珈琲
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3部分:第三章
第三章
「クッキィだったかな」
「クッキーですね」
「そう、クッキィだよ」
娘と磯八で発音がやや異なっていたがお互いそれはここではあまり意識してはいなかった。磯八にしてもそのクッキーというものが果たしてどんなものか気になってそっちの方に考えがいっていたからである。だからこれも無理のないことであった。
「それも頼むよ」
「わかりました。それでは」
娘は注文を確認してから店の奥に入った。それからすぐにまずは盆の上に置いてあるものを持って来たのであった。それが何かというと。
「クッキーです」
「おう、これがか」
「はい、そうです」
明るい声で二人の問いに答えその間にそのクッキーというものを置いたのであった。果たしてそれはどういったものか。二人が見てみると。
「あれ、これって」
「せんべいかよ」
見れば本当によく似ていた。小さく四角いがそえでも色といい何処かそうした感じだった。だが磯八は続いてこの菓子の名前を出したのであった。
「そばぼうろにも似てるな」
「そういえばそっくりだな」
留吉もその言葉に頷く。なお二人共根っからの江戸っ子なので言うまでもなく蕎麦には五月蝿い。しかも噛まずに喉で楽しむというのも守っていた。
「それにな」
「だよな」
「クッキーですよ」
けれど娘は二人に対してあくまでこう言うのであった。
「そばぼうろじゃなくて」
「そうなのか」
「クッキィなのかい」
「はい。ですからどうぞ」
その明るい声でまた二人に告げる。
「召し上がれ」
「おうよ」
「それじゃあよ」
娘の言葉に頷いてからそのクッキーを口に入れてみた。するとこれが」
「おお、これはまたな」
「そばぼうろとはまた違うな」
まずはそばぼうろとは別物であることを口の中で確認した二人であった。
「しかもこの味はな」
「せんべいとも違う」
「これがクッキーですよ」
明るい声で返した娘であった。
「どうでしょうか」
「うめえ」
「こりゃいいや」
そのクッキーを気に入ったのか二人はさらに食べていくのだった。見ればもう二人で何枚も食べてしまっていた。
「西洋人っていうのはいつもこんな美味いもん食ってるのかよ」
「そりゃ文明開化なわけだよ」
磯八の言葉は少し以上に違っていたがそれでも意味は通るものであった。
「いや、こりゃいいぜ」
「幾らでも食えるってわけだ」
「では続いて珈琲を持って来ますね」
「それで真打登場ってわけかい」
「珈琲か」
二人はクッキーを食べながら真剣な顔になるのだった。ところが口の中でまだもんぐりもんぐりとしていてそのうえ口の周りにそのクッキーの食べカスがあってどうにもおかしなことになっていた。けれど当の二人はそのことに全く気付いてはいなかったのであった。
その気付かないまま真剣な顔になっていて。そのうえでまた言うのであった。
「いよいよってわけだな」
「おうよ」
互いに頷き合う。横目で見合いつつ。
「それではっつあんよ」
「留さんよ」
仇名でも呼び合う。
「腹は括ってるよな」
「そっちはどうだい?」
「勿論だよ」
「こっちもだよ」
また言い合うのだった。
「その西洋人の珈琲ってやつ」
「拝んでみせようぜ」
殆ど出入りみたいなやり取りになっていた。とにかく暫くしてその珈琲が来たのであった。まずその珈琲が入れられているものを見て言うのだった。
「また変わった湯飲みだな」
「何か出てるぜ」
「カップです」
「カップ!?」
「何でえそれは」
娘の言葉を聞いてまた言うのであった。
「聞き慣れねえ言葉だが」
「それも西洋のやつってわけだな」
「はい、そうです」
娘はその盆の上にある白いカップをここで二人の間にそれぞれ置いた。白い皿の上に置かれた白く薄い、何か繊細な外観のものであった。
そしてその中にあるものは。また随分と真っ黒いものであった。黒く白いそのカップなるものの底が見えなくなってしまっている。二人はその真っ黒いものを見てまた言うのであった。
「ひょっとするとこれが」
「あれかい?」
「珈琲かい」
「これが」
「はい」
娘はまた実に明るい声で彼等に答えたのであった。
「そうです。これが珈琲です」
「何だいこりゃ」
「墨か!?」
磯八が顔を顰めさせてまずはこう考えた。
「これは」
「墨を湯に入れたものかい!?」
「違いますよ」
だが娘はそうではないと言うのだった。
「そういうものではありません」
「じゃああれだな」
今度は留吉が考えた。彼の見たところでは。
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