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猫の憂鬱

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第3章
  ―1―

青山涼子と云う名前を検索に掛けろと八雲から連絡あり、何故、と聞く前に一方的に電話は切れた。折り返そうにも非通知で、然し宗一に掛けるのは憚られた。
「青山涼子って知ってるか?」
椅子を動かし乍ら片腕だけ乗せた格好で書類を書く井上に聞いた。
「米倉涼子なら知ってる。」
興味希薄に返事し、課長に書き終えた書類を渡した。パソコンで検索し終えた龍太郎は、青山涼子と今回の被害者雪村涼子が同一人物だと判った。
年齢は四十二歳。資料写真を見る限り三十前半に見えたが、女の年齢は金を掛ける程良く判らない。
青山涼子のウィキペディアを全て二部づつプリントアウトした龍太郎は一部をファイルに挟み、一部を課長に渡した。無言で受け取った課長はゆったりした動作で文字を追い、何時もの課長に戻った事に龍太郎だけではなく全員が安堵した。
午後四時前、傾き掛けた夕日の日影がゆったり室内に差し込み、日影と共に入る下校中の学生の声が心地良かった。
此れが何時もの雰囲気、此処二三日煩かった。
「へえ。」
青山涼子基雪村涼子の資料を読み終わった課長はそう呟き、金曜迄長いなと呟いた。
今日は水曜日である。
宗一が科捜研メンバーを引き連れ、課長の目の前に現れてから三日、一分一秒、一時間が濃厚で、一ヶ月は経った気分である。
久々に感じるゆったりとした空気に、龍太郎だけでは無く、全員の筋肉とやる気が弛緩する。
土地柄か、基本的に此の署もだが、地域全体がゆったりした雰囲気を持ち、其処に住んだり仕事をする人間もゆったりしている。学生が多いのもあるかも知れない。活気はあるのだが、何処か流れるように時間を進める。
全体的にゆったりしているのだ、此の署の管轄は。刑事もゆったりしてしまう。
「眠たいな、寝てしまおうか。」
時計を見た課長はそう呟き、本気で寝る訳ではないが、平気で云っても許される雰囲気がある。交番の巡査等、余りにも暇で寝ている時もある。暇過ぎて、巡回中、二時間戻りません、何かあったら電話して下さい、とドアーに張り紙してある時もある。奥に引っ込んだ儘誰か来ても気付かない時もある。
大体此の、誰一人交番に残さず巡回している時は、総出でサボって居るので、管轄の署(兄)か県警(親)に密告した方が良い。
一度龍太郎が最寄りの交番に行った時見事な無人で、身内しか知らない内線番号を鳴らしても、目の前の真っ白い電話が鳴るだけで、誰も出て来なかった。かと云って巡回中の札は無い。誰か居ないのか、と声を出すと、漸く奥から一人出て来、本郷さんじゃないですかー、何ですか?と見事な職務怠慢を晒した。此のお巡りが何をして居たかと云うと、奥で同僚と新作DVDを見ていた。仕事しろ、と云うと、其の仕事が無いんだもん、とまあ、そんな地域である。好い事ではあるが。
然し全く犯罪がない訳では当然無い、盗難もあるし、痴漢だってある、殺人だって。犯罪が無いなら此の署は唯の税金御殿である。
現に今も殺人が起きており、廊下からヒステリックな女の喚き声や少年達の怒号が聞こえて居る。
折角の雰囲気が台無しになった。

「煩い!黙りなさい!全く御前は!」
「離せ、離せってば!」
「痛い痛い、引っ掻くんじゃない!」

「良いからこっち来い!御前は何回来りゃ良いんだよ!親父さん泣くぞ!」
「母ちゃんだって泣くぞ!」
「何もしてねぇよ!」

微妙に変声した少年と思しき声、狂犬病にでも掛かってるのか?と聞きたくなる女の声。
其の女の声を聞いた課長は閉じて居た目を開き、背凭れから頭を離すとドアーを見た。
「なんか今、不吉な声を聞いたな。」
「ガキと女の声しか聞こえなかったけど。」
後刑事。
井上の言葉に、其の女の声だよ、と椅子から立ち上がり、大きくゆったりドアー迄歩くと、こそっと廊下を覗いた。
「一寸御前、何やってんだ。」
ドアーからすり抜けた課長に龍太郎達は視線を流し、一層喧しくなる女の声を聞いた。
「出て来んな!あっち行けよ!」
「嗚呼、良い所に…、爪で引っ掻くし、蹴飛ばすし、傷害ですよ…」
