猫の憂鬱
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第4章
―7―
無言の気配にコウジは目を開け、見た事もない男が立っている事に肩を強張らせた。
「あの…、何方ですか?」
「あんた、どっかで見た事あると思った。」
「はい?」
妙なイントネーションと男から出る胡散臭い雰囲気にコウジは布団を握り締めた。
「あんたアレよな、今年初めに、ド派手な事故起こした人よな?四台で。アウディの人。」
「え?はい…」
今更其の、軽自動車側の関係者が何かしに来たのかと、単調な声もあり一層恐怖を感じた。
「わい、ベンツ乗ってたアホ女の旦那。」
「あ…!」
云われ、記憶が流れた。
そうだ、此の声。此の妙に上擦った単調な西訛りの声、カーテン越しに聞こえていた。
「其の後、どんな?」
「え?何が、ですか…?」
「あのアホガキ共からなんかされてない?」
「其方が用意して下さった弁護士さんのお陰で…」
「そ、なら良かった。」
ひょこん、と男の後ろに居た女が顔を見せ、相変わらず派手な顔と鋭利な爪を持つ手を振った。香水の匂いで鼻がもげそうだった。
「あの…」
「いやな、今日来たんは、嫁が用事あるて。」
「あん時の弁護士がな、雪村さんと連絡取れんてゆうたんよ。あっちから金取れたから其れ知らせたいて。あんた、電話何処やったん?」
「あ、警察に、あります…、充電も無いかと…」
「警察…、あんた、何したん?痴漢?」
ストレートな女の物言いにコウジは黙り、得体の知れない化け物を見る目で見返した。
抑、痴漢で捕まったのなら、何故入院している…其れも外科病棟に。少し足らないのだ、此の女は。
「そら御前や、歩く猥褻物。無い乳出して、何がしたいんですかね。いっつもパンツ見せて、頭おかしんか。」
「で、あんた、如何すんの?金。もっと取る?取ろか?」
金、金、金…皆、金の話。
辟易した。
コウジは鼻から息を抜き、僕はもう要らないので、と女の好きにさせた。其の消沈する態度に、誰が座って良いと云ったか、女は勝手にベッドに座った。一体何色なんだと聞きたい髪を女は掛け、大振りなピアスを見せた。
「雪村さん、如何したん。暗いよ?」
「御前が喧しいだけや。」
「僕、退院したら立件されるんです。」
ええ、と女は目を開き、弁護士要る?、と滅茶滅茶な事を云った。無言の男は眉間を撫で、其の暗い表情にコウジは同情した。女のいう弁護士を使えば、其の弁護士とやらが引き出した金を又渡さなければならない。其の弁護士じゃなくとも、国連の弁護士でも雇うつもりは無い。
「御前には関係無いねん。蓬餅食べさすぞ。」
「え?蓬餅?あー、食べたい食べたい!」
「おー、そうかそうか、ほんなら食べましょ。ほんで死ね。はよ死ね。」
女の肩に腕を垂らした男は、口座にもう振り込まれてるんで其れだけ伝えに来た、と纏わりつく女を鬱陶しそうに払いながら云った。鬱陶しいのなら肩に腕を垂らしゃなきゃ良いじゃないか。
「あの、本当に要らないんですけど…!」
「ええねん、阿保から引いた金や、あんた、如何せ一年位で出て来るもん、五百万位やけどな、出た後、人生持ち直すのに使こたらええよ。」
煩いねん、と女の顔を追いやる男の背中を見た。
え……?
