歪んだ愛
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第1章
―8―
机に置かれた書類に和臣は顔を上げた。無表情で井上が立っており、何も云わないので其の侭書類を見た。
東条まどかが殺害されたのが九月二日、死亡推定時刻は午後八時から十時の間、発見は翌三日の午後十二時、一瞬だけ晴れた時。殺害当日は、昼から小雨が降り夕方から強くなり、其れは翌日の朝九時迄続き、一旦其処から二時間程雨が引き、又其の日の夕方迄降り続いた。発見されたのは運が良く、此の二時間ばかりの雨が引いた時を見計らい、近所の男が犬の散歩に出掛けた時だった。其れが無ければ東条まどかはもっと日が経って発見されて居た。其れでも東条まどかの身体は半日以上雨の中にあった。
井上が渡した書類は生活安全課からの物で、此れによると東条まどかは随分と前からストーカー被害を訴えていた。
一番最初の届けが、五年前の八月…二十一歳、大学四年の時。其処から何回か其の年に被害報告されているが、二年と間が開き、此れは半年程の被害報告がある。そして、今年に入り被害報告が爆発的に集中している。
殺害される九月迄の間、月平均で十五件ある。詰まり、月の半分以上ストーカー行為に悩まされ、訴え続けていた。其れを警察が、実害が無いと放置していた。被害内容も、会社と携帯電話に無言電話が掛かって来る、消印無しの手紙が届く、付けられる、フリーメールアドレスサーバーからメールが届く、と警察が動かない内容を選んで居る。
一際目立つ奇行は、澱粉糊を水で溶かした液体を瓶に入れた物をバイク便で会社宛に送った、位だろう。女からして見れば気持悪い事此の上無い。男からして見れば一発で見抜けるが、女は中々に難しい。ストーキングする程の距離だから時間は掛からないだろうが数時間は見て良い、然し其の時間で瓶に詰めてるとは云え、酸化しないのはおかしい。抑、DNAが鑑定出来るそんな不利な物を送る馬鹿は居ない。
まどかのストーカー被害を知る同僚達は徹底してまどかを守り、此の小包が来た時は率先して男子社員が糊である事を証明した。勿論まどかを含めた女子社員は瓶が届いた瞬間、きもいだの変態だのなんだの発狂したが、瓶を開けた男子社員は笑い転げて居た。
――何で開けんのよ!馬鹿!
――いやいや、見慣れてるから。判るから。
――偽モンだっつー事。然し此処迄来たか、ひでぇな。
――ほれ、匂い嗅いでみ。懐かしい匂いするぞ、澱粉糊。
――大体よ?此の量溜めるって何日掛かると思う?少なくとも三日は掛かるね、一日三回だとしても。
――ま、俺は無理だなぁ。週一しかしないから…あーっと、二ヶ月かな。おえ…きも…、二ヶ月の精液とか吐くわ…、何色になんだよ…
――止めろよ、キモすぎ…、一週間放置したオナホールにゴキブリと蛆が湧いたって掲示板のスレッド思い出したわ…
――何チャンネルだよ。
――教育チャンネルだよーぅだ。
――前の晩に放置したティッシュですら黄ばむんだぜ?おめぇ等知らんだろうけど。精子は鮮度が大事なんだ。
――築地直輸送!のオナホール買うわ。
――馬鹿じゃねぇの。自分の精液輸送して如何すんだよ。
――そんなに素晴らしいですか、擬似女性生殖器は。前々から興味はあったのですが。
――おう、良いぜ。酔った時とかな。デリヘル要らねぇわ。
――ありゃもう最高だわ。文句云わねぇし。
――知るか!
――セクハラ!最低!
男子社員はまどかの気を落ち着かせる為か判らないが下ネタを混ぜ、瓶に詰められた液体を紙に塗り、そして張り合わせた。案の定紙は張り付き、まどかは安堵した。其の報告を受けた警察側も度が過ぎると、差出人不明の手紙や小包を受け付けない様会社側に要請した。
其れが六月の話で、以降一切会社側には手紙類は来なくなったのだが、嘲笑う様に今度は自宅になった。
「美人だと大変だな。」
井上の声に顔を上げた。
「ずっとストーカーされてんじゃん、東条まどか。全員違う相手だろうな。大学ん時と、仕事始めからと、今。たーだ、今年からのストーカーはあぶねぇな。ま…、だから此の結果だろうけど。」
警察は、肉体への被害が無いからと取り合わないが、被害者からして見れば、例え肉体的に無害だろうが精神的に陵辱を受けていると同じ。強姦に遭っていざ被害報告を出しても、警察からの二次被害…セカンドレイプをされるのと同じ。
何故ストーカー被害は生活安全課で、強姦被害は此処捜査一課なのだろう。
相手の存在が見えないだけで、心に受ける傷の深さや精神的苦痛は同じなのに。
何故だ、何故違うんだ…。
無差別に強姦を繰り返す相手とは違う。ストーカーは確実に相手を狙い、心を犯し、最終的には肉体迄も犯す。
絶対に捕まえる。こんな卑劣な犯罪が許されて良い筈は無いんだ…。
「爆発的に被害届けが集中したのは訳がある。」
頭を陵辱する忌々しい記憶を払う様に和臣は声を絞り出した。
強姦もストーカーも、被害者は一人じゃない。其の被害者を思う人間の精神をも陵辱する。其の周りの精神を確実に蝕む。
助けて、誰か助けて…
ゆりかの声が記憶に重なる。
「東条ゆりかも、別人物からストーカー被害に遭ってる可能性が高い。」
「は…?」
「東条まどかは、其れを全て自分の事だとして出してる可能性が高い。」
依存性人格障害、まどかさんは其の可能性が高いです。
違う。此れはそんな人格障害等での問題では無い。
ゆりかがまどかに依存して居る。
其の確信がはっきりと和臣の中で肥大した。
刑事さんに何が判るの?だって貴方は私を犯した男達と同じ男じゃない…
強姦被害に遭った被害者は皆和臣に同じ事を云った。
判らない、嗚呼判らないさ、御前の受けた“肉体的”苦痛なんて…、でもな…?そんな御前を愛する男の気持は、嫌って程判るんだ…、自分の不甲斐無さに自分を殺したくなる、触れる事の出来ない自分をどれだけ憎んだか、何もしてやれない自分がどれ程憎いか、壊れて行く御前を見てる事しか出来ない自分がどれ程惨めか憎いか、御前以上に犯人を憎む俺の気持を、そしてそんな犯人より無力な自分を恨む俺の気持を、御前は知らないだろう……?
和臣は決して云わないが、和臣の苦悶し乍ら笑う痛々しい顔に、被害者は泣くしかない。
――如何して刑事さんがそんな顔するのよ…
――御免な、守ってやれなくて…
捕まえる、何があっても。
此の犯人の狙いは“ゆりか”…。
和臣には絶対な確実があった。
「木島。」
「はい。」
「法医の先生から。オモロイもん見付けた、だそうだ。」
課長の言葉に、和臣の目が狼の様な鋭い光を持った。
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