蒼き夢の果てに
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第6章 流されて異界
第117話 リリーフ
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第117話を更新します。
次回更新は、
6月10日。『蒼き夢の果てに』第118話
タイトルは、『歴史改竄』です。
ややスリークオーター気味のフォームから投げ込まれた球が、有希の構えたミットを一ミリ足りとも動かす事のない位置に到達した。
良く晴れた氷空にミットを叩く重い音が響く。但し、それはハルヒや、九組のエース、自称リチャードくんの投じている球と比べるとあまり良い音とは言えなかった。
球速は……お世辞にも早いとは言えず、良く言ってそれなり。おそらく、ハルヒの投じていた球よりは速いでしょうが、九組の自称リチャードくんが俺に対して投げ込んで来たストレートと比べると、明らかに見劣りのする球速である事は間違いない。
三回の裏。綾乃さんが俺に続く三人の顔を一人ずつ順番に瞳に映して行く。
三対十。三回表が終わった段階で既に七点の大差を付けられた試合。どう考えても六組に勝ち目は薄く、更に言うのなら、ここで例え負けたとしても校内二位。準優勝と言う栄誉は待って居る状態。
ここは無理をして勝ちに行かなければならない訳ではない。
……賞品とされた俺以外には。
三人の表情は分からず。流石に有希に膝枕……揃えた膝の上に俺の頭を乗せた状態を維持されているので、自らの瞳には上空を流れる雲を映すのみ。
この状態では俺の視界は上空にほぼ固定。あまり頭を動かす事も出来ず、更に言うと動かそうとしても、何故か有希によって簡単に阻止されて仕舞う状態。
「ここは勝負所。このチャンスを物に出来るかどうかは試合を左右する、と言っても過言ではないと思うわ」
普段とあまり変わらない綾乃さんの声、及び口調。但し、これはどう考えても三人を追い込む台詞。
おそらく、自称リチャードくんが何の小細工もせずに、普通に野球での勝負を挑んで来るのなら、有希、万結。この二人ならば互角以上の戦いを繰り広げられるでしょう。そして、さつき……相馬さつきに関しては、彼女の能力がどの程度なのか詳しい事は分かりませんが、今まで彼女が示して来た能力から類推すると、一般的な人類のトップアスリート程度の能力でどうこう出来るような人間……術者でない事は確実だと思います。
しかし、マウンド上の彼が、俺と対した時と同じように人外の存在の能力を駆使して来た場合には……。
「問題ない」
非常に静かな声でそう問い返して来るさつき。ただ、声や口調は冷静なのですが、心の方はどうもそう言う訳ではなさそうな雰囲気。確かに現在、俺の瞳に彼女の表情は見えていない状態。普通の人が感じている点は、おそらく、ほんの少し言葉が鋭くなった。そう感じているだけでしょう。
しかし、その僅かな変化に対して、今の俺が少し恐怖を覚えた。そう言う感じ。
言葉は簡潔。この辺りに関しては、普段のさつきの発する言葉と同じ。ただ、彼女が発して居る気配の裏に――
「この回に追い付く。その心算でやれば良いだけ」
結論……いや、おそらく覚悟か。流石にさつき自身が本気でこの回に追い付ける、などと甘い考えで居る訳はないでしょう。故に、覚悟。ただ、少なくともこの俺の周りに集まったメンバーに試合を諦めた人間はいない、と言う事なのでしょう。
そう彼女――相馬さつきと言う人物もハルヒと同じタイプの人間。何時も何かにイラついて居て、常に不満足なソクラテス状態。
そして、この三人――有希、万結、さつき。いや、おそらくハルヒと朝倉さんも含めての共通点は、かなりのレベルの負けず嫌いだと言うトコロ。残りのSOS団のメンバー。朝比奈さんや弓月さんは割と周りに流され易いタイプの人間の様なのですが、有希・万結・さつき・ハルヒ・それに朝倉さんの五人については――
