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猫の憂鬱

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第3章
  ―3―

「課長。子供を抱く時、何方の腕で抱きますか?」
署に戻った龍太郎は早々に聞き、横向いていた課長は椅子を回転させると正面向いた。
「は?」
頬杖を付き、詰まらなさそうに課長は答え、天井を向いた。
「んー…」
いきなり聞かれ即答出来る奴は中々に居ない、子供を抱き上げ、あやす仕草をした課長は、左だな、そう答えた。
「…拓也は?」
「は?」
「御前は赤ん坊にミルクを与える時、どっちで支え、どっちで哺乳瓶を持つ。」
こう、と井上は左腕を丸め、右手で哺乳瓶を持つ仕草をした。
「やっぱり…」
「何かあったか、本郷。加納、説明しろ。」
「はい、あの。」
「此の猫、此のソマリ。」
説明しようとする加納を遮り、龍太郎はホワイトボードから猫の写真を取ると自分の顔の前に置いた。
「左利きの人間に、非常に懐く傾向が見られます。」
「で…?」
「木島さんには懐かなかった、然し、私と加納さんには喉を鳴らす程懐きました。」
「そんなの、偶然か、雪村凛太朗が左利きだからだろう。」
其れか、木島が猫からも存在を無視される存在なんだろう、とカップを傾けた。
「偶然だって。」
井上もそう呟いた。
「木島さんは右手を差し出したんです。こうして。」
龍太郎は右手を出し、其の儘自分の方に向けた。
「そうすると、左頬に手が触れますよね。」
自分の頬に置き、少し首を傾けた。
「やってみたんです、実際。右手を彼女に向けて。そしたら。」
一度擦り付けるだけで態々首を動かし、自分の右頬が其処に行くように仕向けた。
「左手を向けたらそんな動作をしませんでした。」
「ワタクシもしました。両手で包んだら右頬ばかり擦り付けて来ました。其の後、凡ゆる動作を右利き左利きで検証しましたが、間違いありません、彼女は左利きの人間に溺愛されております。全ての動きが左利きの其れに合わされておりました。」
飼い主の利き手で動物の動きが変わる?
課長達の疑問は当然だった。
猫の利き腕は雌雄で分れるのは知るが、そんなのは初耳だ。木島がネットで即座調べたが、そんな情報何処にも無い。
「猫博士に聞くか。」
「誰。」
「八雲ちゃんに決まってるだろう。俺の可愛い丸眼鏡ちゃん。」
電話を取り出した課長は楽しそうな声色と表情で発信した。
何時から八雲は課長の物になったのだろう、流石、自ら“わいの人生、不本意と諦めの叩き売り”と豪語するだけある。
なんだ?あの五人の中では八雲がフェイバリットなのか?ならば橘さんユウナちゃんバージョンは頂いて行きますね。
自分にすっかり雪子と云う恋人が居る事も忘れ木島は思い、其の心中が発信されたのか向かい席の井上が、長谷川博士は頂いたあ!エレ・キ・テルぅ!と云った。
井上が秀一を欲するのは、共同で木島を虐めたいからである。
「八雲君はあげません!」
「断る。あの中で一番マシなのが斎藤だ。眼鏡が良いなら、もう一人の眼鏡をやろう。」
「要りません、課長の方こそ其方で我慢なさったら如何ですか。」
「ならば逸そ、悪趣味なベンツで俺を轢け。」
電話は何時の間にか繋がっており、スピーカーから楽しそうな笑い声がする。
木島のフェイバリット、侑徒である。
宗一に掛けず、侑徒に掛けた所が又何とも云えない。
「斎藤さん、で、良いんですね?」
笑いで言葉が出ない、目尻に溜まる涙を拭う姿が想像出来る声だった。
「斎藤さん、一課テーブル、御指名ですよ。あはは。」
「有難う御座います、貴方の斎藤、皆の斎藤、斎藤、斎藤八雲で御座います。」
ふぅう、とテンション高い掛け声が掛かり、笑ったのは井上一人である。
貴方の、と云っておき乍ら、皆の、と云っている。井上は其の矛盾に笑って居るのである。
「斎藤は俺の方が良いよな?」
「んー…」
「八雲君…、課長に勝てる要素が、何もありません…」
学歴位しか。後、猫への愛情。
「あー…、二人でしか、選べんの?」
