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Lirica(リリカ)

作者:とよね
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王の荒野の王国――木相におけるセルセト―― 
  ―6―



 6.

 けたたましい目覚まし時計のベルで今日も一日が始まる。湿った夏布団から右手を伸ばし、女はベルを止めた。ヒヨドリが騒々しく鳴きながら窓の外を飛んでいる。いつもの朝だ。女は気だるげに布団を蹴り、四肢を伸ばした。手足が畳に触れ、冷たくて気持ちよかった。のろのろと腕を伸ばし、扇風機のスイッチを入れる。生ぬるい空気がかき回され、顔に当たった。
 これまでずっと寒い所にいたような気がする。
 ここはどこだろう?
「私は誰?」
 声はかすれており、ひどい頭痛がした。宿酔いだ、と女は思った。頭が朦朧とする。這うように布団から出て風呂場まで歩くと、パジャマを脱ぎ捨てて熱いシャワーを浴びた。
 突っ立ったままシャワーを浴びている内、眠気と頭の中の霧が晴れ、意識が確かなものになっていった。
 私は綾香。佐々木綾香。
 どうしてさっきは、私は誰、などと思ったのだろう?
 同時に、酔いつぶれて同期入社の男性に助けられた昨夜の記憶が蘇り、さっと顔が熱くなった。堪らなく恥であった。
 ロールパンとバナナを齧り、冷蔵庫を確かめた。水出しコーヒーが残っている。それを飲み、化粧をして着替えた。せっかくシャワーを浴びたのに、駅まで歩くだけで汗だくになった。満員電車のドアに押しつけられ、毎日見ている窓の外が、どういうわけだか、初めて見る光景のようだ。まだ酔いが残っているのだろうと綾香は考えて、キオスクで胃腸薬と、口臭対策用のサプリメントを買う。
 いつも通り、本来の始業時間より四十五分早く会社に着いた。一階エントランスの喫煙室を確かめると、ガラスのドアの向こうに、いつもそこにいる男の横顔が今朝も見えた。
「倉富くん、おはよう」
 ドアを開けると、倉富芳樹が煙草を口から離して振り向いた。
「ああ、佐々木さん。おはよう。珍しいですね。吸わないのに」
 綾香はドアを閉めてから、頭を下げた。
「すみませんでした、昨日。タクシー代もお渡ししてなかったと思うんですけど」
「いえいえいえ、自分で払ってましたよ。大丈夫。覚えてない?」
 またも耐えがたい恥に襲われ、顔が熱くなる。
「昨日、一人で飲んでたの?」
「それも……よく覚えてなくって」
「そうかあ」
 倉富芳樹は煙草の煙を吸いこみ、眉を寄せる。
「こないだ内山さんとさあ、あと寺本さんと話して……佐々木さん部署異動になってから元気ないよねって」
「そんな事ないよ。私別に……」
 綾香は笑うが、倉富芳樹は笑わなかった。
 お客様対応室の女子更衣室に入ると、綾香のロッカーに掃除当番のマグネットが貼りつけられている。更衣室のロッカーは大小二種類ある。大きくてハンガーを吊るせるロッカーが綾香たち正社員の物。鞄と私服を押しこんだらいっぱいになってしまう小さいロッカーが契約社員の物。一番数の多い派遣社員たちは、バスケットが一つ貸し出され、それを部屋の隅に並べるだけだ。正社員用のロッカーの空きが多くあるにも関わらず、たとえ共用であっても、派遣ごときが大きいロッカーを使うなど許せないというのが室長の考えなのだ。
 綾香は制服に着替え、名札を確かめる。
『佐々木(綾)』
 そう、私は佐々木綾香。日本。東京。佐々木綾香。綾香はロッカーの上にはたきをかける。綾香の隣のロッカーは鬱で休職中の正社員のロッカーだ。綾香は彼女の代理の人員としてこの部署に異動になったので、顔を見た事はない。もう一つ隣のロッカーは、かつて過食症の社員が使っていた物だと噂に聞く。一口齧っただけのパンやチョコレートや、スナック菓子、飲みかけのジュースなどが溜めこまれ、腐敗して汁が流れた痕がロッカーとカーペットに残っている。そのまた隣の契約社員たちのロッカーの一つには、力任せに殴った痕が残っている。隣に積み重ねられた派遣社員たちの私物入れの籠。青、緑、黄色とある中に、一つだけ赤い籠がある。綾香は知っている。その一つだけ赤い籠の底の裏には、「死ね」とマジックで殴り書きされている事を。
 床に掃除機をかけ、備品の雑巾がけが終わると、室長の北村かなえが出社してきた。悪魔のようなデブだ。挨拶しても返事はない。北村かなえは鞄を床に放り出すと、綾香が干した雑巾を一瞥し、わざとらしい溜め息をついた後、僅かに斜めになっていたそれをまっすぐに干し直した。
 綾香は口の中が乾き、胃が引き攣るのを感じた。
「あのさあ、今日掃除してくれたの佐々木さん?」
「はい」
「いつも言ってるけどさあ、雑巾ちゃんときれいに干してくんない」
 この女は私が嫌いなのだ。綾香は確信している。この女は他の誰にも、こんな重箱の隅をつつくような、嫌がらせにも近いような指摘をしたりはしない。
「こういのってさあ、小さい事のように思うかもしれないけどさあ、絶対仕事にも出てくるしぃ、人に嫌な思いさせてるって気付いてほしいんだよねえ」
「すみません」
 綾香は早々に更衣室を出て、コールセンターのロックを解除した。

