| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

猫の憂鬱

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第3章
  ―4―

いい加減晴れろ馬鹿野郎、バイクに乗りたい、と朝から課長の機嫌は悪い。おかしいな、今での梅雨時期はこんな激しくなかったのに。宗一と云う爆弾低気圧が課長を取り巻いている、早く薄くなれば良いのだが。
待ちに待った金曜である。早く雪村凛太朗から戻りましたの電話が来ないか、龍太郎は眉間の縦皺を一層深くさせ、電話を睨んでいた。
「え?御前、近眼?」
「違う。目だけは良い。」
「頭も顔もスタイルも家柄も声も良いじゃねぇの、龍太郎様。」
性格は聞くな、と井上は掌を見せ、向かいの木島が吹き出した。
「目付きも悪いだろうが。」
「貴方は全てが悪いですね。」
「そうそう、木島さんなんて、性格は救えなくて、顔も目付き悪ぃ女顔で身長も低い、家鴨口で間抜けだし、頭だって普通じゃん。一番悪いのは女運だぜ。」
髪の美しさだけは褒めてやる、と風船ガムを数個噛み、膨らました。
「なんでそんな髪綺麗なの。」
「知らん。生まれ付きだ。」
「あ?そうなの?」
俺はてっきり、顔に金を掛けても無意味だから髪に掛けてるのかと思ってた、と云うと、木島の真横に居る加納が、キューティクルを此れ見よがしに光らす木島の髪をじとっと眺め、掛ける髪があって良いですね、と秀一からの攻撃を未だ引き摺る発言をした。
「御前だって、髪あるだろう?」
「ええ、御座いますよ?二十五歳にしては、少ないですが。」
御前に禿げと云ったのは秀一であって俺では無い、何故俺に当たるんだ。車に掛ける金を頭皮に掛けたら良いのに、とは思った事無い訳では無いが、触れてやらなかったのに。
髪の長さだって、禿げを隠してるんだな、と生温い目で見守って居たのに。
加納のネガティブさに課長は椅子から立ち上がり、加納の頭を左右から両手で掴んだ。
「若芽食べろ、若芽。」
云い乍ら物凄い握力で加納の頭皮を圧迫し、加納の表情が歪んだ。
「刺激しないから退化するんだ。」
「痛いです、課長…」
「御前は絶滅寸前の見事な黒髪を持ってるんだ。彼奴等見てみろ、光に当たると茶色いだろう。だけど御前は違う。本郷と同じに青い程の日本人の黒髪だ。毛が一本一本太い、日本古来の美しい髪、みどりの黒髪だ。今放置すると、物の見事に抜けるぞ。今ある髪を若芽で頑丈にしろ。確かに木島の髪は綺麗だ、けど、其れは柔らかさでそう見えるんだ。本当に美しい髪と云うのは、加納、御前みたいな髪を云うんだ。」
頭皮に鞭を、心に飴を。
課長の顔を顎上げ見る加納は、腑に落ちない顔で、然し課長は笑う。
「御前に初めて会った時、俺がなんて思ったか、教えてやろうか。」
加納は無言で、木島は俺の髪綺麗だよな?と周りに確認し、そんな木島をあしらう井上、龍太郎は課長の言葉をじっと待った。
「完敗だ、負けたよ。」
ジャケットから携帯ブラシを取り出し、加納の髪を梳かした。
「御前程完璧な男、俺は知らん。頭も良けりゃ顔も良い、家柄も完璧なら学歴は化け物だ。何が悔しかったか、此の髪だよ。綺麗な芯のある黒髪。俺が人生で何よりも望む物を御前は持ってる。」
「ワタクシ、課長の白髪(ハクハツ)好きですよ。」
「有難うな。」
ブラシを仕舞った課長は一旦自分の席に戻り、抽斗(ヒキダシ)から鏡を出すと加納に渡した。唖然と自分の頭を見る龍太郎達に、変わる訳無いのに、と加納は鏡を覗いた。
愕然とした。
此れが、自分の髪の毛なのだろうか。
「頭頂部が…頭頂部の髪がぁ!」
「あるぞ加納!」
「ゴッドハンド…」
「凄い…」
「膨らんでる!」
除菌ウェットティッシュで手を拭く課長は、御前は多分禿げじゃない、と云った。
「御前、ずっとワンレンじゃないか?」
「まあ。」
