歪んだ愛
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第3章
―2―
「久し振りじゃないか。」
黒髪に真紅の口紅を付ける女が微笑み掛ける。三十人は入れる程度の店構え、床には赤い絨毯が敷かれ、間接照明の中では黒く見える。テーブル席のソファでは数人の女達が肩を寄せ、アルコールで中和された欲望と理性を見せる。
「ジンフィズ。」
「機嫌悪!」
「当然でしょう!?警察に監視されてたんだから!」
此の一週間、何処に行くにも後ろから警察が付いて回った。巻こうと何度も思ったが、面倒臭さの方が勝った。
付いて来たけりゃ付いて来りゃ良いさ。
そう思う事にし、一週間生活していた。昨日漸く、担当刑事が監視を解いた。
嵌められてるのかな…?
怯えつつ家を出た。
気配は、無い。
本当に監視が無いんだと思った私は浮かれ足で夜の街を飛んだ。
「監視って…、何したんだよあんた。」
「知らなぁい。」
「身に覚えもないのに国家にマークされるか…」
出されたジンフィズを一気に半分飲み干し、カウンター隅に座る女に目を向けた。
猫が人間になった様な…そんな姿をした女。
「綺麗な髪ね。」
話し掛けると女はビクっと肩を揺らし、黙ってビールを傾けた。
後ろのソファ席では、一夜限りの快楽を求める声がする。
「あはは、可愛いー。」
「一見さんなの、怯えさすな。」
「名前何?」
「…ミユキちゃん。」
「ミレイには聞いてないー。名前通りだね。白くて綺麗、白雪姫みたい。美しい…雪…?」
こくんと頷き、向いた顔、本当に色が白くて、綺麗な黒髪、青いカラーコンタクトが違和感無く合って居た。大昔に見たアニメーションの…いいや、原本で想像するスノーホワイトが本の中から飛び出したみたいな女だった。
私と変わらない二十代半ばか、三十前後のキャリア系美人…。
二十代前後の若い子は苦手。話が合わないのもあるし、考え方が少し幼稚。
ていうか、細…。めっちゃ細いよぉ…。
じっと私を見る、初めてで緊張してるのかなと思い、名乗った。
でも、待って…。
私、此の目を、知ってる…、…昼間に見た、気がするの……。
貴方は、ダレ……?
ミレイの真紅の唇が、耳迄避けた、気がするの…………。
*****
「嫌ぁあ!嫌あああ!絶対に嫌だ!」
課長に羽交い締めにされる和臣は、声帯が潰れる程、いいや潰す勢いで叫び続けた。何度も噎せ、叫び、叫んでは噎せた。
「御前しか無理なんだって。」
「何で毎回毎回こんな役柄なの!」
「何でって、御前が一番小さいからだよ。」
嫌がる和臣を見る加納は笑いを堪え、井上はざまあみろと喜ぶ、本郷は並ぶ洋服を見て居た。
「顔なの!?顔で選ばれてるの!?」
「も、あるし、御前が人一倍チビだからだ。」
「そら男からして見たら低いけど、女で見たらデカイよ!」
「其れが良いんだろう。背の高いフェム系は一番人気だ。って、知り合いのダイクが云ってた。」
スーツのジャケットを脱がせる課長に加勢する井上、スルスルとタイを外しベルト迄外した。今後何かの強請りに使えるかも知れないと加納は電話を取り出し、其の様を動画に収めた。
「加納!」
「ふふ、面白い。」
「加納さんが選んだミニスカート履かせましょう。」
「ふざけるなよ本郷!」
秋葉原の地下アイドルにでもする気なのかと聞きたい悪意に満ちた服のチョイスに和臣は嫌悪を示し、スカートならせめてミディアムにして、と頼んだ。
「煩いな。じゃあ此れ。」
「やだ、其れやだ。」
「じゃあ、此れは?」
「やだ!」
「面倒臭いな…」
中途半端に服を剥かれた和臣は、偉そうに仁王立ちし、服を選ぶ本郷に文句垂れた。
