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猫の憂鬱

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第2章
  ―6―

妻の名前を何処かで聞いた事あるなと考えていた時一は、自分の患者かな、とカルテを調べてみたが、そんな患者名は無かった。一字違いの患者なら居た、なので其の患者と混同したかな、と思った。
然し、此の英語の筆記体、絶対に何処かで見た事があるのだ。
「何処だったかな。絶対に見覚えあるんだよ。」
何度か見た事がある、其れも身近な所で。
思い出せない気持ち悪さに喉元を掻いていた時一は、ありました、と聞こえた侑徒の声に向いた。
「あった?何が?」
「雪村涼子ですよ。旧姓、青山涼子です。」
「青山、涼子…?」
侑徒の開くパソコン画面に食い付いた時一は、続けて自分の電話を見た。
「此れだ…」
時一のロック画面、其処にはソマリを抱いた少女が居る。ロックを解除した時一は画像フォルダーを開き、画像を一覧した。
「青山涼子…、嘘だろう…、え!?嘘でしょう!?」
「有名な画家みたいですね、彼女。」
青山涼子のウィキペディアを眺める侑徒は呟き、専用フォルダーを作る程彼女のファンだった時一は、まさか此の妻が青山涼子とは思わず、床にへたり込んだ。
「え…?青山涼子が、死んだ…?え…?」
「青山涼子、かっこ、本名、雪村涼子、かっこ閉じるってありますね。」
「云わなくて良いよ!」
ショックで吐きそうだから、と放心する時一を気に留めず侑徒は説明を読み続け、“父親は日本画家の葵早雲、配偶者は建築家の雪村凛太朗である”とあり、父親の葵早雲と夫の雪村凛太朗にもリンクが繋がっている。
ショックに震える指で時一は自分の妻に“青山涼子が死んだ”とメールした。一分程で“冗談でしょう?”と返事来たが、冗談であればどれ程良いか、落胆した。
「ウィキペディアに載る程有名な画家なのに、ニュースにならないんですね。」
何故だろう、と説明を読み続けていると、此の“青山涼子”たる画家は、八年前に筆を折り、二年前に結婚している。
「彼女の拠点はドイツなんだよ。」
「嗚呼、説明にありますねぇ。」
筆を折った八年前に日本に帰国し、其の後一切世間には出なくなった。其れでも二年前の婚姻を書いてあるのだから、熱狂的なファンが居るのだろう。
作風の説明を読むと、彼女は大の猫好きで、特にソマリを好む傾向があり、初期から一貫して此の猫を描いている、とある。説明画像にも本人の写真では無く、関連画像として描いたソマリが映っている。

彼女が人生で過ごした猫の数は、父早雲も猫好きとあり、把握しているだけで三十匹は超え、拠点を置いていたドイツのアトリエ兼自宅は最早猫屋敷であった。最大同時飼育数は九匹で、「十人子供が居るの、人間の子供は一人だけどね」とインタビューで云った事もある。
尚、猫並に好きなのがよもぎ餅である。

其処迄猫が好きか、と侑徒は頷いた。
「此の、青山涼子のお子さん、今何処に居るんですか?」
「死んでるよ、八年前に。」
だから筆を折り、日本に帰国したと時一は説明した。
「死因は?病気ですか?」
時一は視線を逸らし、ショックだからもう何もしたくない、と自分の席に座った。


*****


「何で病んでるんや、此奴。」
世谷署から戻った宗一は、此の世の終わりのように落ち込む時一を見、侑徒に聞いた。
「離婚されたか。」
「冗談でしょう、珠子(たまこ)さんと僕は仲が良いんです!」
「じゃ、珠子が浮気したか。」
「そんな事する女性じゃない!」
「じゃ、恵御(めぐみ)が又病んだか。今度はどっちや、食べへんの。」
「其の事には触れないで…」
時一の娘、恵御は少し困った事に、三年前に摂食障害を発症している。治っている、と時一は断言するが、二三日前娘と会話した時、食べるのって面倒ね、ファーティ、と時一を戦慄させる一言を呟いた。
君は太ってないよ、何かあった?と聞くと、食べる時間が勿体無いの、勉強が追い付かないの、と時一を安心させた。授業内容に付いて行く為勉強せねばならず、其の為、食事をする時でも教科書を開いていたら、母親…妻の珠子から、食事に集中しなさい、と云われ、食事メンドクセ、になった。

――進学クラスになんて行くんじゃなかった!ねぇファーティ、何で食べるの?何でお腹が空くの!?
――頭を使うと余計に糖分を欲するんだよ。飴でも舐めてたら?…あ、違う、今のは聞かなかった事にして。

君は其の儘食べなくなる可能性高いから、と云う前に、パパナイス、と食べません宣言をした。
然しまあ此れでも改善した。昔は飴玉食べさすにも無理矢理に口を開け、放り込み、顎を固定するしかなかった。五百グラム増えたわと云っては時一に八つ当たりし、三十四キロの君が五百グラム増えた所で何の問題も無いから、寧ろ後五キロ増えても問題無いよ、と必死に宥めた。

――私なんて四十五キロよ、如何したら良いの。
――ムッティは細いの!
――如何見たって君の方が細いよ…

そんな状態の娘だったが、好きな男の子に、御前細過ぎてキモイ、何其れ、頭でかくて目もでかくて手足細くて…御前グレイ?、後十キロ太ったら付き合ってあげる、細い女の子好きじゃないから、と云われ、どれ程其の男の子に時一は感謝したか。然し何故か四十キロ台になった筈なのに、付き合って貰えなかった。其の男の子は違う女の子と付き合って居た。
其の男の子と一緒のクラスになりたいから進学クラスに行ったのに。