それで、只でさえこの試合は能力を封じられてイラついて居るトコロに、審判による一方的な判定。更に俺に対するビーンボール。この状況でさつきが爆発しない訳がない。
有希に関しては……表面上は感じませんが、心の部分は怒と言う感情が強く成って居るのは事実。
万結に関しては……。俺の知っている彼女から推測するのなら、彼女の中に勝負に負けると言う選択肢は、そのままイコール死と言う答えと直結する生活しかなかった生命の頃の記憶がうっすらとある程度。彼女には某赤い大国の諜報部から。
そして俺たちには自由主義の大国の諜報部から追っ手が掛かって居たので、勝負に負けるイコール自ら、そして仲間の死以外の答えは有りませんでした。
そして有希と万結に関して言うと、被害を受けたのが俺だと言う部分が大きいでしょう。どちらも雛鳥が最初に見た動く物を親だと錯覚するのと同じ状態に置かれて居て、その親鳥だと思って居る人物が悪意の元に襲われた可能性があるのですから。
綾乃さんから満足気な雰囲気が発せられた。おそらく、大きく首肯いたのだと思う。そして、この瞬間に作戦は決まった。
いや、作戦と言うほど複雑な物ではない。これは勝利への意志統一と言う物。
「さぁ、この回に一点でも多く返しましょう!」
ノーアウトランナー一塁・二塁。バッターは四番の有希。内野安打と死球と言う、六組の実力で作ったチャンスと言うよりは、相手により貰ったチャンス。
こう言うチャンスは物にしなければ一度掴み掛けた流れを、再び相手に戻す結果となる。
先ほどの打席と同じように右バッターボックスにバットを持って、ただ突っ立って居るだけの有希。構えとすればオープンスタンス……が一番近いと思う。もっとも、彼女のそれは打者が投球を待つ形と言うよりは、身体をピッチャーの方に正対して居る、と言う形。足は開く事もなく、揃えた状態なのは第一打席とも同じ。
それに何時も感じるのですが、彼女の冬用の体操服は少し大きめで手が少し袖に隠れる程度。更に、ヘルメットに関してもサイズが有っていない少し大きめなサイズ。
もう、このままお持ち帰りしたくなる、と言う感じ。
身長が彼女より十センチほど低いさつきや、そんなに変わらない万結はちゃんと身体のサイズに有った制服や体操着を着ている事から考えると、身体に合ったサイズの制服や体操着がない、と言う訳では有りません。
ついでに、彼女の貯金はゼロが八つほど付いて居る状態なので、成長する事を想定して大き目のサイズを用意しなければならない訳でもない。
もしかして、周りから彼女の事を見た時の印象を意識した着こなしなのでは……。
そんな、名が体を表す……長門有希。逆から読むとキュートかな、と言う呪が籠められた名前通りの容姿を持った少女型人工生命体。
どう見てもやる気ゼロ。まして戦意や熱意を彼女の瞳から感じる事も不可能なので……。
しかし――
初球。カウントを取りに来た高目のストレートを一閃。
猛烈な勢いのピッチャー返し。九組のエース、自称リチャードくんが危うく二人目の退場者に成るかと思われたが、しかし、辛うじて躱し打球はそのままセンター前に。
ただ、残念な事に、打球の方向が悪かった――もしかするとピッチャーライナーとして処理される可能性が有った為と、その猛烈な勢いにより、流石に俊足のセカンドランナー朝倉さんもサード止まり。サードを回ったトコロで本塁を窺う仕草を行ったが、センターからの返球がキャッチャーに返された段階で三塁へと帰った。
一塁々上の有希の様子は普段とまったく変わらず。非常に淡々とした雰囲気で、ただ静かにその場にいるだけ。今の彼女が、俺の死球に対する報復を行ったとは思い難い状況。
それに、確かにセンター返しはバッティングの基本。来た球に自然とバットを出せば、打球は自ずとセンターに向かう事となる。
