青い春を生きる君たちへ
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第17話 俺とあいつと彼女の最期
「……それを聞いて、どうしようってんだ?」
「……彼の確保の為には、情報が欲しいの。協力して欲しいんだけど」
質問に質問で返した小倉に、高田が身を乗り出して迫った。高田は、小倉の目をジッと見てくる。相手の視線に怯みもせず、その頭の中を見透かしにかかるように。小倉は目を逸らしたかった。が、逃げるわけにもいかない、そういう気持ちが働いて、小倉は逆に、高田の目を睨み返した。
「協力ってのは……お前に、協力するという事か?」
「そうよ」
「お前の組織、ではなく?」
この質問は、高田は想定していなかったのか、相手を見透かすような視線が、少し揺らいだように小倉には見えた。ここだ、とばかりに、小倉は高田に迫る。両手でその華奢な肩をがしっと掴んで、揺さぶった。
「俺は、お前個人に協力するつもりはあるんだ。お前には命助けてもらったし、守ってもらったからな……でも、お前の組織、それには俺は信用は置いてない。俺はお前個人の為なら、協力は惜しまない。どうだ?お前のその頼みは、お前個人としての頼みなのか?自分を助けてくれと、そう言ってるのか?どうなんだ……」
個人対個人。それなら、まだ交渉の余地がある。小倉はそう考えて、高田に迫る。組織対個人の関係の上では、個人なんてよほどの事がない限りゴミ屑だ。甲洋野球部でもそうだった。個人は弱く、組織に依らないと生きていかれず、よって組織には足下を見られる。この場合も、組織の一部としての高田と相対してしまうと、自分なんてゴミ屑でしかない。対等はありえない。しかし、この件を高田個人との一対一の問題にする事ができれば……そう思わせるだけでもできれば……まだチャンスはあるかもしれない。
肩をがっしりと掴まれた高田は、その視線を逸らした。引き結ばれた薄い唇の緊張が、内面の葛藤を表していた。小倉はその迷いのある顔をジッと見続ける。あの高田が、迷いを見せている。それだけで、小倉には確信が芽生えてきていた。
イケる。
「……言いたい事は分かったわ。……そうね……」
高田がゆっくりと、視線を戻す。小倉の視線と再び触れ合い、その目はいつも通りの凛とした目をしていた。
「……私の為に、それを教えて。私を……助けてくれる?」
聞きたかった言葉、言わせたかった言葉。その言葉に、小倉は少し、ホッとした。しかしまだ、終わってない。むしろここからが本番だ。小倉は気を引き締め直して、また一際強く、高田の肩を掴んだ。
「よし、分かった。協力する。ただ、俺の頼みも聞いてくれ」
「……何?」
「俺と田中と、二人だけで話す時間を、先に作って欲しい。お前が田中をしょっぴく前にだ」
「!!……それは……」
高田はまた、目を逸らした。躊躇している。しかし、一方で、頭ごなしに断られもしていない。小倉は、まだ諦めない。畳み掛ける。
「余計な事するのはダメか?そりゃ、俺は田中の協力者だし、俺と田中を会わせるのは、お前の組織の理屈じゃダメだろうな。……でも今、俺はお前個人と話してるんだ。俺がお前の頼み一つ聞いたんだから、お前も俺の頼み聞いてくれても良いはずだろ?組織に対してこんなお願いはできないかもしれん、でも、俺は今、お前個人に頼んでるんだ。お前個人は、俺の頼みに、どう返事するんだ?」
「……」
目を逸らしたまま、高田は唇をキュッと噛み締めていた。まだ答えは出ない。小倉はその横顔をジッと見ながら、顔と顔がくっつきそうになるまで迫った。もうここはゴリ押ししかない。小細工も詭弁も、もうネタ切れだ。そうする以外に、思いを通す手段を知らない。
「頼むよ……最後にあいつと、話をさせてくれ……」
「……」
部屋には2人の、妙に荒くなった息遣いだけが響く。沈黙が続く。小倉はもう言葉は出さず、ただ高田の両肩を掴む手の感触、高田の美しい横顔を覗く視線、それだけで迫った。高田の華奢な肩は少し震えていた。やがて、ゆっくりと、高田の視線が、小倉に戻ってきた。
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この街の郊外には、開発が進められた状態のまま放置されてしまっている区画があった。骨組みだけ出来上がって、それ以上の"肉"が付け足される気配のないビルのいくつかは、まるで屍のようにひっそりとそびえ立ち、建物の墓場のように見えていた。びゅう、と音を立てて、冬の寒風が吹きすさび、鉄骨が軋みを上げる。