「だからだよ。だから形状が固定されて、真ん中がぺったんこなんだよ。で、髪質が硬いから髪の毛が持ち上がらないで、一層ぺったんこに見える。旋毛が丁度真ん中にある、だから益々真ん中に型が付く。且つ油分が多い。今、左右にブラシを入れたから膨らんだ。大丈夫、御前は禿げじゃない。」
と思う、判らんが、と課長は椅子に座り、鏡を見て興奮する加納の姿に薄く笑った。
「ワタクシ、久し振りに自分の顔見ました、木島さん!」
こんな顔だったっけ、と鏡を近付けた。
「あ、そっか。御前ん家、鏡無いんだっけ。」
「如何云う事よ…」
「いやな、加納、自分の顔大嫌いらしんだ。」
自分の顔を好きな人間はそう居ないかも知れないが、加納程徹底した自分の顔嫌いも珍しい。秀一と云い加納と云い、やる事が極端過ぎる。天才とは矢張り、凡人には到底理解出来ない思考を持っているのだなと龍太郎は思った。
低いモーター音。
ディスプレイに、待ち望んだ人物の名前が浮かび上がっていた。
煙草を消した龍太郎は井上の肩を叩き、何時でも出れるよう準備する指示を出した。
「本郷です。」
「雪村です。遅くなりました、今、此方に着いた所です。」
四十分程で喫茶店に着くと雪村は云い、今が丁度四時半である、五時半に待ち合わせましょうと電話を切った。
「おっし、待ってたぜぇ、雪村の旦那。」
椅子から立ち上がった井上は大きく背伸び…したのだが、腰に走った激痛に両腕を突いた。
「ビキって行った…、ビキって…」
「使い過ぎだ、馬鹿…」
「腰痛は男の勲章だ、馬鹿…」
「行くぞ、馬鹿…」
井上の腰を叩いた龍太郎は椅子からジャケットを取り、博士に電気流して貰おうかな、と井上は呟いた。
「報告は明日で良いぞ。」
「良いんですか?」
「だって俺、帰りたいもん。」
ゆったりとカップ傾ける課長は云い、雨の上がった空を見た。
天気予報が云うには今から雨が降る確率は低い。地面から水分が飛んだ時間が大体龍太郎達が戻る時間だと計算した。
「ベイビーに宜しく、課長。」
「井上もな。」
腰御大事に、と課長の笑顔に見送られた。


*****


余裕をもって五時半と云ったのだが、夕方の交通量を甘く見ていた。二十分程で着く場所に三十分以上掛かり、今度はコインパーキングが全滅だった。其れを待つのに五分近く掛かり、結果喫茶店に入ったのは五時半を回っていた。雪村も同じ状況なのか、未だ姿は無い。
此れは六時過ぎを覚悟した方が良さそうである。
ココアを二つ注文した龍太郎は手帳を開き、聞く事を纏めた。
「砂糖要る?」
「当然だ。」
置かれたココアを一口飲んだ二人は唇を舐め、シュガーポットから砂糖を投入した。
此の二人、大の甘党であり、木島も其の内の一人、もう一つ云うと、井上が可愛がる五十嵐、此奴も甘党であり、四人で一課の甘党四天王と呼ばれる程の甘党である。
「おい拓也、餡蜜があるぞ。」
「マジか、そらもう注文しねぇと。」
ココアと餡蜜って合うの?何なの此の二人…と訝しむ店員の目等気にせず、最早砂糖の味しかしないココアを二人は飲んだ。
「やっぱココアは甘くねぇとなぁ。」
「ココアじゃないな。」
至極満足と二人は頷き合い、食べ終わる迄来るんじゃない、と餡蜜と雪村を待っていたが、先に来たのは雪村だった。
「済みません、お待たせして。夕方舐めてました…」
何時もは後一時間遅いので交通量は少し減る、一番交通量の多い時間の遅さと云ったらない、と会話を弾ませた。酷く切なそうな顔で自分を見る二人に雪村は首を傾げ、自分の注文を取りに来たとばかり思った店員の手に持たれる物に吹き出した。
「ははは、そういう事か。」
「如何か課長には黙ってて…」
「餡蜜の誘惑には勝てん…!」
「美女が全裸でベッドに寝てるのと同じモンだ…!」
置かれた餡蜜に然し二人は破顔し、雪村は珈琲を注文した。
そうですよね、やっぱりこういう場合は珈琲ですよね…。決して、決して、ココアと餡蜜じゃないですよね…。蟻と罵って下さい。
そう心で呟き、スプーンを口に運んだ。
こんな時でも美味しいんだ、餡蜜。
