クルスニク・オーケストラ
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第十二楽章 赤い橋
12-1小節
目を開けて一番に目に入ったのは、知らない天井。
この感触はベッドね。……これで病室送りは何回目かしら。はあ。
「補佐! お気づきですか?」
「シェリー……」
二人しかいないAチームのエージェントの片割れである彼女は、目を潤ませている。心配させてしまったのね。
「付き添ってくれたのは、貴女?」
「はい。あと、カールも」
Aチームを二人とも使うなんて大袈裟ですわね。指示したのはリドウ先生とヴェルのどちらかしら?
「ここはどこの病院?」
「クランスピア本社の医療フロアです。ドヴォールから連絡を受けて、こちらに搬送させていただきました。《レコード》吸収直後でしたので、精密検査の必要があると、リドウ室長が。今は別件で席を外していらっしゃいますが」
「別件?」
そこでシェリーは不安げに目を逸らした。彼女の目が流れた先は、カーテンの隙間から覗く窓。
っつ……片腕だけで起き上がるのは骨が折れるわね。――大丈夫よ、シェリー、心配しないで。これくらい、いつものことですから。
ベッドを降りてカーテンを出ると、窓際でカールが空を見上げていた。
「! 補佐、もう起きて大丈夫なんですか?」
「ええ、それより現状を……」
わたくしも窓際に立って――愕然とした。
「まさか…あれが、カナンの地?」
二重映しの黒い月。空に浮かぶ禍々しい子宮。おぞましいほどに巨大な胎児の影。
「ルドガー……副社長が集めた《道標》を使ったら、このようになりました。カナンの地で間違いないと、一行の監視に当たっていたBリーダーのゲーテから、連絡がありました」
「《カナンの地》出現後に住民の混乱が著しかったため、数名が現場に赴いて対応しました。今はマクスバード両港に封鎖令を布いて人払いをしています」
「……待って。副社長?」
「はい。ルドガーく…ルドガー様は本日付けで副社長への異動辞令が出ました。今の彼は会社のナンバー2です」
「社長は?」
「ジゼル補佐が来てから、カナンの地へ発たれるそうです。我々は、補佐が目覚め次第、社長室にお連れするように、と――社長から言いつかっております」
そういうこと。貴方たちはわたくしの監視役で連行役だったのね。わたくしが逃げないように、反抗しないように、ビズリー社長がかけた保険。
確かにわたくしは、業務外と《レコード》再生中以外では、エージェントを――部下を傷つけることはできませんから。
「助かるわ。実は社長室への行き方が分からなくなってしまってて」
ああ、やっぱり、普通の人なら蒼い顔になりますわよね。――わたくし自身、困ってるのよ。でも限界なものはしょうがないわよね。
「支度しますわ」
「手伝います」
「ありがとうございます、シェリー」
誰かがランドリーに持って行ってくださったのか、いつもの改造制服は綺麗に洗濯乾燥されている。
灰色のアンダーとタイツ、スカートは自分で履く。そこに上から、赤いベストと黒いゴシックアウターをシェリーが着せてくれた。
揃えてくれた靴に足を――通すことさえ、今のわたくしには一人ではままならない。
「ありがとう」
「いえ……」
カーテンを開けた。お待たせ、カール。カール?
「っ、失礼しました」
「いいのよ。どうかして?」
カールは少しためらってから口を開いた。天高く浮かぶ赤黒い球体を見上げて。
「――空、を」
「空を?」
「空を見上げて、初めて、怖い、と感じました」
窓の向こうを見上げる。いつもの曇り空に、在るだけで恐ろしいモノが在る。
次いで室内をふり返る。男女のノーマルエージェント二人。分史対策室Aチームの生き残り二人。同時に、部署内では時歪の因子化が特に進んでいる子たちでもある。
だいじょうぶ しんでも そこで おわりじゃない
終わりじゃ、ない。どんな時だって、自分にできることがあるなら、自分から動く。12歳で時計を見つけて、分史破壊活動を始めてから、ずっとそれがわたくしの信条だったはず。
それを思い出させるための、《わたくし》からのメッセージ。
死ぬのが怖かった。たくさん取り込んだ《レコードホルダー》たちと同じで、《ハッピーエンド》を迎えられずに、何も成せずに死んでいくのが怖くて堪らなかった。
でも、そうじゃないと、分史世界の《わたくし》は教えてくれた。
この身が死のうと、死後を託せる人がいるのなら、ほんの少しだって欠けることなんて、ない。
「カール。シェリー」
わたくしは二人の部下の名を呼んだ。一つだけ、そう、一つだけ。
「一つだけ、死に逝く上司のワガママを叶えてくださいませんか?」
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