Lirica(リリカ)
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死の谷―発相におけるネメス―
―1―
1.
絹に螺鈿細工。象牙に鼈甲。珊瑚に真珠。午後の光の中、それらの供物を積んだ荷車が続々と神殿の門をくぐる様子をリディウは吊り鐘塔から見おろした。滑稽さを感じる光景であった。自分の為に運びこまれるそれらの供物の一つでも、自分の物になる事はないと知っていた。
視線を巡礼者用の宿舎に向けると、その最上階の窓辺に泣く女が見えた。リディウは吊り鐘塔をおりた。アーチ状の窓から燦々と光が降る長い渡り廊下を抜け、宿舎に急ぐ。女がいる部屋の戸を優しくノックした。戸の外まで聞こえていた咽び泣きが途切れた。
戸が開き、中年の男が現れた。
「お父様」リディウは一礼し、言った。「お母様。いらしていたのですね」
窓辺の女は泣き腫らした目で、入室するリディウを見つめた。一秒たりとも目をそらすのが惜しいと思っているようであった。母は昨年の冬至に面談した時よりも更に、痩せてやつれていた。リディウは痛ましく思った。
「お母様――」
それ以上言うより早く、母は駆け寄り、リディウのほっそりした体を渾身の力で抱いた。
「リディウや」がさがさに荒れた指でリディウの頬を撫で、「リディウ」そのまま金色の髪を撫でる。生ぬるい涙が、母の目尻からリディウの頬に移り、首筋まで流れた。リディウは何も言わずに抱き返した。
リディウの境遇について誰よりも心を痛めているのはこの母だ。この後、娘の身に降りかかるであろう予想もつかない出来事を恐れ、幾たびも眠れぬ夜を過ごしたのはリディウではない、この母だ。
「私は、お前がかわいそうで」
やっと、母は物を言った。リディウは首を横に振った。
「悲しむべきでも、憐れむべきでもございません、お母様。名誉ある事でございます」
「しかし、何故お前でなければ……」
「やめないか、エテルマ。この子が辛くなる」
黙っていた父がそっと、声をかけた。母がリディウを抱きしめる腕の力は、それでも緩まなかった。
十五年前、中年を過ぎたバルドーとエテルマの夫妻は、二人だけで静かに生きてゆく事を決めた頃になって、腹に子を授かった。夏至の晩、娘が産まれた。バルドーが家の裏の戸口で嬉しさに咽び泣き、産婆がリディウを湯で洗い、エテルマが呆然としながらも、子を抱かせるよう産婆に頼んだその時、ネメスの高位神官が夫妻の家の戸を叩いた。
「すべては、凶(まが)つ星ネメスがさだめた事にございます」
その晩以来、リディウは今日まで、死の女神の星を崇めるネメスの大聖堂で育てられた。
「それにしても、こんなに残酷な事が」
リディウは老いが兆す母の背中を撫で返した。
十五年に一度の夏至の晩、歌劇場は発相の各都市に生贄を求める。かつて魔性の歌劇の力で以って水相による支配を退けた代償であると、神官達は伝える。
星がさだめた生贄であるならば、封印されし大聖堂図書館から、この世のどこにも存在しない歌劇場の入り口を開くことができる。
そして、生贄たちの魂は、神々の歌劇の役者として、永劫にその寵愛を受けるという。
「お前達の娘は〈占星符の巫女〉となる。それが与えられた役だ」
高位神官は生まれたばかりのリディウを前に、そう言った。如何なる抵抗も抗弁も無意味であり、ただ夫妻を物言わぬ屍に変える恐れがあるだけだった。母が娘に与えることができたものと言えば、ただリディウの名のみであった。
リディウには、家族との暮らし以外の全ての物が与えられた。最高の教育。最高の住まい。身の回りのありとあらゆる物が、ここタイタス国にて作られる中で最高の品物であった。
父と母には年二回、夏と冬にのみ面談が許された。
今日がその最後の一回であった。
リディウは明日十五歳になる。
生贄の娘リディウは悲嘆に暮れる父と母の為、歌った。峻険な山々に沈む夕日について歌った。静まり返った夜空に散らばる星の、さやかな光について歌った。その内に、母も、ただ悲しみに暮れるより、今目の前のリディウを慈しむ事のみを考えるようになった。
いよいよ寝床に就くという頃、母はリディウに贈り物をくれた。それは、貝殻と珊瑚で作られた、あまりにも素朴な首飾りであった。
世話役の神官の温情により、その夜リディウと両親は共に一夜を過ごす事を許された。リディウは生まれて初めて母に抱かれて眠った。見張りの神官が寝室の外に立っている間、母はリディウの髪を撫でながら、優しく子守唄を歌った。
※
翌朝リディウはこの日の為に仕立てられた純白のドレスに袖を通した。ヴェールで顔を隠し、靴を履き替え、肘まである白い手套で手を覆った。
もはやリディウは神の物であり、誰一人声をかける事も、手を触れる事もできなかった。ただ一人、禁を破った母エテルマを除いて。
リディウを着替えさせた後、世話役の女神官は深々と頭を下げて退室を促した。リディウは幾たびも練習した通り、礼に則り、朝の光が祝福のように照らす白亜の廊下を無言で歩いた。
神殿のエントランスに差しかかると、左右に立ち並ぶ神官たちをかき分けてエテルマが飛び出してきた。エテルマは昨日の昼にもそうしたように、リディウを強く抱きしめた。無言の禁だけは固く守り、唇を強く引き結んで。
意外にも、神官たちは誰も咎めなかった。リディウは抱擁を返しながら、十五年間共に暮らした神官たちは決して冷血ではなかった事を思った。十五年に一度、夏至の晩、生まれたばかりの赤子をその親の元から強引に連れ去るとしても、その為に赤子の親を斬り捨てる事があるとしても、それは凶つ星ネメスの託宣に従った結果であり、ネメスの神官たちとしても、そうするよりほかないのだ。