最初のテンションは如何したんだと聞きたい程八雲の声は単調で、後ろから、猫目の坊やは頂いた、ぐはははは、と宗一の声がした。そして、先生セグウェイ返して、と聞こえた。
「貴方達以外でしたら、本郷さんで。」
何故って?一番まともそうだから。
人様から、貴方まともですね、と云われ悪い気はしないが、変人ですねと云われ喜ぶのも居ないが、対戦相手が悪い。
課長からは奴隷の癖にと云われ、加納からはビーエムの癖にと睨まれた。
BMWで何が悪い、悪趣味なベンツで人の下半身を焼こうとした狐風情が。
策か?此れが斎藤、貴様の策か?俺を如何するつもりだ…
八雲から指名され龍太郎は怯えつつ課長の側に行き、本郷です…、と張り付く喉から無理矢理声を絞り出した。
八雲は意地悪く笑い、矢張り、自分を苦しめる策だったかと、胃が如何にかなりそうだった。
「ほんでぇ?何を聞きたいのぉ?」
「猫は、飼い主の利き手で、行動を決める……ぅますか?」
本郷風情が斎藤に生意気な口聞くなと蹴られたので、言い直した。木島の次は課長に胃を攻撃されるのか、此の事件が終わったら辞表でも出そうか、龍太郎は本気で考えた。
「飼い主の利き手で、動物の行動が変わるかぁ?やてぇ?」
そんな事聞いた事無い、と八雲は云い、やっぱり御前の勘違いじゃないか、と課長は云った。
「八雲君。」
「はい、なぁに?」
「此の猫は、常に左利きと居た筈なんです。行動の全てで、人間の左側に居るんです。」
加納の言葉に、でもなぁ、と八雲は言葉を濁す。
矢張り、自分達の勘違いだったのか…?
「そんなん、其の猫の勝手やんけ。左側が、落ち着くんちゃうの。つーか、旦那が左利きやん。」
「其れがおかしいと思わないのか?」
「何が。」
龍太郎の言葉に自分の結果を否定されたと思った八雲は声のトーンを落とした。
「雪村凛太朗は、週の半分居ないんだぞ?其の状況で、毎日一緒に…其れこそ四六時中一緒に居る雪村涼子の利き手と真逆の場所に居るって、おかしくないか?」
「でもさ、本郷はん、こうも考えられるんと違う?」
雪村涼子は右利き、だから何時も空いてる左側に居る。
そう云われたらそうも思えるが、抱き方は?あの猫は完全に右腕で支えられる癖が付いている。
右でペンを持ち左腕で支えると、一時もじっとせず、ペンを持つ手を噛み、右腕で支えて貰おうとする。逆では縫いぐるみみたく大人しい。
「右腕で抱っこしとっただっきゃないの。」
そういう事は旦那にでも聞けば?と最初のテンションと真逆の態度で電話を切った。
虚しく響く通話終了音を消した課長は電話を仕舞おう…としたのだが、瞬間着信が着た。発信者を一瞥しただけで拒否を押し、其の儘電源を落とした。
構いはしない、如何せ相手は宗一である。
龍太郎に、やっぱり御前の思い違いだっただろう?と云った瞬間、今度は事務電話が鳴り出した。溜息吐いた課長は龍太郎の肩を優しく叩き、やる気の無い態度で通話ボタンを押した。
「はい、此方世谷警察署、捜査一課です。如何されました?」
如何して課長は、外線電話にこうも優しく囁けるのだろう。内線の時はかなりぶっきら棒で、捜査一課、で終わる。此の声聞きたさに暇な奥様方からラブコールもある、其の時の課長の顔と云ったら傑作だ。
顔面は、早くくたばれ欲求不満女、であるのに、声はどんな聖人の声よりも穏やかで優しく、うっとりする。
流石マダムキラー、流石ジェントルマン、ゲイであるのが悔やまれる。
「済みません、聞こえてますか?如何されました?」
「御前…、誰…?」
聞こえた声にブッ…と終了ボタンを押し、携帯電話の電源を入れると鬼の形相で発信した。
「掛けて来るな、此のストーカー!」
「やっぱり御前か…、何あの声、酷…」
「おい、一号(木島・加納)二号(本郷・井上)、生安呼んで来い!もう我慢ならん!」
「課長、課長落ち着いて下さい…」
「喧しい!此れが落ち着いて居られるか!…おい菅原宗一良く聞けよ、今から貴様の名前でストーカー被害届を出すからな。」
「は?何の妄想なん、其れ…」
飄々…と云うよりは、先程の外線電話の声で完全に引いている宗一の声と、課長の声との温度差が激しい。
あの朝の機嫌の良さから一変、ハリケーンが直撃してしまった。
「ストーカーって、大体…そんな暇無いんですけど…」