『ふざけんじゃないよ! ここまで人に迷惑かけて昨日今日と時間も取らせといて、結局申し訳ございませんで終わらせる気!?』
 今日も今日とてヒステリックな怒鳴り声が鼓膜めがけて走ってくる。この神経質な男性客への対応は今日で二日目になっていた。
『あのさ、こっちはさ、おたくで買った商品で火傷したって言ってんだよ。えっ? それで診断書もらって来てやったっていいんだよ』
「申し訳ございませんがお客様、昨日もご説明させていただきました通り、ご購入いただいたクッキングヒーターは商品の性質上――」
『だから! それについてはおたくのホームページの商品説明が悪いんだって! ぼく何遍も言ってるじゃん!』
「申し訳ございません。頂いたご指摘につきましては担当部署に報告の上――」
『それは昨日も聞いたよ! でもホームページの文面直ってないじゃん! 商品説明のページのとこさあ。触ったら火傷しますって書けよ! ねえ。書いてよ! ねえ。早くさあ。いつ直すの? ねえ。君ぼくの事馬鹿にしてんの?』
 世の中にはびっくりするほど頭の悪い人間がいるものだが、それでも相手を馬鹿だと思ってはいけない。馬鹿だと思っては。綾香は自分に言い聞かせる。それは、相手がお客様だからとか、会社にも落ち度があるかもしれないからではない。相手を馬鹿だと思ったら、その馬鹿の相手に時間をとられている自分が惨めに思えてくるからだ。
『もうさぁ、申し訳ございませんとか謝罪の言葉は聞き飽きたの。具体的にどうしてくれるかそろそろ教えてほしいの』
「それにつきましては、昨日からのご案内の繰り返しとなってしまいますが」
 若干の嫌味をこめて言い返す。
「今回につきましては商品を着払いでご返送頂いた上でお代金をクレジット請求キャンセルにてお戻しさせて頂き――」
『そうじゃなくて! 何回も言うけどぼく火傷したんだよ? 怪我してるんだよ? お宅の商品のせいで。普通さ、ウチまで来て頭下げるのが筋ってもんでしょう』
「申し訳ございませんが、弊社ではメールかお電話でのご対応と――」
『申し訳ございません申し訳ございませんって、あんた全然申し訳ないとか思ってないでしょお!』
 綾香はヘッドセットのマイクを口から遠ざけて、相手に聞こえぬよう溜め息をついた。綾香は子供の頃から怒っている大人が怖かった。大人になった今でも変わっていない。
 電話越しに負の気が絶え間なく押し寄せくる。頭がどんどん重くなってきて、頬杖をつかずにいられない。額を指でつまんだ。子供の頃からの習慣で、眉をぎゅっと顰めるか額を強く摘まむかすると、どういうわけだか感受性が鈍るのがわかるのだ。この部署に入ってから、額を摘ままずに過ごさぬ日はない。
 それでも、頭ばかりが肩も重くなって、ひどく凝る。肩こりからくる眼精疲労と吐き気は耐えがたい程だ。男はひとしきり金切り声で喚いてから電話を切った。綾香はヘッドセットを長い髪ごと引きちぎるように頭から外し、机に放った。後はテンプレ通りのメールを送ってやる。商品を弊社に返送してください。返送を確認でき次第返金となります。これ以上の対応はできません。申し訳ございませんが。申し訳ございませんが。時刻は午後三時になっていた。このメールを送ったら昼休憩を取ろう。
 そう思っていたら、北村かなえが歩いて来た。
「あのさあ佐々木さん」
「はい」
「そのお客様の対応終わったらさあ、新村さんにいつになったら仕事に出てこれるか電話で聞いてくんない」
 鬱で休職中の社員の事だ。綾香は嫌な気分になった。
「なかなか、難しいんじゃないでしょうか?」
「じゃあいつ頃治りそうか聞いてよ」
 それはもっと難しいだろう。胃の中が泡立ち、今すぐ吐くか誰かを殴って暴れたい衝動に駆られ、綾香は急いで心を無にした。
「それがわかんないとさあ、うちとしても困るんだよね。うちだって慈善事業じゃないんだからさあ」
「はい」
「あとさあ、仕事中に頬杖つくのやめてくんない。すんごい感じ悪い」
「……すみません」
「これ指摘されるの、初めてじゃないよねぇ」
「すみません。気をつけます」
 遠ざかる北村かなえの肥満した後ろ姿を見ないようにし、無心になるよう努める。仕事、仕事。
 指示通り、休職中の部署の先輩に電話をかけたが、出なかった。メールも終わり、昼休憩に行こうという時、同じ班の派遣社員が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「あの、すみません」
 派遣社員は、正社員対応となっている常連のクレーム客から電話が入っている旨を伝えた。
「佐々木さんご指名なんですが、お電話転送してもいいでしょうか?」