と三課課長の声。
「喧しいんだよ、御前。今度は何盗んだ。」
「女の心だよーぅ!」
「強姦か、よし、来い。」
「おおう!?違うよ、違う!同意だ!」
女の喚き声が段々と近付き、ドアーが開くと、課長にしっかり首を固定された二十歳過ぎた位の女が現れた。
漆黒の髪、真っ赤な唇、十センチ以上は身長詐称しているであろうヒール、コルセットでせり上がった胸が今にも、ぽろんでは無く、ぼろんしそうである。
目の前を通り過ぎる女の全身から、白檀の匂いがし、余りの匂いに龍太郎は鼻を撫でた。
男でも女でも、香水の匂いが駄目なのである。匂いが駄目で、部屋や車の芳香剤、柔軟剤ですら受け付けない。
「よし、来い、暇だったんだ、遊んでやる。」
「良い、良いよ!遠慮する!」
「強姦容疑だ。後、不法滞在。」
「違う!(ぼく)はちゃんとビザ持ってる!あんた知ってるだろう!」
「何処のジジイ誑かして、結婚した。詐欺だ、立派な国籍取得の結婚詐欺だ。強姦、詐欺、窃盗。御前一人で刑事課勢揃いだな。」
何時になく楽しそうな課長は其の儘部屋にある、簡易取調室に其の女を連行し、足でドアーを閉めると開かないように凭れた。
「出してぇ!」
アクリル板の向こうで女は喚き、其れを見た木島は取調室に近付いた。
其の紫色の目、忘れる筈が無い。
「ミレイ?御前、ミレイだよな?」
「……誰だ御前。」
「レズビアンバーのミストレスだよな?」
「そうだけど…、マスターで良いよ…」
なんだ、レズビアンバーとは。そんな如何わしい、男で全く無縁な場所に木島は入り浸って居るのか。
龍太郎の侮蔑する視線に、違う、東条まどかの時に会ったの、と決してそんな如何わしい店に出入りして居る訳ではない、と弁解した。
そう云えば二ヶ月前、科捜研と関わる事になった事件で、木島は女装していた筈。其の潜入先が、確かレズビアンバーだった。
此れが其の主人かとまじまじ見た龍太郎は、真横に居る井上の食い付きっぷりに愕然とした。
「うわあ、やべぇ、むっちゃ好みなんだけど。何其の猛獣みたいな態度、良いね!ピューマみたいだ!俺、ネコ科の女大好き!」
「食い付き過ぎだ、拓也。」
「御名前教えてぇ!フェイスブックしてる!?」
検索するから、とアクリル板にへばり付いた。
(わん) 美麗(めいりー)…、日本名は宗廣(むねひろ)美麗(みれい)。ミレイで良い。課長がそう呼ぶから。」
アクリル板越しに女…美麗は顔を寄せ、噛み付く仕草をした。
「漢字、漢字は!」
「フェイスブックはして無い、後彼女持ちだ。」
「がーん。何で良い女は皆ゲイで女持ちなんだ。」
「ムネヒロ…?」
美麗の言葉に龍太郎は反応した。
宗廣という此の苗字、三課課長…課長のパートナーの名前なのだ。
「そ、俺の娘でもある。なー、美麗。可愛いな、今日も。」
「そうだね、パパ。」
「あの、如何云う事なんですか?」
「此奴、彼奴と結婚してるんだよ。」
課長と其のパートナーが同棲だけで養子縁組して居ないのは知っていた、娘、と云うのだから三課課長…宗廣と養子縁組を組んで居るのだと思ったら、其れを飛び抜けていた。
「は…?」
「最初は俺が結婚してやろうと思ったんだよ、けど此奴が、絶対やだ、ダイちゃんの方が良い、って云ったから、大智(だいち)と結婚させた。生意気な。」
「関わりたくないんだもん!」
「ほぉ、パパにそんな事云うか。誰が御前の面倒見てると思ってる。」
「パパでぇす…」
左右から美麗の顔を潰し、肉厚な唇を美麗の鼻に押し付けた。
一九二センチの課長の肩に頭が来ている、ヒールと合わせ見たとしても、此の美麗という女、相当身長がある。一七〇センチはあるだろう。
ゴテゴテに化粧される美麗の顔面を舐める課長は、猛獣を愛でるムツゴロウ氏みたいであり、課長が其処迄誰かに対し無防備になる事を見た事ない龍太郎達は、正直、美麗に同情した。
愛情表現にしても、猫じゃないのだから、舐めなくとも良いだろう。
「昔は可愛かったのにな。」
「今は美しいんだ。」
「…如何かな。」
「課長!如何したらこんな美人と知り合いになれるんですか!ゲイになれば良いんですか!」
だったらなります、と井上の食い付きっぷりは尋常では無く、井上の趣味は良く判らんと全員思った。