「あれ、刑事さんも左利きなんですね。」
「そうですよ。」
だから何時も井上が右側に居ます、と龍太郎は説明した。
実際そうだ。
課でも井上の席は龍太郎の右側で、最初は井上の場所に龍太郎の席があった。課長の真ん前、右手側に側近中の側近木島、左手側に三番手の龍太郎…一課権力三角形、と配置決まって居たのだが、井上が配属された時、井上が、龍太が右手に居るのがすっげぇ気持ち悪い、と云った。
自分はずっと、其れこそ生まれた時から龍太郎の右側に居て、龍太郎は自分の左側に居た、だから気持ち悪いと。
其れで今の配置になったのだ。
「もう俺ってばお兄ちゃん思い。」
「生まれた時からずっと一緒なんですよ。」
「良いですね、そう云うのって。」
下手な兄弟より兄弟らしい、と雪村は珈琲を啜った。
「雪村さん、御兄弟は?」
「居ますよ、上に姉が一人、下に弟一人。」
「真ん中ですか。」
「真ん中です。然も姉ですからね、酷いもんですよ。」
「御宅、何でも女の云う事、ホイホイ聞くタイプ?」
「です、です。姉が怖いんでねぇ。」
「判るわ。女は全員姉貴だと思っちゃうのな。」
「其方の刑事さんもお姉様いらっしゃるんですか?」
「性悪なのが一人ね。だから年上の女にガツンと来られると、ひぃ、御免ねお姉様ってなる。でぇも、年上に弱いのなぁ。」
井上と雪村は笑い合い、生憎一人っ子の龍太郎には判らない心理だが、井上の姉、あれだけは怖いと覚えている。序でに自身の母親も近所の女児も怖かったので、女は総じて自分より強く怖い生き物だとインプットされ、結果は此の通り、女に関わらず生きてしまうようになった。
誰が好き好んで魔物に関わるか。
だから龍太郎は未だ独身で恋人も居らず、女が好きではないのだ。父親からはかなり井上との仲を怪しまれているが、此ればかりは仕方がない、母を恨んで下さい、としか言い様が無い。
口を拭いた龍太郎は手帳を取り出し、食べ掛けの餡蜜を横に掃いた。
「奥さんの涼子さん、此方の御親族は。」
「涼子は一人っ子で、御両親はもう居ませんね。」
「そうですか。」
手帳にペンを走らせた。
「調べさせて頂いたのですが、涼子さん、青山涼子と云う画家ですね?」
「そう、だったみたいですね。僕も詳しく知らないんですけど。」
「お父様は、葵早雲。」
「みたいですねぇ。」
「余りお聞きにならなかったんですか?」
「そうねぇ、人の過去は気にならなかったからなぁ。」
早雲が没したのは涼子がドイツに居る時で十年前、母親は、早雲の説明で見た所、涼子が二歳の時に子宮癌で亡くなっている。此の二人が結婚したのは二年前で、そうなると話さないのも普通かなと思える。
「涼子さんの友人関係とか、判りますか?」
「友人ねぇ、居ないと思いますよ。彼女の友達、見た事無いですから。」
彼女の携帯電話が鳴ったのを聞いた事がないと雪村は云い、龍太郎は項を掻いた。
結婚式は挙げず、書類を出しただけ。人が苦手だからと雪村の友人とも数回しか会った事が無い。
画家がどんな人間関係を築くかは知らないが、龍太郎の考える通りの性格だった。
他に聞くとしたら、猫の事しか残って居ない。
手帳から猫の写真を取り出し、テーブルに置いた。
「青山涼子さんは、大の猫好きで有名な画家でした、其れは御存知ですか?」
「何と無くは。」
猫が好きなのは、と雪村は煮え切らない答えで、溜息を飲み込んだ井上がファイルから青山涼子のウィキペディアをコピーした其れを渡した。
「此れ、奥さんの過去ね。父親のは要る?」
「いいえ、良いです。」
井上から受け取ったコピーを確認する雪村は無表情で、読み終わっても無表情で有難う御座います、把握しましたと云うだけだった。
「あんた、マジで淡白だな、龍太そっくりだわ…」
妻になろうとする人物の過去に興味が無いと云い、然し知ったから如何だと、其の無表情は語る。
「だって、ねぇ。」
ちらりと龍太郎を見た。
「世の中にはな、拓也、本当に他人に興味無い奴も居るんだよ。」