 四時過ぎ、ようやく昼休憩を取った綾香は、他に誰もいない社員食堂の片隅でひっそりとカップ麺をすすった。電話対応という性質上、昼休憩が不規則になるのは仕方がない。混雑する正午の食堂で、他人の声や、声にならざる声や、雑念に囲まれて昼食をとるのもそれはそれで妙に疲れるもので、広い食堂を独り占めできる点だけが部署移動になって唯一嬉しい点だったが、今更感動するような事でもなくなってしまった。
 テレビをつけた。ニュースの時間だった。総理大臣の名を冠した経済政策によって、景気回復の兆しが見られるとの報道が流れた。遠い世界の出来事のようだ。溜め息がこぼれる。昨日も、今日も、明日も、あさっても、同じ生活。明日とあさって。そう。昼休憩が終わればすぐ定時で、それから残りの仕事を片付けて、その間厄介な電話が来ない事を祈って、あと明日とあさって。二日働けば二日休みがある。
 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 自分の頬を両手で叩く。頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ! 世の中ってのは厳しいもんなんだ辛いのは自分だけじゃないんだ甘えるな甘えるな甘えるな甘えるな頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ甘えるな頑張れ!
 惨めな、堪らない気持ちに襲われた。ずっとその気持ちが続いていて、そうでない時があったかどうか、今ではわからない。
 この気持ちが今までずっと続いており、今を通過し、これから先も続いていくのだとしたら。この義務と重さと惨めさを抱えて生きていくしかないのなら。自分は何をしているのだろう。一体何のため。
 頭を抱えた時、鮮烈な思いが頭内に閃いた。
『記憶が、過去が、まして未来が何を証すものか。私には今しかない』
 綾香は目を瞠り、背を伸ばした。左の耳から右の耳へと鋭い耳鳴りが走り抜けた。ニュースの音声などたちまち聞こえなくなる、強い耳鳴りだった。空間が歪む。恐慌に駆られて立ち上がった綾香は、眩暈に耐えきれず膝をついた。そのまま、壁に手をついて立ち上がり、背中を曲げた姿勢でよたよたとトイレに駆けこむと、先刻のカップ麺を残さず洋便器に吐き出した。
 塩の塊と油脂の塊。堪らなく不味い後味が、喉に残った。何もかも吐いてしまい、胃が空になる頃には、耳鳴りも眩暈も少しましになっていた。
 手洗い場に出ると、健康な太陽が西に傾き始めていた。太陽を背に鏡に映る自分の顔が、とても自分とは思えない。知らない女がそこにいた。初めて見る人だった。
「あなたは誰?」
 鏡の中の知らない女が、土気色に青ざめる。首に氷の息吹が吹きかかり、汗をだらだらかきながら、その冷たさに硬直した。動悸がし、立ちくらみを感じた。奥歯を噛んで立ちくらみに耐えながら、綾香は目を瞑った。瞼の闇を、空の太陽と鏡の中の太陽、二つの光が眩く照らす。
 何故だかそれを、灼熱と極寒の、小さな地獄の星だと思った。


 
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