新説イジメラレっ子論 【短編作品】
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第5話 ウィーピング
浜崎くんとの諍いがあったその日の帰り道、私は偶然にも風原くんを見かけた。
普段は風原くんは誰よりも早く家に帰ってしまう。だから風原くんと帰り道で出会うのは初めての経験だった。その背中に、不思議と歩幅が広くなっていく。
(ちょっとだけ……お話できないかな)
なんとなく今日の一件で心にもやもやした感情を抱いたままだった私は、その初めての出来事に驚きつつも、彼に近づくことを決めた。周囲を見渡すけど誰か同級生が見ている風でもない。今が好機だろう。
彼には聞きたいこともあったし、もっと彼の事を知りたかった。緊張からか、微かに胸が高鳴る。
風原くんはその手に何かを抱えていた。何だろうかと思って近づいて――私はあっと声を上げて驚いた。
「それって……スズメ?」
「……千代田か」
彼の掌に乗っているのは羽も生えそろったスズメだった。鳥はいつも飛び回っているイメージがあるが、風原くんの掌に乗ったスズメは大人しく歩きの振動に揺られている。
風原くんは私から距離を取るように半歩離れ、歩き続ける。
「その子、どうしたの?ケガ?病気?」
「いや……単に巣立ちのときに上手く飛び立てなかっただけだろう」
よく見ればスズメの頭のてっぺんはまだ若干毛が不ぞろいだった。丸みを帯びた可愛らしいフォルムが目を引くが、逆に嘴で突かれたら痛そうだという恐れも少しだけ感じる。でも風原くんはそれを恐れている様子は見せなかった。
特にぐったりしている訳でもなく二本の足で立っているので、本当に大丈夫そうだ。
「……ほら、行け」
風原くんが手を前に突き出すと、スズメは躊躇いがちに彼の指先へと歩き、羽根を羽ばたかせて空を飛んだ。途中少しぐらついたが、直ぐに体勢を立て直したスズメは夕方の空へ消えて行った。
自分の事でもないのにホッと胸を撫で下ろす。と同時に、風原くんが動物に優しくしている光景に思ったほど違和感を覚えなかったことに気付いた。
無意識のうちに彼は危険ではないと自分の意識に刷り込みをしてしまっていたのか、或いは私の本能がそうだと認識しているのかは分からなかった。
「……風原くんって鳥が好きなの?態々世話を焼いてあげるなんて」
「嫌いじゃないだけだ」
そっけない。照れているのかもしれないと思うと、少し可笑しかった。
風原くんは謎だらけの人だ。学校では周囲の目も会ってあまり話すことも出来ない。こんなふうに彼と話す機会は滅多に来ないだろう。少し気持ちが軽くなって、積極的に質問する。
「ね、風原くんの家ってどんな感じ?ペットとか飼ってるのかな?」
「どうでもいいだろそんな事。知ってどうする?」
「教えてくれたら私の家の事も……とか」
「お前のお家事情なんかに興味はない」
ぶっきらぼうに返事をして、風原くんは前へ歩みを進める。
私は慌ててそれを追いかけて、隣に並んだ。風原くんはそんな私の事を居心地悪そうに見るが、止めろとは言わなかった。
家族の人もこんな風に素直じゃないんだろうか?