「でも、嫁だろう?犯罪者だったら如何すんだよ。結婚詐欺師とか、保険金殺人犯とか。」
「仮にそうだったとしても。」
もう死んでるし。
龍太郎と雪村の声は同時で、井上は呆れた。
アッチの方も淡白なんじゃねぇの。
井上は煙草を蒸し、窓の外を見た。
龍太郎は気にせず言葉を続けた。雪村が青山涼子に興味希薄だろうが、龍太郎に興味は無い。
「お二人は如何やってお知り合いになったんですか?」
「此の子ですよ。」
云って雪村はテーブルの写真を指した。
「わらびって云います、此の子。」
「ワラビ?」
「蕨餅の、わらびです。似てるでしょう?茶色くてふわふわしてる所が。」
「…成る程。」
判らん、と一応手帳に名前を書いた。
「わらびが迷子になった時、保護してくれてたのが彼女だったんです。」
「え…?」
「一寸待って下さい、此の猫は…わらびちゃんは、貴方の猫なんですか?」
「そうですよ、僕の娘です。」
ウィキペディアを読んでいた先入観でか、此の猫はてっきり青山涼子の猫で、結婚と一緒に雪村と住み始めたとばかり思っていた。
「わらびは、生まれた時から目が見えないんです。」
雪村の一言に龍太郎の全身は粟立ち、此の猫の行動理由がはっきり判った。
目が見えない、詰まり感覚と臭覚、聴覚で頼るしかない。
「目が見えなくて、貴方が飼い主…?」
そういう事かと龍太郎は納得し、此の猫は人間の利き手で飼い主を把握している。
猫は、視覚では無く嗅覚と聴覚で生活すると云って良い程、両器官が発達した生き物だ。特定の音で主人の帰宅を覚えるのが此れだ。
主人の靴音をきちんと認識していたり、例えば主人が鍵にキーホルダーや鈴を付けていた場合其の音に反応するのも同じだ。
だから、普段ヒール靴を履いている主人がスニーカー等ヒール靴が持たない音を持つ靴を穿いて外出した場合、音に反応はするが其れが主人の物だと気付かない。ドアーを開けて初めて、帰って来たんだと認識する。なのでこそっと、物陰から覗いて居たりする、顔を見てお帰りと鳴く。認識する音だと玄関先でスタンバイしている、なんとも可愛い生き物である。
そして臭覚。
猫が食べ物の匂いを嗅ぐのは、其れに依って食べられるか否かを判断する為で、故に猫は“美食家”と云われる。気に入らない物は例え和牛だろうがフォアグラだろうが食べない。腐った物等、鼻であしらわれて終わる。
矢鱈人間のを食べたがるのは、其れは偏に、人間の食事の方が良い匂いがするからである。人間の食事を欲しがらない場合、其れは猫の方が良い物を食べている証拠だ。
良く云うだろう、例え自分が煮干しだろうと、猫には和牛を与えると。
此の精神で一度、生活保護受給者が餓死している。
自分は食えんでも、猫達には食事を与えにゃならん。
側から見れば馬鹿の一言でばっさりだが、動物を自分より愛する人間には納得出来る話なのだ。猫だろうが犬だろうが、自分の命より、言葉通り大事なのだ。
此の猫が矢鱈鳴いていたのは、腐敗臭だ。
多分、生まれてから一度も嗅いだ事の無い臭いを知り、然し見えないから何が起きて居るか判らない、結果鳴き続け、雪村が驚いた。
雪村は、自分に対しては鳴かない、と云っていた。此れは鳴かずとも雪村が自分の存在を認識するから。龍太郎達に対し、確認のように鳴いて居たのは存在を教える為。
本人…本猫が見えないからの確認である。
おまけに匂いも雪村と違う。本当に自分が相手に見えて居るのか、鳴いて注意を引いて居たのだ。
そして主人最大の特徴、利き手。
見えない分、感覚に安心感を求める。
幾ら嗅覚で生活するとは云え、視覚も大事だ。完全なる室内猫は、窓から外を見るだけでも充分テリトリー意識を満たされ、安心する。だから猫は何時も外を見ているのだ、下界の監視で。
其れが無いのだから、此の猫の安心は感覚に頼るしかない。
其れが、左利きの雪村。
龍太郎はペンを回し、頭を動かした。
「奥様は、此の猫を如何思ってたんです?」