「喧しい!中学時代からストーキングしくさってからに、良く飽きないな、貴様も!」
「いやそら、中学時代はストーカーやったよ?でも、今はしてないよ…。誰かと間違えてんのと違う…?」
「喧しい!俺をストーキングする悪趣味な陰湿男なんて、世界何処探しても御前しか居ないだろうか!」
「そら、悪趣味なんは認めるけど、そう云うんやったら、御前もやないか。」
「は…?俺の何処を見て悪趣味と云ってるんだ?病んでるのか…?」
三つ編みじゃないの、と全員思った。
「違う、悪趣味、の方やなくてぇ、ストーカーの方。」
「……失礼菅原先生、そんな事をした記憶、一度もありませんが。」
「…御前、俺のフェイスブック、覗いてるだろう。」
「え…?」
「あんねぇ、ばれてますよ?実害無いから黙ってたけど。そっちがそう難癖付けんなら言うよ?」
覗くなストーカー。
宗一痛恨の一撃に言葉が出ず、課長は其の儘無言で電話を切り、頭を抱えると、なんでばれたんだ?如何してばれるんだ?教えておじいさん…、と歌い出した。
ラスボスでも、何時かは倒されるのである。
「課長?課長、大丈夫ですか!?」
「何が起きたんだよ…二分で…」
課長の落ち方も凄まじいが、此の二人がそんな昔からの知り合いだとは思わなかった。
元恋人同士にしてはおかしいと思った。余程何方かが執念深いか、其れこそストーカーか、とんでもない勘違いかナルシストか。然し、中学時代からの旧友となると話は違って来る。
友達の感覚で結局連絡を取り合ってしまうのだ。
一過性の恋愛なら、別れました、はい左様なら、で済むが、友人から発展する…、此れはかなり友情の部分が占めている。友情が強過ぎて愛情にならない、或いは、友人としての方が束縛し合わず済んだ…此れ以上恋人で居れば相手其のものを嫌いになりそう、綺麗に云えば、俺に御前を嫌いにさせないでくれ、という所……其れで別れるというのは良くある…と思う。多分…、其れなりに…、あるんじゃないかなぁ…、宝くじに当たる確率で……と木島と井上は思う。
又響く電話。
力無く課長は通話ボタンを押し、老人のような声を出した。二分前、いいや三分前のマダムキラーボイスは何処に行ってしまったんだい?と聞きたい。
「勝手切んな、こっちの用件終わってないわ。橘は電話交換手じゃありませーん。斎藤に用あるなら、俺に掛けろ。…其れだけや。」
「御免…なさい…、橘さんを使って…済みませんでした…、菅原先生…」
たった其れだけで課長を此処迄轟沈させたのか?菅原と云う男、どんな威力を持って居るんだ。
以降無言の課長に宗一は鼻筋を掻き、御免、言い過ぎた、と謝った。
「もう、放っておいてくれ…」
「そんな落ち込まんでもええやん…」
「落ち込んでない…、生き恥を体感してるんだ…」
宗一の耳には、課長、課長ぉ、と異変を見せる課長を心配する部下の声が入る。煙草を咥えた宗一は静かに火を点け、其の声を暫く聞いた。
聞こえた自分の名前。
課長は、未だ繋がってたのかと電話を耳から離そうとした。
「良かったな、みぃんな、御前の事大好きで。」
宗一の一言に胸が抉られた。
だけど御前は、俺を好きじゃないんだよな…。
何も云わず電話を切った課長はデスクに電話を放り投げ、背凭れに頭を乗せた。
「課長、本当に大丈夫ですか?」
龍太郎の吊り上がった目が視界に入り、鼻腔に珈琲の甘い匂いを知った。
煙草一つでも、臭いが違うんだ。
木島の咥える煙草を摘んだ課長は其の儘一口吸い、肺の奥迄ゆっくり入れると、変な味…、と吐き出し、舌の痺れを珈琲で溶かした。
「ハイライトが良い。」
「ハイライト?買って来ましょうか?」
「馬っ鹿、違ぇよ、龍太。」
「え?ハイライトって云わなかったか?」
「違う違う。」
井上は手を振り、ハイライトは三課の課長さんが吸ってんじゃん、と一体何処で入手した情報か、龍太郎に教えた。
ハイライト…?其れって…。
紫煙越しに見える木島の目に、課長は立てた人差し指を唇に寄せた。
課長の機嫌が良い時は、決まって空が青い。ハイライトのパッケージのような、そんな青さ。 
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