半裸の状態で何云ってんだよ、と本郷は思うが、本郷が選ぶしかない。
井上が選んだ服は遊び慣れた風で、加納が選んだ服は矢鱈ロリータファッションだった。本郷が選んで来た服が和臣の好みに一番近く、アレやだコレやだと云われ服を選ぶ本郷の姿は甲斐甲斐しい彼氏に見える。
「此れは?」
「そうだそうだ、モード系かコンサバ系だ。」
「パンツスーツにスカーフ…、モロですよ。いや、大好きですけどね、コンサバ系。ニーハイにミニスカートにしましょう。髪はツインテールで。」
「十代女子高生のコスプレする気は無いんだけど。」
グイッとズボンを引かれ、カシャリと不吉な音がした。井上の携帯電話の画面を見る加納は、和臣の下着に目元を隠した。
「なんて物見せるのですか…、落ち様の無い視力が落ちました。失明寸前です。」
「ホモ掲示板に載せとこ。自分処女っす、優しい兄貴募集っす、的な文面で。」
「自分処女っすけど兄貴の玩具にして欲しっす、兄貴の精液でドロドロにして下さい、も入れとけ。」
便乗するのが課長である。
「遊んで無いで真面目にして下さいよ…」
和臣に靴を履かせ、バランス大丈夫ですか?等と聞き、ワイシャツを整える本郷が、一番奇妙であるのに一番信頼があった。
「木島さん細いな…、スカートの方が良いかも知れん。」
「女に見えれば何でも良い。」
「あー、そうか。如何しよう、木島さん本当細いな…、喋ると余計喉仏が動く…。首隠すか…」
エルメスのスカーフ等、女に送った事も無ければ自身の首に巻いたのも初めてだった。其の肌触り、指滑りは極上で、高級な猫を撫でて居る様。高い筈だ、と今一度触れた。
因みにスカーフは、東条まどかの私物だ。
夏樹と会った翌日、ゆりかの保護を解除すると課長が云った。夏樹に的を絞っていただけに課長の落胆加減は半端無く、一旦ゆりかを泳がせてみる、そう云った。
ゆりかが警察に監視されて居るとなるとストーカーは動かない。其れを期待して監視を解いたのだが、動いたのはストーカーでは無くゆりか本人だった。
偶々帰宅していた生活安全課の担当刑事が夜の十時位にゆりかを見たと翌日…詰まり今朝報告しに来た。
何処に居た、と聞くと、駅とは逆の方向に向かって居た。少し気になったので後を着けると、飲み屋が入るビルに入って行った、其処で見失ったのでもう後は着けず帰宅した。
そう刑事は説明し、動いたのは和臣だった。
昼頃ゆりかの様子を見に行き、監視のあった一週間問題無かった聞いた。ゆりかは静かに首を振り、思い出した様に、何かに使えるかもしれないので、とまどかの携帯電話の番号を渡した。其の場で掛けてみたが矢張り無機質なアナウンスが流れるだけだった。
――御茶、淹れて来ますね。
――其の間、まどかの部屋、見てて良いか?
――良いですよ。
まどかの部屋は、初めて見た日と変わりなかった。クローゼットの中以外は。
初めて見た日は乱雑に収納されていたクローゼットの中が綺麗に整頓されている。袋に入った侭の服やバッグがきちんと袋から出され、袋は畳まれていた。
何でこんな事したんだ?
和臣の疑問に重なる加納の声。
机にあった筈の写真が無くなっていた。
――あれ…、此れ、何でしょうか。
ベッドの下から少しだけ見える布地に加納は気付き、引き摺り出すと其れはスカーフだった。
――此れ、前に来た時ありました?
あれば確実に気付く。
現に加納が気付き、其れに、初めてまどかの部屋を見た時、此のベッドに夏樹が座ったのだ。スカーフの端が見えていた、少し横に。
だからあの時此のスカーフがベッドの下にあれば確実に気付き、出していた。
クローゼットを整理する時、落ちたのか?