但し、それは投手に対してスクエアに構えて、そこから楽にバットを出した時に打球は自然とセンターに向かう、と言う事。有希の場合は、ホームベースに正対する形ではなく、投手に対して正対するような、極端なオープンスタンス。
確かに、ここから強く踏み込んで行く事によってオープンスタンスからスクエアスタンスに近い形で球を捉える事は可能ですが……。
先ほどの朝倉さんと同じように――
何にしてもノーアウト満塁。続くバッターは第一打席、センターの好守に因りホームランを阻止された万結。キャラクター的には有希と被る部分の多い彼女なのですが、バッティングフォームに関しては違い、万結の方は基本に忠実。スクエアに構え、スタンスも肩幅。身体に不必要な力は加えられては居ませんが、ただその場に突っ立って居るだけ、と感じさせる有希と比べると、これから投球を待つ打者の構えと思わせる打撃フォームで立って居る。
自らの特殊能力をあまり隠そうとしていない有希と、出来るだけ一般人の中に紛れ込もうとしている万結。そう言う違いが有るのかも知れない。
性格的には違いがあるけど、その部分に関して万結は朝倉さんに近く、有希はさつきに近い、と言う事なのでしょうか。
流石に今回は万結の事を警戒して居るのか、もしくは別の理由。例えば警戒して居る振りをしているだけ、なのかは分かりませんが、ボール先行の形。ワンストライク・ツーボールからの四球目。
カウントを取りに来た真ん中辺りの小さなカーブを強打。
まるでしなる様に見えるバット。カーブとは言ってもストレートと違いは少ない。自称リチャードくんが投じるのは小さなカーブ……。おそらく、本人はスライダーだと思って居る変化球はカーブと言うには変化が少なく、更に横に滑ると言うよりも落ちながら曲がって行くと言う球。
これは一瞬の溜め……普段よりも軸足に体重を乗せる時間を長めに取り、ボールをバットに乗せるようにして落ち切ったトコロを叩けば、そんなに難しい球ではない!
バッティングの基本はセンター返し。しかし、ストレートのタイミングからカーブを上手く拾えば、その打球は――
打球はレフトの遙か頭上に。そして、九組の外野陣の穴はそのレフト。俺、そして有希が放ったホームランは……。
いや、この瞬間、六組の放った三本の本塁打はすべてレフトオーバーのホームランと成ったと言う事。
四点追加の七点。七対十。これで三点差。
意気上がる六組応援団。先ほどまで漂って居た敗戦ムードは一掃され――
続く六番さつきの打球が左中間へのヒット。但し、レフトが回り込んで打球を押さえた瞬間には躊躇なく一塁を回って居たさつきはその俊足を飛ばしてセカンドへ。
そして、レフトがセカンドに送球して来た時には既に遅く、左中間へのツーベースヒットと成って居た。
ここで打席に向かうのは七番。このメンバーの中ではイマイチ目立たないながらも、かなりのレベルの美少女。ハルケギニア世界で妖精女王ティターニアと名乗って居た少女と同じ容姿の少女。
この世界とハルケギニア世界。共に俺が召喚された世界、……と言う以外に何か関連があるのか。一度、真剣に考えてみる価値は有るか。
六組の七番バッター、弓月桜を見つめながら、そう考える俺。確かに、彼女と、ハルケギニア世界のティターニアには容姿以外にも、全体から感じる雰囲気も似通っている、と言う共通点は有ります。おそらく、魂の質が似ているのでしょうが、それにしても、今の俺と、そして弓月さんとの間に接点が少な過ぎます。
この程度の関係で、来世、もしくは前世で、更に違う世界で縁を結ぶ可能性があるとも思えないのですが……。
思考の海に沈む俺。その間に局面は進み、ツーストライク・ワンボール。但し、ツーストライクに追い込まれてから二球ファールで粘ってからの六球目。胸の直ぐ下辺りから落ちて行くボール。
この決勝戦になってからあまり投じられて来て居ませんが、朝倉さんの調べてきた情報の中には存在して居た自称リチャードくんの持ち球のひとつ、チェンジアップ。