課長と美麗が知り合ったのは五年前、美麗が十七の時で、其の出会いが、課長のバイクを転売目的で盗んだのだった。
調べたら出てくるわ出てくるわ悪業が。
パスポートも偽装では無く、密入国及び不法滞在で無かったのが、本当に救いだった。此れで偽装パスポートでの入国、オーバーステイなら洒落にならなかった、課長とて放置しただろう。
十七歳の少女が、何故態々日本の地でそんな窃盗という悪業を繰り返すのか。
本国…中国に還そうと思ったのだが、あの国に帰る位なら死んだ方がマシだ、あんな生活二度と御免だと、首にナイフを突き付け、狂言では無く本気で搔っ捌く勢いだった。
此れを放っておける課長では無い。面倒見が良いのだ。
美麗に日本国籍を与える為、最初は本当に課長が婚姻関係を結び、取得させようとしたのだが、美麗がまあ生意気で、其処が課長には可愛くて堪らないのだが、美麗が嫌がるなら仕方がない、パートナーの宗廣と結婚させた。
二十歳も年が離れる、誰が如何見て国籍取得の為の結婚にあっさり従う宗廣も宗廣でおかしい。其れで貴方の気が済むなら戸籍の一つ位貸しますよ、どうせ私バツイチですし、とあっさりだった。
婚姻に依って国籍を取得する場合、三年以上の婚姻関係と三年以上の滞在で帰化を認められるのだが、此の審査条件に“善良な素行”が入っている。
善良な、素行…。
不安ではあるが、此の五年、警察の世話にはなって居ないので大丈夫……かも知れない。
税金だってきちんと払っている、課長が。宗廣美麗名義の口座に金を置き、其処から全て引き落としている。勿論、美麗が引き出せないように通帳もカードも銀行の貸金庫に入っている。
其処迄して貰っているのに、結婚するなら大ちゃんが良い、なので美麗の性格も窺えるし、課長も救われない。宗廣は名前を貸しただけで、美麗の生活を見るのは課長、何一つしていないのだ。
尚、中国に於いての結婚年齢は女子二十歳なので、三年半経ったら日本国籍を取得し離婚する、と双方で決めている、なので此の婚姻関係も後一年あるかないかである。
こう見ると課長が不憫でならないが、本人は至極満足している。秀一にもセグウェイを買い与えたりと、根がパトロン気質なのだ、課長は。
仕方がない、課長はリッチなのだ。とんでもなく金持ちなのだ。
脚長おじさんなのだ。
「課長って、バイなの?」
木島の疑問は最もで、女にはかなり持てるのだが完全なるゲイだと周りは思っていた。
「バイ、では無い。女と寝れん事も無いが、好きにはなれないから、ゲイだな。」
「我と一緒。」
「なー。」
美麗の肩に腕を流し、頭同士をくっ付けた。
「俺、女の子が大好きなんだよ。特に一桁。一桁の少女は良いぞ、可愛い。」
「…バイじゃん!」
「恋愛感情でじゃなくて、愛でる対象で好きなんだ。少女は美しい、気高くて、危なかっしくて、生意気で、其れで居て強い。女に興味は無い、少女が、好きなんだ。」
格好良く自論を展開したが、詰まりロリコン…変態だろう?
上司の変態加減をはっきり知った龍太郎は目元を隠し、美麗の額を舐める其の行為を見ないようにした。
「なあ、もう帰って良い?」
「何盗んだ。」
「何も盗んで無いって。」
「何で彼奴にしょっ引かれてた。」
「学校行ってないから。」
「行けよ。学費高いのに。専門だろう、サボったら一発でアウトだぞ。」
「内容詰まんないもん。」
「御前がプログラミングの学校行きたいって云ったんだぞ。」
「あんな幼稚な内容だと思わなかったんだもん!」
そらなぁ、と課長は腕を離し、取調室を出ると三課への内線を押し、引き取りに来て貰った。
「全く御前は、余り困らせるんじゃない。此の方も忙しいんだ。」
「へーい、へい。」
引き取りに来た宗廣も、一七八センチとまあまあ身長は高い方であるが、美麗の頭は並んで居る。
「ほらいらっしゃい、俺も忙しいんだ。御前みたいな窃盗犯が多くて。」
「もう、何も盗んでないだろう!?」
「俺の車の鍵、何処やった。プリウスのだ。本体も見当たらない。」
「ん?何の事?」
すっとぼける美麗に課長は額を押さえ、出せ、と指を動かした。
「クラウンじゃないだけ、有難く思ってよ。」
何処に鍵を隠し持って居るのか、尻ポケットに手を突っ込むような動作で美麗はスカートの下に手を突っ込み、其処から鍵を出した。