そう思ったが、紙袋迄きちんと畳むゆりかの性格からして、落ちた事に気付かない筈が無い。
見付けたスカーフをジャケットに仕舞った時、見ていたかの様にゆりかの声が飛んで来た。
――御茶、入りました。
――…嗚呼。
写真の事を聞くべきか。
沈黙の後、先に口を開いたのはゆりかだった、写真の場所が気になるんですよね?と。
写真はゆりかの部屋にあった。其の前に、和臣が前に渡したミニブーケが少し枯れた状態で添えられていた。
――そう云えば、御前は普段、何してるんだ?
応接室に通され、紅茶を飲む和臣は其れとなく聞いた。
――何もしてませんよ。
――夏樹さんと会った時、色々聞いた。
――…何を?
白いカップで口元を隠すゆりかの目は、強烈な嫌悪を和臣に見せた。
――夏樹さんが、無職なら事務所戻って来てって。
――嫌です。
――何で?
――私、あの事務所嫌いなんです。
嫌いなんです…。
はっきり云ったが、大学を卒業する迄一年半働いて居た。
嫌いなのに一年半も働くのだろうか。
弁護士でもなんでも無い、何時でも辞められる状況にあるアルバイトなのに。
――本当は夏休みの間だけの予定だったんです。でも所長さんが、大学卒業する迄居て欲しいって。
だから仕方無く、大学三年の夏休み時期から卒業する三月迄働いた。
――何で辞めたんだ?
――嫌いなんです、弁護士。
――え?…法学部、行ってたのに…?
――其処迄知ってるんですか、夏樹御喋りね、だから嫌いよ。
――丁度待て、御前、夏樹の事嫌いなのか?
静かにソーサーを置き、小さな膝小僧に両手を乗せるゆりかは、大きなフレンチ窓に向いた。
――逆に聞きます、木島さん。何で好きになるんですか?理由が無いです。
此の返答には加納も困った。
好きになる要素は判らないが、嫌う要素も無い。
端正な顔立ちで、清潔感もあり、背は其処迄高く無いが、性格に問題も見当たらない。
夏樹を見て不愉快を覚える人間は先ず居ないだろう。
なのに何故ゆりかは此処迄夏樹を嫌うのか。妹のまどかは一週間一緒に居ただけで惚れ込んだと云うのに。
――弁護士って本当最低。人の不幸で仕事してるんだから。
ゆりかの硬い声は、夏樹と云うより、弁護士と云う人種に向けられている様感じた。
――父の職業、知ってますよね?
――嗚呼、弁護士、だろう?副都知事の顧問弁護士だよな?
――ね、弁護士。本当、嫌い…
其の嫌いな弁護士の父親の御蔭でこんな高級住宅街に住めてるんじゃないのか、二十六にもなって嫁にも仕事にも行かない娘の面倒を見ているんじゃないのか、…心の中で止めた。
云っても無駄だろうと。
――又、其れは随分と勝手な言い分では御座いますね。
何の考えも無しに言葉を出すのが加納だ。案の定ゆりかの整う目は吊り上がり、然し、黙って居た。
――帰るな。なんかあれば、連絡しろ。
険悪な空気を払拭する様に和臣は笑って立ち上がった。ハッとしたゆりかも釣られて笑顔で立ち上がり、玄関で細長い箱を和臣に渡した。
――ん?
――ブーケの御礼…と云うより、おめでとう、木島さん。
――何が?
――誕生日…ですよね?乙女座…
――あ、嗚呼。嗚呼な、あはは、有難う。
――ネクタイです。あ、着けてあげます。
――え?
中途半端に靴を履いた状態の和臣に構う事無くゆりかは締められるタイを解き、あっさりと締め直した。困惑する和臣と笑いを堪える加納等気にもせずゆりかはニンマリ笑う。解いたタイを箱に仕舞うと手を振って和臣達を見送った。
和臣達がゆりかの所に居る間、生活安全課刑事から聞いた情報を基に、ゆりからしき人物が入ったとされる店を探した。
ビルはもう割れている、なので其のビルに店舗を構える店を全て調べ、女一人が気兼ねなく入れる店を見付けた。
――よお、ミレイ。報酬十万、頼まれないか?
――生憎ホモの言う事は聞かん。
――御前の店に、此の女、常連で居ないか?
――聞けよ、人の話。日本語通じないのか?