そんな中、小倉は数ある屍のうちの一つの、屋上に登っていた。工事用に設置されたのであろう、お粗末な梯子を一人でよじ登っていくのは、強風とそれに伴う建物の揺れも相まって非常に心細く不安に駆られるものであったが、小倉はその歩みを止めない。どうしても行かないといけない場所、どうしても会わないといけない人、どうしてもやらないといけない事があるからだ。
梯子を登りきった小倉は、照明もなく、ただ月明かりにシルエットがぼうっと浮かび上がるフロアに立った。周囲を見回し、目当ての人間の姿が見えないと、大きな声で叫ぶ。
「来たぞ!田中!小倉だ!早く姿を見せろ!」
小倉の声は、ガランとしたフロアによく響いた。欠けた屋根の間から差し込む月の光が、一瞬雲に隠れて途絶える。小倉の声のこだまが収まる。再び月が顔を出し、照らされた周囲がボンヤリと浮かび上がると、先ほどまでは居なかった人影が、そこに現れた。
「やっぱり、来てくれたんだ。ありがとう」
「……」
一ヶ月ぶりに。田中智樹が小倉謙之介の前に姿を見せた。
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「……田中……お前……」
小倉は、田中を見て、しばし言葉を失った。端正な顔の頬はこけ、目だけがギロリとして爛々と輝いている。髪はガサガサと艶を失っており、着ている服は埃まみれで、さっきからツンとした匂いが鼻を突くが、それが田中から流れてくるものだという事に気付くにはそれほど長い時間はかからなかった。
ホットライン、もしくは電話越しに聞こえる田中の声は、飄々として、明るくて、いつも通りの人を食ったような声だった。マイクの向こうには、いつもと変わらぬ田中が居るはずだと、よく考えもせずに小倉は思っていた。自分が神経を擦り減らす中で、こいつは高みに登って自分を観察し、呑気なものだと、田中を恨めしく思っていた。しかし、この変わり果てた姿はどうだ?……小倉は、自分の想像力の無さを思い知らされた。たかが声が元気だとくらいで、判断していいものではなかった。こいつは……田中は、ずっと自分を脅かす存在から、逃げ回り続けていたのだ。消耗しないはずがないではないか。すり減らないはずがないではないか。自分なんかより、ずっとずっと、こいつは辛い思いも苦しい思いもしてきたに違いない……その事を推察すると、自分がひどく薄情だったように思われて、小倉は言葉を出すことができないのであった。
「あれ?紫穂は?」
ゲッソリとした顔で、田中は笑顔を見せた。その屈託のない笑顔の作り方は、まさに田中そのもので、それを見た小倉はようやく我に帰る。
「……ま、待ってもらってんだ。今はまだ高田は居ない。俺とお前の二人だけだよ」
「ああ、そうなんだ」
「はっ、早く言えよ!俺にして欲しいこと!今がチャンスなんだぞ!じきに高田は来る!そしたらお前は終わりだ!早く、早く手を打たねえと……」
小倉は田中を急かした。小倉が高田に、田中と二人だけの時間を要求したのは、これが狙いだった。田中は、どうしても自分にやって欲しい事があると言っていた。その事は高田には言ってない。田中が自分にやって欲しい事とは、田中が生き延びる為に必要な何かだろうと小倉は踏んでいた。その何かを、この時間のうちに遂行する事ができれば……高田の裏切りなんて、あり得ない事を期待せずとも、状況を切り抜けられるかもしれない。高田としても、組織を裏切らなくて済むだろう。自分達に出し抜かれたという事なら、良くは思われないだろうが、努力の結果してやられたのだと、言い訳も立つだろう。ここまで考えた上で、切迫感たっぷりに迫る小倉に対して、田中はまた、ニカっと笑った。
「……なるほどね。……でも、まずは愛の実験の答え合わせから始めようよ」
「バカか!そんなふざけた事言ってる場合かよ!早く俺に指示を出s……」
「いや、ダメだ。まずはそれからやらないと。大丈夫、俺はちゃんと状況は分かってる。そして最善の決断をするさ。これまでも、そうだっただろ?」
小倉とは対照に、田中は何故か、余裕たっぷりに立っていた。ここまでやつれている癖に、どうしてこんなに背筋を伸ばして優雅に立っていられるのか、見ていると不思議に思えてくるくらいで、小倉は自分だけが焦っているのがどこかアホらしく感じた。どちらにしろ、田中に指示を出してもらわなければ、自分は動くことができない。小倉は諦めて、田中の下らない問答に付き合う事にした。そうせざるを得なかった。