どう考えても高校球児が投じるチェンジアップを普通の女子高生――それも、文化系の部に所属する女子生徒が打ち返せるとは思えないのですが、それでも弓月さんが打ち返した球は動きの鈍い二塁手の左を抜けライト前へと転がり――
バットにボールが当たったかどうか分からないタイミング。おそらく、自称リチャードくんが投球に入ると同時にスタートを切って居たセカンドランナーのさつきが悠々とホームイン。
これで八対十の二点差。
一度は諦めかけていた応援団に活気が戻る。
しかし――
八番のお調子男の結果は……気分はレフトオーバーのホームラン。しかし、ボールの方はキャッチャーミットと言うお粗末な結果の三振。
そして、俺の特別代走として出塁し、万結のレフトオーバーのホームランに因って歩いてホームに戻って来た九番は、当たりそこないのピッチャーゴロ。一-四-三のダブルプレイにてこの三回の裏の反撃は五点で終了。
流石に、さつきの言うようには成りませんでしたが、それでも先の試合展開に希望を持つ事の出来る結果となったのは間違いないでしょう。
規定の投球練習を終え、矢張り、少し気に成る頭に巻かれた包帯の具合を確認する俺。尚、当然のように先ほどの死球でも俺の頭に実害はなし。
もっとも、実害が有れば、その段階で球技大会自体が中止と成って居るはずですから、自称ランディくんや、リチャードくんが俺の事を本気で殺しに来たとも思えないので、実害がない事の方が当たり前、なのですが。
ただ、ハルヒが言うには、
「包帯でも巻いて置きなさい。その方が痛々しく見えるから」
……と言う事になるらしく、三回の裏の攻撃の最中に彼女により頭へと巻かれ、現在の俺は包帯少女ならぬ、包帯少年へと進化していた。
確かに、髪の毛の色は蒼。瞳は蒼と紅のオッドアイ。この妙に中二的な設定がハルケギニアで継ぎ足されているので、この上、頭部に負傷した挙句の包帯ぐらいが継ぎ足されたぐらい問題はない。
……はず。
「ちょっと、あんた。何よ、そのやる気のない投球練習は!」
その俺に対して、セカンドの守備位置に入ったハルヒが怒声を飛ばす。
う~む、しかし、この声の掛け方では激を入れているのか、それとも野次を飛ばしているのかさっぱりと分からないのですが……。
ただ、多分なのですが、ハルヒ自身には悪意はない、……と思うので、単に激を入れただけ、と考えた方が正解のように思うのですが。
もっとも、
「あんた、そんな球しか投げられない訳はないでしょう!」
本当にイチイチ五月蠅い女。確かに俺も少し煽るような行動を取る事も有りますが、それにしたってコイツのツッコミは多すぎるでしょうが。
ましてピッチング練習程度で本気になっても意味はない。何故ならば、俺に肩を作る必要はないから。
それに、そもそも、クトゥルフの邪神が支配するこの場所で全力投球は不可能。俺の本当の能力の何パーセントが発揮出来るのか分かりませんが……。
ただ――
「おいおい。いくらなんでも練習で手の内を全部見せる必要はないでしょうが」
ただ、本当の事を言っても意味はない。まして、全力投球が不可能だと言っても信用されないだけ。どうせ、あんたが手を抜きたいだけでしょう。……と言われるのがオチ。
そう短く考えを纏め、有希から返って来たボールを慣らしていた手を止め、少し振り返りながら肩を竦めて見せる俺。
もっとも、この受け答えで、先ほどのピッチング練習が見せかけだけの物だと言う事がこの場に居る全員にバレて仕舞ったのですが……。
まぁ、所詮これは小細工。自称ランディくんやリチャードくんには通用しないので、先ほどのピッチング練習を見て九組のナインが俺の事を嘗めて掛かってくれる訳はない。
……と考えて諦めるべきですか。
ふ~ん、足りない頭で必死になって策を考えていたんだ。
少し感心したようなハルヒの独り言。但し、これは飽くまでも独り言。俺に聞かせる為に口にした台詞ではない。
そして、ここからが通常運転中のハルヒの対応。
