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裏切り

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2部分:第二章


第二章

 ヴリトラはインドラの宮殿に招かれた。その豪奢で多くの美女と財宝に満ちた宮殿の中に招かれた彼は最初そのみらびやかさに心を奪われた。その中でもとりわけ美しい、黒い肌に見事な容姿を持つ美女に見惚れた。はっきりとした黒い大きな瞳に高い鼻と大きな唇を持っている。黒い髪が波がかっていた。
「あの奇麗な人は」
 ヴリトラはまず彼女のことを居並ぶ神々に問うた。
「誰。凄く奇麗だ」
「兄上」
 インドラがそれに応えた。今かれはヴリトラを兄と呼んだのだ。ヴリトラもそのことに気付いた。
「兄?俺が」
「そうです」
 にこりと笑ってヴリトラに対して答えた。
「私は是非貴方の弟になりたいのです」
「俺の弟に」
「いけませんか」
 恭しく彼に問う。
「貴方の弟になりたいのですが」
「俺、兄弟なんていなかった」
 ヴリトラはインドラの言葉に答えずにまずはこう呟いた。今はみらびやかな宮殿も美女も財宝も目に入らない。磨き抜かれた宝玉の廊下には自分の顔が映っている。その醜く巨大な顔が映っている。
「憎むだけ。いつもたった一人だった」
「これからは違うのです」
 インドラは彼に囁くようにしてまた述べた。
「私が貴方の弟となるのですから」
「俺、一人じゃなくなる」
「そうです」
 彼はまた言ってきた。
「私が弟になります。そして」
「そして」
「生涯の友人となりましょう。いけませんか」
「俺、さっきも言ったけれどずっと一人だった」
 ヴリトラはそのことをまた言う。
「一人でずっと生きてきた。友達なんて知らなかった」
「これからはそれも違うのです」
 またしても甘い蜜をかけるようにして囁く。
「私がいますので」
「インドラがいる」
 ヴリトラの顔に彼が今まで見せたことのない、浮かべたことのない感情が浮かんだ。
「インドラがいる。友達がいる」
「はい、そして弟が」
「俺はもう一人じゃない。一人じゃないんだ」
「貴方は憎しみから解き放たれたのです」
 また囁いてきた。
「これからは永遠に。幸せの中で生きるのです」
「幸せ。今まで俺が知らなかったもの」
 憎しみにより生まれて憎しみしか感じたことのない彼が幸せなぞ感じたことがあろう筈もなかった。彼は笑いさえ知らなかったのだから。
「それが俺のものとなる」
「そうです」
 インドラの囁きは続く。
「それで兄上」
「うん、弟」
 これも今まで持ったことのない感情であった。それは親しみというものである。笑いも幸せも親しみも今彼ははじめて知ったのだ。
「あの美女が御気に召されたのですか」
「それは」
「本当のことをおっしゃってもいいのですよ」
 ここでも囁いたのだった。
「何しろ私達は親友同士であり兄弟なのですから」
「そうだった。それでは弟よ」
「はい、兄上」
「あの女は何というのだ?」
 それをインドラに対して問うた。
「あの女の名前は。何と」
「ラムバーと申します」
「ラムバー」
「そう。アプサラスの一人でして」
 水の精霊である。普通アプサラスはもっと清らかな色をしているのだが何故か彼女は漆黒である。しかしその漆黒の肌も髪も独特の光を放っており実に艶かしい。ヴリトラはその艶かしさにも心を奪われていたのだ。
「兄上に是非御会いしたいというのでここに呼んだのです」
「俺に」
 これまたヴリトラには思いも寄らぬことであった。
「俺に。会いたい」
「そうです」
 インドラはにこやかに笑って答えた。
「是非。貴方を夫にしたいと言っています」
「俺を。この俺を」
 自分の醜い姿は知っている。だから妻なぞ持てないと思っていた。しかしその自分にあの様な美しい女が妻にして欲しいと言う。まるで夢の様な話であった。
「嘘ではないのか」
「いえ、嘘ではありません」
 インドラはそれを否定した。
「あの者も是非貴方にと言っていますので」
「俺をか」
「兄上は妻を持っておられませんでしたね」
「いない」
 彼は正直にその言葉に答えた。
「じゃあ。いいのか」
「はい、どうぞ。ですが」
 しかしここでインドラは言葉を付け加えるのであった。
「一つだけ守って欲しいことがあります」
「守って欲しいこと」
「そうです。実はですね」
「何なのだ?」
 インドラに対して問う。完全に彼を信用していて疑うことはない。しかしインドラの目はそんな彼を見ながら邪な光を放っていた。神に相応しくない光を。
「一つだけ。それはですね」
「それは。何なのだ」
「彼女の望みを全て適えることです」
「ラムバーのですか」
「それだけです」
 そこまで言うと穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「兄上があの女に誓われることはそれだけです」
「ラムバーの望みを全て適えるのだな」
「そうです。如何でしょうか」
「わかった」
 彼はそれに迷うことなく頷くのだった。
「それならやる。俺のこの力は今まで憎しみの為にあった」
「そう、これまでは」
 インドラの囁きはここでもヴリトラに対して向けられていた。
 
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