神の世界に召されるとは聞こえがいいけれど、とどのつまり私は死ぬのだろうと、リディウは思った。誰も私の死を望んでいない。しかし私は死ななければならない。
エテルマが抱擁を解いた。リディウは母の痩せた両肩に手を添え、そっと引き離した。
神殿の建物を出ると、世話役がずれたヴェールを直し、ドレスに汚れがない事を確かめた。その後、馬車に乗せられた。馬車には世話役の木人形が一体乗っていた。座席に座ると、木人形の右目から蜂が顔を出し、左右の大きな複眼と、額の三つの小さな単眼で、リディウを見つめた。
蜂はしきりに短い触角をそよがせ、首をかしげると、右目の奥に一度引っ込んだ。木人形が動いて、座席の下のひきだしから小箱を取り出し、差し出して開いた。金で縁取られた、七色の貴石が輝く首飾りが収められていた。
リディウは、着せられたドレスにはあまりにも不釣り合いな、見ようによっては粗末とも言える貝殻と珊瑚の首飾りに手を当て、首を横に振った。蜂は得心したように、首をかしげるのをやめた。
馬車が動き出した。
神殿の正門をくぐってゆく。
馬車が神殿の敷地を出た時、神殿にはまだ母がいる、という思いが、閃光のようにリディウの頭の中を駆け抜けた。思わず、窓に顔を寄せて、外の様子を見た。
リディウは母がくれた首飾りを強く握りしめた。あの人は、この世で最も私を愛する人であった。それが遠ざかってゆく。
リディウの両目に涙が溢れた。
神の御子、すなわち生贄を運ぶ行列は神聖なものであり、決して見てはいけない。家々の窓にはカーテンが引かれている。
馬車を中心に、神官と兵士で成る隊列は、こんなに爽やかな朝に静まり返っている街を粛々と進んだ。
ネメスの街を出ると、隊列は三分の一の長さになった。一行は山道に差しかかり、浅い谷間で休憩に入った。リディウは木人形に付き添われ――あるいは見張られながら、馬車の窓から外の様子を観察した。神官や兵士たちはめいめい、携行食を口にしたり、日の射さない草地で横になったりしている。時折視線を感じ、そちらを見返すと、リディウを見つめていた者はすかさず目を逸らした。その一瞬の間に、リディウは好奇心や憐憫や恐れといった、様々な感情を読み取った。
三十手前のある神官は、居たたまれない思いでリディウの横顔に視線を注いでいた。彼女は捕縛こそされていないものの、この険しい山の中で、きついドレスと踵の高い靴は拘束衣そのものだ。どこにも逃げられはしない。彼は先月、妻との間に初めての子を授かったばかりであった。自分の子の愛しさと、リディウやその両親の境遇とを思うと、涙が出そうになる。
まだ十代の兵士は、興味本位から馬車の窓を覗き見て、ヴェールを脱いだリディウの横顔の美しさに息をのみ、頬を紅潮させた。そして、リディウが妹と同じ歳であることを不意に思い出し、罪悪感に似た痛みを感じ馬車から遠ざかった。
リディウの世話役の老いた女神官は、これを最後に辞職を願い出ようと決意を新たにしていた。彼女が世話役を務めた生贄は、リディウで三人目だった。それはつまり、この腕で抱き、この手で乳を飲ませ、おしめを替え、言葉を教え、我が子同然に育てた少女を失うのが三人目であるという事だ。悲しみの涙は遅れて来る事を彼女は知っている。後悔と手遅れの愛しさが来るのは、二度と手に入らぬものを失った自覚が来るのは、眠れぬ夜と起き上がれぬ朝と無気力な昼が繰り返されるのは、それが損なわれて幾日も経ってからである事を知っている。悲しみには耐性がつくであろうと若き日には思っていた。しかし実際には、悲しみは心を疲弊させただけであり、これ以上の忍耐はもう難しかった。
ネメスを出て二日目、一行は深い谷を睥睨して建つネメスの大聖堂図書館にたどり着いた。
リディウの知識によれば、図書館には物質としての書物が集められているわけではない。大聖堂図書館そのものが魔術の体系の体現であり、それを読み解く事ができるのは高位の魔術師だけある。
そして、水相を没落せしめた歌劇の執筆が行われたのも、どことも知れぬ歌劇場へと繋がる渉相術が執り行われたのも、この大聖堂図書館だ。
歌劇場。
それが、どの相にあるものなのか――そして、どの相には無いと言えるのか?――は、誰にもわからない。地球上のどの相、どの時代の階層にも存在しないのかもしれない。
リディウはそこに行かなければならない。
存在から非存在へ。
大聖堂図書館の門をくぐり、白い砂が敷き詰められた前庭で、馬車は馬から離された。馬車の固定が終わると、木人形が外に出て、小さな水筒を手に戻って来た。空は薄紫に暮れ、木人形が持つ白い陶器のティーカップが僅かな光を集めていた。ティーカップに水筒の中身が注がれた。リディウは要求されるまま、それを飲んだ。水筒の中身は眠り薬入りの茶であると、事前に聞かされている。それは生贄に対する慈悲の一つだった。リディウはヴェールをかぶり直して、目を閉じ、眠りの到来を待つ。
神官や兵士たちが撤収を開始している。
彼らは明後日の昼に、もう一度ここに来る。リディウの不在を確かめに来るのだ。大丈夫……うまくいくに決まっている……リディウは眠りに落ちるまで、何度も自分に言い聞かせた。
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