Shangri-La...
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第一部 学園都市篇
第3章 禁書目録
七月二十九日:『息吹くもの』
時刻、朝十時十五分。丘の上という立地以外は至って平凡な学舎に併設された、まるで城郭の如き堅牢な外観の『弐天巌流学園』の練武館。学問と部活の、一体どちらに重きが置かれているかが一目で分かる学園である。
その館内、下手な軍事施設よりも難攻不落であろう堅固な作り。『全校生徒を集めればホワイトハウスを制圧できる』と言われる常盤台学園に対して、『全校生徒を集めれば米軍を相手にしても勝てる』と……校長が自称しているこの学園の武人開発施設。そこに、百人の生徒が息を詰めていた。
弐天巌流学園名物、全部活から選りすぐりの五名を繰り出しての異種混合格闘トーナメント、ルール無用のサバイバル戦。その名も、“乱戦”。
弐天巌流学園の“能力開発”の判定基準であり、最後の一人となるまで終わらないその有り様から、“蠱毒の坩堝”とも呼ばれる学期毎の恒例行事『合戦』。読んだままのソレ。その、夏休み呆け防止の小規模版である。
『時代遅れ』と揶揄されながらも武術を鍛え上げてきた赫々たる各部活の上位五名、学園の『武の頂』を冠する合計百名が並び立っていた。
ほんの、十五分前までは。しかし今はもう、十人に満たない数。
「────征ィィッ!」
「温い────速さも、切れも」
繰り出された空手部主将の“中段突キ”を、袴姿の嚆矢は“四方投ゲ”にて投げる。
強能力者の『流体反発』によるワイヤーアクションじみた長距離からの突きを受け流しながら手首を取り、その肘を返しながら。相手の能力を逆手に取り、軽々と畳に叩き付けて昏倒させた。
「覇ァァァ威ィィッ! 覇威、覇威ィィィィッ!」
残心を示す一瞬、真横からの“前蹴上ゲ”を躱す。
強能力者の『念動能力』であるテコンドー部主将は更に“踵落トシ”からの“前蹴リ”の流れで、物理的な反動を能力で無視した高速の足技を繰り出して────蹴り脚を腕に見立てて足首を取り、外側に身を返しながらの“突キ小手返シ”にて、頭蓋から思考機能を畳に散逸させた。
「囲め、数で押せ!」
そこに、呼び声と足音。現れたのは防具にて完全武装した剣道部員四人。揃って中段に竹刀を構え、此方の隙を狙っている。
それを見回しながら、思わず溜め息が出た。
「ジュゼの野郎、何が人材不足だ。“乱戦”のラスト十人に全員残って来てンじゃねェかよ」
残念ながら、合気道部は現主将の『蘇峰 古都』が補修の為に不参加であり、以下四人は早々に全滅。今や、嚆矢だけだ。
それだけに、これだけの数が残って居るのはそれだけ剣道部の実力が突出している証明となる。
(四人全て“雖井蛙流”か……)
実際、隙無く“平法”を構える四人を見てそう思う。弛まぬ修練の跡を快く、目映く見ながら。
右手を、前に。正面の剣道部員を誘うように、天に向けた掌で挑発した。
「舐めやがって────!」
「おい?!」
「クソッ、釣られんなよバカが!」
「仕方ない────行くぞ!」
挑発に乗り、突出した正面の剣道部員に引き摺られて四人が波状攻撃に出る。恐らく、こうして集団戦で勝ってきたのだろう。かの新撰組の常勝戦法も、“袋叩き”だったと聞く。
先ず、正面の一人が竹刀を手にしたまま────深く、身を沈み込ませた。右膝を突き、左膝を立てた状態で下段から胴を払う“折敷胴”を。
「一手教えて“一教”」
「な────?!」
繰り出された腕を取り、面を打ち据えながら手首を返して肘、肩を極めた。“正面打チ一教”に竹刀を取り落とし、雌雄は決した。