見知った人物の横に立つ女の姿に、コウジの様子を見に来た課長の足が止まった。
なんで、由岐城の娘が此処に居るんだ。
電話を鳴らしてみるか?けれど男の番号等知らない。他人の空似にしては、男も、女も似過ぎている。
「あ、課長さん。」
「今の男、なんで御前に会いに来たんだ?」
挨拶も無くいきなり課長は云った。大部屋なら他の患者の…と考えられるが、あの二人は確かに此の個室から出て来た。
「いえ、彼は付き添いで、用があったのは女性の方です。」
「なんで?」
状況を聞いた課長は、御前もとんでもない女に関わったな、とコウジの運悪さを嘆いた、此処迄運悪い人間もそう居ない。同情されたコウジは愛想笑いで返し、所で今日は、と聞き返した。
「御前はやっぱり、立件しない事にした。実名報道もしないし、抑に、ニュースにさえなってない、今更報道はしない。」
「何故です…、其れじゃ…兄の刑が軽くなるじゃないですか!三年位で出ますよね!?駄目です!あんなの野放しにしたら!」
「あのな、タキガワ。」
課長はパイプ椅子に座り、腰を曲げた。肩から三つ編みが垂れ、揺れた。
「御前の気持ちは、判るよ。あの男は更正しない。性根が腐り切ってる。あんなのが更正するなら、刑務所ガラ空きだよ。」
柔らかいが、其の声にはしっかりとした怒りが練り込まれていた。
「御前を実刑にしたら、確かにセイジの刑は重くなる。下手したら無期になるかも知れん。」
「だったら…」
「御前、今、自分が、何の名前か、判るか?」
課長の言葉にコウジは口をしっかり結んだ。
「御前は確かに、タキガワコウジだ。でも、雪村凛太朗でもあるんだよ。御前を実刑にするって事は、全く関係無い、九年前に死んだ、雪村凛太朗が、罪を被る事になるんだ。そしたら、雪村凛太朗の親族に迷惑が掛かる。親族の中に、警察官が居たら如何する。全く関係無い、タキガワコウジの所為で、其奴、クビだぞ。」
「其れは…」
「雪村には、親族がきちんと居る。御前が殺す前から絶縁状態だったから今迄問題無く過ごせてた。向こうからも連絡は無かったよな?」
「はい。」
「三日あれば、調べられるんだよ。」
コウジは俯き、警察官の親族が居たんだ、と思った。
「父親と弟が警察官だったよ。」
「……。」
「とはいっても、本庁のエリートでも無いし、俺達みたく管轄の刑事でも無い。ほんっと、田舎の駐在さんだったよ。優しい顔してな。雪村の田舎、知ってるか?」
「本籍には、島根ってありました。」
「そうそう、其の田舎だよ。まぁ見事に田んぼしか無いんだ、今は秋だろう?凄く綺麗だったぞ。蜻蛉がいっぱい飛んでて、稲の匂いが、町の匂いだったよ。事件も無いような、人が死ぬってのは、老衰位しか知らんような町。其処の、お巡りさん、其れが、雪村の父親と弟の仕事。親子二代で其の町守ってるんだよ。」
「会ったんですか?」
「ま、一応、な。」
「仰ったんですか?」
「雪村が死んでる事?事件の事?」
「両方、です。」
「云ってない。俺が来たのは、今年初めの事故の事だと思ってたよ。まあ使わせて貰った。」
良かったというべきか、知らせて欲しかったというべきか、なんとも云えず、黙って布団を見た。
「父親は後五年で退職なんだ。今御前が捕まったら、二人は解雇、退職金も無い、今迄真面目に働いて来た人間の人生、然も老人、あんな小さな町だ、悲惨だろうな。もっと悲惨なのは弟だ。大学に行かないで、高校卒業した後直ぐ父親の後追ってるんだ。雪村が家を出て、絶縁状態だったのは、警官になれって云われたから。家出した兄の代わりに弟が警官になってる。尤も、弟の方は昔から父親みたいな警官になりたかったらしいし、其処は問題無いな。」
個室の冷蔵庫の上に置かれる盆から急須を取り、勝手に茶を入れ始めた課長は、コウジに一つ渡し、立った儘茶を飲んだ。
「俺の言いたい事、判るよな?」
「はい…」
「脅迫だなんて思うなよ、此れは内輪の馴れ合いだ。嗚呼いう優さしかないようなお巡り、大好きだ。訛りが強過ぎてなんて云ってるか判らんかったけど。」
「判りました…」
「取り引き成立、有難うな。御前は、しっかりメンタル治せよ。」