送り付けた二枚の写真。
――化粧の濃い方は判らん、が、もう一枚の女は常連だ。週一で来るよ。
――昨日来たか?
――昨日?昨日は来てないね。
――謝謝。
其処から凡ゆる情報を引き出した。
戻った和臣は瞬間課長に掴まり、特殊任務だ、其の一言で逃げ出した。署内を逃げ回ったのだが五分程で本郷にあっさり捕まり、そして、此の状況だ。
「もう逸そボイ路線は、龍太。其れだと胸が無くても問題無ぇだろ。」
顰めっ面の和臣の後ろで井上が云う。
「そしたら唯の木島さんだ、元が中性顏だから。」
其れもそうか、と和臣が被る予定のハーフウィッグに櫛を通した。
「なあ、此れ巻く?」
「木島さんは輪郭が細いからストレートの方が似合うだろう。」
「失礼するよー。」
髪の真ん中半分を上に上げ、其処から腰程迄あるハーフウィッグを井上は付けた。
整え、鏡越しに見た井上はたった一言、何で御宅女じゃねぇの?女だったらマジどストライクなんだけど、と鳥肌ものの言葉を寄越した。実際和臣の全身と云う全身は粟立ち、毛迄逆立った。
「股閉じろよ…」
スラックスの上から膝上のスカートを履く和臣に課長は云う。
「閉じない…」
「何で。」
「ヒールでバランス取れないのと…」
スカートの下からスラックスを脱ぎ捨て、ワイシャツを脱ぎ乍ら云った。
グレイのペンシルスカート、トップスは青をベースにするスカーフに合う様、グレイと水色を混ぜた様な色のVネックのニットシャツにした。
此れに黒のジャケットとパンプスだ。
上から煌びやかに、下に連れシックに……本郷の見立てに文句の言い様が無かった。オマケにヘアは漆黒のストレートだ。
アイラインをキツ目に引けば良いだろう。
「此れ以上は…無理です課長…」
「幾らコンサバキャリア系でも、股広げてたら台無しだろうが…」
限界迄閉じるが、男と女、基本的な構造、唯一の違いがパンプスとのバランスで仁王立ちになってしまう。
「俺…男だよ…課長…」
「嗚呼、な…。納得した…」
女の股座には無い固定物。
「然も俺、人一倍デカイんだよ…」
女が股を開かず、難無く交差させ立てるのは、支点である股に障害が無いから。男がガニ股…立つ時足を無意識に広げるのは障害物があるから。
「タイトなスカート履いてんのに、何で尻がゴワゴワしてんだ?」
井上の疑問。
「さっき写真撮ったろ、見てみろよ。」
見たくは無いが、だったら何故撮った、本気で載せる気かと云う疑問はさて置き、確認した井上は理由に頷いた。
「ボクサーに変えたら。」
「無理無理無理。其れでペンシルスカートなんて履いたら一発でバレる!」
必死の和臣に、デカイと大変ね、と冷静な視線を流した。
「龍太。」
「バルーンスカートにしましょう、そしたら大丈夫です。…多分。ロングブーツにします、脱いで下さい。」
此の時点で疲れ切った和臣は、パーテンションの裏に行く事もせず其の場でスカートとパンプスを脱いだ。
瞬間上がる悲鳴。
「変なもん見せんなよ!男のパンツなんか見たって嬉しくねぇよ!」
「oh…」
「ジーザス…」
脱ぎ捨てられたスカートを和臣に投げ付ける井上、絶望の表情で目元を隠す本郷、加納に至っては眼鏡を速攻で外し外方向いた。
「課長にサービス!」
「え?嗚呼済まん、何だ?」
加納と同じに眼鏡を外し、レンズを電灯に当てる課長は、一瞥も向けない。
「もう良いです…」
スカートとロングブーツを履いた和臣は姿見の前で仁王立ちし、ゴールドのバックルを腰に巻いた。
「此れでばれたら死のう。」
「大丈夫、あの店は間接照明しかないし、ばれたとしても女装癖のある変態刑事のレッテルが貼られるだけだ、問題無い。」
「大問題だね。」
課長の言葉を適当に受け流し、此れで良いか、とスーツに着替えた。トランクに必要な物を全て詰め込み、署を出た。
