Lirica(リリカ)
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王の荒野の王国――木相におけるセルセト――
―7―
7.
退社時に広がり始めた雲が、深夜から雨を降らせ始めた。綾香は布団の中でまんじりともせず目を開けていた。雨が怖かった。雨音が、もっと大切な何かの音をかき消している気がしてならなかった。例えば、家中いたる所の蛇口が締まりきっておらず、水が出っぱなしになっている音とか。
確かめに行こうか。綾香は布団の中で寝返りを打つ。確かめに行ったって無駄だ。この強迫観念は何度蛇口を目で見たって、何度蛇口の下に掌をかざしたって、そんな事では消えやしない。理不尽な、あまりにも馬鹿げた不安である。綾香は背中を丸めて硬直し、不安に耐えた。背中と肩が痛く、休めている気がしない。
十分ほど耐え、やはり確かめに行こうと布団から抜け出す。風呂場、洗面所、台所、トイレ、と水を使う場所全てを回り、蛇口の下に手を入れて、水が出ていない事を執拗に確かめた。それから、ガスの栓を確かめ、家じゅうの電気が消えている事を確かめた。玄関の鍵とチェーンが、そして全ての部屋の窓の鍵がかかっている事を確かめてから、体を冷蔵庫に押しつけて、戸が閉まっている事を確かめた。そうして水と火と電気と施錠に関する全ての不安が杞憂に過ぎなかった事を確かめると、夏布団に潜りこみ、扇風機のタイマー設定がオンになっている事を確かめ、一番最後に目覚まし時計のスイッチがオンになっている事を確かめた。
確認。確認。いつ頃からだろう。綾香は日常に関する様々な事に異常なほど不安を抱き、確認行為を執拗に繰り返さなければ生活できなくなっていた。朝は朝で、一度家を出た後鍵を確かめに駅から戻ってきて、そうしたら今度は水が、電気が、火のもとが、室内の施錠が、気になって仕方がなく、その確認を終えて駅に向かう途中、また施錠が気になって家に戻る。そんな自分でも下らないと思う行為を頻繁に繰り返していた。
眠れない。けれど、眠る努力をしなくては。目を瞑ると、瞼の闇に職場の様子が浮かび上がってきた。
隣の島を担当する正社員の内藤よし美が、机にスナック菓子の袋を広げて頬張っている。北村かなえのお気に入りの社員だ。頬杖をつき、足を組み、くちゃくちゃ音を立てて菓子を噛みながら、その北村かなえとテレビドラマの話で盛り上がっている。その見苦しさときたら――自分で言う事ではないと重々承知しているが――重クレーム対応中の綾香の頬杖の比ではない。大体北村かなえは、頬杖が見苦しいから注意するのではない。綾香だから注意するのだ。内藤よし美の島の派遣スタッフは、クレームに引っかかったようで、正社員に目で助けを求めるが無視され続け、今にも泣きそうだ。
ひとしきりテレビの話で盛り上がった後、北村かなえは綾香の机に来た。
「佐々木さん。休憩行く前に送ったメール、ちょっと開いてみて」
綾香は指示に従った。
「何でしょうか」
「あのさあ、ここ。『申し訳ござ〈お〉ません』って何?」
その、苛立ちと嘲笑が混ざった顔!
申し訳ございません。申し訳ございません。胃がきりきりと痛み、汗をかきながら綾香は一層体を丸める。申し訳ございません。どうしてそんなタイプミスをしてしまったのだろう? 送る前に確認して確認して、まだ確認して、どうしてそれでも気付かなかったのだろう? 私は頭が悪いのだろうか? 誰よりも劣っているのだろうか? だから嫌われているのだろうか?
そうだ。何度確認したってその回数が何かを保証するわけじゃない。シャワーヘッドから水が細く流れ、それがホースを伝って排水溝に滴り落ちている様子が脳裏に浮かんだ。続けてキッチンの蛇口から水が滴り、それは綾香が見ていない時に、嘲るように間を空けて滴り、排水溝に流れていく様子が浮かんだ。
確認しよう。いや、確認したって何にもならない。水の音が聞こえる。水の音。雨の音だ。蛇口から滴る水滴じゃない。もう四回も確かめたじゃないか。四。死。なんと縁起が悪い!