紙コップを握り潰した課長はゴミ箱に落とた。其の握り潰され、捨てられた紙コップにコウジは、自分の人生を重ねた。
今日は来客が多い、開いたドアーに、一時で良い、頭を整理する時間が欲しいと思った。
「今日は。」
相手は、白衣を着ていた。だから外科の何かだろうと思ったが、名乗られ、声を出して迄息を吐いた。
「精神科の、菅原と申します。貴方の主治医の、弟です。因みに科捜研の心理担当でもあります。」
世の中には、兄と弟しか関係性が無いのか、と言いたい。
「何か。」
「やだなぁ、警戒しないで下さいよ。仕事しに来ただけですから。」
時一の笑顔は、何時も感情が無い。何も考えない人間なら優しい笑顔と思うが、コウジには唯々、笑顔のラバーマスクを被ったロボットに見えた。
「次は、なんの取り引きなんですか。」
少し、ヒステリックに声を出した。
「貴方、少し混乱してますね。」
「しますよ!」
コウジは持っていた紙コップを、中身が入った状態で時一目掛け横に投げた。ばっと布団に緑色の線が出来、其れは時一の白衣にも付いた。興奮し切る獣のように息を繰り返すコウジを見た儘床に転がる紙コップを拾い、捨てた。
「僕は、罪を認めてるのに!実刑で良いのに!其れを望んでるのに、隠蔽された!」
「隠蔽…ですか。」
「判るんですよ、頭では、課長さんの仰ってる事!僕の所為でもう後二人の人生滅茶苦茶になんか出来ませんよ!でも、だったら、僕は如何したら良いんですか。雪村さんに、涼子に、謝罪さえ出来ないんですか…?」
混乱と息苦しさにコウジの目から涙が流れ、至って冷静に時一はコウジの頭を抱えた。
「大丈夫ですよ、違う場所で、罪を償いましょうね。」
「痛い…、嗚呼!首が痛い!」
「興奮して体温が上がったからですね、“鎮痛剤”、打ちましょうか…」
コウジの頭を抱える時一は、入って来た看護師を見えないように、大丈夫だと繰り返した。すぅっと冷たい液体が腕に流れ、笑顔の時一を見た。ぐらっと視界が揺れ、強烈な眠気が来た。
「え…?」
「大丈夫です。僕が、守ってあげます。」
真横に避ける時一の口元を見たコウジはベッドに倒れた。警戒心の後に出て来たのは、嗚呼此れで、も何も考えなくて済むんだ、という安堵感だった。
コウジの寝息を知った時一は前髪を撫で、喉奥で笑った。
「運んで。」
事務的に顎をしゃくり、看護師達に指示したのだが、雪崩れ込むように、宗一側の看護師達が現れた。
「一寸、一寸何してるんですか!」
「煩いな、僕の所に運ぶんです。早く運んで。」
「菅原先生から御指示は御座いません!精神面なら、此の病院の医者が診ます!」
喚いていた宗一側の看護師は、無言の時一に黙り、其の目に汗を吹き出した。
「皆んな、宗一宗一って、煩いよ。何が偉いの?あんな医者。僕の方が、うんとずっと優秀だよ。」
「先生に、連絡して…」
看護師の小さな声に、何で?、動き掛けた看護師は立ち止まった。静かな空気が流れ、コウジの身体は指示通り運ばれた。
「大問題ですよ、菅原さん…」
師長が云った。
「抜糸だって、未だなんですよ…?」
「僕の病院、舐めないで。精神病院ですよ?外科医位居る。日に何回、患者が血を流すと思ってるんですか。本当、感心するよ。も、吃驚するよ、折ったボールペンだよ?何考えてるんだろう。」
「菅原先生が、お許しになる筈…」
「だからさ、宗一出すの止めてって、云ってるじゃないですか。」
大きな目が四人の看護師を捉えた。
「宗一が怖くて精神科医なんかやってらんないよ。退いて下さい、帰りますから。」
時一は云うと其の儘病室を出、残された看護師は床に座り込んだ。
宗一の雷が落ちる。
考えただけで恐怖が湧き出た。一人に至っては泣き出し、もう駄目だ、もう駄目だ、と頭を抱えた。師長は笑いながら頭を動かし、如何しよう、と身体を渦巻く恐怖を全身で表した。
「やだ…、やだやだ!僕逃げます!僕、無関係ですから!」
ばくつく心臓を叩きながら、一番若い看護師が病室から飛び出した。
「師長…、師長、如何しましょう…、おしっこ漏れそう…」
ええそうね、と空っぽのベッドに師長は呟いた。
*****
不躾にドアーが開き、窓の外を見ていた時一は、無理矢理回転させられた椅子から立たされた。