「……まず、前提の確認から始めよう。俺は、愛というのは、相手を信じる事だと思ってる。それは、分かってるね?」
「……ああ、分かってる」
「だから、俺はずっと、謙之介の、俺への信頼を試すような課題を与え続けた。その課題を、今日に至るまで謙之介はクリアし続けた。これは、間違いないね?」
「ああ、そうだ……」
「終わってみて、どう?愛というものについて、何か実感は持てたかい?君にとっての愛は、どういうものかな?説明してみてよ」
細かいステップを踏む事なく、その大きな問いは投げかけられた。日常生活の中で、こんな事を聞かれても、誰も説明はできないだろう。カップルの高校生なら、⚪︎⚪︎の時に愛を感じるとか何とか、具体的なシーンを思い浮かべる程度ならできるかもしれない。しかし、それではお前の感じる愛とは何ぞやと言われた時に、説明できる奴がどれほど居るか。恐らく、そうそう居ないだろう。そもそも説明なんか必要がない、と突っぱねるだろう。説明など必要な段階でおかしい、それを自然と感じられないお前はどこか狂ってる……そうやって、それぞれが好き勝手に"感じた"、つまりは自分の愛と他人の愛が同一の愛である保証など無いまま、ただ愛の幻想だけが一人歩きして大きくなっていく……
この愛の実験は、そうやって有耶無耶になりがちな愛を、ひとまず定義して、その定義に従った行動を繰り返す事で、それの妥当性を測る、そういう実験だった。日常から離れ、当たり前が当たり前でなくなる中、状況は小倉に、何かを教えた。その何かを小倉は今、言葉にする。
「……お前、最初の時、こうも言ってたよな?信じる事はある意味、覚悟だって……」
「ああ。言ったねえ」
「それだけは本当に、思い知らされた……お前が何度も何度も言ったように、疑いだしたらきりがない……信じない理由を探すのは、信じる理由を探すのより、100倍も簡単だ……俺はずっと、お前を見殺しにしちまうのが怖くて、見殺しにするくらいなら、自分が死んだ方がマシだって……ただそれだけで従ってたようなもんだった……そんなもんは、とても信頼と呼べない」
田中は朗らかで、それでいて真剣な、不思議な面持ちで小倉の言葉を聞く。その真摯な態度に引っ張られるように、小倉は言葉を紡いでいく。
「けどな……最後、高田に対しては……少し違った。俺と田中との繋がりを分かっていながら、俺を拘束して拷問して吐かせるとか、手荒な手段には出なかった。それぐらい、あいつには簡単にできたはずなのに……。俺を安心させる為に、一晩中抱いていてくれた。……そんな事、田中の情報吐かせる為に必要な事でも何でもないだろ。お前の命がかかってる事だ、俺は一生懸命、高田を疑ってみようとした……見極めようとした……でもな、何故か……高田は俺と、個人として向き合ってくれてるはずだって。そう信じる理由ばかりが、俺の頭には浮かんできた……」
自分を組織の代行者だと、高田がドライに規定しているなら、その目的の為に手段を選ぶ必要は無かったはずだった。そして、小倉の言葉に、自分自身が悩む必要もない。お前と交渉する気なんかないと、機械的に答えれば良かったはずだ。まさか、人を殺すのをあっさりと許すような高田の組織とやらが、自分のような高校生たかが1人と対等な関係で話を進めるような流儀を持っているはずがあるまい。しかし、高田は、小倉が出した交換条件に葛藤し、躊躇しながらも、それに応じてくれた。その結果として、小倉と田中、二人だけの時間が今ここに生まれている。高田は、個人で小倉に向き合い、そして交わした約束を守った。
「……理屈で考えて、高田が約束を守ってくれる保証なんて無かった。高田に、俺を田中と引き合わせる事で得られる利益なんて何もないはずだ。でも……俺は高田を信じたくなった。信じる根拠なんて、ともすれば思い込みレベルの、しょうもないモンだったけど……信じたくなった。信じるって事は、疑わない事じゃない。疑って、疑って、それでもなお、信じようと腹をくくること……こいつになら、裏切られても良い、それも含めて自分の責任だ……そんな風に覚悟を持つことだ。それこそが、無上の信頼で、愛なんじゃないか……」