綾香はまた布団を抜け出して、全く同じ確認行為を繰り返してから、徒労感にまみれて布団に戻って来た。時刻は午前二時を回っていた。
酒を飲もうか。冷蔵庫に缶チューハイがあった筈だ。いいや。こんな時間に飲んで、朝起きられなくなってはいけない。泣きそうな気持で横たわる。夜はまだ長い。
綾香は様々な悪夢を見るようになった。大抵は、朝起きて暫くする内に忘れてしまうのだが、いつまでも消え残り、しつこく頭に浮かび上がるイメージがあった。いずれも毒性の涎を垂れ流す巨大な三面馬であるとか、背後から五体を切り刻まれる感覚であるとか、常軌を逸した規模のスズメバチの大群であるとか、影を食われて消滅する老人といった、非現実的でありながら生々しいイメージであった。
何がきっかけというわけでもなく、仕事中に鼻腔を塞ぐ凄まじい血の臭いに襲われ、綾香は机の上に嘔吐した。自分の島のスタッフの視線が集まり、背後や、隣の島からも視線を感じた。嘔吐は一度では収まらず、五、六回に分けて胃の内容物を吐きながら、相変わらず私は何をやっているんだろうと綾香は考えた。同時に、目覚まし時計をオフにしてきただろうかと不安になった。夕方六時にマンションの無人の部屋で目覚まし時計が鳴り続け、隣室の人が迷惑している、そんな妄想に捕らわれ、居ても立ってもいられなくなり、今すぐ帰りたいと思った。額に掌を当て、机に肘をついた。皆うろたえ、誰も声をかけて来なかった。
少しして、派遣のスタッフがおろおろしながらティッシュと雑巾を持ってきた。
「ありがとう」
綾香はとりあえず愛想笑いを浮かべた。
「大丈夫です。自分で片付けるから。ごめんね」
ティッシュで吐瀉物をかき集め、コンビニの袋にまとめる。何度か給湯室とコールセンターを行き来して机を掃除し終えると、北村かなえが歩いて来て、
「少し休憩してきたら」
と、言った。
綾香はトイレに行き、蓋をした洋便器の上に座りこむと、打ちひしがれた気分で手で顔を覆った。寝不足が祟ってか、不覚にもそのまままどろんでしまった。
「マジきったねぇよなアイツ!」
トイレがにわかに活気づき、驚いて目を覚ます。腕時計を見ると、昼休憩の時間になっていた。
「てかさあ、具合悪いならさっさと帰ればいいのにね」
聞きなれた声が耳に飛びこんできた。内藤よし美だ。
「ほんとだよねぇ。うつさんといてほしいし」
相槌を打っているのは金田という古株のスタッフだ。
「佐々木のせいでさあ、あいつが対応予定だったクレーマーがこっちに回って来たし。ほんと最悪だわ」
「てゆうかあ、てゆうかあ」
やめて。やめてちょうだい。こんなに人のいっぱいいる所で大声で。綾香の心中の願い空しく二人は手を洗いながら大声で話し続ける。
「先週だったと思うけどさあ、あいつ朝来た時から超酒くさくてぇ――」
二人は話しながら廊下に出て行った。
人の波がトイレから引くのを、そのまま待った。二人の会話について、不思議と何とも思わなかった。涙も出ない。ただ、無気力だった。トイレから出ると、廊下の窓の向こうの神社で櫓が組まれていた。そういえば今週末に盆踊りが行われると聞いた。神社の拝殿には大きな提灯が飾られて、ちょっとした非日常感を醸し出している。
何となく、あの神社に行ってみたいと思った。窓から目を逸らした瞬間、ある思いが頭に浮かび、足を止めた。
『あれは私の神ではない』
もう一度、窓の外の神社に目を向けた。何故そんな事を思ったのかわからない。神社は惜しみなき夏の日差しの中にあり、健康的な明るさに満ちている。
引き寄せられるように、通用口から外に出た。冷房に慣れた体がむせ返るほどの熱気に包まれる。道路を横切り、鳥居をくぐる。手水舎の水は枯れ、落ち葉が溜まっている。人影はなく、社務所にも、神社を囲む木立にも、人の気配はなかった。
石段を上った。本殿が拝殿を兼ねている、小さな神社だ。賽銭箱の奥の本殿は、、普段閉ざされている引き戸が開かれ、幕も払われ、内部が露わになっていた。
本殿内部に窓はなく、入り口の庇越しに入る日差しだけが、闇を和らげていた。奥に白い布がかけられた文机があり、榊が一対と、白い布がかけられた何らかの小さな物体が、机上に置かれていた。
綾香は靴を脱ぎ、本殿に上がりこんだ。
文机の前に両膝をつき、小さな物体にかけられた布を取り払う。
丸い鏡だった。
黒曜石の鏡。
その鏡面に映る顔に、綾香は魅了された。
肩にこぼれるくすんだ赤い髪。色白の顔。吊り上った目は強い意志の下に残忍さを隠し持ち、引き締まった口許は知性を感じさせる。若い女で、異国の、高貴な身分の人であると綾香は直観した。
欲しい、と思った。黒曜石の鏡を胸に抱きしめた。
欲しい。欲しくて、欲しくて、仕方がない。
こんな事をするのは普通ではない、わかっている。わかっていながら、制服のベストを脱ぎ、それで黒曜石の鏡を包むのを止める事ができず、止めたいとも思わなかった。綾香は本殿を飛び出して、靴の踵を踏んだまま、会社に逃げ戻った。
更衣室には誰もいなかった。ロッカーの鍵を開け、トートバッグに鏡を入れて、ハンドタオルで隠す。
神罰という語が頭に渦巻いていた。ご神体を盗んでしまった。さあ、バチが当たるぞ。全身に汗をかきながら、体の震えが止まらない。どうしてこんな事を?