「試合が始まったらちゃんと投げなさいよね。打たれたら承知しないんだから」
自分がボカスカと打たれた事は棚に上げ、俺に対しては無理難題を押し付けて来るハルヒ。
少し肩を竦め、処置なしだね、こりゃ。……と言う仕草をショートの守備位置に居る朝倉さんに見せ、
「へいへい。仰せのままに」
まったくやる気を感じさせない答えを口にしながら、有希の方向に向き直った。
その瞬間。
「プレイ!」
主審に因って為されるコール。普通ならばここで、キャッチャーから出されるサインを覗き込むトコロなのでしょうが……。
【初球は真ん中に大きなカーブ】
しかし、俺と有希の間にサインなど必要はなし。ふたりの間には、霊道と言う、目には見えない……、しかし、簡単に切り離す事の出来ない強い絆が結ばれて居り、その霊道を通じて秘密の会話を交わす事が可能。
こんな便利な物があるのに、わざわざサインを出すような真似は必要がないでしょう。
彼女から送られて来た【指向性の念話】に対して、小さく首肯く事で答えを返し――
かなりダイナミックなモーション。但し、身体の動き自体にスピード感はなく、ゆったりとした動きで投じられた第一球。
「ストライック!」
相変わらずプロ野球の審判か、と言う派手なアクションでストライクのコールを行う主審。投げ込まれたのは山なりのカーブ。スピードは今日、マウンドに登った投手の中では一番遅い球。更に、有希が捕ったトコロは外角のかなり遠いコースと言う事は、バッターの構えた位置。ホームベース上を通過した時は真ん中辺りを通過した事が分かる球。
尚、俺のカーブは自称リチャードくんが投げる小さな変化のカーブなどではなく、かなり曲がりの大きなカーブ。プロ野球の投手が投げるスローカーブと言う変化球。
但し、故にコントロールが自在、と言う訳ではない。本来は、バッターに腰を引かせる為に、もっとインコースから曲げるのが基本なのですが、今回は有希のリードに従い真ん中へ投じた。
「ちょっと、何よ、今のションベンカーブは!」
相手は強打の一番なのよ。もっと慎重に入りなさい!
助言なのか、それとも野次なのか分からない言葉がセカンドから跳んで来る。もっとも、これは当然。普通に考えると、積極的な打者ならば先ほどの真ん中へのカーブはレフトの頭の上を越される当たりとなっても不思議ではない球でしたから。
しかし……。
「まぁ、俺は長門さんの出して来るサインに従って投げているだけ、やからな」
ピッチングの組み立てに関してはキャッチャーに聞いてくれるか、ハルヒ。
有希から返されるボールを受け取りながら、言葉のみでハルヒに答える俺。
そう。今回のピッチングの組み立てに関しては全て有希に任せましたから。
【インハイから胸元に落ちるシンカー】
有希からのサインを受け取る振りをすると同時に送られて来る【念話】。更に、今回は擬似的な球道のイメージも追加されている。
成るほど。感覚としてはストライクゾーンからややボールのゾーンへと落ちて行く球か。
小さく首肯き投じられた第二球。有希が送って来たイメージ通りのインハイからボールのゾーンへと落ちて行くシンカー。
俺の投げるシンカーは縦の変化の方が横の変化よりも大きい。球速に関して言うと、先ほど投じたスローカーブよりは少し早いかな、……と言う程度の球。
一球目を、まったく打つ気なく見送った九組の濃いイケメントップバッターが鋭く踏み込んで来る。
そして――
「オーライ!」
素早く捕球体勢に入った弓月さんが落下して来たボールをがっちりとキャッチ。サードファールフライ。これでワンナウト。
「ナイスピッチング」
イージーフライをキャッチした弓月さんが少しはにかんだ様な笑みと共に、ボールを投げてよこした。
困ったような笑みや、気弱な雰囲気と言うのは良く見せてくれる弓月さんなのですが、はにかんだ様な笑みと一緒に応援の言葉を掛けてくれるって……。
かなり珍しい事。そう感じながらも右手を軽く上げ、彼女に応える俺。
