えながら彼女は尋ねた。
「藤崎様がお目見えですが」
「藤崎様が」
舞鶴にて勤務している若い海軍の軍医である。彼女とはとある縁で知り合ったのだ。
「如何なされますか」
「お通しして」
彼女はそう答えた。
「こちらにね。いいかしら」
「わかりました」
女中はそれに頷いたようである。影が動いた。そして彼女はすっと姿を消したのであった。
「忠行様」
彼女はその軍医の名を呟いた。その声にはいとおしさが感じられた。暫くして一人の軍服を着た男の影が先程のものと思われる女中の影に連れられてやって来た。彼女はそれを見てうっすらと微笑んだ。
「こちらです」
「はい」
小柄な女中に連れられて背の高いスラリとした外見の青年が入って来た。
青い冬の軍服を身に纏い腰からは短剣を下げている。帽子は白である。その凛々しい服を着る若者もまた颯爽としていた。
細い涼しげな顔立ちに切れ長の黒い瞳を持っている。そして小さく引き締まった唇を持っている。美男子と言ってよかった。
「お久し振りです、潤子さん」
「忠行様」
彼女、潤子はその若い軍医である忠行に名を呼ばれ顔を動かした。そして彼を見上げた。
「御会いしたいと思っていました」
「私もです」
忠行はそれに頷いた。優しい微笑みも浮かべていた。
「申し訳ありません、私のせいで」
潤子はここで忠行に対して謝罪した。
「何故謝られるのです?」
「私がこのような身体でなければ。貴方にも御迷惑はおわけしなかったのに」
「それは違います」
だが忠行はそれを否定した。
「私がこうして医学の道に入ったのは」
「はい」
「貴女をお救いする為でもあるのです。御国に尽くすと共に」
「私も」
「はい。私にとっては御国と貴女は同じものです。貴女がなくても御国がなくても私は生きてはいけない」
彼は静かな声でそう語った。
「貴女も御国もお救いしたい、私はそう願い軍医となりました」
「けれど私は」
潤子は悲しい顔をして顔を伏せた。
「胸の病で。こればかりは」
結核であった。この当時においてもなお不治の病であった。結核になれば人から離れさせられ、一人寂しく死んでいくのが宿命であった。彼女もそうであった。
「もうどうしようも」
「いえ」
忠行は首を横に振った。
「治らない病なぞこの世にはありません。それは私が保障します」
「貴方が」
「はい。私は医者だからわかるのです。潤子さん、貴女はなおります」
「だといいですけれど」
それを聞いても力なく笑みを返すことしかできなかった。
「血を吐くようになってもう一年、長くは」
「いえ、これからです」
それでも彼は言った。
「貴女は死にません、絶対に」
「絶対に」
「はい。医者である私の言葉を信じて下さい。潤子さん」
彼女の名をまた呼んだ。
「貴女は私が助けます。何としても」
「・・・・・・はい」
潤子はそれを聞いて頷いた。
「それでは宜しくお願いします」
「わかりました」
忠行も頷いた。そして二人はじっと見詰め合った。障子の向こうでは何かがしんしんと降りはじめていた。雪であった。舞鶴は雪が多い。今もまた降りはじめていたのだ。
二人はこのことをよく知っていた。潤子も忠行もここの生まれである。二人はかってこの雪の降る庭でよく遊んだものであった。
潤子はこの村の庄屋の一人娘であった。江戸時代は名字帯刀も許された由緒ある家柄だという。忠行は士族の家に生まれた。二人は幼い頃にそれぞれの両親により許嫁とされていたのである。潤子が跡取り娘であり忠行が次男坊である為であった。だが二人はその頃はまだそれを知らなかった。
知るようになったのは尋常学校に上がってかなり経ってからであった。二人はそれを聞いた時互いに不思議に思ったものであった。
「なあ潤子」
「なに?」
忠行に声をかけられた潤子は手毬を動かすのを止めて彼に尋ねた。
「俺は御前の旦那さんになるらしいぞ」
「わたしが忠行さんの?」
「ああ」
彼はよくわからないまま答えた。潤子はそれを聞いて首を傾げた。
「じゃあわたし忠行さんの奥さんになるの?」
「そうらしいな」
「それで子供ができるの?」
「それは知らない」
忠行も首を傾げて答えた。その時右手に持っていた棒も忠行が首を傾げた方に傾いた。
「けれど俺と御前は夫婦になる決まりらしいな」
「そうなんだ」
「だから潤子」
忠行はここで急に真剣な顔になった。その時の顔のことを潤子は今でも覚えている。
「御前は何があっても俺が守るな」
「守ってくれるの?」
「ああ」
忠行は答えた。