署から車で二十分の場所にある十階建てのマンション、1003の番号を押した。
掠れたソプラノ、観葉植物が左右に置かれるエントランスの自動ドアーが開き、エレベーターに乗った。
「いらっしゃーい。」
ドアーと共に花の匂いが和臣の花を擽った。
出勤前だからかジーパンとTシャツ姿の雪子、化粧も薄く、此れは此れで良いじゃないか、と和臣は思った。
通されたリビングには馬鹿でかいメイクボックスとアクセサリー、姿見が並んでいる。
リビングなのだが、あるのはコーナー型のソファとテーブル、生活感が余りない。リビングにある筈のテレビが無いのだ。
「テレビが無い家ってのも不思議だな。」
カウンターキッチンで珈琲を淹れる雪子は、映画しか見ないから、とカウンターキッチンから矢鱈離れた場所にあるテーブルにカップを置いた。
そうか、空間が多過ぎるのか。
本来ならカウンターキッチンの前にダイニングテーブルが置かれる広さだが、其処は何も無い。
「リビングで生活しないのよね。」
人が来た時しかリビングは使わない、寝室でしか生活しないから本当無駄よね、と2LDKの間取りに笑う。
「無計画じゃないわよ?借りた時は用途があったの。」
「男諸共用途も無くなったか。」
「後、通帳も一つ無くなったわ。」
からからと雪子は笑い、和臣の持って来たトランクを開けた。
顔全体で知る雪子の柔らかい指先、鼻先で呼吸する度花の匂いがし、手が動く度香水の匂いがした。
向かいのマンションに反射する夕日がリビングに差し込む。
「あ、カーテン引くわね。」
ずっと目を伏せた侭の和臣に気付いた雪子はカーテンを引き、振り向いた唇に和臣は自分の唇を重ねた。
「嫌ね、此の猥褻刑事。」
移ったグロスを親指で拭い、ティッシュで拭くと髪に触れた。
時間にして一時間、夕日はもう沈んでいた。代わりに向かいのマンションはちらほらと蛍の様に明かりが点く。
「此れで終わりよ。」
イヤリングを嵌める指が耳から離れた。付け睫毛の感触を下瞼にしっかり教えた和臣は目を開き、姿見に映る自分に腰が抜けた。
「か…母さん…!痛…!」
姿見に映る姿は母親そっくりで、逃げ様と引っ込んだが後ろにあるソファに引っ掛かった。
ソファにしがみ付き、怯えた目で鏡を見る和臣に雪子は笑い、私も支度しよ、と寝室に入った。五分程でイブニングドレスに着替えた雪子が寝室から出、メイクボックスの前に座ると瞬く間に化粧を終えた。
「あ、そうだ。」
雪子の黒髪碧眼に思い出した様和臣は、カラーコンタクトの入るケースをスラックスのポケットから取り出し、嵌めた。
「課長、準備出来た。」
ジャケットに袖を通し乍ら課長に電話する和臣を雪子は盗撮し、電話中の課長に送った。メールを受信した事に気付いた課長は写真を確認すると盛大に笑い、いきなり笑われた事に言葉を止めた和臣は、横で電話を構える雪子に、盗撮は犯罪だからな、と釘を刺した。
「店迄何で行くんだ?」
「タクシーよ。」
「送ろうか?」
「嗚呼、大丈夫よ。七時に予約してるから。」
「そっか。」
一分でも多くの時間を一緒に居たいと思うのは我儘だろうか。
「行かないの?」
「行くよ。」
ドアーノブに触れた侭、何分時間が経ったのだろう…永遠の様な刹那、刹那の様な永遠……。
「又後でね。」
「ん?」
「仕事終わったら、スーツ取りに来るでしょう?まさか其の格好で帰るの?」
「あ、そうだね。うん。」
「車、置いといたら?」
「判った。」
秋の匂い。何時迄蝉は鳴くのだろう。
*****
七時半、課長が指定した時間に指定されたビルの七階に和臣は着いた。
「其奴が来たらさり気なく近くに置けば良いんだな?」
「嗚呼。」