尚、結果オーライじゃないの、などと言う呟きがセカンド方向から聞こえて来たような気がするけど、それは素直に無視。
続くは俊足、好守の二番バッター。但し、強力打線が売りの九組の中では守備重視のバッター。非力で小細工は上手いけどミート力が高いとも思えない。
初球、右打者の外角低めにカーブ。少しバットが動いたけど見送ってボール。但し、俺の見た感想から言えば確実にストライクゾーンを過ぎって居る。
二球目。インハイにストレート。かなり際どいコースを振りに来た結果、球威に押されてファール。
カウント、ワンストライク・ワンボールからの三球目。
二球目。先ほどよりも強く腕を振り、更に真ん中寄りに投げ込まれるストレート。但し、腕を振った割には、球速も直前の球よりは幾分か抑え目。
小さ目のテイクバックから鋭く振り抜かれるバット。打力が低いとは言え、そこはソレ。真ん中辺りに来たストレートならば――
しかし、次の刹那!
力ない打球がサードの前に。前に出て来た弓月さんが素早く処理。ファーストへ矢のような送球。
腕をしっかりとファーストミットへと向けたスナップスロー。身軽な動作で跳ねる身体。烏の濡れ羽色の長い髪の毛に滑る冬の陽。今、この瞬間、世界の主人公は彼女以外に存在していない。
そう感じさせるに相応しい容姿と、そして機敏な動き。
「セ――。ア、アウトッ!」
送球とランナーの足の競争。サード前に転がった時の勢いからすると内野安打と成っても不思議ではない当たり。しかし、それ以上に弓月さんの動きは素早く、そして、送球は正確だった。
一瞬、セーフと言い掛けた一塁塁審。しかし、一塁側のベンチからこれ見よがしに携帯のカメラが向けられている事を確認した塁審が、直ぐにアウトとコールし直す。
もっとも、これは至極当たり前の判定。そもそも、間一髪、などと言う、どちらとも取れるタイミングなどではなく、真面に判定すれば明らかなアウトと分かるタイミング。これを今まではウチのチームの方に不利な判定とされて来たので……。
「ナイス、サード」
万結から返って来たボールを受け取った後、好守でピンチの芽を防いでくれた弓月さんに声を掛ける俺。
しかし――
「本当に結果オーライなんだから」
二番がヘタレでなかったら、今頃、最低でもワンナウト二塁のピンチだったじゃないの。
しかし、声を掛けたサードとは違う位置から答えが返って来る。確かに表面上……。分かり易い部分だけを見ればそう見えたとしても仕方がない。
「それは違います」
しかし、俺が軽いため息と共にネタバレを行おうか、それとも、と迷って居た僅かな刹那。まったく、予想外の場所からハルヒの言葉を全否定する内容の言葉が掛けられた。
「武神さんの球が打者の手元で変化した事によりバットの芯を外されて、当たりそこないのサードゴロに終わったのですから」
普段の少しおどおどした状態と違い、割としっかりとした口調で澱みなく続ける彼女……弓月桜。もっとも、この球技大会が始まってからの彼女は、普段よりも胸を張っているような気もしますが。
ただ、何にしても
「あれがツーシーム・ファストボールと言う球やな」
手元で細かく変化する球まで見極められていたか。少し弓月桜と言う名前の少女に対する認識を改める必要が有りだな、そう考えながらも、表面上はそんな雰囲気を出す事もなく、弓月さんの台詞に続ける俺。
そう、ツーシーム・ファストボール。分類としてはストレートに分類される球なのですが、実質は変化球。縫い目に人差し指と中指を沿わせて握る為に、ボールの回転による揚力が発生し辛くなり、打者から見ると僅かに沈んだように感じる球となる。
いや、俺のツーシームは完全に沈む球として使用可能の球。そもそも、俺のストレートはハルヒの投じるソレと違い、伸びの悪い……つまり、回転の悪いズドンと来る球。故に、有希のキャッチャーミットが鳴らす音が悪い球と成るのですが。そのストレートの軌道がハルヒの投げていたバックスピンの掛かった、まるで浮き上がるように感じるストレートとは違う軌道となる以上、ツーシームに求められる物はそれ以上の変化、と言う事に成ります。