「二手教えて“二教”」
「く、あっ?!」
直ぐに身を返して背面からの一撃を掴み取り内側へと捻ると、肩に相手の手を当てながら伸ばさせた肘と肩を極めて腰を崩す。最後に面を手刀で打ちながら頭から倒す“正面打チ二教”で、もう一人を。
「三手教えて“三教”」
「ちっ、畜生ォォォ!」
更に右の一人の一撃を躱して、延びきった腕を取る。内側に捻り、肘を折り曲げながら極めて腰を浮かせながら面打ちと投げを。“正面打チ三教”で、三人目を。
「ッ咤ァァァァァ!」
そして、最後に────右膝を立てながら左膝を突き、返しの一太刀を繰り出した四人目を。
「バっ────!」
「────四手教えて“四教”」
跳躍して飛び越えると、回り込んで背面に腕を拉ぎながら“横面打チ四教”で打ち倒す。竹刀を取り上げれば、それで終わり。
「成る程な、ジュゼが嘆く訳だぜ……修行が足りねェな。もう一遍、蹲踞からやり直せ」
竹刀を担ぎ、訓示の如く。自分が義父にそうされたように、横たわる四人に吐き捨てた。
「ハッ────全く、耳が痛いんだぜ! だけどコウ、テメェん所こそ四対一で手も足も出ねぇなんて笑えんだぜ」
「ッ!」
刹那、猛烈な勢いで迫った払いを竹刀で受ける。鍔迫り合いに見詰め合った相手は────槍術部主将を打ち倒した勢いのまま、両足から火を吹きながら現れた。
「よう、ジュゼ……数任せとは相変わらず、器がちっちェえなァ!」
「うるせェんだぜ、ロリコン野郎。先人曰く、『勝てば官軍負ければ賊』!」
「違いねェ!!」
剣道部主将にして、嚆矢にとっては親友の一人。大能力者の『発火能力』、弐天巌流学園三年“錣刃 主税”こと『ジュゼ』。
触れたモノや己の体から瞬間的に一方向にベクトルを集中させた炎や熱波を放つその能力、付いた渾名が『爆縮偏向』。同系統の能力者でも屈指の実力者である。
そしてその剣は、“小乱蜻蛉崩”。安土桃山時代に勃興した“天流”の技だ。
「「ッ!」」
その二人が、互いに弾き飛ばしながら距離を取った──その刹那、二人が居た空間を人影が走る。少林拳部主将が、物凄い勢いで……壁に叩き付けられた。
「ぶふぅ……やっぱり、一石二鳥とはいかないんだな」
「マグラ……!」
それを為したのは、丁髷に回し姿の巨漢。やはり、嚆矢にとっては親友の一人。相撲部主将にして大能力者の『圧力操作』、弐天巌流学園三年“土倉 間蔵”こと『マグラ』。
己の周囲の気圧を操る攻防一体のその能力、付いた渾名が『気圧隔壁』。やはり、同系統の能力者でも屈指の実力者である。
「やっぱり残ったのはこの面子か」
「当前っちゃ当前なんだぜ」
「嘆かわしい事なんだな」
竹刀を投げ、右手を前に出した構えを取る嚆矢。合気道部主将にして異能力者の『確率使い』、弐天巌流学園三年“対馬 嚆矢”こと『コウ』。
確率を操り、『一から九十九の間ならば好きな結果を掴み取れる』その能力、付いた渾名が『制空権域』。他に同系統の能力者の居ない、唯一にして普遍たる能力者である。
「「「────────」」」
睨み合う三人、それは“三竦み”。嚆矢と間蔵と主税、竜と虎と鷹の三つ巴の間柄だ。
同学年であり親友であり好敵手。絵に描いたかのような、間柄。
「どうした、来いよ? おチビちゃん、ビビってる?」
「カァッチィ~ン……あぁん、何か言ったかぜ、独活のロリペド」
「カァッチィ~ン……俺をあんな犯罪者予備軍と一緒にしてんなよクソチビ」
「ぷふぅ、チビとペドが噛み付き合ってるんだな」
「「うるせー百貫デブ!」」
「カァッチィ~ン……なんだな」
……断じて、親友である。その筈である。青筋立てて舌鋒を交わし合い、睨み合う三人は。
