猫の憂鬱
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第4章
―1―
雪村凛太朗から、青山涼子の葬儀をすると事務的に連絡受けた龍太郎達は、聞かされた場所に足を運んだ。葬儀の時に迄事件の事を話したくないかも知れないが、実際の所、事件発生から十日は経つが、何も進展していなかった。此処いらで真剣に腰を入れないと、課長の機嫌が悪くなる一方である。
秋っぽくない、夏みたく真っ青な空で、其れが何処と無く不気味だった。二三日前迄気温が低かったのに、其の日は残暑のような暑さを持っていた。
今時珍しい寺での葬儀で、何から何迄古風な雪村に驚いた。式は挙げなかった癖に葬儀は派手なんだ、そう思う龍太郎は雪村を確認した、然し其の前に、野良猫のように痩せこけた男が立っていた。
「帰って頂けないか。」
雪村の声は酷く落ち着き払い、其の分、目の前に立つ男への怒りが良く判った。長い髪をガシガシと掻き、見ている此方の身体が痒くなりそうだった。
「は…?」
呟いたのは井上だった。
「タキガワじゃん…」
「え?」
「雪村の旦那の前に居る男、タキガワコウジだぜ。」
あれが…、と龍太郎はじっとタキガワ コウジの横顔を見た。
三十半ばにも見えるし、二十代にも見える。長袖シャツにジーパン、葬儀に来る格好では無い、喪服が用意出来なかったにせよ、せめて葬儀に来るならスーツで来い、と云いたい。
だから、全く無知の二十代に見えたのだ。
「お引き取り下さい。」
雪村の声等聞こえていないのか、あろう事かタキガワは煙草を咥え、使い捨てライターで火を点けた。安っぽい其の音、タキガワにはよくよく似合いだった。
「顔、見せてよ。」
「貴方にお見せする顔等ありません、お帰り下さい。」
合った視線、龍太郎に気付いた雪村は軽く会釈し、もう帰ってくれ、とタキガワを突き放した。
「今日は。」
「来て頂けるだなんて、有難う御座います。」
焼香しに来た訳では無いが、そう云われてしまったら焼香し無い訳にもいかなくなった。青山涼子の事を詳しく聞くにも此処で断る訳にはいかない、仕方無し足を進めた…のだが、井上が苦虫潰したような顔で寺を見ていた。
「行くぞ。」
「俺、入って良いの?入れんの?」
「は?」
「俺、筋金入りのプロテスタントよ…?」
そうだった、と龍太郎は頭を擡げた。
「入ったからどうこうって訳じゃねぇんだけど、そっちの神さんの神領には入りたくねぇなぁ…、精神的に。」
「じゃ、待ってろ。」
ヒラヒラと手を振る井上はヘラヘラと龍太郎を見送り、帰る事もせず突っ立つタキガワを横目で見た。向こうも井上が気になるのか、視線が合った。
「どうよ、旦那、店、儲かってるか?」
其の問いにタキガワはゆっくり顔を向け、紫煙越しに井上を観察した。
「…会員?」
「そ。よっく世話なってるぜぇ。」
あはは、と井上は笑い、半分吸った煙草を地面に叩き捨てると、靴裏で踏み千切った。其の無表情にタキガワは大きく瞬きをした。
「探してたんだよ、あんたの事。」
肉厚な井上の唇が真横に裂け、真っ黒な全く光の無い瞳が一層不気味に存在した。
「青山涼子が死んでから、あんた、なぁんで、店、閉めてんの…?」
「あんた、なんで涼子の旧姓知ってんの?」
「なんでかなぁ。あんた、関わってる?」
「何に?」
「青山涼子、殺害に。」
真っ黒な瞳が煙で隠れた。其れは何方の煙なのか、風が吹いたので判らなかった。
「話、聞きてぇんだけど、タキガワの旦那。」
「関係無いけど、俺。」
「事件其のものを聞きてぇんじゃねぇんだわ。」
じゃあ、何?
井上の答えは、風の音で良く聞こえなかった。
良い天気、人が死ぬには勿体ねぇけど、見送んのには快適だな。
笑い、龍太郎を待った。
*****
何故貴方が此処で出て来たんです、と目の前に座る男に龍太郎は無表情で向いた。相変わらず人畜無害そうな顔である。
夏樹冬馬…離婚専門弁護士で、二ヶ月前の事件の重要参考人だった男。容疑は、殺人及び死体破損及び死体遺棄……とフルコースだった。
「夏樹さん、今日は何で…」
「雪村さんの事、教えようと思って。」
夏樹は人懐っこい笑顔で横に置く鞄から書類を取り出し、龍太郎に渡した。
其れは離婚調停内容だった。
此の夏樹という弁護士、雪村側の弁護士で、離婚を切り出したのは雪村凛太朗、離婚理由は青山涼子の“不貞”。
龍太郎は横に座る井上と書類読み合い、顔を合わせた。
「此処にある通り、涼子さんは去年の春に妊娠され、秋に流産されて居ます。其れが、離婚理由です。」
「青山涼子、浮気してたのか。」
「へぇ。」
書類を読み進める内に、調停に持ち越すのも馬鹿らしい雪村への軍配加減を知った。良く此れで青山涼子側が反撃しようと思った、勝てると本気で思ったのだろうか。本気なら、唯の無教養馬鹿女である。
何故に、自分の不貞が原因の離婚で、雪村から慰謝料が取れると思ったのか、全く謎である。夏樹も夏樹で、久し振りに来た大物、と離婚内容に眉間を掻いた。
「此れで反撃は無理があるよな。」
「なぁ…」
「唯の不貞なら、馬鹿女の自爆劇で終わりますが、此れ…来ちゃってますからね…」
夏樹は苦々しい顔で診断書指した。
其れは雪村凛太朗の泌尿科の検査結果で、其処には、非閉塞性無精子症、とあった。