「俺は侍の家にいるしな。それに妻を守るのが夫の務めだ」
「それが忠行さんの仕事になるのね」
「そうだ。だから御前は俺が絶対に守る。いいな」
「うん」
幼い潤子はそれに頷いた。もう気が遠くなる程の昔のことである。
それから忠行は中学校に入りそこから海軍に入った。頭のいい彼は軍医になったのである。
時が来れば潤子が妻になる筈であった。しかしその直前のことであった。
潤子が胸の病を患ったのである。結核であった。婚礼は中止となった。潤子は今いるこの奥の間に一人で置かれるようになった。そして部屋に入って来るのは女中と舞鶴に赴任することとなった忠行だけであった。彼がここに赴任になったのは話を聞いた海軍の上の方の情であるとも言われていた。
「外はどうなっていますか?」
潤子は忠行に尋ねた。
「外ですか」
「はい。戦の方は」
「皇国に敗北はありません」
彼は強い声でそう答えた。
「それは安心して下さい」
「はい」
「この雪が溶けて夏の日差しが入り込むようになった時には戦争は終わるでしょう」
「そうでしょうか」
もう何年も続いている戦争である。そう簡単に終わるとは潤子には思えなかった。一人床についていてもそれだけはわかっていた。
「戦争が終われば私は貴女の側に参ります。今以上に」
「そしてどうなさるのですか」
「貴女の病を完全に治して御覧に入れます。それが私の役目ですから」
「お願いできますか?」
「はい」
やはり強い声であった。
「必ずや。やり遂げてみせます」
「有り難うございます」
潤子はその気持ちだけで嬉しかった。病を得てから一人寂しくここで伏せるだけの日々を送る彼女にとって忠行のこうした来訪と言葉は何よりも有り難かったのである。その有り難さを忘れたことはなかった。
「藤崎様」
ここで女中が障子を開いて中に入って来た。
「何か」
「軍の方が御呼びです」
「軍から」
「はい。何やら急の用事らしいですが。至急お戻り下さいとのことです」
「わかった、すぐに戻ろう」
彼はそう言うと女中を下がらせた。そして潤子に顔を戻した。
「潤子さん」
「はい」
「また来ます。それまでお元気で」
「ええ」
忠行はその部屋から去った。潤子はまた一人になった。
いなくなると急に寂しさが募る。それに耐えかねたのか障子の向こうに控える女中に尋ねた。
「ねえ」
「はい」
「今外はどうなっているのかしら」
「御国のことでしょうか」
「ええ」
潤子は頷いた。
「戦争はどうなっているのかしら」
「夏にサイパンが陥ちましたね」
「ええ」
夏のことであった。それで日本にも爆撃機が来るようになった。この舞鶴も夜は暗くなった。空襲はないようだがそれで暗くなった。
「それから皆さんお忙しいようですけれど」
「忠行様も」
「ええ。ですからお戻りになられたのだと思います」
「でしょうね。こんなご時勢ですもの。軍人さんは大変ね」
力ない声でそう言った。
「忠行様も。本当に」
「お嬢様」
「御免なさいね、こんな話をして」
「いえ、いいです」
女中は優しい声でそれに返した。
「一番お辛いのはお嬢様ですから」
「私は別に」
彼女はそれを否定しようとした。だが女中はそれより前に言った。
「もうすぐ夜になります。お休みになられてはどうでしょうか」
「もう」
「はい、今日は寒うございますから」
「そうね」
障子の向こうに見える雪の数が次第に増えていく。そしてそれは辺りを覆わんばかりであった。
「けれど少し待ってくれるかしら」
「何故でしょうか」
「今はね。もう少し味わっていたいの。忠行様と御会いできた喜びを」
「喜びを、ですか」
「ええ。久しぶりに御会いできたのだし」
「お嬢様」
「だからね。もう少しだけ。いいかしら」
「わかりました。それでは」
「有り難う」
女中は障子の向こうから姿を消した。見える影はただ雪のそれだけとなった。
潤子はそれをただ眺めていた。そしてそこに忠行のことを重ねて考えに耽っていた。
雪はそんな潤子の想いなぞ知る由もなく降っていた。彼女はそれを見ながら忠行のことを想っていた。暫くして女中が戻ってきた。
「お嬢様、もう」
「わかったわ」
今度は素直に頷いた。そして床の中に横たわった。
「お休みなさい」
「はい」
こうして彼女は眠りに入った。この世界とは別のもう一つの世界である。その世界では彼女は病を得てはいない。だが忠行はいる。その世界で遊びながら一人笑みを浮かべるのであった。
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