全く同時に丹田に気を廻らせ、それを総身に、腕に、足に染み渡らせ─────
「────それまででェェェい!」
練武館を揺らした大号令に、全てが動きを止めた。練武館の三階席、別名『天守閣』と呼ばれる観閲席に座してこの乱戦を眺めていた────和服に白髭を蓄えた壮年の男性、この学園の校長である『五輪 飛燕』。
「通例であれば、最後の一人となるまで終わらぬのがこの乱戦の常……しかし、あろう事か生き残っているのは三年のみ。情けない……恥を知らぬか、二年! そこの三人は、貴様らの時分にはもう其処に立っていたぞ!」
不甲斐ない下級生に向けられた怒号に、九十七人全てが震えた。それだけの圧力を備えた、低く恐るべき声だった。人の心をへし折る声だった。
「此度は此処まで……次回は八月末! それまでに鍛え直しておけい!」
踵を返し、陣幕の奥に消えた校長を見送り、百人は一斉に安堵を漏らした。無論、嚆矢達三人もそうであり。
「……じゃ、帰ろうぜ。ジュゼ、マグラ」
「おう、どっか寄ってくんだぜ?」
「軽く飯でも食うんだな」
「お前の軽くは俺らの重くだから」
交戦の構えを解き、出口に向けて歩き出した。その道々。
「有り難うございました、先輩!」
「勉強になりました!」
そんな風に頭を下げられ、軽く手を振りながら。着替える面倒さからそのまま帰る事として。
数分後の日盛りの最中、うんざりする暑さを掻き分けながら歩く。傍らには竹刀の先に防具をぶら下げた主税と、浴衣を着て扇子を扇いでいる間蔵。
「じゃあ、『坂上の雲』で暇潰すか」
「よっしゃ、じゃあイくんだぜ」
「文句なしなんだな」
今日は風紀委員の活動は昼からの許可を得ている、どこか近くの喫茶店で時間でも潰そうと、校門を歩み出た。
「へぇ、風紀委員の活動を投げ出してまで、何処に行かれると?」
「坂の下にさ、うちの学生を狙い撃ちにしたみたいにコッテリ且つガッツリな定食屋が……って、黒子ちゃん?!」
多数の弐天巌流学園生徒から注目を浴びつつその校門に寄り掛かっていた、黒子に冷たく問われたのだった。
………………
…………
……
「本当、貴方の不真面目には驚かされますの。これは固法先輩に報告させて頂きますわ」
「違う違う、違うよ黒子ちゃ~ん。俺はただ、学友との旧交を暖めようとしてただけでさ、決して面倒臭くて風紀委員の活動を先延ばしにした訳じゃないんだよ~。あ、昼飯食べた? まだなら是非奢らせてほしいなぁ、だから是非みーちゃんには内緒の方向で」
ずんずんと坂を下る黒子の後に追い縋るように、揉み手しながら嚆矢は言い訳に勤しんでいた。まるで、浮気がバレた軟派男のように。
尚、彼女としてもそこまで怒っている訳ではない。まぁ、ある意味でのじゃれ合い……なのかも知れない。
その姿を見ながら、先ほどまで彼を尊敬の眼差しで見ていた後輩達は同じ事を思う。『これさえなきゃ、好い人なのに』と。
「いや、ほんとほんと! 反省しました、だからみーちゃんには……ああもう、こんな時に」
と、丁度坂を降りた辺りで彼の携帯が鳴る。誰かと思い、出れば。
『あ、こんにちはコウくん。ママですよ~。久しぶりに掛けちゃっ』
「ちょっと今忙しいから後でね、義母さん!」
『あっ、待ちなさいコウくん! 色々あるけど、取り敢えずは必ずお友達を信じるのよ、絶対よ!』
プツッ、と携帯を切る。言われた事は、別に普通の事。しかし、あの義母が言うからには何か重要な事なのだろう。
だが今は、それよりも大事な事がある。もう二十メートルは先を歩いている、黒子を追い掛ける。
「ちょ、待ってくれって────」