詰まり、全く治療も無く自然妊娠する可能性がほぼゼロの症状である。医学の力無しには妊娠しない。
無精子症には二通りの症状があり、閉塞性無精子症と非閉塞性無精子症がある。
前者の閉塞性無精子症とは、精子は生産されるもの、其れがなんらかの原因で体外に排出されない状態である。詰まり此れだと、精路を確保するか、体外受精によって子供は出来る。
然し、雪村が診断された此の非閉塞性無精子症は、精子其のものが生産されていないか、されても、量が極端に少ない為、自然に妊娠する事は確率としては低い。
そして、雪村自身が其れを、今年初めに起こした交通事故で知った。
雪村が妻、青山涼子に対し、異常な程淡白な理由が判った。龍太郎の読み通り、全く愛情が無かったのだ、いや、最初はあった、あったから結婚したのだろうが、今年初めに判った自分の生殖問題に、一気に愛情が失せた。
まあ、当然であろう。
流産したから良かったもの、雪村が事故起こし検査で無精子症と判明したから良かったもの、生まれていたら修羅場である。
青山涼子の妊娠は、高確率で違う男なのだ。いいや、百パーセント雪村で無いと断言して良い。
何故なら、雪村は非閉塞でも、完全なる非生産型なのだ。妊娠させられる其れ自体を持っていない体質だった。
どんなにショックだっただろうか、雪村は。
我が子と信じた子供が流れ、実際は違う男の子供で、なのに妻の青山涼子は何も云わなかった、雪村が事故に遭わなければ絶対に判らなかった事、問い詰められ白状した妻、其れに対する失望感、発覚したから良い、若し此れが判らず生まれて居たら…其の不快感、嫌悪感、恐怖感、何もかも、如何でも良くなってしまうだろう。
「俺と一緒だな。」
龍太郎は呟き、書類を夏樹に返した。
「御前等さ、性格も名前も似てたら、其処も似てんの?どんだけ奇跡起こしてんだよ。此の儘犯人見付けてよ。」
「努力する。」
「え…?」
「嗚呼、私、龍太郎と云うんです。」
「本郷さん、え…?」
「私も、非閉塞性無精子症なんです、同じく全く精子が生産されない。」
前世で一体俺は何をしたんだ、どんな業を背負えば、こんな殺生な人生になる。
龍太郎、本気で前世は連続強姦魔だと信じている。女に言い寄られないのも其の前世の雰囲気が残るからだろう、と。
どんな物好きが、連続強姦魔に言い寄る。
だから俺は、結婚に意味を見出せない。
龍太郎の場合、早い段階で判明していたので意識はして居ないが、本能では意識して居たのだろう、恋人を作らなかった。雪村も四十手前で初婚と聞く、本能が結婚させないように動いていた、其の代わり、妻にも子供にもなる猫を盲愛した。
「夏樹さん、なんて?」
小会議室から戻った龍太郎に課長は聞いた。報告受けた課長は、ほう其れは又見事な馬鹿女だな、と感心し、何故か、嗚呼何故か横に居る宗一が顰めっ面をした。夏樹が来た時には居なかった。優雅に課長のカップで珈琲を飲んでいる。
「あんさぁ、本郷さん。」
「はい。」
「雪村凛太朗、折檻癖、無い?」
「え?」
「いやな。」
ガリガリと後頭部を掻き、唯のプレイやと思ってた、と今更感満載で非常に大事な事を云った。
「あんな、事件に関係無いから言わんかったんやけど、比較的新しい骨折完治痕が肋にあったんよ。ホント、ホント最近の、半年以内の。ほんで、眼窩に治り掛けの打撲痕があったんよ。其れ以外目立った痣とか無いし、事件と関係無いし、調べんかったのやけど、今聞いて、まさかなぁ、でも時期が重なるなぁて。」
暢気にゆったり話す宗一だが、段々と課長の顔面筋が固まっていくのがはっきり見て取れた。
「詰まり御前は、青山涼子が、誰からか暴力を受けていた可能性があったにも関わらず、其れを俺に報告しなかったんだな?」
「関係無いと思ったんでぇす。」
「詰まり菅原先生の見解は…」
「雪村凛太朗が無精子症やて、今年の二月に判ったんやろ?ほんで去年の十一月に流産してるんやろ?…殴っちゃうよねぇ。」
「いやいや!殴りませんよ!」
「嘘ぉ、え?ほんならさ、本郷さん、自分の嫁が違う男の子孕んで、貴方の子ですキャピ、とかうんこな事抜かす阿婆擦れ托卵女、許せんの?」
「離婚はするでしょうけど、殴りませんよ。」
「だってぇ、どうよ。」
新しくカップを出せば良いもの、二人で一つのカップを交代に傾ける課長は、平手打ち一発位ならするかな、と丁度空になったので注ぎ足した。
「すぅごい女だな、青山涼子って。」
龍太郎の報告を横で聞いていた木島は、家鴨口を一層尖らせ、咥え煙草の儘云った。
「木島だったら、殴るか?其れが発端でDVになるか?」
「俺?」
そうだなぁ、とつまらなさそうに椅子を鳴らし、そんな事する価値も無い女だと思う、と灰を落とした。
「ほう。」
「見たくもないっていうか、触りたくもないっていうか、同じ空気吸いたくないっていうか、存在が無くなるよね。だから、無関心…、嗚呼そう、無関心になる、かな…?」
龍太郎は目を瞑った。
木島の云った言葉こそが、雪村凛太朗の本心なのだろう。
出張も多くなる筈、だよな。
吐き出した煙は、妙に熱かった。
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