形の良い臀部がぷりんと現れ、なんとショーツはTバックである。誠眼福有難う御座います美麗様、と井上を筆頭に若い刑事が一斉に柏手を打ち、拝み倒した。
生暖かい鍵を受け取った宗廣は顔面を引き攣らせ、何処に仕込んでたんだ?と聞いた。
「秘密。」
「本体は…?」
「其れは探して。あの大きさは我の乳でも隠せないから。」
「プリウスだったから良かったもの…」
「本当はフーガの鍵探してたんだ。でも見付からなかったから、プリウスにした。クラウンは流石に、大ちゃん出勤で使うし、可哀想だと思って。」
「此の方の所有物に手を出すんじゃい…!」
「良いじゃん、如何せ乗ってないんだから。無駄だよ、無駄。何で持ってんの?」
最もである。
課長と云えばバイク、そう思うだけに、車のイメージは無かった。色は想像出来るが。然もフーガ、屹度純白、実物を見た事無いが、想像すると似合い過ぎて洒落にならない。加納のベンツより似合う。
実際課長が車を運転しているのを木島ですら見た事がなく、車所か免許を持っている事に驚いた。持っていないと思っていたのだ、全員。
雨の日だって、宗廣の車で出勤する癖に。
美麗の言う通り、本当に無駄である、バイクも三台、無駄に持っている癖に。
「なんだ、あのフーガ欲しいのか?」
ポケットからキーリングを出した課長は、五本ある内の一本…フーガの鍵を外した。
「え、くれんの?頂戴頂戴。」
猫が玩具に飛びつくように美麗は両腕を伸ばし、其の身体をしっかり宗廣に固定された。
「二百万で売ってやる。」
「ばーかばーか。そんな大金あるか。」
「来年の三月、きちんと卒業したらやるよ。」
課長は意地悪く笑い、又キーリングに嵌めるとポケットに仕舞った。
「えー、今頂戴よぅ。乗らない癖に。カーセックスする為に持ってんの?」
「下品な事云うな。一応お嬢さんだろう。バイクで運べん荷物運ぶ時に使ってるんだよ。」
「一寸待て美麗。若しかして、プリウス持って行ったのって…」
宗廣の唇から色が無くなり、反対に真っ赤な唇が吊り上がった。
慌ててポケットからプリウスの鍵を取り出した宗廣は、二度と返さなくて良い、と其の赤い爪でしっかり握らせた。
「有難う、パパ。だぁい好き。」
切れ長の目を弓形にした美麗は其の儘課長に向き、鍵を肉厚な唇に押し付けた。
「ねえ、其のブルガリのキーリング、欲しいんだけど。」
詰まり此れは、窃盗予告。
美麗の“欲しいんだけど”は、遠回しの“盗むから”である。
キーリング所かバイクの鍵、だけなら良い、本体迄盗まれるの察知した課長は慌ててポケットから鍵を取り出し、全ての鍵を外すと美麗の手に置いた。
「謝謝。」
大きく眉を吊り上がらせた美麗は、鍵をセットすると見事な谷間を見せる胸に押し込んた。
「ほら、帰るぞ。…お邪魔しました。」
「又ねぇん。」
宗廣に背中を押される美麗は、口を鳴らし乍ら辺りを見た。
紫色の瞳、はっきりと龍太郎を捉えると口角を吊り上げ、部屋を出た。
「一寸待て。」
聞こえる美麗の舌打ち。
大股で美麗に近付いた課長は美麗を壁に押し付け、両腕を頭の後ろで固定した。
「本郷。」
「はい?」
「自分の全身調べろ、絶対何か取られてるぞ。」
片足で美麗の足を開いた課長は、美麗の全身という全身を検問し、ジャケットの内ポケット、スラックスのポケットに手を突っ込んだ龍太郎は、ある筈の固形物が無い事に気付いた。
「何時盗った…」
「何盗った、美麗!」
「ビーエムの鍵…、痛いたい…」
「出せ!」
「ガーターのトコ、何でばれたんだ…」
「御前が男に色目使う時は、仕事が終わった時だろうが!」
頭を壁に押し付けた儘スカートの下に手を入れた課長は、云われた場所から車の鍵を取り、しっかりと龍太郎に渡した。
「油断も隙も無いな。」
「済まん、本郷…、何と詫びて良いか…」
「酷い…」
何時盗んだかは判らないが、其れはまあ良いとして、隠し場所。
谷間なら未だしも、スカートの下…。
此れが井上なら舐めて有難がるかも知れないが、生憎龍太郎は有難くない。
癇癪玉が、爆発する所かショックで萎んだ。
鍵を握り締め崩れ落ちた龍太郎を見た木島は、御前良い奴だな、と龍太郎にダメージを与えた美麗を褒めそやした。 
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