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豹頭王異伝

作者:fw187
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暗雲
  悪夢の襲来

 当初は、普通の夢だった。
 懐かしい記憶が、蘇る。
 幼い彼に手練の技を仕込んだ、博打師コルド。
 チチアの王子と悪名を奉った、気の良い売春婦達。

 ヴァラキアで過ごした、幼年時代。
 今となっては一番、幸福だったと思える時代の記憶が。
 緊張を和ませ、疲労を緩和する。
 イシュトヴァーンは無意識の裡に、ゴーラの玉座を捨てると再び誓った。

 次第に、夢が変化し始めた。
 ミロク教を奉じる少年ヨナを救い、海に出てからの少年時代。
 海賊船の船長を気取り、宝物の眠る島に向かった無謀な冒険と無残な結末。
 自分を慕い冒険を共にした弟分達を襲った末路、正視に耐えない悲惨な最期。

 思い出したくない記憶が、心の底から甦る。
 全く色褪せておらぬ、鮮烈な音響と映像が増殖した。

「アルゴンのエル。
 モンゴールは、決して忘れぬ!」
 耳に焼き付いた、呪詛の声。
 紅蓮の炎に包まれる、カロイの谷。

 マルス伯爵は彼の詭計に陥り、仁王立ちの儘まま焼死した。
 モンゴールの青騎士、2千の軍勢も焼き殺された。
 アリの嫉妬を受け、ユラニアの少年は惨殺された。
 赤い街道の盗賊達もまた、ミダの森で虐殺された。

 ユラニアの紅都、アルセイスの紅玉宮で。
 モンゴールの中枢、トーラスの金蠍宮で。
 彼が王になる為、死ななければならなかった無数の犠牲者達。
 数々の秘められた過去が、甦る。

 魔戦士、災いを呼ぶ男。
 渾名の由来である嘗ての友が全て、無残な亡霊と化し彼を迎えに来ていた。
 気付かぬ内に何時の間にか、手中に心を落ち着けてくれる鋭い幅広の長剣が現れた。
 彼は剣を頼りに忘我の歓喜に酔い痴れ、亡霊を斬り捲った。

 嘗ての友を、親しかった知己達を。
 己が助かる為に、総てを切り捨てた。
 無数の亡者を屠った剣が、夥しく流れ出る血に染まり薔薇色の剣へ変化した。
 夜明けの黎明を連想させる暁の剣は深紅を通り越し、漆黒に染まった。

 黒の剣が、咆哮した。
 無数の魂を喰らい、満足の唸り声を挙げた。
 飽食した剣が、彼の手を離れた。
 血を凍らせる宣告が、冷たい剣の内部から轟いた。

 もう、充分だ。
 最後に、貴様の魂を飲み干してやる。
 宣告と共に、魂を喰らう剣が動いた。
 彼を襲い、激痛が脾腹を貫いた。


 気付くと何時の間にか、空中に吊下げられていた。
 眼下には見渡す限り、視野を埋め尽くす無数の亡者が群れ集っていた。
 朽ち果て崩れかかり、眼も当てられぬ骸達が蠢く。
 豪胆な勇者も怖気を振るう、強烈な死臭と吐き気を催す腐臭。

 彼は、本能的に悟った。
 一言でも彼等と口を利いてしまえば、彼等に同行しなければならぬ。
 たった一つの言葉から声紋、魂を識別する紋様《パターン》が刻まれる。
 彼等と共に冥府に下る契約書への、著名捺印《サイン》となる。

 怨霊達を罵り、追い払ってしまいたい衝動を。
 懸命に堪え、死に物狂いで耐え続けた。
 ナリスから聞かされた伝説の地、グル・ヌーの光景が鮮やかに甦る。
 白骨化以前の聖地は、此の様な物だったのだろうか。

 彼は不意に、気付いた。
 徐々に、身体が下がって来ている。
 眼下を埋め尽くす亡者達に、近付いている。
 妄執と恨みの念が、歓喜となって噴上げている。

 もうすぐだ。
 イシュトが、俺達の手に入る。
 俺達に謂れの無い苦痛と死を齎した、死神の手先が此処に来る。
 自らの手で引き摺り下ろし、俺達と同じ苦痛を味わわせてやれる。

 堪え切れなかった。
 恐怖と絶望。
 思わず絶叫し、罵倒する。
 同時に、悟った。

 落ちる。
 逃れる術は、無い。
 身体を支えていた何かが、失せた。
 石の様に、身体が落下する。

 みるみる、亡霊達が近付く。
 彼を迎え入れようと、頭上に伸び上がる。
 過去の悪行を清算する運命の刻、贖罪の瞬間が訪れた。
 永劫の破滅から、逃れる手段は無い。


「助けてくれ、グイン!
 カメロン、俺が悪かった!!」
 一瞬で眼下の景色が切り替わり、無数の亡霊が失せた。
 何時の間にか、落下が停止している。

 空中に吊り下げられたまま、イシュトヴァーンは。
 眼下に広がる穏やかな光景を、呆けた様に眺めた。
 艶やかな黒髪、優しい漆黒の瞳。
 まだ少女とも思える小柄な身体、年若い女性の姿。