そこで感じた、学園都市では先ず嗅ぐ事の無い焼けた薫り。芳しい紫煙の香気に、思わず振り返る。反対車線を歩く後ろ姿、黒いローブに身を包む大兵の────思い詰めた表情で煙草を吹かす、赤髪の魔術師。見間違いようもない、あれは。
「────」
駆け出し──そうになった体を、押し留める。気にしてどうする、此方を襲ってきた訳ではない。
別に、奴は……ステイル=マグヌスは、日常に手を出した訳ではないのだから。
「……先輩、どうしましたの?」
「ッ、あ、ああ。何でも……」
冷や汗すら流した嚆矢の様子を、流石に不審に思ったのか。黒子の方から彼に話し掛ける。それに正気に戻り、一瞬だけ表層に浮かんだ……“魔術師としての顔”を吹き消す。
いつも通り、ヘラヘラと。軟派な顔を、仮面を被って。もう一度見遣った反対車線。そこにはもう、人影すらなく。それに、安堵を覚えて。
「じゃ、風紀委員の仕事と行こうか」
沸き上がる不安を掻き消すように、頚から下げた『兎の脚』を握り締めて。
『いつもの一日』を送るべく、黒子の肩を軽い調子で抱いて。護身術で投げられて────
………………
…………
……
活動を終えた夕方、現在時刻十八時ジャスト。嫌がる黒子を寮まで送ろうとして、空間移動で撒かれて。学ラン姿の嚆矢は、一人公園を歩く。有り体に言えば、暇だった。
「……お、自販機」
見掛けた自販機に、喉の乾きを覚える。幸い、麦野から貰ったマネーカードは家賃や光熱費を払っても、まだまだ潤沢だ。
差し入れ、釦を押す。芋サイダー……ではなく、その隣。椰子の実サイダー……でもなく、黒豆サイダー……でも、勿論なく。普通のブラックの缶コーヒー。
そして、カフェオレ。いつもの癖で、当ててしまったのだ。
カシャリとブラックのタブを開け、煽る。冷たい苦味が心地よく、喉を滑り落ちていく。人心地つき、溜め息を溢して。
「…………」
近くのベンチに腰を下ろし、脚を組んで空を仰ぐ。極彩色に染まり行く空、逢魔ヶ刻の暮空を蜂蜜色の瞳で。
『とうまのとこ、もう行っても大丈夫だよね? ね、こーじ』
『あぁ、勿論。付いててやりな。けど、騒ぐのは』
『うん!』
苛立ち紛れに、金色の髪を掻き毟る。その胸に去来する思いがある。雲丹じみたツンツン頭の少年と、白い修道女。
手当てを終え、眠る少年へと脇目も振らずに駆け寄った少女。微笑ましいその純粋、微笑ましいその無垢。あれは……己が『護りたい』と願ったものではなかったのか。
「…………っクソ」
関係無い。あれはただ、偶然に交わっただけだ。涙子の時とは違う、あれは『非日常』だ。だから、深入りする理由などはないのだ。
それでも。訴え掛けるものがある。あのステイルだけでも、限界以上を発揮して、且つ運に味方されて倒す事が出来た程度の己。加えて、未知数の『日本刀の女』……確か、『神裂 火織』と言ったか。『女』という、飛び切り致命的な弱点。
あれらが、何を望んで何をしようとしているのか。全く関わり合いの無い己には、知る由もない。己には、関わらなかった己には……それを知る権利すら、無いのだ。
鬱々と、気分が沈む。自らの浅薄を恥じ入るばかりだ。何より、上がらない腰に。動こうとしない脚に、失望して。
「……何を悩んでいるんですの、貴方らしくもない」
「────黒子、ちゃん」
そこに、珍客が。撒かれたと思っていた、黒子だ。彼女が、いつの間にか隣に腰を下ろしていた。
「貴方、分かりやすいんですもの。お姉様と一緒で、顔には『悩んでます』ってでかでかと出してるくせに、態度では示さないんですから」
「…………」
「ふぅ……これは重症ですの」
そんな、年下から小馬鹿にされた所で反駁の言葉すらも出ない。余りに図星で、返す言葉もなく。