打者の手元で鋭く落ちる。それが俺の投げるツーシームと言う変化球。
何にしても五球でツーアウト。省エネ投法としてはこんな物。
次は……。
「プレイ!」
バッターボックスに入る打者を睨む俺。九組の三番バッター。この世界ではランディと言う名前のオーストラリアからの留学生。ハルケギニア世界ではソルジーヴィオと言う名の商人。ゲルマニアの皇太子などを演じて居る人物。
コイツは何を考えて居るのかさっぱり分からない存在。同じ危険な存在としてならば、自称リチャードの方が分かり易い、と思う。何故ならば、古の狂気の書物に記されている内容からアイツの神格を判断するのなら、自称リチャードの神格の基本は俗物。食欲や性欲などの人間と大きな違いのない、それも人間の原初的な欲望しか持ち得ない存在の可能性が高いのですが、もう一柱の方は……。
出会う度に見せて居る薄ら笑いを俺に見せ、バットを構える自称ランディくん。
非常に綺麗な構え。強打者特有の雰囲気、と言う物は感じられますが、しかし、人外の存在の気配を感じさせる事はなし。
【初球はスローカーブを真ん中に】
かなり大胆な初球の入りを伝えて来る有希。
普通ならば簡単に承諾出来るリードではない。しかし、今回に限って有希の判断に否を挟む心算もなければ、能力も持って居ない。
ゆっくりと振り被り――
コースは気にする必要はない。それよりも重要なのはキレ。腕のしなりと振り。それに手首でボールに回転を与える事を重視。
普段の俺のカーブはリリースされた瞬間から変化を開始する変化球。故に変化量は大きくなるのですが、キレ……つまり、打者の手元でククッと曲がる変化球ではない。
これは予測されると非常に危険な変化球と言う事となる。
「ストライック!」
しかし、有希のリードに従って真ん中辺りに投じられたカーブは自称ランディくんにあっさりと見逃され、ワンストライク。
ハルヒの時とはまったく違う、急にバッターの思考を読む究極のキャッチャーに変身したかのような巧みなリードを披露する有希。
尚、当然のように、これは有希がプロ野球のトップレベルのキャッチャーとなった訳では有りません。まして、相手の思考を読んで居る訳でもない。これは、彼女が契約を交わしている運命の女神フォルトゥーナの能力。
二球目の【指示】に対して、軽く首肯く俺。
有希が選択したのはシンカー。俺のシンカーは人差し指と中指を使って内側にひねりながら抜く感覚。
但し、問題がひとつ。いくら俺が器用だと言っても、野球に生涯を掛けている訳ではない。つまり、他の変化球に比べてシンカーは肘に負担が掛かっていると言う事。
一イニングにシンカーを多投すると流石に――
踏み込んで来る自称ランディくん。しかし、そのバットの軌道の更に外側へと向かい、急激に曲がりながら落ちて行くシンカー。
「ストライック、ツー!」
俺の投げた球にしては乾いた良い音を有希のキャッチャーミットが鳴らした一瞬後に、主審のコールが響く。
その瞬間、応援団から黄色い声援が跳ぶ。悲鳴や野次ではなく、声援である事に感謝。未だ、辛うじて人の和はコチラの方に有り。この状態ならば、有希が見る未来が黒く塗りつぶされている、……と言う結果しかない。絶望しか選びようがない選択肢だけが残されている状態ではない、と言う事に成りますから。
そう、女神フォルトゥーナ。今年の二月に訪れた俺。前世か、もしくは来世の俺が有希に渡した宝石に封じられた式神。その運命神の能力は未来を読む事。
但し、完全に未来の事象を読んで仕舞うと、その未来が自らの望みと違った場合、その未来を覆す為により大きな労力を要する事となる。
ならば、完全に読み切らず、望みの結果を得る直前までの事象を読み、其処から後の結果を曖昧な状態として残せば?