「御前、大概にしろよ…」
垂れた目を吊り上げ、鬼の形相で自分を睨む宗一に、時一は笑いはせず、静かに離してと云った。
あれから連絡受けた宗一は、看護師達を責める事せず、其の儘時一の病院に向かった。阿保院長に話がある、と其の気迫に、時一側の看護師達は引き留める事が出来ず、又、宗一が来た事も知らせる事が出来なかった。
「警察呼びますよ。」
「黙れ!」
院長室を心配そうに見る看護師達を時一は大丈夫だからと手で追い払った。
「御免、ドアー閉めて。此の人、怒鳴ると声凄いから。」
「人の話を聞け!」
確かにそうだ、と宗一の怒号に身体が痺れた看護師は静かにドアーを閉め、警察呼ぶ?と暢気に繰り返した。
血走る目を見詰めた儘煙草を咥えた。
「返せ。」
「嫌。」
「御前、自分が何したか判ってんのか!」
「ちっとも怖くない、叫ぶだけ疲れるだけだし、止めたら?」
「御前はそうやって、又、患者を作り出すんか…」
胸倉掴まれた儘時一は煙草に火を点け、首を仰け反らせ、煙を吐いた。
「あのさぁ、宗一。あんた、もう生粋の外科医じゃないんだろう?片手間で患者診る医者に、患者取った取らないって、正直鬱陶しいよ。」
「そんな話してるんやないやろ、今は!」
御前は又長谷川のような人間を生み出す気なのか?
其の言葉に時一の目に表情が表れ、此れが時一の目かという程きつく、冷たい視線を向けた。
「御前は、又同じ事する気か!?親父と同じやないか、やっとる事!患者でっち上げて、隔離して、暴利貪っとるあの男と同じやないか!御前、何処迄落ちたら気ぃ済むのん!」
「でっち上げじゃない、雪村さんは、治療が必要です。」
「御前が出て来る必要無いの!こんな病院、潰れたらええんや!無駄にでかくなって、鬼畜の所業やな、ほんま。親子二代で何してんの。」
「今の、謝って。此処は、必要だからあるんです。」
「そら親からして見たら、頭のおかしな子供厄介払い出来てええわな、けどな、御前がしとるんは、医者の行為や無い、ヤクザと同じや。治療もせんと何年も何年も監禁して、親から金奪って、医者やったらな、治せや、此処から患者、一人でも退院させてみろや!」
何でこんなに此の人は熱血なんだろう、と時一は侮蔑した。血走る目を見た儘灰を落とし、消した。
「帰って、邪魔だよ。」
「タキガワと一緒ならな。」
「だから、断りますって。」
「ええか?主治医は俺、俺の許可無く患者出すな!」
「なら、此方も云わせて頂きますよ。」
掴まれた手首は、思いの外痛かった。
「長谷川を出したのは誰です?博士の主治医は僕ですよ?其れを無視して出したのは誰です、云ってよ。」
「長谷川は、何処も問題無いやないか!御前がでっち上げたんやないか!」
「あぁるでしょぉう?」
裏返した声で時一は云い、大きな目でじっと見た。
「僕、云ったよね、博士は、他人に危害加えるって。木島さんにしてる事って、そうだよね?問題起こしてんじゃん。戻す?ねぇ、戻してあげようか?」
「御前…」
「黙ってたよ、宗一の為に。でもね、雪村さん返せっていうなら、博士、返してよ。」
「どんだけ、どんだけ汚いんや、御前は!長谷川の次は彼奴か!」
「汚いのはどっち?」
時一は云う、汚いのは宗一であり、課長であると。
「博士の事は、もう良いよ、如何やったってあんたが抱え込んでんだ。でもね?雪村さんは?可哀想、彼の方の所為で壊れちゃったよ。」
そういう訳だから帰ってね――。
手を離した宗一はやり場の無い怒りを如何したもんかと、けれど手を上げれば、機嫌一つで自分に折檻繰り返した父親と同じになる。其れを時一はよぉく知っていた。
怒りに吐きそうだった、もう逸そ、吐いてやろうか、其の愛らしい顔に吐き出してやろうか。
靡いた白衣に時一は笑顔で手を振り、ドアーが閉まった時、顔から力を抜いた。其の顔が鏡に映ったのだが、其れはよくよく、宗一が憎んで憎んで憎み切った父親の顔そっくりだった。
無表情のつもりで自分は居るのに、其の顔にははっきりと笑顔があった。
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