代わり、差し出したカフェオレ。彼女はそれを受け取り、やはりカシャリとタブを開けて。
「これはもしもの話なんだけどさ……正義を行うには、資格がいる。そいつには、無い」
「…………」
「そいつは……限りない『悪』だ。それも、最も唾棄されるべきの。そんな、人間だ」
『女性に問われた』からには、嘘も詭弁も使えない。何の衒いもなく、嚆矢は黒子に本心を述べる。そして黒子は、それを受けて……天を仰いだままの彼の横顔を強く見詰めていて。
だから、血が流れそうな程に握り締められた拳は……視界の端にしか、捉えられていなくて。
「もしもの話、そんな人間が……正義でしか誰かを救えない時。そいつは正義を行っていいのか。そいつは────胸を張って、誰かを救っていいのか。それが、俺には分からない」
「……………………」
さわ、と風が吹き抜けた。土の臭いを孕んだ、夕暮れの涼やかな風だった。『馬鹿を言うな』と、『恥知らず』と糾弾するような、過去から吹くような強風だった。
雲が、細く流れている。上空でも、風は強烈に吹いているらしい。怒りに任せたかのように、だろうか。
「わたくしには、よく分かりませんの。所詮は小娘ですし」
「……そりゃ、そうだよな。アハハ、ゴメンね」
漸う、帰ってきたのはそんな言葉。否、少し考えれば当たり前のような気もするが。
そもそもこんな内容、親友でも尻込みしそうなもの。それを、知り合って二週間ほどの相手に何を相談しているのか。今更に、厚顔さに顔が熱くなる。後は誤魔化すように、笑うしかなくて。虚無的な笑顔を浮かべて、黒子を見遣り。
「ですが……もしもそれが、大事なものなら。わたくしは正義だの悪だのを論ずるよりも先に、動きますの。後悔だけは、したくありませんから」
「─────」
その眼差しが、見詰め返された。美しく透き通った、決意に満ちた瞳。目映いばかりの、輝きを称えた……若き瞳だ。
対し、なんと濁ったものか。その瞳に映る、己の硝子玉の如き瞳に……心底の失望を覚えながら。
「……そう、か。そうだな。どのみち、やらなきゃ何も変わらないか」
ただ、それだけを呟いて。正真正銘、絶望しながら。そもそも、そんな権利すら無かった事を思い出して、苦く笑う。
取り出した煙草、それを銜えて。黒子が何かを言う前に、火を燈して紫煙を燻らせる。
「……有り難う、黒子ちゃん。お陰で、やるべき事が分かった」
立ち上がり、飲み干していた缶コーヒーを投げる。それは確率に導かれ、過たずに屑籠へ。
吹き抜ける風に、紫煙を靡かせながら。決意を満たした瞳で、嚆矢は歩き出す。黒子を置いたままに。
『軟派な彼』ならば、絶対にやらないような不手際だ。だが、今の『硬派な彼』では望むべくもない。
「……軟派でも大概ですけど、硬派も大概ですのね。あの人……」
歩き去る嚆矢から目を離してカフェオレを含みつつ、黒子は呟いた。風紀委員であり、一応は『合気道』を齧った彼女。そんな俄の身からしても、今日の朝方のあの戦い様は見事な物であり、少しは見直した物であって。
初めて真面目な表情を見た、あの『幻想御手事件』を思い出して。思い出したくもない悍ましい犬じみた怪物に怯えた気持ちと、その時、背後から抱き竦めてきた彼の横顔を思い出して……一瞬だけ頬を赤く染めて。少しは、恩を返せたか、と。
「……まぁ、良しとしますの」
こんな形でしか発破を掛けられない自らを不甲斐なく思い、切なげに笑いながら。飲み干した空き缶を、嚆矢が投げ入れたものと同じ屑籠へと空間移動させて、叩き込んだのだった。
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