箱の中の猫が生きているかどうか。開かなければ分からない、などと言う訳ではない、と言う事。偶然、鳴き声らしき物が聞こえる可能性は有るし、動いている気配を感じる可能性もある。
今回の例で言うのなら、真ん中にカーブを要求する、と言う事は、相手のバッターが初球は様子を見て来る可能性が高い状態だと、フォルトゥーナの能力を使用して有希が気付いたと言う事。
そして、シンカーやツーシームを要求して来た時は、打ちに来る事が分かったと言う事。俺の持ち球で空振りを取るにはシンカーやツーシームは有効。それに、仮にバットに当てられたとしても芯を外す可能性は非常に高い。
何にしてもツーストライク・ノーボール。
続く三球目は外角高目の釣り球。当然、手を出される事もなくボール。
そして四球目。これはインハイへのツーシーム。左打者のインコース高目のボールか、ストライクかの境界線上に少しシュート回転をしながら沈んで来る変化球。
スピードはハルヒの投げていたストレートよりも速い。
球速からボールと判断したのか、一瞬、バットをピクリと動かした後に止め、そのまま見送って仕舞う自称ランディくん。有希のミットが乾いた音を鳴らしボールを納めた。
当然、彼女が投球をキャッチしたのはストライクゾーン内。
しかし――
「ボール。ボール、ハイ!」
矢張り続く不可解な判定。この感じから推測すると、俺が投げる球は見逃されたらすべてボール判定とされる。そんな気分にさせられる。
もっとも、イチイチ、その程度の事で気分を害していてはこんな試合で投げられる訳がない。表情は変えず、軽くグラブを掲げて返球を要求する。
有希からボールを戻され、少し手になじませた後にキャッチャーからのサインを受け取り、小さく首肯く……振り。
そうして――
ランナーは居ない状態なので、出来るだけゆっくりとした、そして大きなモーション。
大きく足を上げ、思い切り踏み込む。重心を低く、膝に土が着くぐらいの位置まで深く沈み込み、腕を大きく振る。
俺の身長は高校一年生としては高い。故に足も、腕も長い部類に入る。その俺が大きな身体全体をダイナミックに使い投げ下ろすストレート。
真ん中よりはややインコース寄りのストレート。高さは膝。厳しいコースとは言い難いが、右投げ左打ちのバッターが打ち難いコースなのは間違いない。
自称ランディくんのバットが動き始めた。小さなテイクバックからインコースに食い込んで来るストレートに対して最短距離でバットを出して来る!
ハルヒの球に比べて球速は変わらず、しかし、伸びの悪い球になら、少々始動が遅くなったとしても対処可能。
そして、俺の投げる球としてはコントロール重視。球速はイマイチのストレートが自称ランディくんバットに捉えられた――
――と思った刹那、空を切るバット。究極まで回転を押さえられたボールはそのバットが通り過ぎた空間の少し下を、更に下へ向かって落ちながら――
ショートバウンドした後、有希のミットへと納まるボール。
主審がストライクのコールを行った時には既に、俺は歓喜に沸く応援団の待つ一塁側のベンチに向かって歩み始めて居たのでした。
後書き
文字数に関して反省した心算だったのですが、また増加傾向にある。反省せねば。
それでは次回タイトルは『歴史改竄』です。
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