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鏡に映るもの

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6部分:第六章


第六章

 それでその杯もそっと胸にかけてあるスプーンに近寄せる。やはり曇りもしない。これにも毒は入っていなかった。
 パンにも魚にも果物にもだった。食事は安全でしかも美味かった。まずはそのことに安心した。しかし完全に安心したわけではなかった。
 頃合いを見てこっそりとまたスプーンの鏡の様になっている部分から奥方を見る。すると今度は皺がれた老婆に見える。次に見ると元の姿でありまた見ると今度は幼子だ。見る度に姿が違う。
(魔物か)
 こうも思ったがどうも違うようだ。彼は今その胸に十字架もかけているがそれを前にしても何にも同ずるところはないからだ。魔物や悪魔といった類ならこの十字架が近くにあるだけでも恐れる筈だから。だからそうでもないこともわかるのだった。だがそれでも安心はできないのだった。
 どうにも訳がわからず食事を続けながら夕食を進めていく。そうして緊張を含ませたまま食事を終えるとまた奥方が彼に言ってきたのであった。
「では後は」
「はい」
「ゆっくりとお休み下さい」
「部屋に戻って宜しいのですね」
「何もなくて申し訳ありませんが」
 テーブルに置かれていたボールで手を洗う彼に対して述べる。既に奥方は手を洗い終え初老の執事が差し出した布でその手を拭いていた。ハインリヒに対しては娘の使用人の一人が側に控え何時でも布を差し出すようにしている。実に気がつく。だが彼はその娘から生の感触を全く感じてはいなかった。
「そのように御願いします」
「フリッツですが」
「同室ですね」
「それで御願いします」
 このことを彼女に言うのだった。
「是非」
「わかりました。それでは」
 こうして夕食は終わった。彼は布で手を拭きながら時折使用人達もスプーンに映してみる。するとそこに映るのは小鳥だったり狐だったりリスだったり元の姿だったりする。やはりどうにもこうにも訳がわからない。心の中で首を捻っていたがやがてそれも終え部屋に戻った。そうして食事を摂らずに主の帰りを待っていたフリッツに声をかけた。彼は自分の寝る場所に外套を置いてそれを寝床としていた。そうしてその前に木の盆に置かれた夕食を置いていた。見ればメニューはハインリヒが食べたものと同じだった。量が違うだけである。
「若旦那様、御無事でしたか」
「一応はね」
「一応は、ですか」
「うん。ところで」
 まずはその胸にかけてあった。スプーンを外す。そのうえで彼に対して返してから言うのであった。
「一応確かめておくべきだけれど」
「ええ」
「食べ物は安全だったよ」
「食べ物は、ですか」
「そのワインもね」
「食べるものは大丈夫なのですね」
「美味しいものさ。けれどね」
 ここでハインリヒの目の色が変わった。フリッツの向かい側に腰を下ろしたうえで言うのであった。
「どうにもね」
「やはりおかしいですか」
「まず姿が映らなかった」
 最初にこのことを述べた。
「姿がね」
「ではやはり私の見た通り」
「けれどそれだけじゃなかった」
 もう一つ言い加えるのだった。
「それだけじゃなかったよ」
「といいますと」
「次に見た時は青い髪の美女で」
「青い髪の!?」
「それから老婆になったり幼子になったり」
「移り変わっていったのですか」
「けれど目に見える姿はそのままだったんだ」
 剣呑な目で語る。
「それはね」
「またそれは面妖な」
 フリッツもそれを聞いて目を顰めさせる。そうさせながら食事を摂ることは忘れない。鴨や魚、それにパンと果物を葡萄酒で美味そうに流し込んでいくのであった。
「見る度に姿が変わるとは」
「どう思う?」
 真剣な目で従者に問うた。
 
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