母親はどんな人だろう。兄弟とかいるのかな。風原くんはいつからこんな風なんだろう。
そんなことを想像すると、余計に風原くんの家庭事情が気になってきたりした。
あんな態度では家族内で孤立したり、怒られたりしないんだろうか。ひょっとしたら今も上手くいっていないかもしれない。
だけど、推測は推測。
それとは別に、私は風原くんがちゃんと答えてくれそうな質問をもう一つ持っていた。
「ねえ。きょう浜崎くんと言い争ってたけど、なんで浜崎くんに疑われてたの?」
浜崎くんは他人にそうそう食ってかかることはしない。むしろ他人が困っているのをニヤニヤしながら見ているタイプだ。それがあんなにも怒っていたのが気にかかっていた。
横目でこちらをちらりと見た風原くんは少々の間だけ思案し、口を開く。
「俺が教科書を失敬したからに決まってるだろ」
「え……」
凍りつく。
「な……なんで盗んじゃったの?」
「別に盗んでない。ただ――」
そこで言葉を切って、風原くんは悪戯っぽくフッと笑った。
「浜崎が俺の机から教科書を持って行くのが見えたんでな。丁度浜崎の教科書が俺のと同じく名前を書いてなかったから、代わりに貰って行っただけだ」
そこに至って私は漸く事の全容を知った。
浜崎くんは元々男子側のいじめっ子グループに属する人だ。そんな彼が、風原くんが危険だ危険だと騒がれつつも実際には手を出してこないのをいい事に、悪戯を仕掛けたのだ。机から教科書を抜くという悪戯を。
それを偶然目撃した風原くんはそれを敢えて見送り、浜崎くんが出て行ったタイミングで教室に入って彼の教科書を抜き取り、何事もなかったかのように自分の物として使用。
後になって自分の教科書が無くなっていることに気付いた浜崎くんは、教科書を持っていない筈の風原くんが教科書を所持していることに気付いて、風原くんが犯人だと確信した、という事だろう。
取り返そうにも浜崎君は「俺が盗んだはずなのに教科書を持ってる!」などと公言する訳にもいかない。彼にとっては残念ながら証拠もない。状況証拠を訴えれば自分の行為に関して追及を受けかねない。よって、見逃すしかない。
「教科書は新品同様で綺麗なものだったぞ。今まで碌に使ってなかったんだろうな」
「な……なんで取り返さずにそんなことを?ダメだよ泥棒なんて!」
「正義論か?関谷みたいなことを言う」
「今は関谷くんは関係ないでしょ!盗まれたんなら取り返せばよかったじゃない!」
盗まれている現場を見ていたのなら、その場で取り押さえれば取り返せただろう。なのに、何故風原くんは盗むという選択をしたのだろう。だって、そんなことをすれば自分が犯人だと周囲には気付かれる。周囲に自分が泥棒だと告げているようなものではないか。
だがそんな疑問に風原くんは、私の考えの及ばない返事を返してきた。
「馬鹿言え、それじゃ受け身の対応だ」
「受け身……?どういうこと?」
「トラブルが起きるたびにそれを相手にするのは、向こうの望んでることだろう。そうやってムキになったり必死になってるこちらを見て楽しんでるんだ。ならそんな連中の思惑通りに動いちゃナメられる。だから……反撃」
「逆に盗み返すことが反撃なの?周りに泥棒だって思われちゃうよ!」
「――それの何がいけない?」
風原くんはあっさりと私の考える前提を無視した。
「重要なのは、喧嘩を吹っ掛けるとその代償が返ってくる相手だと思わせる事だ。俺はお行儀がよくないんでな……あんな連中のペースに合わせたりはしない」
「……先生に頼るのは――」
「お前自身が頼ってないのにそれを言うのか?」
「ッ!!」
はっとして、立ち止まった。
確かにその通りだと、悔しいけれど合点してしまった。
それと同時に、そういえば私も先生を頼るのを止めていたことを思い出した。頼っても仕方ない、頼ったら悪化する。あの人たちは何も分かっていないと、勝手に軽蔑していたことを。
先生は他の人の味方ばかりして、わたしだけ助けてくれない。そんな理不尽を感じていた。言葉には出さずとも、ずっと思っていた。
でもそれは一人だけの認識ではなくて、他の人にとっても同じ側面が存在するのだと。
風原くんは立ち止まった私を待とうとはせず、そのままつかつかと歩いた。
そして、振り向いて一言だけこう言った。
「大人など役に立つものか。自分の身は自分で守れなきゃ、お前はさっきのスズメ以下だ」
その言葉と、夕日に照らされた彼の切なさを感じる表情が、目にひどく焼きついた。
スズメは自力で巣立っていった。
親元から離れて、当てもない野生の生活へと飛び立った。
私はどうだろう。頼るのは無駄だって思いながら、未だにお父さんと一緒に暮らして、先生の事を頼る対象に挙げた私は。
でも――きしり、と心のどこかが軋みをあげる。
(風原くんは強いからそんなことが言えるんだよ……スズメだって翼がある。どっちも持ってない私にはどうしようもないじゃない……)