ドアーを開くと、マスターらしき化粧のどぎつい女と課長が立った侭話して居た。
「木島か…?」
「うん。」
「判らんな…」
化粧一つで真逆の顔になる、其れを目の当たりにした課長は、やっぱ女って詐欺師だな、と此れからの流れを説明した。
今夜相手を如何こうする訳では無く、女として、目当ての人物の連絡先を交換する。数日やり取りし、其の文面を時一に分析して貰う、という流れだった。
「夏樹の時にも思ったんだけど、違法にならない?」
「大丈夫だろう。犯罪を誘発してる訳じゃないんだから。」
此れの目的は、ストーカーの実態を知る事であり、動機を知る事、此れが違法と云われるならもう刑事等辞める。
「じゃなくて、一般人巻き込んでるじゃん。」
「我は買収されたぞ。十万で。」
「課長…」
「ばれなきゃ良い。大丈夫。」
しっかり録音しとけよ、と大きな手を振り、課長は違法行為等屁の河童でエレベーターに乗り込んだ。
課長が出世しない理由、良く判ったかも知れない。
競り上がる胸、締め上げられたコルセットから今にも溢れそうで、肉まんみたい、そう和臣は思った。
カウンターを拭くと女は、何でこんな捜査してんの?と聞いて来た。カウンター席に座り、咥えた煙草に女はライターを差し出した。
「殺人幇助の容疑が掛かってるんだよ。」
煙を吐き出し、置かれたノンアルコールビールのグラスに口を付けた。
「は?」
床を掃く女は素っ頓狂な声を出し、看板を店の外に出した。
「へえ。誰殺したの。」
「妹。」
「へえ!」
そら凄い、とカウンターを矢鱈長い爪を持つ指先で撫でた。
「所で此の店って…」
「嗚呼そう、バアンバーだよ。女しか来ない。」
「詰まり来る女って…」
「そ。女が女を求める場所だよ。」
唆るだろう?と、への字に釣り上がる眉を片方上げ、肉厚な真紅の唇を歪めた。
「御前もそうなのか?」
「ばっちりがっつりゲイだね。ペニスに興味も用も無いな。」
女は笑い、アメリカのポップシンガーの歌を流した。口ずさみ乍ら電話を弄る。
「あ、九時位に来るって。」
「有難う。」
其れ以降会話は無い。
開店の八時過ぎ、煙草を咥えた侭女の集団が矢鱈陽気に入店し、後ろのソファ席に座った。べちゃべちゃとお喋りの口は止まらず、晩早好、と女が焼酎のキープボトルと一式をテーブルに置いた。
「ねね、ミレイ、今年のハロウィン如何すんの?」
乾杯、と女達は派手にグラスをぶつけ合い、スナック菓子を籠に詰める女に聞いた。
「今年はマレフィセントするよ。」
「え?仮装になってなくない?」
「誰が魔女って?」
スナック菓子の入る籠を天井に向ける女に、嘘だから、とコルセットで人工的に細く作られた腰に腕を回し、競り上がる胸に顔を埋めた。
マレフィセント…、そうか、マレフィセントにそっくりなんだ。
最初見た時何かに似てるなと思って居たが、疑問が解けた。
グラスを空にし、煙草に火を点けた。
「煩いだろう。」
空のグラスに新しくビールを注ぎ入れる女だが、十時過ぎはこんなもんじゃないから、と恐ろしい事を云った。
女達が来て五分も経っていないが、正直帰りたい。
一人、又一人女が増え、ソファ席が埋まるに連れ、女特有の中身の無い無駄話と馬鹿騒ぎに頭が痛くなって来た。
女子校に勤務する男性教諭の心労が今はっきりと判った。
動物園の猿山に放り込まれた気分だった。
「帰りたい…」
今直ぐこんな猿山から脱出し、雪子の居るしっとりとしたあの空間に行きたいと切に思った。
三本目のビールを空にし、溜息を吐いた時、一層陽気な声がドアーと共に入って来た。
見止めた和臣は、煙草を咥え、女を一瞥した。真紅の唇が、妖艶に蠢いた。
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