わかっている。根拠のない確信があったからだ。
この鏡は自分の物だと確信したから、持ってきたのだ。
土気色の顔で体の震えを殺し、廊下に出る。早急にコールセンターに戻る必要があった。
綾香はトイレに寄り、もう一度心を落ちつけようとした。そして、手洗い場の鏡に映る顔を見て驚いた。
この冴えない顔をした女は誰だろう。パサついた黒い髪と、細長い目。その下の、化粧をしても隠し切れていない濃い隈。目は死んだように淀んでおり、口許はだらしなく締まりがない。過食と拒食を繰り返しているせいで、頬の皮膚が弛み、二重顎になっている。
これが私の顔だなど、酷い侮辱だと思った。
「貴様は誰だ」
鏡の中の顔はたちどころに人相を変えた。目は吊り上り、激しい怒りと残忍さが光る。背後で見えざる力が蠢き、心を支えるのを感じた。鏡の中で女が歯を剥く。
トイレの入り口に人が立った。
「佐々木さぁん、治ったのー?」
その人間は、振り向いて自分を睨みつける女の形相の凄まじさにたじろいだ。
「何だ、貴様」
女は言った。
「誰に向かって口をきいている!」
女の激しい気性に火がついた。トイレから飛び出し、拳を振り上げる女の前で、内藤よし美は立ち尽くすよりほかなかった。内藤よし美は容赦ない殴打を左目に受け、声も出さず倒れた。女は内藤よし美に馬乗りに跨ると、続けて二度、三度と顔面を殴った。
「その口のきき方は何だ」
女は手を止め、絶句する内藤よし美に顔を寄せた。
「私を誰だと思っている! 無礼であろう!」
「さ、ささ、ささ、ささきさん……」
「何だと?」髪を鷲掴みにし、「私はそのような者ではない!」
すると、内藤よし美は思いもしない力強さで、女の胸を突いた。一瞬、力が抜けた隙を衝いて、体の下から這い出た。
「助けて!」
叫ぶ内藤よし美を追いかけて、その腹を蹴った。
「助けて! 誰か!」
金切り声が廊下に響き、コールセンターの扉が開いた。女はまたも内藤よし美を体の下に組み敷いて、髪を掴み、顔面をリノリウムの床に叩きつけた。鼻が曲がる感触があった。
コールセンターから顔を覗かせたスタッフが悲鳴を上げ、わらわらと人が出て来ては各々が驚愕し、また叫んだ。何人かは果敢にも女の腕を取り、内藤よし美から引き離そうとした。女は鬨の声に似た咆哮を放ち、ことごとくそれを振り払うと、またも組み敷く相手に危害を加え始めた。
「誰か男の人呼んできて!」
誰かが叫ぶが、そうするまでもなく、声を聞きつけた男性社員が二人、廊下の角から飛び出してきた。
「佐々木さん!」
その内一人が倉富芳樹だった。彼はコールセンターのスタッフを押しのけ、後ろから女を羽交い絞めにした。
「佐々木さん、どうしたの! 駄目、駄目!」
女は身を捩りながら、またも咆哮を放った。
「駄目だって、佐々木さん! 落ち着いて! お願いだから!」
女はついに腕ずくで立ち上がらされ、内藤よし美から引き離された。
「佐々木さん!」
「私は、そのような者ではない!」
女は叫んだ。そして、極度の興奮のあまり、そのまま失神した。
※
綾香はうすら寒い影の中を、腕をさすりながら歩いた。時折影が薄れ、自分や誰かの顔が見える時があった。
「鬱の他に、強迫性障害の症状も見られますね」
優しい顔で精神科医が言う。
「これは先ほどあなたが仰った、水や鍵などが気になって眠れない、仕事に集中できない、馬鹿馬鹿しいと思いながら何度も確認してしまう。こういった症状が当てはまります。次回からカウンセリングを開始しましょう。次はいつ来れそうですか?」
佐々木綾香が答えている。では、その佐々木綾香を観察している私は誰だ?