自分を抱きしめてくれた高田の温もり。交換条件を迫った時に目を逸らし、唇を噛んで、自分で答えを出そうと悩んでいた、その葛藤の表情、個人に個人として向き合ってくれた誠実さ……それらは全て、小倉が見たいように見て、解釈したいように解釈しただけかもしれない、根拠にするにはとても心許ないものだった。しかし小倉は、信じた。信じたかったからだ。小倉は自分の意思で、自分の責任でそれを信じた。
田中は、ふっと力の抜けた微笑みをやつれた顔にたたえた。それは、親が子を見ているような、穏やかな表情で……その両手は、小倉を讃える拍手を打ち鳴らした。
「さすがだよ。……俺の考えともピタリ一致した。この愛の実験は、謙之介の中に確実に、一つの成果を残した。思想というのは、自分の人生の実感から生まれ出ずるものだ。多少強引なやり口を使ってでも、君を行動に駆り立てて良かったよ」
「……満足したか?じゃあ、早く言えよ。俺が今からすべき事。この状況から逃れる為に、しなきゃいけない事を……」
また急かした小倉に、田中は少し呆れたようなため息をついた。しかし、その表情は穏やかな微笑みのまま。小倉はその顔を見て、ハッとした。その表情には、今までに無かったモノが読み取れる。
それは、諦め。
「……何もないよ」
「……えっ?」
「謙之介に、最後にやってほしかった事はね、もう済んだんだよ」
小倉は、身体からサッと、血の気が引くのを感じた。まさか田中は、さっきのつまらない問答をする為だけに、俺をここに呼んだと言うのか?自分を追っている高田に自分の場所を教えてまで、それをやろうとしたのか?そして、もう何も指示はない……もうすぐ高田はここにやってくる……田中にとっては絶対絶命のはずだが、その状況を切り抜ける策は何もないという事だ!
「……お、おい!田中!お前……」
「今までありがとう、謙之介。後は……キチンと俺を、看取ってくれるかい?」
ゲッソリとした田中の微笑み。血相を変え、血走った目でその微笑みを睨む小倉。対照的な表情の二人の視線が触れ合い、次の瞬間。
バンッ!
拓州会の事務所で幾度となく聞いた、破裂音がフロアに響き。
田中は痩せ細った身体のその胸に、赤黒い血の華をパッと咲かせて崩れ落ちた。
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「……田中ぁぁあああああああ」
小倉は一瞬立ち竦むが、すぐにバネに弾かれたように駆け出して、倒れた田中の側に向かう。仰向けに、大の字に倒れた田中は、埃っぽいフロアに早くも血だまりを作っていた。田中の傍に膝をついた小倉は、その上半身を抱き上げた。肩甲骨の浮いた身体は軽く、血の温もりとヌメりが小倉の服に染み渡り、田中の体臭は血生臭さと相まって吐き気を催しそうな程だったが、そんな事も構わず、小倉は田中を抱いた。
「……致命傷だよ。どこに連れてっても無駄さ。そっとしておいてくれよ」
口の端からも血を流しながら、田中は言った。小倉もその言葉に、手が止まる。ここまでの大量出血、到底長くは保たないだろうし、追われる身の田中を、どこの病院にも連れていく事も出来はしない。勿論、自分に治す事など出来るはずもないし、万事休した事を理解した小倉は、田中の身体をそっと床に横たえた。
「……バカ……どうしてだよ……今まで何とか逃げ延びてきたんじゃないのか……俺が昨日ヤクザの事務所行ったのも、お前の追っ手を減らす為じゃなかったのかよ…………どうしてこんな……死に急ぐような事したんだ……」
「……それは違うよ。俺がこうなる事は決まってたんだ。むしろ、今日まで余計に生き延びたのさ。逃亡劇なんて、茶番だよ。愛の実験の為のね……」
「……何を……何を言ってやがるんだ!……何が愛の実験だよ……そもそも何で俺に、そこまで構う気になったんだ……」
死にゆく田中は、特に残念に思うような顔もしておらず、実に穏やかだった。最初から、こうなる運命を受け入れていたかのようである。この一ヶ月間の逃避行自体が、愛の実験を実行する為だけのものだと、田中は暴露した。小倉はますます分からなくなる。何故田中は、そこまで愛の実験とやらに拘ったのか……
「……ほら、謙之介、色々諦めてそうだったからさ」
「……は?」
「色々あったんだろ、甲洋でさ……人を信じるって事に臆病で、何かこう、人間を諦めてる所があったからさ……俺の残りの命使って、もう一度信じる事について……人間について考えて欲しかった」