「其れはもう大好きでしたよ。わらびに惚れて僕と結婚したいって云った人ですから。」
「懐いてました?」
「懐いてると云ったら懐いてましたけど、なんかしっくり来ない感じでした。なんか違うのよね、って。」
「…若しかして、左腕で支えてませんでした?左腕で抱っこして、右手で撫でる。」
龍太郎のした仕草に、そうです、そう、と雪村は云った。
「此れ、私達が気付いた事なんですが、私と、もう一人、左利きの刑事が居るんですが、其れには凄く、彼女懐きました。然し、右利きの刑事には、余り懐きませんでした。其れで、彼女…わらびちゃんは、左利きの人間に溺愛されていると結果出しました。」
「嗚呼…、嗚呼そういう事なのか。」
「其れが何故か、私達には判らなかったんです。わらびちゃんは奥様の猫だと、誤認して居たから。謎が解けました、貴方の、猫で、且つ、全盲だったんですね。」
「そうか、嗚呼、刑事さんの仰る通りです。涼子に抱かれるのが余り好きじゃなかったのは、そういう理由なのか。」
相性が悪い訳では無いのに何故だろうと考えて居た分、雪村は世紀の大発見をしたとでも云うような顔で驚いた。
「其れと。」
無言で窓の外を眺め乍ら餡蜜を食べる井上の太腿をテーブルの下で一度叩いた。
「如何でも良いんですが、奥様、よもぎ餅が大好きだとか。」
「そうですよ。世界で一番好きな食べ物が、よもぎ餅です。」
「お子さんがいらっしゃったのは…」
「嗚呼、其れ位なら知ってます。其の子もよもぎ餅が大好きだったらしいです。」
ココアを一口飲み、唇を舐めた。
「雪村さん。」
「はい。」
「奥様は、大変不自然な死に方をされて居ます。」
「と、仰いますと…?」
「胃の中から、アコニチンが検出されました。」
「アコニチン…?」
雪村は当然さっぱり理解出来無い顔で聞き返し、龍太郎は手帳から植物の写真を出した。見た雪村は、何ですか、此れ、と蓬の葉其の物を見た事の無い人間の反応を見せた。
「雪村さん、蓬の葉、見た事ありますか?」
「無いです。植物は判りません…、蔓を持つ植物が朝顔しか知りません…」
「ヨモギは蔓植物じゃないですが…」
「…じゃあ、蒲公英ですか…?」
「うん…?タン…ポポ…でも、無いですね…」
「じゃあ、何ですか?」
「…ヨモギです。蓬…」
「蒲公英って、珈琲にもなるって知ってました?」
「聞いた事はあります…」
「凄い。僕、最近知ったんです。」
「お茶にもなるんだぜ。」
「本当に?蒲公英って有能ですね、お刺身の上にも乗ってるし。」
「…判りました、雪村さん。貴方が非常に、蒲公英を愛してらっしゃるのは判りました。」
「僕、向日葵が一番好きです。」
「そうですか、私は桜です…」
井上一人が笑って居た。
気を取り直す為龍太郎はココアを飲み、一咳した。
「此れは、あの、トリカブト、と云いまして…」
「…何…?」
「トリカブト。蓬の葉に……雪村さん…?」
雪村の顔は氷結し、蒲公英だ向日葵だなんだと云っていた時とは真逆の顔で固まって居た。
「トリカブト、だって…?」
流石にトリカブト位は知っていたかと安心した矢先、今度は龍太郎が氷結した。
「彼女の息子、トリカブトを食べて死んでるぞ…?」
「はい…?」
「いや、此れは確かだ。本当に。彼女、前の旦那に殺されそうになってるんだ。其れで、間違って息子が死んでるんだ。」
井上もポカンと口を開けた儘聞き、龍太郎と見合った。
「息子が、トリカブトを食べて、死んでる…?」
「そう、あの、彼女、莫大な財産があったらしいんだ。その、なんだっけ、父親…」
「葵早雲?」
「葵早雲!其の遺産。凄い、凄いの。」
両手で山だか雲だかの形を作る雪村は興奮し、現金もだけど絵、其れ、と赤いのか青いのか判らない顔色をする。
「其れを、ね?判るでしょう?彼女、一人っ子、だから、ね?」
興奮と云うよりは、青山涼子から聞いた話に恐怖を感じた風で、言葉が段々と片言になって行った。そして妙に、女っぽい。
「お母さんも居ないし、さ、ね?全部、来ちゃ…来ちゃった、のね?」