「暴行の件については、内藤さんと話し合って、社内で収める事になりました」
小会議室で北村かなえが喋っている。
「あなたのこれからの事なんだけどさ。一応、会社のルールとしては、退職者は少なくとも四十日前に申し出る事になっているけど、今回は事情が事情だし、今すぐ辞めてもらってもいいんだよ?」
答えている。はい。辞めます。ご迷惑をおかけしました。知らない人が喋っているようだ。答えているのは誰だ?
「あんな……ついこの間までは普通の子だと思ってたのに……」
実家のリビングで母親が呟いている。
「人様に暴力をふるって首になって戻って来たなんて……こんな事ご近所さんに知られたら、何て説明すればいいんだか……」
「綾香は気が弱ってたんだ。今は休ませるのが一番だと医者も言ってたんだろう」
「休ませるっていつまで! あんな寝たきりの状態でご飯も食べない。ベッドから起きられない。このまま引きこもりにでもなられたらどうする気?」
綾香は思わず耳を塞いだが、ドアノブが回され、寝室の戸が開く音が鮮明に聞こえた。綾香は目を開けた。耳を塞いではいなかった。夢だったのだ。
倉富芳樹が実家の寝室の戸口に立っていた。
スーツ姿で、フルーツの籠盛りを提げている。
綾香はと言えば、何日風呂に入っていないか思い出せず、最後に何を口に入れたかも覚えていない。髪は脂ぎってぼさぼさで、枕は抜け毛だらけ。黄ばんだパジャマは汗臭く、湿った布団は黴臭い。倉富芳樹は戸を閉めて、ベッドの横に両膝をついた。
「あれから、具合はどう?」
綾香は乾いた唇で囁くように答える。薬の副作用で動悸が激しく、呂律が回らない。
「別に……」
「別にって」
「今日は、土曜か日曜なの?」
「いいや」
笑って答える。
「平日だよ」
「倉富くん、仕事行かなくって大丈夫?」
「用事があるって言って、有給とったから」
「用事って、私のお見舞い?」
「うん」
倉富芳樹は布団の中に手を入れて、綾香の手を握りしめた。
「伝えたい事があって来たんだ」
「何?」
「あなたを幸せにしたい」
綾香は相手の二つの目を見た。光を湛えるそれは、いずれも地獄の星であるように思えた。綺麗だった。綾香はそれが堪らなく欲しくなった。
「駄目かな?」
綾香はぼんやりしながら答える。
「わかんない……」
「そうだよね。ごめん」
「本気なの?」
寂しげな笑みを消し、倉富芳樹は綾香の両目をしかと見返して、本気だよ、と答えた。
「じゃあ私、倉富くん、指輪もお式も要らないから……」
「何?」
「その両目を頂戴」
倉富芳樹は目を伏せて少し考え、やがて覚悟を決めて、いいよと微笑んだ。綾香は両手で倉富芳樹の頬を挟みこんだ。顔を引き寄せ、右目を唇で塞ぐと、勢いよく吸った。
倉富芳樹の目玉がつるりと口の中に入ってきた。熱さに似た刺激が口中に広がった。その刺激は苦く、知りようもない記憶と郷愁をもたらした。
同じように、左目を吸いこんだ。左の目玉は冷たさに似た乾いた刺激があった。その刺激は、認識できる全ての物が影にすぎない事を思い出させた。
果て無い闇の中の影。人間とはそのようなものだ。影が必死に守っている、あるようなないような朧気な輪郭。自我とはそういうものだ。
「結婚しよう」
倉富芳樹は、闇が口を開けるだけとなった眼窩を綾香に向けながら優しく囁いた。
「そして、二人で歌劇を見に行こう」
「倉富くん、もう、見れないじゃない」
「ああ……そうか」
綾香は倉富芳樹の頬から手を放した。倉富芳樹の手が宙をさまよう。
「君が見えない。君は誰だ?」
「私は佐々木綾香よ。何を言っているの?」
「佐々木綾香。それは君の名でしかない。結婚して名前が変わったら、君は君じゃなくなるのか?」
綾香はベッドの上で座り直した。
「名前が変わったって、戸籍が残るじゃない」
「戸籍? 戸籍はただのデータだ。君じゃない。例えば戦争とか、大きな混乱が起きて、戸籍なんてなくなったり意味を失ったりしたら、君は存在しなくなるのか?」