1人その場に取り残された私は、奥歯を噛み締めてスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
結局は耐えるしかない。風原くんは敵にはならないけど――決して味方ではないんだ。
そういうことだと実感せざるを得なかったから。
= =
我慢しよう。そうすれば今は乗り切れる。
我慢しよう。明日には終わっている。
我慢しよう。いつかは終わる。
我慢しよう。
我慢しよう――
いつまで、我慢しよう。
運が悪かった、のだろう。
帰り道に風原くんと話したというただそれだけの内容ですら、父にとっては怒りの対象らしい。
偶然その場を目撃された私は、家に帰るなり髪の毛を引っ張って無理やり家の奥まで連れ込まれ、壁に叩きつけられた。
「あのガキと、何を話していたと……聞いてるんだッ!」
骨が折れるかと思うほどの衝撃。振りほどこうにも、酒が入っているとはいえ成人男性である父の太い腕にこの細身では抗えない。倒れて咳込む私の肩を無理やり掴んで、更に締め上げるように壁に押し付けた父は、血走り濁った瞳で怒鳴り散らした
「痛ッ!やめ……な、なにも話してなんか――」
「馬鹿にしていたんだろう!自分の父親をっ、俺をっ!この、クソガキぃぃ!」
ここ数年、父の被害妄想は急激に増えている。
機嫌次第だが、酷い時は前を通っただけで自分をないがしろにしたと怒鳴ることさえある。
もはや私には父がどのような思想で行動しているのか、全く分からない。唯一発見できた対処法が、可能な限り父の視界と意識から逃げて体を小さくすることだけ。
荒々しくぜいぜいと吐き出される息は口臭とアルコールが混ざり下水のような汚臭になり、私の顔に降りかかる。
今の父は――目がくぼみ、顔に油が滲み、ふけに塗れた頭をがりがりと掻きながら掴みかかってくる父は、母がまだ生きていた頃の面影はどこにもないようにさえ見えた。その事実を見せつけられるのが本当は暴力と同じくらい辛い。
「す、スズメ……スズメを持ってたから、声をかけただけなの!」
「嘘じゃないだろうなっ!父親に適当な嘘をついて、ぜえ……ぜえ……俺を見下しているんだろう!俺は家主だ!お前の飯を食わせているのも、学校に金を出してるのも俺だ!!」
父は私の手首を掴んで、無理やり立ち上がらせた。
痛い。掴まれた腕も、肩も、強引な動きに引きちぎられるほどの痛みを走らせた。
今の父をしたら、母は何というだろう。そう考えると、目の前の人間は実は父ではないのではという得体の知れない恐怖が心臓を鷲掴みにする。
「イヤァァァァッ!?痛い、痛いぃぃ!……うっ、嫌ぁ……」
「俺のおかげで俺は生きてるんだ!俺を、俺を見下して笑うような事は許さねえぞ、来瞳ぃぃっ!!」
痛みと恐れ、そして悲しさが押し寄せる。
昔は優しい父だった。母と一緒に笑顔で食卓を囲んだり、学校のテストでいい点を取ったら喜んでくれたり。お母さんの家事を手伝っていれば褒めてもくれたし、家族旅行にだって何度も行った。
優しかった。
母が死ぬまでは――優しかったんだ。
何で。
何で。
その言葉ばかりが浮かんでは消え、後に残るのは悲哀だけだった。
悲しくて、悲しくて、耐えられなくなった我慢が、瞳から滴となって床に落ちる。
「ごめん、なさい……ひっく、ごべんな、ざい……ごべんなざい………」
「………ちっ。お前のそのめそめそしてるところが一番腹が立つってのが分からねぇのか!!」
涙混じりの謝罪に、父は舌打ちして掴んだ手事私を放り出した。
ぐったりとしていた私の身体は崩れ落ち、ごっ、と音を立てて床に鼻の頭が衝突する。
髪の毛が顔にかかり、視界もよく分からない。暫くして、見えないのは髪だけでなく涙の所為でもあることに気付いた。
「いいか……余計な事を言うな。黙ってればいい。黙ってこの家にいればいいんだ……返事はっ!?」
「わがり……まじだっ」
「お前の面倒を見てるのは俺だ!お前みたいなどうしようもない愚図が、助けてもらおうなんて二度と考えるな!お前みたいなやつを助ける馬鹿なんかこの世界にいると思ってるのか!!ハァ……ハァ……クソ!胸糞わりぃ……」
足音が遠ざかり、戸が大きな音を立てて閉じる。
その空間に取り残された私は、痛みに震える腕を持ち上げて立ち上がろうとし――立ち上がれずにまた床に顔を打ち付ける。
惨めだ。
母親を亡くし、父は豹変。
助けてくれる親戚はおらず、近所も味方はしない。
学校ではいわれのない虐めを受けて、碌に反撃もできない。
そんな事実を確認し、過去の生活との落差を実感するたびにまた、きしり、と心のどこかが軋みをあげる。
誰も私を助けようとはしない、無関心という残酷な現実。
自分という存在が認められていないような、孤独。
「うぇ……えぐ、ひっ………ぁあ、うぁぁ……!」
私には何もない。
誰も味方はいない。
そう思ってしまうほどに惨めな自分に、耐えられない。
耐えられないのに――どうにもできない。
ただ同級生と話をしているというそれだけでもこんな目に合わなければいけないほど悪い事をしただろうか?