「雪村さん、珈琲、飲んで良いですよ。」
龍太郎の言葉に雪村は珈琲を飲み干し、序でに水も氷だけにした。
「…判った?」
「…はい。バッチリ。」
「トリカブトって、凄いんでしょ…?」
「まあ、専門家曰く、キングオブ猛毒、らしいです。」
「うへぇ、何其れ、酷い…」
雪村は何故か、其の目ではっきり天井からぶら下がる妻の姿を見ているのに、毒殺だと思ったらしかった。
「誰に殺されたの…?」
「いえ、未だ断定は…」
「嘘、嘘だよ。だって、猛毒なんでしょう?」
「猛毒、と云っても、口にした瞬間、死ぬ訳では無いので…」
「仮に、自殺だった場合。」
黙って居た井上が人差し指をテーブルに立てた。
「アコニチンは、早くて、摂取して一時間で死ぬ。で、症状が出るのが、摂取してから二十分位らしんだわ。其処でこう、気力をね、振り絞って。」
云い乍ら井上は、凄く面倒臭ぇ女だなと思った。雪村もそう思ったのか、じっと井上を不信感抱く目で見ていた。
「そして、他殺だった場合。」
「他殺に決まってるじゃないですか、そんな。トリカブトなんて悪趣味な…」
「そうです、正に悪趣味なんです。」
ココアを飲み終わった龍太郎は店員に珈琲を三杯注文した。
「奥様に、すごぉおく、精通した方だと思います。」
「其れか、すごぉおく、サディストか。」
「…其れって、唯の元旦那じゃないですか。」
「…済みません、もう一度。」
「涼子の事に詳しいサディストですよね?元旦那ですよ。すごぉおく、サディストですよ。」
「…御存知なんですか?」
「はい。」
「早く云えよ…」
「今、聞いたので…」
成る程、青山涼子の元夫は、遺産欲しさに相続人の青山涼子を“よもぎ餅”で殺そうとしたサディスト。然しうっかり、殺す筈だった妻では無く、同趣向の息子が食べてしまった、此れは悲惨だ。
遺産は入らない、妻は死なない、うっかり息子は死んでしまい、離婚され、妻は日本に帰国。
立派な殺人である。刑務所位には入っただろう。
然し聞くと、此れは事故で片付けられた。言い訳が眼に浮かぶ。
「何時会ったの?」
「直接会った事は無いです。雑誌を見てた涼子が引き攣った顔してたので、如何した、と聞いたら、なんで日本に居るの…。其れで同僚に、タキガワ コウジって知ってる?漫画家らしいんだけど、って…」
「漫画家?」
「タキガワ コウジ?」
「拓也、知ってるのか?」
「クッソドエスで有名な男だよ。」
漫画家でと云うより其方で名前が売れてる感じ、と井上は続けた。
雪村の顔を唖然と見る井上は、あれが元旦那?奥さん詰んでんな、と今更云った。
「彼を知ってる人は、皆、此の刑事さんと同じ反応します。」
「序でに其奴、左利きだぜ。」
三人は黙って珈琲を飲み、此れは暢気に明日迄報告を待って良いのだろうかと龍太郎は思った。
喫茶店に置かれた時計が軽やかなメロディを流す。確かさっき一度流れた。
一時間置きに鳴るのかと時計に視線をやると、矢張り七時で、丁度聞く事も無くなったので龍太郎は云った。
「もう、家には帰れますので。」
「そうですか、良かった。わらびが心配で。ホテルに預けるの忘れてたのをホテルで思い出して…」
大丈夫かな、と呟くと、猫好き刑事がバッチリ世話してた、と井上が云った。
「そうですか、有難う御座いました。」
深く頭を下げた雪村は席を立ち、店を後にした。残された二人は珈琲を傾け、如何思うと言い合った。
「タキガワ コウジねぇ。」
「御前が知ってる情報。」
「ウィキペディアは絶対に存在しない。作った端から削除されるから。当然、青山涼子のにも載ってない。すげぇサディスト。家に漫画あるから明日持って来てやるよ。」
「漫画家ねぇ。」
超絶サディストの描く漫画とはどんなだ。唯のSM漫画だろうか。そんなの読みたくもない。
煙を吐いた龍太郎は、もう自殺で片付けてしまおうかと脱力した。 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