「私はここにいるわ」
宙を泳ぐ倉富芳樹の手を摑まえて、自分の顔に触れさせる。
「ほら、今、触っているでしょう? これが私よ」
「これはただの、君の肉体だ。人間の細胞は絶え間なく入れ替わり続け、今触れている物体が君ならば、君は秒ごとに君じゃなくなっている。三か月もすれば全身すっかり新しくて、別人という事になってしまう」
倉富芳樹は綾香の手を振りほどき、腕を下した。
「さあ、君は誰だ?」
「私は……私は私よ」
「それはただのトートロジーだ。無益な思考停止に過ぎない」
「私は、私はここにいる! 私はあなたが好きだと思っている。肉体が変わってもそれは変わらない」
「それはただの君の心だ」
と言いながら、掌を開く。いつの間にか倉富芳樹は、黄色い錠剤を掌に納めていた。
「君に処方されている、精神科の薬だ。こんな小さな錠剤で、君の心も気分も簡単に変わってしまう」
「それでも――それでも――」
綾香は両手で髪をかき乱した。
「変わってしまっても、今そう思ってる事は確かよ。それにあなたが私を覚えていてくれる。今この瞬間の私を記憶してくれる。そうでしょ?」
「それは君にまつわる他者の記憶であって、君ではない。現に僕はもう目が見えないんだ。君の顔をいつまでも記憶し続けてはいられない。他人だっていつまでも生きていて、君の由来を証明してくれるわけじゃない」
眼前の男は更に問う。
君は誰だ?
綾香は無意識の内に長い髪を掴み、毟り始めていた。
「私は誰?」
不安の大波にのまれ、涙ぐみながら綾香は尋ねた。
「では、そういうあなたは誰だというの?」
綾香は倉富芳樹の唇を見つめ、待った。その口角が吊り上り、彼は声なく笑った後、ゆっくりと喋った。
「記憶を失った君を見るのは、とても悲しい」
悲しみからは程遠い、嘲るような口ぶりである。
目の前の男が誰だかわからなくなり、混乱に突き動かされて、綾香は相手の顔に触れた。すると、耳の後ろで皮膚が一部捲れあがっている事に気付いた。その皮膚をつまんで引っ張った。男の顔の皮はめりめり捲れ、一枚目を剥がしきると、床に捨ててしまった。顔の皮は一枚ではないように見えた。綾香は何枚も何枚も、何枚も何枚も、何枚も何枚も何枚も何枚も相手の顔の皮を剥ぎ、床に捨てていった。ベッドの周りに無数の薄い仮面が積み重なってゆく。
一枚剥ぐ度に相手の顔は輪郭を失くしていった。肌の色さえなくなって、中空に白い影と、二つの眼窩と、口角を大きく吊り上げて笑うおぞましい口だけが残されて、綾香はそれでも顔を剥ぐのをやめられない。不意に、相手の口が大きく裂けたと思うと、綾香に飛びかかり、首筋に噛みついた。反動でベッドの反対側に落ち、暗闇の中を、果てしなく転落していきながら、女は唐突に相手の正体を理解し、叫ぶ。
「サルディーヤ、貴様ァ!」
ベッドから落ちた。腰と肩を強打し、女は呻く。ひどく寒い、そして冷たい場所だった。呻きながら目を開けると、床は青い石になっていた。凍てつく風が吹きすさぶ。頭上に雲が厚く折り重なっているのを見て、初めて野外だと気が付いた。
ここはどこ。女は恐慌に駆られる。自宅じゃない。東京でもないみたいだ。ここは。私は。
ここは王の荒野だと、ニブレットの自我で女は思った。
「答えが見つかるまで」
ヘブの声が響き、赤毛の王女は寒さも冷たさも感じぬ体を竦めた。
「この世界の前階層から続く貴様の魂の遍歴を一つ一つ見せてやってもよかったのだが、もう充分なようだな」
手許には漆黒の剣と鞘、黒曜石の鏡が落ちていた。ニブレットはそれを拾い集める。
「我が神よ――」
「汝に問う。して、貴様は何者だ?」
女は少ない手荷物である鏡と剣をかき抱き、呆然と座りこんだ。ヘブの気配が、嘲るような笑い声と共に、王の荒野の彼方へと、遠ざかっていった。
やがて女は口を開いた。
「私は誰だ?」
答える者はなかった。
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