友達や、知っている人とお喋りするだけで、私はこんな目に合わなければいけないのだろうか?
そんな場所に私は居続けなければいけないのだろうか。
ふと、鼻の痛みに交じって、熱い液体が零れ落ちる。
鼻血だった。たらりと一筋垂れる程度の少量の血液が、床にぱたぱたと落ちる。
「うっく……片付けな、きゃ……ひっく、片付け……」
床を拭こう。でないと床を汚したと怒られる。
周囲と話をするのは止めよう。でないと話をしたと怒られる。
謝ろう。父になにか言われたら謝り続けよう。
そうすれば、今は乗り切れる。
今は――
今は――
今、は?
今を乗り越えたら将来は明るくなる訳でもないのに、乗り越えた所で何の意味があるのだろう。
子供は親に守ってもらい育つものだ。なら守ってくれる人がいない私は?
『お前みたいなやつを助ける馬鹿なんかこの世界にいると思ってるのか!!』
親からさえ愛を受けられない私に、望む未来など訪れるのか?
友達も信頼してくれる人も味方にはなってくれない私に。
負け犬と罵られた私には――訪れ、ない?
ぷつん、と心のどこかで弦が弾けた。
風原の言葉が、急激に意味のないものになっていく。
彼は私に期待していたのではなくて、私がここから這い上がれはしない事を分かっていて言ったのか。それとも、這い上がる為の強さが私にない事に気付いていなかったのか。
自分のみを自分で守れなんて、意味のない助言だったんだ。
きっと、風原君は自分ならできるし他人にも出来るって思ってたんじゃないか。
事情や真実を知らない幸せな人が、どうでもいい他人にいい加減に吐いたたわごと。
風原くんは強くて何も知らないからあんなことが言えるんだ。
私の事なんて何も知らないからあんなことが言えるんだ。
私と風原くんとじゃ何もかも違う。
羨ましいな。きっと風原君は、よっぽどいい人たちに囲まれてるのかな。
それに比べて私は――誰も助けてくれない。
助けてくれる人がいないのに今を乗り切っても、意味ないじゃない。
全身から力が抜け、床の上に体を転がす。
今まで何のために耐えたんだっけ。
今まで何のために頑張ったんだっけ。
変わってしまった私の世界はいつかは元に戻るって思ってた。でも実際には父は元には戻らないし、母は帰ってこない。頼れる人間など現れることはないし、折れた翼がはばたくことは二度とない。
まるで崖の下から上に広がる狭い空に手を伸ばすような。
そしてそんな行為が実は無駄でしかなかったことに今更気づかされたような虚脱感。
「生きてる、意味がない」
口に出して、その言葉に何ら違和感を感じなくて――心に空いた大穴に納得した。
= =
「――俺に触るなッ!!」
ぱしぃん、と大きな音を立てて振り払われた自分の手を見て、その女性は「またやってしまった」と迂闊な自分を悔いた。
手を振り払った中学生くらいの少年は、警戒と恐怖に満ちたその双眸を閉じて呼吸を整えた。
「……すいません。今まで俺の世話をしてくれたことには、本当に感謝しています」
「ありがとう。でもいいのよ……わたしが好きでやってる事なのだし。今のも私が悪かったわ。これから気を付けるから……」
「………ッ」
自身の胸に渦巻く負の感情を抑えられないように、少年は振り返りもせずに自分の部屋へと一直線に向かった。また自己嫌悪と不信の狭間を彷徨っているのだろう、と推測した女性は嘆息する。
「まだ駄目か……ただ呼び止めるために手を取ることさえ未だに許してもらえない……ちょっと悲しいかな」
赤く腫れた掌を一瞥した女性はもう一度嘆息し、椅子に座ってテーブルに肘をついた。
「癒えないものね、心の傷って」
女性はテーブルの端にあった写真立てを持ち上げて、それを覗きこむ。
写真にはへらへらと笑う男性と、その横で心底幸せそうに微笑む女性。そしてその女性が抱える一人の赤ん坊が写っていた。
それを見た女性は口元を締め、呟く。
「どうしてあなた達は真人くんを捨てたのかしら。ねぇ、史華……」
子供――風原真人を置いて夫共々失踪してしまった自分の妹を指でなぞりながら、律華は届くことのない質問を漏らした。
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