「……」
「俺はろくでもない人間だけど、たった1人の人間の、きっかけにくらいなってやれると思ったんだ……唯一の、友人の為の、きっかけくらいなら……」
田中の口から、ドッと血が溢れた。血だまりは大きく広がって、その場に膝をついた小倉の足にも浸透してきている。田中の手を小倉は握った。カサカサして、やや骨が浮いたような手は、びっくりするほど冷たかった。
「……今まで無理を言ったね。俺の言う通りに行動してくれる度、俺は嬉しかったよ。俺の言う無茶にさ、ここまで付き合ってくれる奴が居るって事、ただそれだけで嬉しかった……子どもの時、一緒に悪戯した友達……そんな感じがして、懐かしくもあった……人をいくらか死なせておいて、こんな言い草もないけどね……」
「……田中ァ……すまん……」
小倉の目からは、気づかないうちに涙が流れ出していた。正直言って、ここに来るまでは、田中の事なんて自分を巻き込む厄介者としか思っておらず、その指示に今まで従ったのも、特段田中への、それこそ愛があった訳じゃない。しかし田中は、自分に対して、何かをしてやろうと、何かを残そうと、そういう気持ちだけで今まで行動していたのだった。自分がひどく不誠実な人間に思える。現実的には、どの指示も唐突に過ぎて、なおかつ規範からも逸脱したようなものばかりなんだから、あの愛の実験とやらから、田中の自分に対する気持ちを読み取るなんて不可能だ。厄介者に思って当たり前だ。でも今は……その気持ちに全く気づいてやれなかった事が、何故か悔しい。
「……もう、そろそろだ…………俺の事、忘れないでくれよ…………そして、この一ヶ月で感じたこと、これからの人生に生かして欲しい……そうだ、生きるんだ……謙之介、俺の分まで、ね」
「…………」
小倉は、その言葉に対して、涙と鼻水でクシャクシャにした顔で頷くのがやっとだった。田中は、目だけが浮き上がったようなグロテスクな顔、血に汚れた汚い顔に、最後微笑みを作った。一ヶ月前の、端正だった頃の面影が、その微笑みから伺えるように、小倉には思えた。そして、田中は自分から目を閉じる。自ら、その人生に幕を下ろすかのように。
小倉が握っていた田中の手から、僅かに残っていた温もりがスーッと抜けていく。魂、というものが、可視的なものなら、夜空へと登っていくそれを、確認する事が出来ただろうか。
小倉は黙って田中を看取った。フロアには、嗚咽だけが響いた。
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小倉が田中の手を放し、凝固しつつある血だまりに手をついたまま動かずにいると、背後からコツ、コツという足音が近づいてきた。その足音は小倉のすぐ側まで来て立ち止まり、聞き覚えのある声が上から降ってきた。
「ごめんなさい、ね……」
高田の声は、いつもと違って幾分掠れているように聞こえた。小倉は微動だにせず、その声に応える。
「何で謝るんだよ……お前は、約束を守ってくれたじゃないか。ちゃんと二人で話をさせてくれたろ?」
「…………」
「ただ、できる事なら教えて欲しい……どうしてこいつ、殺されなきゃならなかったんだ?どうしてお前は……こいつを殺さなきゃならなかったんだ?」
小倉はゆっくりと立ち上がり、高田の方を振り返った。月明かりに照らされた高田のシャープな顔つきは、今までに比べ一層美しく、そして……寂しげなように、小倉には見えた。高田は、朝見せたような、葛藤を抱えた表情……俯き、唇を噛む表情をまた見せた。そしてゆっくりと、口を開いた。
「……詳しい事は、あなたには教えてあげられないわ。でも、彼自身の非道な行いが、この立場を招いた訳じゃない事は言っておく……彼自身も被害者という部分はあるのよ」
「……そうか……」
小倉と高田の間を、ひゅう、と風が吹き抜ける。どうやら、ただの高校生である自分には、どうしても立ち入れない所があるらしい。分かっていた事だ。それを無理に聞き出そうとして、高田を困らせる気も小倉には無かった。
「……ごめんなさい」
「……また、謝るのか」
「ええ。……私、嘘をついたから」
高田はバツの悪そうな顔をして、視線を横に逸らした。
「実は2人がここに来た時からずっと、監視してたの。私、どうしても、田中くんを始末しなきゃいけなかったから。厳密には、あなた達2人きりじゃなかったのよ。私は、最初から守れそうもない約束をしたわ。だから、ごめんなさい」