――あんまりよ、ファーティ…、酷過ぎる…、勉強も酷いわ…
――大丈夫、君は珠子さん似で可愛いから、男が放っておかないよ。
――じゃあ何で彼氏居ないの?私。私だけだよ、彼氏居ないの…
――作っちゃ駄目。絶対駄目!自分を大事にしなさい!
――ファーティ煩い。
――煩くありません!
――うるさーぁい。バイバーイ。

回線は一方的に切れ、接続の切れたパソコン画面に時一は怒鳴っていた。其れが本の二三日前の出来事で、時一の落ち込み加減、そうかそうか、と宗一はニヤついた。
「恵御に彼氏が出来たんやな?」
「其の男を殺す。病気でっち上げて、一生隔離してやる。」
大きな目を一層大きくし宗一を見た時一は無表情で威嚇した。
チャットを知らせる音がし、見ると発信者は娘であった。まさか本当に、彼氏が出来た報告でもしに来たんじゃなかろうかと時一は恐る恐る繋いだ。
「如何したの。」
「ムッティになんか云った?例えば、別れよう、とか。」
「…そんな事は云って無いし、此れから先、云う予定も無いから安心して良いよ。墓迄、来世迄一緒だから。」
「じゃ、何でこんなに落ち込んでんの?」
パソコンを持った娘は移動し、ソファで放心する母親の横に座った。画面からでも妻の顔色の悪さは判り、珠子さん大丈夫ですか?と聞いた。
「絶望よ。」
例え作品が出無くとも、又ふとした拍子に、例え何十年後でも良い、筆を持ってくれるのを期待していた妻は、一生其れが叶わぬ絵である事に放心していた。
最初に青山涼子を好きなったのは此の妻で、無名時代の彼女に、一度描いて貰って居るのだ。もう、十五年も前の話である。
彼女の絵は、写真と漫画の中間と云おうか、漫画みたく非現実的な絵では無く、だからと云って人物画みたくはっきりきっかりした絵でもない、依り人間に近く描いた漫画タッチ、こう云えば良いだろうか。
だから、画家、というよりはイラストレーターと表現した方が正しいのかも知れないが、きちんとした絵も描くので画家の扱いになっている。
因みに時一の電話のロック画面、猫を抱いた少女の絵、其れは正に十五年前無名の彼女が描いた妻の絵である。縦三十センチ、横二十五センチの小さな物だが、其の小ささが飾るのには丁度良かった。
余りに大きい肖像画を飾るのもナルシストだと思われるし、何処の貴族だ、ともなる。
「何で死んだの…?」
妻の呟きに、本当の事を云うべきか。
時一は画面から目を離し、自殺です、そう云った。
「そう…」
「珠子さん、又後で、話しませんか?」
「良いわ、大丈夫。恵御を学校に送るわ。」
日本とドイツの時差は約八時間で、今は三時前、ドイツでは朝の七時である。だから娘が居たのか、と納得した。
「ムッティ、お腹空いたわ。」
「シリアル食べなさい。ロッテー。」
「はい、奥様。」
「悪いけど、恵御を学校に送ってくれるかしら。此の儘運転したら事故を起こしそうだわ。」
「ロッテ、僕からもお願いします。」
「あら、先生。グーテンモルゲン。」
「日本はグーテンタグだよ、グーテンモルゲン。」
うふふ、日本って遠いですわねぇ、と手伝いは顎に指を置き、大きな目を楽しそうに動かした。
「いってらっしゃい。勉強頑張って。」
「ファーティも頑張ってねぇ。」
娘は手を振り、回線を切った時一は背凭れに頭を乗せ、足を伸ばした。タイを緩め、煙草を咥えると宗一が火を点けた。
今の会話、理解出来たのはドイツ語をセカンドランゲージにする宗一だけで、侑徒にも判って居ない。
其の状況が判るからこそ、宗一は敢えてドイツ語で聞いた。
「なんか問題起きた?」
「問題は無いよ、あるとしたら、今回の被害者かな。」
「雪村涼子?」
「彼女の旧姓は青山涼子。」
「え、嘘。」
「本当。さっき橘が調べた。」
ほら、と電話で検索結果を見せ、見た宗一は、ほんまや、と口元を押さえた。
「雪村涼子って、青山涼子だったのか…」
其れは珠子もああなる、と妻がどれ程青山涼子を好きか知る宗一は頷いた。
「敵わんな…」
「でしょ。」
「息子と同じ死に方じゃないか…」
時一は首を動かし、無言で宗一を見、又向こうに向いた。
じっと聞いていた八雲はそっと部屋から出、横にある喫煙室に入ると煙草と電話を取り出し、火を付け乍ら電話を発信した。
五回の呼び出し音、一息着く時間はあった。
「はい、本郷です。」
「科捜研の斎藤です。」
煙草を口から離し、煙を吐いた。
「嗚呼、斎藤さんか。如何しました。」
「青山涼子、検索掛けて。おもろいもん、出るよぉ。先生ぇには内緒よ。」
其れだけ云い八雲は電話を切り、何、折り返し等無い、非通知であるから。
ポケットに電話を仕舞った八雲は硝子張りのドアーに向き、廊下を眺めた。
「御前を蝋人形にしてやろうかぁ!ぐははははは!」
セグウェイに乗った秀一が目の前を通過し、何で聖飢魔II、と眉間を掻いた。瞬間宗一の、其れ以上閣下を愚弄するなら、蝋人形になるのは貴様だ!と云う怒号が聞こえた。 
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