 胸に抱いているのは、自分に生き写しの幼児。
 燃え盛る炎を秘めた黒い瞳、強烈な光を映す風雲児の貌。
 不意に、幼子が頭上を見上げた。
 イシュトヴァーンは頭の奥底に、強い衝撃を覚えた。

 感覚が擾乱する。
 五感が捻れ、全てが二重に感じられる。
 空中浮揚している自分、若い女性に抱かれる幼児の五感が同時に感じられる。
 忘れていた脾腹の激痛が不意に、彼を貫いた。


 同時刻、パロを遠く離れた湖畔に建つ粗末な小屋。

 黒髪黒瞳の幼児が、火の付いた様に泣き出した。
「どうしたの、イシュトヴァーン?」
 嘗て光の公女に仕えたお気に入りの侍女、フロリーが幼子を抱き上げる。
 幼子が力一杯、母親にしがみ付く。

「何も、怖い事は無いのよ。
 母様が、護ってあげる」
 如何なる理由に拠るものか。
 2人の間に、遠隔感応が生じていた。

 フロリーに抱きしめられる幼児、スーティ。
 夢の回廊に囚われ、己の手で脾腹を突いたゴーラの冷酷王。
 同名の2人、イシュトヴァーンの感覚が共有される。
 暖かい感触を身体の内部へ温もりを生じさせ、安心感が満ち溢れた。

(自分は、護られている。
 自分は、此処に居ても良いのだ)

 生まれて初めて得られた、自己肯定感。
 止め処無く涙が溢れ、脾腹の激痛が和らぎ遠去かって行く。
 霞む視界を透かし、懸命に女性の顔を見分けようとするが。
 スーティを抱きしめる慈母、フロリーの輪郭が霞む。

 黒い髪が透き通り、豪華な金髪に染まって行く。
 黒曜石の如き瞳が輝き、エメラルド色の瞳に変化する。
 カメロンの声が、何処からか響き懐かしい感情を蘇らせる。
 複雑に共鳴し反響する力強い声が、彼の呪縛を解いた。

「良かったな、イシュト。
 お前にも、家族が出来たんだよ。
 お前はもう、1人じゃない。
 母親と兄弟が、待っている。

 俺が父親では、役不足かもしれんがな。
 お前は、生まれ変わったんだ。
 もう、不安に怯える必要は無い。
 俺だけじゃない、ナリス様も居る。

 お前を抱きしめてくれる人が、待っている。
 お前を護ってくれる存在が、ずっと傍に居てくれる。
 もう、泣く必要は無い。
 暗黒の時代、ドールの時代は終わりを告げた。

 お前は中原を覆い尽くさんとする鮮血の流れに抗し、漆黒の闇を払う降魔の剣。
 未来を切り拓く希望の光、ルアーの剣を体現する新たな中原の守護者となれ。
 お前の心を暖めてくれる癒しの光、温もりが感じられるだろう?
 此処に、還っておいで。

 ゴーラ王イシュトヴァーンとして、じゃない。
 俺が跡継ぎと見込んだ、無鉄砲だが魅力に溢れた若者。
 オルニウス号の連中も認めた、海の兄弟。
 ヴァラキアのイシュトヴァーン、としてな」


(気付いたか、ヴァレリウス?
 母親の顔に、見覚えがある。
 あれは確かアムネリスお気に入り、親友にも等しい紹介された侍女フロリーだね。
 抱いている幼子は、本人の投影なのかな?

 それとも、イシュトが子供を産ませたか?
 カメロンの密使に拠れば、アムネリスとの間に第1子が誕生した筈。
 私生児がいる、と聞いた覚えは無いが。
 報告を受けていたにも関わらず、故意に隠していた訳ではないだろうね?)

(勘弁してください!
 私だって、初耳ですよ。
 まぁ此のならず者なら当然と言うか、本当にフロリーの子供かも知れませんが。
 正妻の目を盗んで侍女に手を付け、孕ませる位の事は日常茶飯事じゃないですかね。
 死の砂漠ノスフェラスや海賊船で放浪中、リンダ様にも手を出してたんでしょう?
 天地が鳴動する驚天動地の秘事とは全く思えません、当然起こり得る事と愚考します!)

(手厳しいね、否定は出来ないけれども。
 竜王絡みで私も手一杯だったからな、この件に関しては不問として置こうか。
 それにしても夢に現れた心象《イメージ》は結構、成長を遂げている印象だったね。
 失踪直後に産まれたと仮定しても、2歳にやっと届く位ではなかったかな。
 私の耳には入っていないが、ゴーラ国内で私生児が誕生の噂は囁かれていないか?

 ディーンの娘も、トーラスの下町で誕生している。
 宮廷の周辺に限定せず裏通りの女性も含め、隠し子の有無を調査した方が良いだろう。
 正妻との間に誕生した王子の評判、カメロンの反応も知りたい。
 グイン最大の弱点シルヴィアと異なり、アムネリスを魔王子アモンが狙う確率は低いが。
 上級魔道師1名と数名、下級魔道師を警護の為に割いて貰えるかな?) 
 

 
後書き
 イシュトヴァーンの夢はユラ山地で、グインに脾腹を刺された後に生死を彷徨った時の悪夢が元ネタです。
 『火の山』だったかな?
 アリの亡霊が手招きをしていた辺りですね。 
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