高田は小倉に頭を下げた。小倉はそれを聞いて、やや力が抜けた。最初から、万事休してたって事か。ここにやって来た時点で、田中がこうなる事は決まってて、田中本人もそれを覚悟していて、諦めてなかったのは自分一人だったって事か。やたら余裕があった田中の姿に、状況がよく分かってないんじゃないかと思ったが、実はちゃんと状況を分かっていたのは田中で、自分は果たされる事のない約束に縋ってた……自分が凄く、滑稽に思えた。
「……軽蔑する?……するわよね。私個人として、あなたと交わした約束だものね……組織の都合とは関係なく、交わした約束だもの……それを破ったのも、私個人の判断……組織の義務を、言い訳にはできないわ……」
高田は唇を噛んだ。月明かりに浮かび上がるその表情は、例えようのない苦しさを表していて。小倉は思わず、高田に歩み寄って、その小さな身体を抱きしめた。田中の血で汚れた両手で、その華奢な身体をぎゅっと掴んだ。
「バカ、軽蔑なんてしねえよ。俺はお前を、信じたいように信じたんだ。約束が破られた所で、そりゃ、お前があんな約束、守れる訳ないって事も分からなかった俺の落ち度だよ。お前の事、よく知らない癖に、勝手に信じただけの話さ……」
「ッ……」
高田の小さな肩が、小倉の腕の中で震えた。
「私ね……」
「うん?」
「自分の事なんて、別に分かってもらえなくたっていい、分かってもらえないのは仕方ないって、ずっと思ってきたの。私は……普通じゃないから」
「…………」
「でもね、今は……小倉君にね……私のこと、分かってもらえそうもないのが……何故か悲しい……理解してもらえるように、言葉を尽くす事も許されないのが、凄くもどかしい……分かってもらう事なんて、理解してもらう事なんて、とうの昔に、諦めたはずなのにッ…………」
高田は言葉を詰まらせた。だら、と垂れ下がっていたその細い両腕が、小倉の背中に回され、ぎゅっと抱きしめ返す。高田の頬には、涙がつたっていた。真っ赤な目が、小倉の顔を捉える。高田が初めて、ハッキリと感情を露わにした事に小倉はハッとして、その頭を自分の胸にそっとかき抱いた。高田は小倉の胸に縋って、嗚咽を漏らした。
「……なぁ、高田」
昨晩、高田にやってもらったように、その頭を撫でながら、小倉は囁く。
「……今すぐは、無理かもしんないけどさ……でも、俺たち、まだ生きてるだろ……二人で、時間を重ねていけば、今よりはもう少し、お互いの事……分かるようになるんじゃないか?……信じたいように信じる、そんな恣意的なもんじゃなくて、もう少し……本物っぽい信頼、作っていけるんじゃないか?」
「…………」
高田はゆっくりと、小倉の胸に埋めていた顔を上げた。涙に濡れた高田の目に、再び小倉は捉えられる。互いの息がかかりそうな距離で、二人は見つめ合う。
「……そうね。可能性はゼロじゃ、無いわ」
「……じゃあ、さ……」
小倉はその先を言おうとして、しかし、高田がゆっくりと首を横に振っているのが見えて、言葉を止めた。言葉を止めた、というより、身体全体が固まったと言ってもいい。それは、拒絶のサイン。
自分と彼女の間に横たわる、埋めようのない隔絶を表すもの。
「……でも、ダメなの。私とあなたは、これっきり……私には、あなたと関係を作っていく、そんな資格は無いのよ……」
「た……高田……」
「……ごめんなさい……」
小倉が最後に見た高田の顔は、悲しみと、ある種の覚悟を決めた毅然さが同居した顔で、これまでで一番、高田らしい顔だった。次の瞬間、その顔がグンとズームアップし、高田が背伸びした事に気づいた時には、小倉の口は高田の、薄く柔らかい唇に塞がれていた。暖かな高田の息吹が自分に注ぎ込まれるようで、小倉はその錯覚に、頭の芯が痺れるような感覚を覚えた。そしてまた次の瞬間、今度は背中に、これは錯覚ではない、物理的な痺れを感じて、その強烈な一撃は小倉の全身を弛緩させた。
立ってる事はおろか、目を開けてる事もできなかった。視界が霞みがかっていき、やがて目の前が真っ暗になっていく。意識が暗闇へと落ち込んでいく中で、小倉は高田の声を聞いた。
「さようなら……幸せに、なって」
その言葉に、返事をする事はできなかった。それが、小倉謙之介が聞いた、高田紫穂の最後の言葉だった。
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